第四章 ~慈悲に聖道・浄土のかわりめあり~
【私訳】
慈悲ってな、人間の慈悲から仏の慈悲へと、かわる「時」があるんだ。
「回心」ってんだ。この体験が大事なんだ。
それまでの価値観やら思い込みやらがひっくり返って、何か大切なことに気付かされた瞬間のことをいうんだ。
オレらは困難にぶつかったらさ、だいたいのヤツは、自分の力や知識でなんとかしようと思って努力するだろ?
──仏道も同じさ。
お釈迦さんみたいに、覚をひらいて苦悩から解脱したいと願って、山や寺に籠もって一生懸命修行をがんばる道があるんだ。
「聖道門」ってんだ。自力で歩く、いばらの険しい道だ。
自分の力で成仏しようってんだから、大したもんだ。
──対して、自分の力じゃどんなにがんばっても解脱できないから、阿弥陀如来に救ってもらおう、っていう道がある。
「浄土門」ってんだ。何もかも他力に任せ、水路をいく易しい道だ。
あつかましいと思うか?
じゃあ聞くが、おまえに聖道門を歩く力と知恵は備わっているのか?
たとえ歩けたと思っても、それは本当に歩けたことになっているのか?
本当にあつかましいのは、自分の力を過信しているオレたちじゃないか?
なぁ、例えば、オレらの身近にさ、病気を背負って生まれてきた子どもがいたら、何とか助けたいと思うだろ?
病気を治してあげて、いつか他の子供らと一緒に遊べくらい元気になるように、何とか治療できないものかと一生懸命、最善の努力をするよな。
でもな、オレらがどんなに願っても、どんなにがんばっても、人間の医療や科学じゃ助けられない子は助けられないんだ。
……オレがもっとがんばれば。
いや、オレががんばらなくても、きっともっと賢いヤツが新しい治療法を発見してくれるかも知れない。
この次のいのちは救う、この次こそ絶対助ける。
──小さな子が死んでいく度にそう誓ったよ。
でもな、ちっちゃいいのちがどんどんこぼれていくんだよ。
オレの掌から、オレの目の前で。
あるいはオレの知らないところで。
オレの人生はもうこんなことばっかりだ。
自分の無力を呪うよ。
人間の儚さと、そして無力さをまざまざと思い知らされて、ようやく気付いたんだ。
オレのこころが奥底から泣き叫んで願っていることを。
「コレじゃダメなんだ! オレなんかじゃ全然ダメなんだ! 誰か助けてくれ! 子どもが死んでしまう! 誰か、助けたってくれ!」って、オレのこころが叫んでた。
オレの身体を、いのちの深いところから貫くこの真っ直ぐな願いが、そう叫んでいたことに気がついた。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
かつてあの人がそう教えてくれていた。
それを今頃になって、自力が尽きてようやく本当に理解した。
オレが遙か昔から本当に欲しいと思っていたものはこれだったんだと気がついた。
老いや病苦が問題にならない、死ですら尊いと思えてくる、そういう迷いのない真実世界が欲しいんだ。
おまえも、オレと同じで本当に欲しいモノはこれだったろ?
「浄土」ってんだ、覚えとけ。
阿弥陀仏がオレらのために建立したんだ、忘れるな。
はてしない時間修行して、苦労して建立してくれたんだ、感謝しろ。
そういう絶対安心の世界へみんな一緒に往生まれさせてもらうんだ、って、阿弥陀如来にまかせてみ?
そしたらよ、勝手に手が合わさって頭が下がってくるんだ。
感じるか?
あらゆるいのちを摂い取って捨てないという、如来の願いを。
振るえたか?
こんなどうしようもないオレらが救われるんだぜ?
気付いたか?
おまえの口からもう出てる。「どうかたすけてくれ!」ってな。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
オレらはすでに、親父みたいにでっかくて、お袋みたいにあったかい、智慧と慈悲に無条件に抱きしめられていたんだよ。
阿弥陀さんは誓ってくれたんだ、オレらみたいなどうしようもない、全員、全部のいのち絶対救うって。
そんなどでかく深い、暖かい願いが、古今東西、未来永劫、オレたちのためにはたらいていることを理解したか?
「本願」ってんだ、覚えとけ。
この願いが、はるか永遠の昔からオレらありとあらゆる生命を支えていたんだ。
オレもおまえも、ずっと昔から支えられていたんだよ。
そうだよ、無力でバカなオレだけど、オレが本当に欲しいのはこれなんだと、オレも知らないこころ奥底から吹き出してあふれ出すんだ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
「愛しきすべての生命よ、ただ任せよ、必ず救う」
阿弥陀如来の本願によって、すべてのいのちが願われていたんだよ。
──だから小さないのちに素直に伝えよう。
「キミはね、阿弥陀さまから可愛くて可愛くてならないと、念われている仏の子なんだよ。だから坊やはお浄土へ参るんだよ。何にも心配いらないよ」
阿弥陀如来の願いを、教えてあげよう。
「阿弥陀さまがご馳走を用意して、お浄土で待ちかねているよ。だから何にも心配いらないよ」
伝えなくても、本当は最初からすべてのいのちに備わっているんだ。
「みんな一緒だよ。お浄土に参って、仏さまになって、本当の意味でみんなと一緒になるんだよ」
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
阿弥陀さんのお慈悲があることを、伝えることしかできないんだよ。
──今、目の前で儚く終わっていくいのち。
どれだけ手を尽くしても、どれだけ祈っても、オレやおまえの力じゃ、人間の力じゃどうすることもできない。
この胸をえぐり取られるような苦悩、悲しみ。
何とかしたいな、何とかしてやりたいよな……。
でもおまえやオレがどれだけ死んでいく子供らのことを思っても、この思いでは不十分なんだ。
だって死んでしまうんだもん。
助けられないんだよ!
だから、阿弥陀さんが助けてくれるということを信じよう。
如来が必ず救ってくれることを、南無阿弥陀仏っていうんだ。
もう分かったろ?
この念仏だけが、究極に徹底した、大慈悲心だったんだ。
こんなどうしようもないオレらだけど、如来が遙か昔からオレら全員全部のいのちを支え願っていることを感じることはできるんだ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
最初からこれしかなかったんだ。
気付いたか?
その小さないのちはオレらのことだ。
震えたか?
小さないのちを失う親の苦しみは、オレらの苦しみだ。
苦しいか?
度しがたい自分に気付いたんだろ?
悲しいか?
何にも完璧にできない自分に気付いたか?
心配すんな、大丈夫だ、苦しさも悲しみも全部任せるんだ。
──称えよ。すべては南無阿弥陀仏に成就する。
このことを、親鸞聖人がおしえてくれたんだ。
【本文】
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々。