婚約しましたの。
「……ふむ。では、ファンデルヘイデン公爵令嬢は王太子の婚約者として、ふさわしくないというのだな? 第一王子、フレデリックよ」
「はい、陛下。先程も申し上げましたが、このマリアンネに対して彼女が行った悪行は目に余るものがあります」
「それは、どういったものなのだ?」
「根も葉もない噂を流したり、物陰で辛辣な言葉を吐く、などといった精神的なものから、すれ違いざまに足を引っ掛けたり、果ては階段から突き飛ばすなどといった悪質な暴力行為が挙げられます」
「なるほど、そのようなことがな……。他に同じような行為へ心当たりがある者は?」
「陛下。よろしいでしょうか……」
「ふむ。君は確か騎士団長の息子だったな。よい、話せ……」
ここは王城の一角。
本来であれば、王や宰相、大臣たちが政治的な会談を行うために設えられた、小規模な会議のための部屋です。
部屋に設えられた調度品は全てが超一級品で、公爵令嬢である私ですらなかなかお目にかかれないような品ばかり。
あるいは、これら全てが国宝美術館の展示であると言われても、誰も疑問を持たないかもしれません。
しかし今は、私……、ヒルダ・ファンデルヘイデンの処遇を決める場でしかありません。
処遇と言えば聞こえはいいですが、客観的に見ればきっと、王立学園を掻き回した悪女を断罪する一種の処刑場でしかないのでしょう。
集まっているのは、国王陛下に宰相、それに王立学園の生徒会役員が、私を含め全部で六名。
なんのために集まったのか、なんて言うまでもなく分かること。
絢爛な長机の向かい側をちら、と見てみれば、件の令嬢――マリアンネ様が、ふるふると縮こまっていました。
場馴れしていないのですわね。震える手でドレスの裾を握り、翠色の眼差しはどこを見るでもなく翳り、目尻の雨粒は今にも滝になりそう。
キュッと引き結んだ唇は艷やかで、可憐な頬は桜色。
男性の庇護欲をそそるらしい小動物のような、同性の目から見ても可愛らしい女性です。
……他人の婚約者、それも王太子に手を出しておいてどこが小動物なのか、と言われればそれまでですが、それはさておき。
婚約者と言っても、まあ、愛情や恋慕といった感情はありません。
フレデリック殿下もきっと、私と同じ思いでしょう。あの方は、それはもうマリアンネ様にぞっこんですから。
周りがいくら反対しようと無理やりにでも結婚してしまいそう。
人の話を聞かないお方ですもの。
マリアンネ様もこれから苦労されるのでしょう。
内でも外でも王太子妃に相応しい言動を求められ、厳しい花嫁修業の毎日。
他人のために自分をすり減らす日々。
我儘な婚約者。
向けられる視線と悪意。
学園を卒業すれば、それは一層苛烈になるはずです。
男爵令嬢なら、きっと、尚更。
いくら顔と金と権力の三拍子が揃っていても、使い方が悪いせいでせっかくの財産を腐らせているフレデリック殿下。
私はなんだかマリアンネ嬢が気の毒に思えてしまって、ついと視線を滑らせました。
……滑らせた先にいたのは、宰相でした。
席についてからずっと、粘ついた笑みをべたべたと顔中に貼り付けています。
この宰相はとても有名人で、国いちばんの醜男として、王立学園ではよく噂のタネにされる人物です。
学園の生徒であれば誰でも知っていることでしょう。
つねに悪巧みをしているような笑みを浮かべ、でっぷりと脂肪が乗った体はいつも油でテカテカ。
汗をかきやすい体質で、臭いをいつもキツめの香水で誤魔化しています。
極めつけに、太った喉から出る笑い声はブフッブフッと聞き苦しい音……。
ついたあだ名は、ずばり豚宰相。知らないわけがありません。
学園で女生徒が問題を起こせば、生徒会役員でいちばん口の悪いティム様がこう注意するのです。
「豚の餌にするぞ」。
貴族の生徒であろうと、どんなはねっ返りの庶民の生徒であろうと、ティム様がこう告げるだけでサッと顔を青くして、許しを乞うのです。
もちろん、その……、餌にするというのは食べ物として食卓に出すというのではなく、比喩であることは、否定いたしません……。
私たち公爵家の人間にすら、手籠めにした女性の数は星の数、とかいう下品な噂が流れているのですから、下級貴族や平民の生徒の間では、どういうイメージを持たれているのか……。
「――そうか。おまえたちの言い分はよく分かった。それでは、ファンデルヘイデン公爵令嬢。彼らに対して反論があるならば、忌憚なく申してみよ」
