第五章 ~父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず~
【私訳】
オレが8つだった時、母ちゃんは病気で死んだ。
父ちゃんはこの世に絶望して、出家して寺に引き込んじまった。
二人の人生はどうだったのかなぁ……、って、よく想うよ。
幸せな時間を過ごして、死んでいったのかなぁ。
苦しかったり辛かったりしたのかなぁ。
父ちゃんや母ちゃんのこと想うと、すごく切なくなる。
こんな年になっても、切ないよ。
──でもな、オレァ、亡き父ちゃんや母ちゃんを供養するために念仏を唱えたことは一度もないんだぜ。
冷たいと思うか?
あのな、よく考えてみるんだ。
この世界のありとあらゆるモノはみな、これまで無限に生れ変り死に変り紡がれてきた、父母であり兄弟・姉妹なんだよ。
全部が繋がった大事な家族で、大切ないのちなんだ。
オレらはな、本当はなんの分別も差別もカテゴリーも優劣、長短、格差、あらゆる辺りのないいのちを生きてんだ。
「無量無辺」ってんだ、覚えとけ。
全く平等で、合わせて一つのいのちを生きてんだ。
全にして個、個にして全。
無限で永遠にして、ただ一つのいのちがおまえを生きてんだ。
「一如」ってんだ、覚えとけ。
宇宙と地球と月と太陽は別もんじゃねぇ、合わせて一つだ。
オレもおまえも個人として独立してんじゃねぇ、合わせて一つだ。
全く平等で、広大無辺で無量のいのちがおまえを生きてんだ。
いのち無辺を覚った釈尊は、泥沼のなかで歓喜して、「阿弥陀!」ってこころの底から称えて吼えたんだ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
──そうなんだよ。
仏さまはそういうふうにオレらのいのちを見つめてるんだ。
すべてのいのちを愛しい愛しいって包み込んでいるんだ。
だから、「あいつは救う、こいつは救わん」というような選択はおかしなことじゃないか?
自分の父ちゃん母ちゃんだから特別扱いしたくなるんだろ?
──気付いたか?
限定された慈悲や愛慕しか抱けない、あさましい自分によ。
本来オレらが供養するべきは両親だけじゃない、全部のいのちなんだ。
──やがてオレの肉体も生命活動を終えるだろう。
そして浄土に往生して成仏したら、どんな人もみーんな救うべきなんだ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
この口から勝手に溢れ出る念仏は、おまえの意思で自分の力で称えているモノなのか?
もしそうならその功徳によって亡き父母を救うだろう。
でもこの念仏はそんなもんじゃないことを、おまえはもう知っているな?
如来の願いがおまえの口から溢れ出たんだ。
もう分かったな?
間違いだらけの価値観に執着する必要はないんだ。
感じるか?
あらゆるいのちを摂い取って捨てないという、如来の願いを。
気付いたか?
こんなどうしようもないオレらが必ず浄土へ救われるんだぜ?
「本願」ってんだ、覚えとけ。
決して途切れることのない、無量無辺の願いに支えられているいのちがおまえなんだ。
愛しい愛しいと、決して見捨てない如来の大慈悲だ。
──だから。
だから、たとえこれからも迷いの世界を生き続けるとしても。
どのような苦難の中にあったとしても。
阿弥陀如来がおまえを見捨てることは絶対ない。
掌を合わせるんだ。
阿弥陀さんに願われて、オレらは全員全部、成仏する。
おそらくオレの方が先に往生くだろう。
オレが成仏したならば、何よりもまずおまえや縁のある人々に如来のはたらきを届けて、必ず救う。
亡き人に供養されてんのはオレらの方なんだ。
心配すんな、大丈夫だ。
我ら念仏自由自在・広大無辺に一如なり。
あらゆる縁となりて供にある。
──称えよ、すべては南無阿弥陀仏に成就する。
このことを、親鸞聖人が教えてくれたんだ。
【本文】
一 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々(せせしようじよう)の父母・兄弟なり。
いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々(うんぬん)。