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信じてみようと思うの。

 我が王国の宰相たるアンブロース・コープマンと婚約してほしい。

 その言葉を陛下から告げられた時、誰も言葉を発することが……いえ、動くことすらできませんでした。

 そんな中、ガタンと音を立て、椅子を蹴り上げるようにして立ち上がったのは、意外にもマリアンネ様でした。


「それはっ! そのような……!!」


 ここが王宮の一室であることを忘れてしまったように、大きく叫ぶマリアンネ様。

 血の気が引きすぎた顔は真っ白で……この凍った空気の中で、よく動けたものだと思います。


「おや。なにか問題があるのですかな、マリアンネ嬢」


 対して、答えたのは陛下ではなく、コープマン宰相その人でした。

 何がおかしいのか、大きなお腹を揺らして、ブフッブフッと笑います。


「私に気を配ってくれているのなら嬉しいが、貴女が心配する必要はない」

「さっ、宰相閣下ももちろんですけれど、ヒルダ様が……」


 マリアンネ様が最後まで言葉を続けることはありませんでした。

 いいかね? と、長机の上で指を組んだ宰相の目が、宥めるようにマリアンネ様を射抜いたからです。

 彼女の華奢な肩が、びくりと震えました。

 自分が見られたわけでもないのに、自然と背筋が伸びてしまうほどの冷たい瞳。

 今この瞬間から、ここが政治という名前の戦場になったようでした。

 そこに豚と揶揄されるような鈍さはありません。そうこれは、まるで……。


「王太子殿下から婚約を解消されてしまった、"悪者の"公爵令嬢が、社交界で異性からどのような扱いを受けるのか……そんなことは、貴族社会に詳しくない貴女でも考えればわかることであろう?」

「それは……っ、そうですが……」

「さらに、ファンデルヘイデン公爵令嬢は類まれな書類処理能力を持っている、との報告を受けている。君たち生徒会の役員が考えていたように、王国の僻地に飛ばすのでは、その才能を埋もれされてしまう。これは王国にとって非常な痛手だ。違うかね」


 そもそも、彼女は王妃として相応しい人物になるべく教育を受けてきたのだよ、と宰相は顎ひげを撫でました。

 いいえ、だからなんだというのでしょう。

 私は「未来の王妃を苛めた」女。王都に残っていたって、辛く苦しい日々が待っているだけなのに。でも。やめて。それ以上は聞きたくない。だって。それ以上は。

 だけど、宰相は語るのをやめてくれない。


「付け加えて言うのならば、コープマンは由緒ある公爵家であるし、家格も釣り合う。それに私は既婚者ではない。いいかね、なにも貴女が考えているように、彼女を見てくれだけで愛妾に招こうというのではないのだ。……婚約者になったとの発表もなく、今現在、ただの男爵令嬢である君が、陛下のご命令に横槍を入れて良い道理は無い」


 宰相閣下はそう一息に言い切って、もう語ることはないとばかりに椅子へ背を預けます。

 マリアンネ様は二の句をつげなくなったのか、目を伏せて唇を震わせると、黙って席に座り込んでしまいました。


 きっと、私を庇ってくれようとしたのでしょう。

 これほどまで分け隔てなく、手を差し伸べられる人を、私は知りません。

 他人のことを思うあまり、それ以外が疎かになってしまうくらいだから。


 だけど、いまはそんなことなど、どうでもよくて。


 王太子殿下の婚約者になってから、「私」を見てくれるひとなんて誰もいなかった。

 殿下は私のことなんて最初から見ていなかった。

 近寄ってくる人間は、みな下心を持っていた。

 父は早世し、母と家督を継いだ兄は私を婚約者として飾り立てるばかり。


 誰にも心の裡を明かせない、窮屈な日々。

 たとえ嘘でも心のこもっていない言葉でも良かったの。私がなによりも聞きたかったのは。


 だから、後ろ暗さの塊なんて揶揄される宰相閣下からそんな言葉が出てきたことが、とても意外で、だけどとても嬉しかった。

 今まで胸の奥でつかえていた感情が、ぶわっと溢れ出してしまいそうなのをこらえる。


 陛下と宰相閣下、それに第一王子殿下とがなにかを話し合っているけれど、それすら耳に入らない。

 耐えなきゃ。

 ダメなのに、視界が霞む。きつく引き結んだはずの唇の端が、震えている。ダメ。ダメだったら。耐えなきゃ。耐えなきゃいけないのに――。


「……おや、ファンデルヘイデン公爵令嬢はご気分が優れないようだ。未来の妻になるのだから、大切にしなくてはな。こちらへ来なさい、落ち着ける部屋を探そう」


 ああ、この人はなんて優しいんだろう。

 


