第二章 ~いずれの行もおよびがたき身なれば~
【私訳】
山を越え、谷を越え、いくつもの国境を越えて、おまえはここへやってきた。
よくぞ、よくぞここまで来てくれた。
それも命懸けの旅だったんだろ?
旅費だってバカにならなかったはずだ。
地元の仲間が必死になって、お金を方々で集め回って、おまえに託し、そして「たのむ! どうか真実を確かめてきてくれ!」って、送り出されたんだろう?
仲間たちの意思を背負った、悲壮な決意の、命懸けの旅だったんだろ?
よくぞ、本当によくぞ来てくれた。
──分かってる。
おまえがここへ命懸けで来れた理由はな、ただ浄土に往生まれるための道を質問するためだけなんだ。
なぁそれはな、つまりおまえがな、おまえが本当に欲しいモノが、ソレだったんだって、気付いたか?
これまでの人生でさ、悩んだり悲しんだり、たくさん苦悩してきたんだろ?
これからだってそうさ、ずっと苦悩し続ける。
「そんな苦悩するための人生なんてまっぴらだ! たすけてくれ!」って、心底思ってるんだろ? 違うか?
だから、命懸けの旅ができたんだよ。
だからこれまでおまえが苦悩してきた道のりは、おまえの人生の出来事全部、今ここへ来て浄土への道を問い聞くためだったんだよ。
無駄なことは全然何一つない。
全部、本願に遇うためだったことに気付いたか?
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
まぁ聞け。
念仏以外に浄土へ往生まれる方法を、オレは知らん。
おまえはオレが他の道筋や秘密を知ってるんじゃないかって、疑ってるんなら、それはないわ。勘違いしすぎだ。
念仏以外の救いを聞きたいなら、奈良の学都や比叡山にオレなんかよりもスゲェ修行してる坊さんがいるぜ? そっちへ行ったらどうだ?
オレはな、法然上人に教えてもらったとおり念仏しかないと思ってる。
思い出したか?
上人が言ったんだ、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
この力強い導きにな、オレはどーんと背中を押されてきたんだよ。
だからこれからもそれしかないって思ってる。
でもおまえはちょっと外野がうるさいから、びびってここに来たんだろ?
「念仏したら地獄に落ちるぞ!」って新興宗教が触れ回ってるからな。
そんなちんまいこと気にすんな。
よく考えてみろよ、その新興宗教の言ってることをさ。
つまりいのちの選択だ。
コイツは救う、アイツは救わん。
そういう教えだよ、あいつらは。バカじゃないのw
たくさん寄付した者、より多く信者を勧誘した者、教団に貢献した者がいわゆる徳を積んだ、とかいってさ、そいつらが救われていく教えなんだよ。
み仏が、いのちを差別して選んで救うって言ってるんだよ、そんなわけあるもんか。
信じた者だけ救う、とんだちんまい器の教えだな。
──覚えとけ、対して我らが阿弥陀如来は全部のいのちだ。
老若男女、身分も善人も悪人も、犬や虫も草花も、なんもかんも関係ない。
阿弥陀を信じようと信じまいと関係ない。
全部のいのちを救うと誓ってるんだ。
「本願」ってんだ。覚えとけ。
こんなどうしようもないオレの全てを受け入れてくれる、どでかい慈悲に抱かれていたんだ。
その願いに救われたいと思ったか? その気持ちだけで十分だ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
ちんまい救いと念仏を比べるな、いのちを選んだ時点で詐欺宗教でカルトだ。
むしろその程度で揺らぐおまえの信心を問題にしろ。
疑ってたんだろ?
信じられなかったんだろ?
だから揺らぎ迷ったんだ。
「新興宗教の言うとおり、念仏したら本当に地獄に落ちてしまうんじゃないか?」ってビビったんだろ?
おまえの信心はそんな程度か?
オレはな、念仏したら浄土に行くのか地獄に行くのか、はっきり言って全く知らん。
そして法然上人にだまされてても構わない。
上人の言うとおり念仏して、そして地獄に落ちたとしても後悔しないって言ってるんだ。
だってよく考えてみ?
もしオレがいっぱい修行して、法華を修め、覚りを得ることができたとするじゃん?
そんなオレが念仏で地獄行きになったらそりゃあ「詐欺だ!」って怒るよ。
でもな、オレは念仏しかできないんだよ。
念仏以外の修行は、結局オレにはできなかったんだ。
どんな行いも中途半端でやりきることができないんだ。
自力じゃ自分のことどうすることもできないから、阿弥陀さんにお任せすることしかもうないんだよ。
念仏しかないから、その念仏をして地獄へ行くなら、そこがオレの居場所ってことになるわな。
おまえはどうだ?
念仏以外の修行に励んで成仏できると思ってるのか?
おまえに何ができる?
どんな行ならやり通せる?
何一つ十分に徹底できない自分に気がついたか?
阿弥陀さんは誓ってくれたんだ、そんなオレらみたいなどうしようもない、全員、全部のいのち絶対救うって。
「心配すんな、大丈夫だ。
おまえのいのちは尊いよ、たった今それでいいんだよ。
すべて任せ、我が名を称えよ。必ず救う」
そう如来に願われていたんだよ。
そんなどでかく深い、暖かい願いが、古今東西、未来永劫、オレたちのためにはたらいていることを理解したか?
「本願」ってんだ、覚えとけ。
その本願を疑ってたとしても、阿弥陀如来は救ってくれるんだ。
その広大無辺、絶対無量の真実はたらきが阿弥陀如来であるという真理を、ハッキリ覚って教えてくれた人がいるんだ。
──紀元前約500年頃はるか大昔だ。
その人も、おまえが苦難の旅をしてここへ来たのと同じように、悲壮な決意のもと苦難の修行を経て、いのちの真実を覚ったんだ。
それがお釈迦さんだ。
その釈尊の真実の教えのことを『大無量寿経』ってんだ。
オレ達の聖典だ。
『大無量寿経』が真実であるなら、それを説いたお釈迦さんの教えもウソじゃないんだ。
釈尊の教えが真実ならば、善導大師の解釈もウソじゃないんだ。
善導の解釈が真実ならば、法然上人の言われることも、ウソじゃないんだ。
上人の言葉が真実ならば、このオレが言うことも、また、根拠のないことではないだろ?。
あのな、どうでもいいことや、適当なことだったんなら、2500年という長い時の中で消えてしまっただろうよ。
「本当の幸せへ導くこの教えが大事なんだ! どうか子孫代々伝わってくれ」ってな、はるか遠い祖先から、この願いが受け継がれてきたんだよ。
感じるか?
おまえのところへ今そのバトンがやってきてるんだ。
──称えよ、それが「南無阿弥陀仏」の念仏だ。
あれも徹底できない、これも完成できない、どうしようもない愚かなオレであるけれど、オレはそう信じているんだ。
さあ、おまえはどうする?
本願を信じて、地獄行きかもしれない念仏を称えるか?
それとも念仏の教えを歩むのをやめるか?
自分で決めるしかないだろう?
もし念仏やめるなら、もったいないと思うけど、オレは引き留めたりしないよ。
このことを、親鸞聖人が教えてくれたんだ。
【原文】
おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。
法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。
詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、 またすてんとも、面々の御はからいなりと云々