蟻の夢
朝起きると、僕は虫になっていた。多分、蟻だった。土や砂の粒がいつもよりもずっと大きく見えて、いつもなら歩行の妨げにならない段差や起伏が、谷や山に思えた。視界は色がついていたが、僕の知らない色もある。普段でも見上げるような木々は、ゲームの世界に出てくるような世界樹と呼ばれる大樹のように思えてしまう。それでも僕は、大樹に登る必要があった。蜜を手に入れるために。
蟻になった僕の視界に、もう一匹の蟻が現れる。僕らはまるで番のように二匹だけで行動していた。
そして、その蟻は僕に言った。
「私はもう、そんなに早く歩けない」
複眼から表情を読み取るのは難しい。それでも何故だか悲し気な眼をしているように思えた。
「私ね、疲れているみたい。ついていくだけで、息が切れてしまうからさ」
「ごめん、気付けなかった。ゆっくり歩こうか」
そう言うと、その蟻は喜んだ。「ありがとう」と言ったけど、声が震えていた。きっと疲れているからだと思った。
しばらく木を登る。蟻になった僕の鉤爪は、木の表面の僅かなささくれをも捉えることが出来る。
「こんなぐらいでいいかい?」
僕は、ゆっくり登った。もう一匹の蟻は、震えた声で「それぐらいの早さがいい」と後ろで言った。しばらく歩いてもう一度聞く。なぜだか、足音が少しずつ離れていくのを感じたからだ。後ろを振り返ると、僕ら二匹の距離は大きく離れていた。
「ごめんよ、また気が付かなかった」
「いいよ」
「もっとゆっくり歩こうか?」
僕は尋ねた。するともう一匹の蟻は、今度はすぐに「ありがとう」とは言わずに、黙りこくって、身体を震わせた。
疲れているというよりも、僕にはそれが泣いているように見えた。蟻は涙を流すことが出来ない。それでも泣いているように思えた。
「どうしたの? もっとゆっくり歩けるよ」
「もっとゆっくり歩いて、私に合わせていいの?」
蟻になった僕の眼を見つめる複眼。ぼそりぼそりと言葉を紡ぎ出すたびに、弱弱しく動く顎。悲しみが見て取れた。その問いかけに、僕は答えることが出来なかった。
そんな変な夢だった。
「なに、その夢は? 目が覚めると虫になってたって。変なの」
病室のベッドに腰かけて、霧島さんは笑った。その夢を見たのは、彼女が入院してからちょうど三日が経った夜のことだった。まだ彼女は笑えている。
相変わらず、僕と彼女の間をビニールカーテンが隔てている。僕の口の周りを高性能マスクが覆っている。でもそんな現実を忘れさせてしまうくらい、彼女は明るく笑っていた。
「あはは、今日も空太に笑顔をもらっちゃった」
でも、冬から春になって湿り気を帯びてきた風とは対照的に、彼女の笑い方から湿度が失われているように感じた。
「本当にいつもありがとうね。毎日来てくれなくてもいいのに」
彼女はそう言うが、毎日来ずにはいられなかった。
『とうとう彼女に明日は来なかった』
僕の見ていないところで、そんな結末になって欲しくない。後悔して、自分じゃない誰かが後悔しないように、泣きながらブログに記事を上げるような、そんな自分にはなりたくない。
「僕は毎日来るよ」
「こんなところで放課後いても、暇でしょ」
「いいや、ずっと霧島さんに付き合わされていたから、変わらないよ。場所が変わっただけだ」
「もうっ。それじゃあ、あたしが、だだっこみたいじゃん」
悪戯っぽく笑う。笑うけれど。その後、口を歪めて、奥歯を噛みしめたりもする。まるで、今まで滑らかに動いていた全てが、少しずつほころびを見せるかのよう。そして、そのほころびを見つけても、気のせいか、たまの誤作動と放っておくよう。
敏感になっても、すぐに思い違いだと、噛み潰した。僕も。
「そう言えば便箋とペンは使ってるの?」
「使ってるよ。でも前みたいに詩は書けなくて。スランプかな」
彼女が、スランプに陥っていること。僕は創作というものをやったことがない。
スランプなんてよく分からなかった。だから噛み潰した。
「でもちょっとは書いているんだろ?」
「思いついた言葉の羅列よ」
「また見せてよ」
軽い気持ちで言うと、彼女は机の上に置かれた閉じた便箋に、悲しい眼差しを向けた。趣味でやっていても、上手くいかないってそんなに辛いことなのか。
「……、見せたくない。空太には見せたくない」