 そのあとのことは、途切れ途切れにしか覚えていない。

 会議室を出た途端にぼろぼろと涙を零した私の背を、おっかなびっくり撫でてくれたこと。

 連れて行かれた部屋で、ソファにそっと座らせてくれて、君は無実なんだろう、今までよく頑張ったね、と声をかけてくれたこと。

 暖かいものでも飲んで落ち着きなさい、と香茶を手ずから淹れてくれたこと。


 嗚咽の止まらない喉をなんとか落ち着かせて、何事かを二言三言くらい、ぽつぽつと宰相に言った気がするけれど、宰相閣下はなにも言わなかった。ただ頷いてくれた。

 最後に、ありがとうって言ったのは憶えている。でも、ふかふかのお腹に顔をうずめたまま言ったから、伝わったかどうかは、わからない。

  


 翌朝目覚めると、見慣れないベッドで寝ていました。

 ここはどこだろう。少なくとも、ファンデルヘイデン公爵家でないことだけは確かです。

 起き上がってみても、部屋の中に人影はありません。

 胸まである自分の髪を撫で、指先でくるくると遊ばせます。いつもの癖。兄と母には、みっともないから治せと言われた癖。

 

 娘を王家と繋がる道具くらいにしか思っていない兄と母。

 ここが自分の部屋でなくてよかった。

 彼らが今の私を見たら、どう感じることでしょう。なんと罵るでしょう。――そこまで考え、自分が宰相閣下へ晒した醜態に気がついて、頬がかぁっと熱くなりました。

 耳まで真っ赤になった気さえします。

 あのときいくら弱っていたとはいえ、宰相閣下にあのような――。

 うぅ、ダメです。宰相閣下の顔を思い出すと、恥ずかしくて頬が熱を持ってしまいます。考えないようにしなければ。


 室内をぐるっと見渡すと、上品に誂えられた調度品の数々が目にとまります。

 だけど、普段はあまり使っていない部屋みたい。急ごしらえに用意をしたのでしょう。

 角や隅に、気をつければ見える程度の汚れや埃が残っているようにも見えます。


 鏡台があったので、鏡を開いて自分の顔を見てみることにしました。

 ひどい顔。

 腫れた瞼は泣いていたことがひと目でわかるし、目の下の隈がそれを更に強調しています。


 ……あは。私、殿下にフラれてしまったのですわね。

 鏡の前で無理して笑ってみたけれど、すでに起こった事実が覆ることはありません。

 もうちょっと愛想でも振りまいておけば、少しは違ったのかしら。


 好きでなかったと言えば、嘘になってしまいます。

 幼い頃から、これがあなたの婚約者です、なんて言われていたら、ましてやそれが本物の王子様なら、誰だって意識するものでしょう。

 婚約者として見放されないために、一生懸命に頑張ったはずなのに。

 それがこの有様では、亡くなったお父様に申し訳が立ちませんわ……。


 ……なんて、益体もないことを考えていたら、部屋の扉がノックされました。あわてて身なりを整えます。

 失礼します、と入ってきたのはリニ。見慣れた私の侍女でした。

 返事をしなかったから、起きている私を見て驚いてしまったようで、お盆に持った食器が少し音を立てたのが可笑しかった。

 そういえば、会議の時は隣の部屋で控えていてもらったのだっけ。

 すっかり忘れていたわ。ほったらかしにして、可愛そうなことをしたかしら。


 私はリニにこれからのことを話した。

 第一王子との婚約が白紙になったこと。

 宰相家に嫁ぐこと。

 一週間後に控えた王立学園の卒業式には出席しないと決めたこと。

 リニさえ良ければ、私が嫁いでも今のままお付きの侍女でいてほしいこと。

 後悔は、していないこと。


「……お嬢様は、本当にそれでよいのですか?」


 問うてくるリニの瞳は険しい。

 当然だ。冤罪をなすりつけられ、卒業式の晴れ舞台にも出ず、嫁ぎ先は豚宰相。

 きっと、傍目から見れば、私はものすごい転落人生を送っている最中なのではないかしら。

 くすっと笑いが漏れてしまう。


 だけどね。

 もう一度だけ信じてみようと思うの。

 第一王子殿下のことは残念だったけど、でも、宰相閣下はなにか、今までに出会った人と違う気がするのね。

 だから、心配いらないわ。

 これでダメだったら、私に人を見る目がなかったという、ただそれだけのことよ。


「……お嬢様は、ほんっっっとうにお人好しです」


 長い沈黙のあと、リニはわざとらしく大きなため息をついて、そう言いました。

 でも、そんなところが好きだからついていくんですけどね。

 はにかんだリニの苦笑いが、今はとても嬉しかった。



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