忘却と喪失
もう、お見舞いには来ないこと。霧島さんのことを忘れること。そして、新しい人と出会うこと。それが、僕に課せられた、彼女からの最後の宿題。
「なに、いって……」
そんな宿題を出しておきながら、彼女は崩れ落ちそうな笑顔を作って、でも、こらえきれず泣いていた。
僕が宿題をやって、病院で答え合わせ。そんな日がずっと続くと思っていた。霧島さんは、明日をつなぎたくて、宿題を出すと思っていた。
「お願い。約束して」
だから、こんなものは望んでいない。こんな宿題、僕は、望まない。
「約束なんてできるかよ! 僕は明日も来るからなっ! いなくなろうだなんて、馬鹿な考えはするな!」
僕の時間を奪いたくない。霧島さんはそう言ったけれど、僕の時間は霧島さんでいっぱいなんだ。学校に行くのも霧島さんに会うためだった。隣に霧島さんがいるから、駄菓子屋のゼリーチューブをすすった。霧島さんが傍にいるから、一緒にコロッケを食べた。一緒にお昼を食べた。霧島さんがいるから、病院に毎日通った。デートプランも考えた。背比べをした。全部、霧島さんのためなのに。
忘れられるわけがないだろ。僕から、霧島さんが奪われるなんて、それこそ、僕の時間を奪うことだ。
僕は、明日をつなぎたい。ずっと。これからも。ずっと――
そう伝えると彼女は、冷たい目を向けた。ゆっくりと猫は死に始めていた。僕は冷え始める体温をカーテンの向こうに感じながら、知らないふりをして噛み潰した。
僕は、明日をつないだ。
「もう来ないでと言ったよね?」
明日をつないで、冷たくなっていく霧島さんの隣に寄り添った。
「今日も来たの? 一度決めたことは変わらないよ」
冷たくなっていく。
「もう、来ないで」
僕がつなごうとした明日を、霧島さんは引きちぎった。
「帰っ……て……」
震えた声で、冷たい言葉を吐いて引きちぎった。僕は、それが悔しくて、霧島さんが叩き落とした明日を拾い上げ、必死につなげた。
「お願いっ、帰って! もう、来ないでっ!」
「なんでだよ……、な……んでだよっ!」
唇を噛みしめる霧島さん。瞳が濁っている。頬がこけて、眼の下のクマも、痣と見紛うほど。治っていく腕や脚と反比例するかのように、霧島さんは痛々しい姿になっていた。
彼女は骨折で入院したんじゃない。
きっかけは骨折でも、彼女が別のもっと重篤な病気を持っているから、入院させられた。彼女の痛々しく、見すぼらしいその姿は、僕にその事実を突きつけた。
「……、きら……い。嫌いだよ……」
もう戻れない。変わってしまったものは、もう戻らない。
「約束を守らない空太なんて、大っ嫌いだっ!」
もう、なにも戻ることはない。
――春が始まった。屋上から校庭の桜並木を見下ろして、僕は、春の始まりを知った。強い風がびゅうびゅうと吹き付けて、少し寒い。
何処までも遠くのビルの向こう側を見渡す。今度は、雲の流れを追いかける。だけど、すぐに見失う。目的を失った僕の眼は、みなしごのように、あてどなく彷徨う。
僕の瞳が、向かう先が無くなって、数日が過ぎた。
「おい、皆瀬ー。また、ここにいたのか」
あれから、狩谷と、奇妙な関係が続いている。ずっといけ好かないと思っていたから、友達だとは思いたくなかったけど。それは、独りよがりだと、やっと気づいた。彼は、そんな僕の変化がどうだろうとお構いなし。
「嫌われたなんて、よくあることだよ。気にすんなって」
大人になれよと、内緒で持って来て男子の間で回し読みしているグラビア雑誌を僕につきつける。三角ビキニの間から、白い肌の谷間が覗いていた。でも、何も感じない。僕の瞳はいつからか、輝きを失っていた。
「にしても、おまえらふたりがなあ。どうしてだ? 俺でよければ、聞かせてくれよ」
いつからだろう。どうしてだろう。
「僕が、約束を破ったからだ」
僕は、その両方を知っている。でも僕は目を背ける。こうやってずっと、視線や思考を自分の意志とは無関係の明後日の方向へと投げ続ける。そんな宿題を出された気がする。そんな約束を誰かとした覚えがある。
「どんな約束だ?」
「……、忘れること」
誰としたのか、思いだせない。僕は思い出さない。忘れて思い出さないことが、僕の約束だ。約束したことすら、忘れることもまた、約束だ。
「忘れるって?」
「……、忘れた」
「は……?」
訳が分らないと、狩谷は眉をしかめて、首を傾げた。
忘れたことは本当だ。次は、忘れてしまったことを忘れないといけない。全て、痕跡を消さないといけない。
