宰相閣下のお邸ですの。
「……ところで、リニ。ここはどこなの?」
「宰相閣下のお邸です」
「まあ、そうですわよね」
心の中で宰相閣下に感謝を送ります。
あのまま王宮にいたら噂の格好の的になっていたでしょうし、なによりも高級官吏になった兄が働く場所です。
なにを言われるか分かったものではありません。
王都に構えたファンデルヘイデンの別邸に戻っていたとしても、同じようなことだったでしょう。
婚約に伴う諸々の手続きは、どうやら宰相閣下が直々に引き受けてくださるみたい。
兄と母にも話を通しておいて下さるそうです。
フレデリック第一王子殿下たちは、学園を卒業したら改めて婚約発表をするとのこと。
ひと月後には王立学園の卒業式を控えていますから、余計な騒動を避けるためにも正しい判断でしょう。
宰相閣下と私の婚約発表は、時期をずらしたり、各方面にいろいろと話を通したりしないといけないから……、そのふた月後。
実際に婚姻を結んで式を挙げるのは、さらに半年後を予定しているようです、とリニが教えてくれました。
私、本当に宰相閣下に嫁ぐのですわね。
実感が湧きません。
沿海の黒真珠だなんて誉めそやされ、王太子殿下の婚約者だった私が、あの豚宰相に嫁ぐだなんて。
豚に黒真珠、ふふ。なかなか頓智がきいておりますわ。
「おお、ファンデルヘイデン侯爵令嬢。目がお覚めになったようで」
あれこれとリニへ聞いているうちに、すっかり日も昇っています。
誰かが知らせたのか、宰相閣下がいらっしゃいました。
私はあわてて立ち上がり、一礼します。
「あっ、閣下……。いえ、失礼しました。コープマン宰相閣下、昨晩はお見苦しいところをお見せしてしまって……」
「よい、楽にしなさい」
どうしましょう。
宰相閣下のお顔を見るのが、とても恥ずかしいです。
たぶん、きっと、いえ絶対に。
今の私の顔は、耳どころか首まで真っ赤になっているに違いありません。
「この年になって可憐なご令嬢に抱き付かれるというのも、悪くはありませんでしたがな」
ブフォフォと低い笑い声を響かせる閣下。
もう、顔から火が出そうです。
恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいですわ……。
重ねがさねお礼を述べると、閣下は軽く手を振られました。
ああいうことがあって、こうして結婚することになったのだから、これも何かの巡り合わせだ。なにかあれば昨日のように遠慮なく言いなさい、なんて。
眉を下げて笑う閣下のお姿が、噂に聞くものと全然違っていて。
私が驚いて呆けていることに気付いているのかいないのか、閣下は一言、邸では自由にしていいと言い残して仕事に戻られました。
閣下はああ言ってくださいましたけれど、本当はとても不安です。
女性や金銭絡みの後ろ暗い噂ばかりで、かの容姿を下回る人間はいないとまで言われた豚宰相の妻になるのか……なんて。
いいえ、こんなことを考えてはいけません。
妻になるのなら、夫がどんな人間であろうとも家を守り、支え導くのが貴族の女性の務め。
それが王命とあらば、なおさらです。
まずはお邸の中を把握するためにと、私はコープマン宰相家に仕える数少ない侍女を呼びました。
ですが、あれこれと理由をつけて案内したがりません。脂汗が浮かぶ顔には焦りが見て取れます。
やはりなにか、やましいことでもあるのでしょうか。問い詰めると、逃げきれないと悟ったのか諦めて白状しました。
「実は……その、このお邸には……」
聞けば宰相閣下、豚宰相だの性欲の獣だの不名誉なあだ名をたくさん頂戴しているだけあって、このお邸に居付いた侍女は物好きの二人だけ。
天下に轟く悪名を鑑みれば、それでも多いほうですけれど……。
評判の悪い家には男性の使用人ですらなかなか残らず、本当の意味で最低限の人数しか雇えていないということ。
閣下が若い頃からの主従である老執事と、侍女が二人、そして料理長。
この広いお邸に、従者四人に加えて宰相閣下の、たった五人しかいないと言うのです!
人手が足りないということは、つまり手が行き届かないということで。
閣下がよく利用される廊下やお部屋はきれいにされてはいるのですが、使っていないという場所に足を踏み入れたとき、私は言葉が出ませんでした。
なぜなら、ここがゴブリンの巣かと見まごうほど、そうありえないほどにっ、汚かったからですわっ!!
私のあてがわれた部屋が一生懸命丁寧に掃除されたのだと一瞬でわかるくらいの、他の部屋の汚れ具合。
もはや汚れと言うにもおこがましいほどです。
至るところに蜘蛛の巣が張った部屋の隅には拳大の埃のカタマリがゴロゴロ転がっているし、せっかく趣味のいい調度品を集めているのに、そのすべてが煤けて真っ黒。
床にはいらない書類やガラクタやらがこれでもかというほどに積まれ、入り口から一歩も進めない有様。
突き当たりの部屋に至っては、バリケードのようになっていて通れないだなんて、もはや私に理解できる域を飛び越していましたわ。
邸の中をひと通り案内された頃には、そのあんまりの汚さに頭が沸騰してしまっていました。
恩義も常識も、淑女らしい振る舞いすらどこかにすっ飛んで行って、終いには案内させた侍女が怯えて泣き出していたような記憶すらあります。
長年仕えてくれた侍女の必死の制止でさえ耳に入らず、執務室で書類仕事を片付けていた宰相閣下に詰め寄り、たじたじな閣下に発した私の言葉は「今すぐ掃除を!!」
閣下は「お、おお。許す」とだけ言って目を逸らされたので、私は一礼して退室すると、すぐにリニを呼びました。
顔が青ざめていますが、はいと返事をしたので大丈夫でしょう。
……無理! 絶対無理! こんなゴブリンの巣に嫁ぐなんて真っ平ごめんですわ!
