凍(こご)えた街(まち)の話
リモコンをいくら向けても電源が入らない。ブラウン管は、底の見えない淀みのように、何も楽しませてはくれない。
それでもナミはしつこくて、何かうかんで見えないか、真っ暗に映った自分の顔と、にらめっこが続く。
「ピンポ~ン、ピンポ~ン、ゴメンクササ~イ!」
スイッチが入ったのは、テレビでは無くナミの方だ。居丈高な言い回しは、ドアごしに居留守を疑う大家さんの口真似だろうか。
ふるえるほど凍えるアパートの一室。不思議とナミは、寒がる様子も無い。
深く息を吸いこみ、もれないように両手で鼻と口をふさいだ。次はいったいなんのまねだろう。
しかし、心配には及ばない。案の定、顔も赤くならないうちに、もう早や我慢が続かない。
「……ぷはっ!」
苦しまぎれの溜め息を、凍えた部屋にはき出した。またたくうちに冷やされて、煙のように尾を引いて行く。
まるでロシアの空に現れた、いつかの巨大隕石。テレビの中のふくれっ面へ、見る見るうちに衝突をした。
偶然の仕業に、得意顔がうかぶ。ナミのしたことだから愉快なのだ。
「ウウウ」とうなり声をわかせ、番組を見せない仕返しとばかり、次から次へ新手を放ち始める。
「ハッ!」
真冬の12月にストーブの火の気が無くて――
「ハッ!」
それでもナミは、裸にタオルケットを巻きつけただけ。
どれほど恨んでいただろう。テレビがかわいそうに見えたころ、ようやく執着は解けた。
ナミはその場に立ちすくみ、目玉を上にぎょろぎょろさせている。すると、黒目がピタリと止まり、何かを思いついた様子。
顔だけ後ろを向くと、じろり。横目で見据えた先にナミの母親がいて、やれやれそちらを的にまた始まった。
溜め息が、母親めがけてのびて行く。隆々(りゅうりゅう)と、白く水蒸気が凝結をくり返す。
ところが、ぶつかる手前で見る見る勢いはおとろえ、あっという間に蒸発して消えた。選んだ的が遠かったのだ。
「ハーッ!」
だからやり直してもう一度。今度は、勢いがある。
「ハーッ!」
けれども一緒。テレビと同じだけ近づけば良いのだ。
くり返すほど募る思いはやがて、ナミを制御不能にさせて行く。
何かに取りつかれたように、もう楽しそうでは無いし、喉のおくまで乾いただろう。それでもナミは、我慢くらべを止めようとしない。
「ハーッ!」
肩で息を始めると、顔から血の気が引いて、しだいに勢いも弱まって行く。
そのうち目玉をひっくり返して、ベタンと尻もちをつく意地の張りよう。ぶつけたところをさすりながら、それでやっと諦めた。
ナミは、立ち上がらずに四つんばいをして、ふらふら母親のもとへ近づいて行く。
後ろから、痩せた腰につかまると、遠慮がちにゆさぶって、始めは甘えるしぐさに見えた。
ところが、ナミは急に興奮し始めて、場面は一転ケンカをしかけているようだ。
「うん! うん! う~ん!」
床にねじれた体を、ナミが乱暴にゆらし、さらにどこでも掴んで力いっぱい返そうとする。
そばにころがる掌へは、リモコンを何度も強く押し当て、預けるつもりでいるらしい。母親が、丸太のように心が無いことを、分かっているはずなのに。
ナミのスキンシップはどれも一方的で、それに、なかなか収まる気配がなかった。
「う~ん! う~ん!」
相変わらずのうなり声。どうにも満足いかない様子。
遂にリモコンを放り投げ、母親が着るコートの袖に縫い付けられた、透き通るオレンジ色のボタン目がけて噛みついた。
「ピンポ~ン、ピンポ~ン、ゴメンクササ~イ!」
カーテンの無い窓は、黄昏が暗幕を引いて宵の口。部屋の全てが影と成り、沈み始めた氷の床に、母親のあわれな姿が滲む。
思いもよらず命が果て、うつぶせに崩れた体は今も硬直をしたまま。
だから、昼間したナミの力まかせは、どれも思い通りに行かなかった。そのせいでパニックを起こしたナミが、自分で自分の手の甲を血がにじむまでかみしめたけれど、今では意に介するそぶりも無い。
「ピンポ~ン、ピンポ~ン、ゴメンクササ~イ!」
真夜中にひびいたのは、お決まりのセリフ。影絵のナミが雪明りに浮かぶ。
母親につまずかないよう目をこらし、両手でタオルケットの裾を持ち上げ、今夜も凍える部屋を駆けめぐる。
三日三晩ねむらずに明かした、気の遠くなるほど長い時間。朝まで続く奇想天外は、移ろう心模様に身悶えているようで切ない。
こみ上げては静まり、竦んでは立ち向かう。逆境にへこたれぬ健気さは胸を打つけれど、ここからぬけ出す手立てを思いつけないのだから情けない。
空のバケツへ迷いこみ、グルグルとはい出せずにいた夏の虫のように、底を逆さに返してくれる、慈悲深い通りすがりを待つより他は無い。
やっと長い夜が明けて、今朝は何もきこえない。ナミは走り回っていないし、部屋のすみにもうずくまっていなかった。
ミカンの皮や空になったマヨネーズの容器。氷の床の母親は、散らかる物の中でうつぶせのまま。しかし、いつもと様子が違っていた。