せっかく必死に蓋をしたんだ。
蓋をして。その上から土をかぶせて。
こんもりと盛り上がった塚を、目立たないようにと花を植えて。
植えた花の名も忘れて。
花も見たくなくなって。
また、土をかぶせて、できた山を崩して。崩れた土を均して。均した土に花を植えて。花を引っこ抜いて。全部掘り返して。
また、埋めて。均して。
僕は、怠ってはいけない。忘れることを、忘れてはいけないんだ。
「……忘れたんだよ」
忘れずに、忘れ続けなければいけない。
「何を忘れることが約束だったんだ」
「忘れたって言っただろ!」
だから、放っておいてくれ。
何度も埋めて、均して、植えて。
そこに何かがあることを、どうやったら忘れられるか。ずっと考えてきたんだ。考え続けることで、僕は忘れ続けていると自分を騙すことが出来るから。
だから、邪魔しないでくれ。
「じゃあ、なんでお前は、そんなに苦しそうなんだよ」
矛盾しているなんて、言わないでくれ。
「狩谷には関係ないだろっ! 全部忘れたいんだっ! 僕に思い出させないでくれ! 霧島さんのことを忘れさせてくれ! それが約束だったんだよっ! だから、独りにしてくれっ!」
「待てよ。どういうことだよ。霧島さんがそんなことを言うって、何があったんだよ」
「うるさいっ! やっと忘れそうだったのに。やっと、約束を……まもれ……そう……だったのに。また破ったら……、もう会えないかもしれないじゃないかっ!」
「霧島さんのことを忘れて、それで会えるわけがないだろっ! 教えてくれよ! お前と霧島さんの間に、何があったんだよ!」
「うるさいっ! うるさい! 全部忘れたかったんだ! 忘れたら、もう霧島さんに会えなくなることも。霧島さんが、僕の中からいなくなることも全部、忘れたかったんだよ! なのに、なのに! それの、何がいけないんだよ!」
「お前は、それでいいのかよっ! 霧島さんのことが好きじゃなかったのかよ!」
「好きだよ! でも好きな人が、そう言ったなら、そうするしかないじゃないか!」
「なんでそんな、そんなの霧島さんが消えてしまうみたいじゃないかっ!」
「うっさいっ! 狩谷に何が分かるんだよっ! 霧島さんは、もう良くなることなんてないんだっ!」
僕は気づいた。必死に隠してきた記憶を埋めた土の上。そこで、狩谷と揉み合ううちに、僕が隠してきたものは全て丸裸になっていた。
思い出してしまった。僕は忘れると誓ったのに、全て自らの手で掘り起こしてしまった。
屋上の鉛色の地面に、僕は膝をつき、手をついて四つん這いになった。獣のように地面を掴んでかきむしる。紅い染みと、鼠色の染みが地面にできた。
「分かるか、こんな気持ち分かるか? 霧島さんは、消えてなくなりたいって! だから、もう自分のことを忘れてくれって! 忘れないと言ったさ! 考え直してもらえるよう、霧島さんの傍にい続けた! でもそれが約束を破ることでっ! それで僕は嫌われてっ! 病院にも来ないでってっ! こんな僕の気持ちがっ、お前なんかに分かるかっ!」
殴る。コンクリートの地面を殴る。
痛い。痛い。痛い……。
「お前、苦しかったんだな」
――跪いて地面と突き合わせた僕の顔の前に、狩谷の掌が差し出される。その掌の上には、がさつな印象の彼には似合わない、厚手のタオルハンカチが。
「ふけよ、涙。そんなんで、あいつに会えないだろ」
「……、もう会わないよ」
「あいつが消えようとしてるってんなら、せめてこっちは、あいつのために、消えないでいてやるべきだろ。ひとりで苦しんでるのは、あいつも一緒かそれ以上だろ」
――ああ。そうか。僕は、言葉が欲しかったのか。
つくづく、自分が嫌になった。僕は何度も手放した、たったひとつの答えをもう一度掌の中に握りしめた。
やっぱり、僕は霧島さんが好きだ。
約束を守れない不甲斐ない僕だとしても、霧島さんの傍にいたい。
今日行けば、霧島さんと桜が見られるかもしれない。
僕は、そう考えて狩谷から受け取ったハンカチで顔を拭いた。
僕が嫌われても、霧島さんが「消えてしまいたい」と考えなくなれば、きっとまた僕を好きだと言ってくれる。そうすればまた、あの頃が戻って来る。
「狩谷っ、皆瀬っ! こんなところにいたのかっ!」
今日は、霧島さんの隣で桜を見よう。
病院の窓からでもいい。桜を見よう。
「探したんだぞっ!」
「どうしたんですか、秋谷先生」
五日ぶりぐらいかな。霧島さんに、会いに行こう。
「霧島さんが、亡くなった」