リニ! 今すぐファンデルヘイデンの家から手の空いている使用人を連れてきなさい! 私が許すわ! いい、最低でも男女合わせて五人は必要ですことよ! 季節外れの大掃除を始めますわ!!
王立学園の卒業に必要な単位は全て取得していますから、もう登校する必要もありません。
学園は生徒の自立を促すためとの名目で全寮制ですし、きちんと事情を話して書類を提出しておけば、このままコープマン公爵家に滞在しても問題はないでしょう。
それに今は、ファンデルヘイデンの家に帰りたくありません。
結論から言えば、まるまる二週間かかりました。
それも、掃き掃除と拭き掃除だけでです。……指示を出すだけで疲れてしまいましたわ。
閣下は公務でお忙しい身ですから、何が不要品で何が必要なものなのかとお伺いを立てている時間はありませんし、書類や調度品、ガラクタの数々は、今は使われていない広間に一時的に移動していまいました。
それと同時に、市場で使えそうな奴隷を購入して、新しく侍女や下男として教育することにしました。
たったの四人では、せっかく綺麗にしても維持しきれないですから。
ですが、こればかりは閣下に相談しないわけに参りません。
お願いすると、なんと閣下自ら市場へ足を伸ばし、目利きして下さいました。
「最初からこうして人手を集めていれば良かったのだな、ブフォフォフォ」……とは、閣下の言です。
そういう問題ではない気もしますけれど……。
リニはそんな下賤の者をお嬢様の側には、と渋ったのですが、募集を掛けても年に一人二人と面接に来ないというものをどうやって集めろと言うのでしょう?
ファンデルヘイデンの家から何人も引き抜くわけにはいきませんし、そもそもこれはコープマン公爵家の問題です。
それだけ言うと、お嬢様が言うのなら、とリニも分かってくれた様子でした。
泊まり込みで公務を処理していた閣下を一緒にお食事をしたいと急かし、一週間ぶりに帰宅させたときのお顔の、もうおかしいことおかしいこと。
見違えるように綺麗になったご自分のお邸に驚愕され、ぷるんぷるんと全身の脂肪を揺らして……。
ちょっとだけ可愛いと思ってしまったのは内緒です。
だって殿方に可愛いだなんて言葉、失礼ですものね。
静かに閣下のお言葉を待っておりましたら、これを、そなたが……? なんて呆けた顔で仰るので、もう堪えきれなくて笑ってしまいました。
あんまり可笑しいものだからつい自制を忘れて、「私、埃だらけの豚小屋で暮らすのは嫌ですのよ?」って零してしまいましたわ。
閣下は一瞬、神妙な面持ちをなさいましたが、お咎めもなく、そうであるか、と一言呟いて自分のお部屋にお戻りになられました。
これが二人の壁を壊すいいきっかけになったみたい。
ディナーを一緒に頂いた時の、お話の弾むこと弾むこと。
この二週間のことを話せば、そうかそうかと嬉しそうに頷いて下さいますし、掃除の際に見つけたあれやこれやの品について聞けば、ちょっとしたエピソードと一緒に品物の説明をして下さいます。
流石に宰相というべきか、打てば響くような快活な口ぶりはとても理知的で、話していてちっとも飽きが来ませんわ。
それに、閣下のお顔をよく見てみれば、ただ太っていて汗っかきなだけで目やお鼻のひとつひとつは悪くないと思いますし、ぽってりとした唇は40歳の中年真っ盛りだというのにどこか愛嬌を感じさせます。
人を見下すような、あの冷めた目の第一王子などとは全く違いますのね。
宰相閣下を眺めていると、なんだかふわふわとして、心が温かくなるような気さえするのです。
「む? ヒルダよ、そんなに儂の顔を見つめてどうしたのだ? さては惚れたか?」
「そうですわね……。そうかも、しれませんわね」
「ム、フ……フフ、ブハハ。そなたでもそのような冗談を言うことがあるのだな」
冗談じゃ、ありませんのに。
ふわっとしたまま無意識に言いかけて、はっと口を噤みました。
なぜだか分からないけれど、言ってしまったら後戻りできない気がして……。
それにしても、閣下のお食事。
油をふんだんに使った揚げ物や味付けの濃いものがお好きなようです。
けれど、あのような食事ばかり摂って、しかも王宮に缶詰で仕事をしていらっしゃっているとあれば、いつか病気になってしまうわ。
もっと野菜を増やして……塩の代わりに柑橘系の果汁をメインの味付けに……。甘味は量を減らして……。運動すれば、臭い嫌な汗もいい汗に……。石鹸には興味がないようですけれど、最高級のものを用意して……。
んふ。うふふふふふふ。
ダイエットする閣下を想像したら、なんだかとても面白そうな気がしてきましたの。
「ひ、ヒルダ? 一体どうしたのだ?」
あら、いやだ。どうもしていませんことよ。
食事をしているというのに唐突に笑いだした私へ、閣下が少し怯えたように怪訝な視線を向けてきましたが、私の頭の中はもうこれからの計画でいっぱいでした。
王太子殿下は私がお話しても耳に蓋してしまうお方だったけれど、宰相閣下はデキる大人の男。
悪いところは認めるし、私の小言程度なら聞き入れてくれる懐の広い方です。
だから、私、決めましたの。
九か月後の披露宴までに、このコープマン公爵様を、きっと見た目にも立派な殿方にして差し上げますわ――!