頭の上には、ナミのタオルケットがかけられて、顔のそばでたたんでいたはずの右腕も、下からはい出たみたいにテレビに向かってのびている。青白い指が、リモコンを掴んで凍っていた。
滞る零下の世界。雪と氷にとざされた物憂げな街の片すみ。窓に迫る無情の景色は、忘れ去られた吹きだまりの下に、あとどれだけ二人を閉じこめるだろう。
裸のナミを、奥の4畳半で見つけた。寝床の上にあお向けでいて、布団をけとばし、枕を畳に転がせている。とりあえず今日まで、危ういが手ごわくて何よりだ。
例えばナミは、未来を想像することが無いという。頭の中で引き起こす、生まれながらの障害のせい。数ある個性のこれもひとつだとか。
「明日を臆せず、今を限りに生きぬいて行く」そんな潔さをも兼ね備えるのか。
――玄関でドアを叩く音がする――
とうとうやっと来てくれた! さあ、早くここへ。
薄目がわずかに輝いた。「ホン」と、ひとつむせたけれど、どこに残していただろう。ドロップが、口から糸を引いて飛び出した。
ほどなく辺りは静まって、しかし、まだ中をうかがう気配がしている。玄関が開くのを、そして呼ぶ声を、今かと待ちわびたのもつかの間。
「スッ」と、ドアのポスト口からチラシが差し込まれ、雪をふみしめる足音が、せわしく次の戸口へ消えてしまった。
張りつめた空気は一瞬にして解け、その代わり、漲るものが消えて行く。ナミを見ればそう分る。延々と、救われぬ時だけが刻んだ1秒のなんともどかしい。
大きな喉の吸いこむ音がした。
ナミのむらさき色のくちびるが「ふーっ」と、息を吐き出した。
命が旅立つ最期の合図。
ゆるんだ瞳が彼方を見つめて、こめかみを、涙がひとすじ流星みたいに流れて落ちた。
ナミの物語はこれで終わり、救われぬ時だけが今日を刻み続ける。
午前のうちに、長く居座った雪雲は消えて、しばらくぶりに太陽を見た。日差しが、畳を黄金に浮かばせながら、みるみるナミへ寄せて来る。
ほどなく窓の格子が影を落とせば、寝床はどこも明るくなって、頬は橙色に染まり、日向ぼっこのうたた寝をながめる気がした。
不意に、音もなく小さなものが転がって行く。
コロコロとひとつ。ナミの体をかけ下りて、畳に映る日だまりの上を、オレンジ色の綺麗な影と並んで進む。
さっき、なめていたドロップ。
――いや違う。ああ、あれは――
畳縁をはねたら勢いを無くし、それでもゆらゆらと弧を描きだす。 最後は、サンタの姿の赤い折り紙や、銀色の松ぼっくりが散らばる中を進んで、初めから決めていたように、タンポポの絵のかわいい飯茶碗に、カチンとはねて上を向いた。
人も車もカラスも――朝から無関心を決めこんで、窓の外は、物音一つしない。
その代わり、不思議な気配がナミの寝床を取り巻いた。
主を無くした、この部屋のとまどいなのか。まるで潮騒のように、ざわざわと無数の念がわき起こり、寄せてはまとわりつくようだ。
壁の中で柱たちが、するどい音で身をきしませて、こちらはやり切れぬ思いでいるらしい。
誰か――
忘れたふりをやめて、この部屋の様子を確かめに来てもらえないか。
すでにおそくても、見つかって、このありさまが日の目を見れば、世間はつかの間反省をするし、報われなかった日々へ同情もしてくれるはず。大家さんには、溜めた家賃をふくめて、大迷惑な話だけれど。
それに、仕事とはいえ警察もだ。
事件を疑いながら部屋の検証を始め、それならナミが吐き出した、透き通るオレンジ色のボタン。
母親の、袖のちぎれたあとを怪しんで、飯茶碗などには目もくれず、きっとつまみ上げるのだ。
窓にすかせば、ついた歯形を目ざとく見つけて、新聞記者やヤジ馬や、テレビカメラをかき分けながら、事件の場合の手がかりとして、きっと持ち帰るのにちがいない。
そんなてんやわんやを、どこか高い遠くから、ナミは眺めていてほしい。
照れるわけでも嘆くわけでも無く、許すも許さないも、あんなに短い一生を、他人と比べようもないのだから仕方ない。
魂が解き放たれ、寒い思いやひもじさからも開放されて、それならせめて「やっと救われたんだ」と、凍えた街を見下ろせばいい。
けれど――
変わり果て、荒涼としたこの部屋の景色にも、二人の面影は、蘇る。そして、人知れずささやかであれ、息づいた日々は、まぎれもなく閃いていた。
卑しい暮らしの中で、すまなそうに呼吸を続ける人たちがいる。命の尊厳を、背負う宿命もいつかどこかへ置き忘れて、なんとかやっと生き伸びている。
その存在に、世間はいつまで見て見ぬふりをするのか。正義を暗まし見限るつもりでいるだろう。
「死んだ方がまし」だとか。「生まれ変われ」ば楽だとか。その場しのぎの無責任。
励ます声や見送る眼差しも無く、ナミは独りぼっちで凍えていった。
今日、この凍えた街中のだれ一人も、「救われたはずが無い」。そう思い直して、ひどく悲しかった。
(終わり)