僕が渡した便箋に、僕が渡したペンで書かれた詩。それを密かに待っていた。たとえ、感性の乏しく鈍感な僕に、詩の心が分らなくても。彼女の声で彼女の詩を聞きたかった。
でも、それが彼女を苦しめてしまうならと、僕は噛み潰した。
「ねぇ、空太はさ、なんて答えるの?」
残念だ。聞きたかった。少しだけ残る気持ちが、僕の耳に覆いを被せる。話の動きが読めなかった。聞き返すと、僕が蟻になった夢の続きの話だった。
「もっとゆっくり歩いて、あたしに合わせていいのって聞かれたら、なんて……答えるつもりだったの?」
夢の続きを尋ねる。そんな他愛もない話なのに。何故だか彼女の声は震えていた。震えているどころか、泣き腫らして、掠れているようにさえ聞こえた。僕はビニールカーテンの向こうの彼女の表情を見やる。俯けて、前髪がだらりと垂れさがって、ベールになっていた。
「き、霧島さん?」
「……そら……た……」
答えて欲しい。表情は見えなくても声はそう言っていた。僕は彼女が聞きたいことなら何でも答えるつもりだった。できれば彼女が求める答えを。
僕は蟻になったとき、そして、もう一匹の蟻と話しているとき。不思議にも、現実との隔たりを感じなかった。きっと、蟻になった僕も今と同じことを考えていたから。蟻になった僕も、二匹でなければ生きていても楽しくなんてなかったんだろう。僕にとって霧島さんが必要であるように。
だから、歩幅を合わせたんだ。どれだけ遅くなっても。それで時間が失われることよりも、一匹で歩く孤独の方が何倍も苦しい。蟻になっても、そう感じていたはず。
「僕は合わせるよ。どんなに遅くなっても、歩幅を合わせるよ」
彼女はそこでしばらく黙った。病室の中を時を刻む、時計の針の音だけが木霊する。彼女は前髪をかき上げて表情を露わにした。けれど、そこに表情などなかった。
口は一文字に閉じられていて、瞳は濁っていて、あらぬ方向を見つめている。ちょうど彼女の右手に光る琥珀の中で、蟻の時が止っているように、彼女の中の時も止まってしまったかのよう。
「霧島さん?」
呼びかけると、上の空だった彼女は、我に返って肩をびくつかせる。それがまだ治っていない患部に響いて、苦痛に顔を歪める。
「ごめんごめん。ここに入院してから、あまり寝れていなくて、ぼうっとしちゃったみたい」
「睡眠薬をもらったほうがいいんじゃないの」
「うん、もう……、もらってるよ。お薬は、もうもらってる」
また、彼女の口が歪んだ。肩が震えた。僕が出した答えに、彼女が何を思ったのか。それは解決されないままに、突拍子もない話題が振られる。彼女は何かから踏ん切りをつけるように、小さく息継ぎをしたあと、懐かしい声で歌った。
「ねぇ~えっ、そ~ら~たっ!」
僕は急な声の変化に少し戸惑った。跳ねあがった僕の肩を君が笑う。これまでの、彼女のほころびは発作のようなものだったのだろうか。そう思わせてくれる旋律に僕は甘えた。
「どうしたの? 急に」
「ひまっ、退屈なのっ!」
「そりゃあ、入院中はね……」
「あたし、自力で立てないから。トイレの回数も少なくていいようにって、食事をすっごく減らされてるのよ。入院中の楽しみなんて食事だけじゃん? まあ、病院食なんて普段の食事に比べたら、寂しいものだけど」
「い、今は我慢したら、きっと良くなるから」
「良くなる……か……」
とっさに出た、「良くなる」という言葉。それが耳に入った途端、猫の歌が止まった。でもまた、猫は歌い出した。
「そうそう。退屈だから、あたしから宿題を出します! それを絶対にやってくることっ!」
まるで子供の遊びのように、他愛もない提案。次のお見舞いまでにやってきてほしい宿題を出すと。宿題の内容は、デートプラン。日帰りじゃなくて、お泊りのデートプランがいいと。本当に退屈しのぎの提案で、僕はどこか安心した。
きっとまだ僕らは、僕らでいられる。
霧島さんの笑顔は、そう言ってくれているような気がした。
でも、思い出してしまった。
あの夢の続きが、頭の中に蘇って来る。窓から差し込む夕陽が、彼女の右手に輝く琥珀を眩しく光らせる。その光に乗せられて僕の頭の中に舞い込んできた映像は、黄金色に輝く樹液の中で、もがき苦しむ一匹の蟻だった。
『あなたは優しい。でも優しいことが私には苦しい。だから、私は琥珀になりたかった』