そんなことを考えていると、生徒会役員からの「私の所業」の報告はいつの間にか終わっていたようでした。
はっとしたのもつかの間、マリアンネ様を除く生徒会の全員から、厳しい視線を向けられます。
彼らはきっと、また私が見苦しく言い返すところを想像しているのでしょう。
だけど……、私はもう、否定することに疲れてしまいました。
マリアンネ様しか見えていないフレデリック殿下。
生徒会の仕事は放り出し、マリアンネ様の尻尾を追いかけ、王族らしい振る舞いを、と進言すればうるさいと一蹴され。
そっとマリアンネ様を諫めれば、話す前から泣かれ、どこからともなく現れるお供の方々に難癖をつけられ。
そんな生活を続けるうちに、今では学園で腫れ物扱い。私に近づくのは、ほんの一握りの親しい友人だけ。
社交界に出れば嫌味を囁かれ、家に帰れば家族に睨まれ。
厭にもなるというものでしょう。
王太子の婚約者、だなんて、荷が重すぎたのですわ……。
どこに行ってもついて回る御大層な肩書きに、私はもう辟易していたのです。
「どうした、ファンデルヘイデン公爵令嬢。答を聞かせてくれ」
陛下の催促。
ここで、これは殿下の為とかなんとかと言えば、懐のお広い陛下は温情を掛けてくださるでしょう。
でも、もう……。
私はぐずぐずに崩れて、バラバラに壊れそうな心をなんとか繋ぎ止め。
必死に、誇り高い公爵令嬢のハリボテを倒さないように、毅然と。
たった一言だけを、胸の奥から絞り出しました。
「いいえ。反論はありません」
私がそう述べた瞬間、マリアンネ嬢が目を見開いたことだけが、少しだけ意外でした。
私がすべての罪を認めたことで、会議はあれよあれよという間に進んでいきました。
王太子がどさくさにまぎれて婚約者をマリアンネ嬢に乗り換える旨の発言をしたり、生徒会役員が引き継ぎがあーでもないこーでもないと言い争ったりしていても、私は上の空です。なんにも聞いちゃいません。
だって、「罪人」に発言権はありませんもの。
そしてついに、肝心の私の処遇について話が移りました。
これまでも、王太子様や他の生徒会役員からは、制裁として僻地に閉じ込めるべきだとか、学園を辞めさせるべきだ、なんて意見が出ていました。 その程度では、正直なところなんともありません。
……ですが、国王陛下から言い渡された内容は、よっぽど衝撃的で、現実に逃避を重ねてお空のかなたにすっ飛んでいた私の魂を一瞬で会議室に引き戻すくらいには強烈だったのです。
「……それでは、第一王子とファンデルヘイデン公爵令嬢との婚約は解消とし、新たな婚約者はマリアンネ嬢とする。……」
……王子がほくそ笑んだ。自分の要求が通ったことがよほど嬉しいのでしょう。
今にも小躍りしそうな表情をしていますわね。
他の役員たちは王太子を鋭い目で睨んで、抗議の視線を送っています。
当のマリアンネ嬢といえば、フレデリック殿下との婚約が決まって嬉しい顔をしている……わけでもなく、まだ青い顔をして私の方にチラチラと視線を送ってきます。……ああ。そうか。
きっと、この後私からどんな報復を受けるのかが気になってしょうがないのでしょう。
私はもう王太子の婚約者ではないのだから、そんなことをする必要もないのにね。
「しかし」
ん?
……しかし?
国王陛下のお言葉には、まだ続きがあったらしいです。
生徒会役員の間で交錯していた視線が、一斉に陛下の方へと向きました。もちろん、私の視線も。
「しかし、ファンデルヘイデン公爵令嬢においては、今まで王太子妃になるための教育を施され、学園において類まれな功績を残していることは評価に値することもまた事実」
え……。
陛下のお言葉の先が読めません。
なんだか、雲行きが怪しくなってきたような……。
陛下は奥歯にものが挟まったような感じで、言いづらそうにもごもごと口を動かしています。
周りの役員たちも、どこか落ち着かない様子で陛下の言葉を待っています。
余程言いづらいことなのでしょう。陛下はそのまま、口を閉じてしまわれました。
会議室に、柱時計の刻む音だけが響きます。
やがて、陛下は無言の催促にあてられたのか、長い時間をかけてゆるゆると口を開きました。
そして、発した言葉は――。
「……よって、ファンデルヘイデン公爵令嬢には、その才能を存分に活かしてもらうために、我が王国の宰相たるアンブロース・コープマン公爵と婚約してほしい」
……えぇぇええ?!




