どんな夢なら醒めないか
「意図せぬ復讐」番外編第三弾はマリオンの婚約者ミシア視点です。
ミシアの朝は早い。
水汲みや薪割りは重労働である。朝食を作り、夫と舅を仕事に送り出した後、部屋を掃除し、家庭菜園の実りを収穫する。午前中だけでくたくたになるが、外で働く夫たちはミシア以上にくたくたになって帰ってくるから、力仕事を頼むのは気が引ける。
平民育ちのミシアにとっては、確かに忙しく疲れもするが、決して嫌な生活ではない。むしろ馴染む。慣れない生活、慣れない仕事に心も身体もすり減らしている夫たちが少しでも快適に暮らせるように、ミシアは家事に勤しむのであった。
引っ越してきたその日、目の前の古びた小さな家屋を見て、夫と舅は呆然としていた。
それはそうだろう。彼らは贅を尽くした王城で生まれ育った人たちである。
「こ、ここに住めと?」
「ちゃんと手は入れていますよ。夫婦の寝室にもう一部屋、台所と居間。十分でしょう」
「部屋数はたったそれだけか!?」
「ですから平民にはそれで十分でしょう。無駄に部屋が広くても多くても使いきれませんよ。掃除してくれる使用人はいませんし、身分の高い客が訪ねてくるわけでもありませんし?」
監視役だと言う男が突きつける現実に、夫たちはしおしおと項垂れた。
「公共工事の予算組みはしたことがなくても承認はしましたよね? この家だって勝手に建ったわけじゃありませんよ」
男はにっこりと笑って言った。
「土地代と修繕費。本来は一括徴収したいところですが、家賃として分割で徴収させていただきます。と言ってもまずは収入をどうするかでしょうけど。移動が制限されますから、働き口は斡旋させていただきます。全員働きますか?」
「ミシアを働かせるわけがないだろう」
「……まぁ、こちらは別に構いませんけども」
――そんな余裕ありますかね?
ミシアには、男が飲み込んだ台詞が聞こえた気がした。
こうして新しい生活が始まった。
母親と二人、平民として暮らしていたミシアはたとえ貧しかろうと、父なし子とからかわれようと、自由に、心のままに生きられるその暮らしに不満を感じなかった。
母親が亡くなり、父であるという子爵に引き取られたのはミシアが十三歳の時である。
シグルムでは一夫多妻が容認されていない。婚外子であるミシアの存在は当然ながら醜聞の的であった。
ミシアが庶子に生まれついたのはミシアの所為ではない。責めを負うべきと言うならそれは不貞を働いた父と、そして母が負うべきものであるはずだが、貴族社会の風当たりはミシアに対してもやはり強かった。
ミシアは人の上に立つ教育など受けておらず、感情に走るきらいがある。平民であれば天真爛漫、と評されたその特徴は、貴族としては褒められたものではなかった。
貴族社会は、ミシアにはとても息苦しくて窮屈であった。
「それは君の所為じゃない」
だから、そんな風にミシアを慰めてくれたマリオンに好意を抱かずにはいられなかった。
まるで「王子様」のように美しい彼との時間は夢のようであった。まさか本当の王子様だとは思いもせず。
いや、言い訳はできない。
王太子だと知って、婚約者がいることも分かっていながら、それでもミシアは離れられなかった。
マリオンはミシアの自由さが羨ましいと言った。
生まれた時から付いて回る王太子という身分に、自分が何をしても「王太子だから」と言われることに不満を持っていたマリオンだから、ミシアのことも「庶子だから、平民育ちだから」と差別したりはしなかった。
そんなマリオンのために、マリオンの隣に立つ努力をしようとミシアは思った。ミシアにとっては窮屈な世界で生きていく覚悟を決めたつもりであった。
「どうぞおしあわせに」
マリオンの婚約者であったリーシアから言われたその一言が、ミシアの心に波紋を呼んだ。
――しあわせに、なれるのだろうか。
自分のしあわせを求める前に、国と王族と民のことを考えなければならない、そんな立場に立たねばならなくなる時が来る。
ただ窮屈なだけではない。そんな世界で生きるミシアはもはやミシアではなくなってしまうのではないか。
マリオンの母である王妃からの教育が、更にミシアを不安にさせた。自分ではないものに作り替えられてしまうような感覚をどう言い表わせばよかったのだろう。
マリオンを愛していた。支えたいと思っていた。それでも、その隣に立つことに伴う責務はあまりにも重かった。
愛はすべてを克服すると言う。だが、愛だけではきっとすべてを克服することは難しい。
だからあの日――ミシアが王妃となる未来が永遠に断たれたシグルム降伏の日、ミシアはリーシアに感謝すらしたのである。いずれ王太子妃になろうとしていた身で思ってはいけないことであったかもしれないが、重責に耐えることができない自分をミシアは既に予感していたから。
シグルム以上に大きなファラングの王妃となったリーシアならば、たとえどれほど重い責務であっても立派に担っていくだろう。
だからこそミシアは言わずにはいられなかった。
「どうぞおしあわせに」
ずっと国と王族と民のことを考えてきただろう彼女に、重責を背負いながら自分のしあわせを求めることも諦めてほしくはなくて。
弱すぎた自分に叶えられなかった夢を、託したのである。
夕方仕事から帰ってきた夫と舅はやたらと落ち込んでいた。
近くの農場で働きだした頃は、肉体労働の疲れと先輩からの叱咤にいつも肩を落としていたが、まるでその時に戻ったようである。
夕食後すぐに自室へ引き上げてしまった舅の姿があまりにも哀れで、ミシアはマリオンに尋ねた。
「いったい何があったの?」
「……今の方がいい暮らしだと」
「え?」
「ファラングに下った今の方がいい暮らしだと、話しているのを聞いた」
かつてシグルム国であった土地はほとんどそのままシグルム領としてファラングの一部となった。ファラングの制度がゆるやかに浸透していく様は、片田舎であっても分かる変化である。特に税率の変動は余裕のない家庭ほど影響が如実に表われる。これまで各所領を管理する貴族たちが思い思いに課していた税率の見直しが行なわれ、多くの地域で引き下げられたと言う。収入が変わらない状態で固定支出が減少すれば、当然暮らしに余裕ができる。暮らしのゆとりは心のゆとりにもつながる。また、ファラングの一部となったことで豊かな地方との交易が盛んになり、市場も活性化していた。
民はファラングに下ったことを歓迎していた。それを目の当たりにして、元シグルム王族である夫と舅は意気消沈してしまったそうである。
「俺は、税率のほんのわずかな変動で、民がこんなに一喜一憂すると思っていなかった」
マリオンは頭が悪いわけではない。ただ、想像力が貧困である。
シグルムの税収がどれほどであったか、数字を見たことはある。だが、民が汗水流して働いた収入の一部が積み上がってその莫大な金額になっているということを、彼はよく理解していなかった。自分で収入を得るようになってようやく、税収が勝手に湧き出てくるようなものでないことを実感したのである。
王太子であった頃、高価な贈り物をしてもミシアがあまり喜ばないことをマリオンは不思議に思っていた。今の生活になって、やって来る行商人から安物の髪飾りを買ってあげた時の方がよほど喜んでいた。確かに、自分がどんな金を使っているのかも知らないで贈られるより、たとえ少額でも自分で稼いだ金から奮発して贈られた方が、一層価値あるものに思えるだろう。時にものの価値はその値段で計ることができないのである。
「知ることができてよかったわね」
「……そうだな」
落ち込んでいる暇などない。
明日もまた、ミシアは朝早く起きて水を汲み、夫と舅は農場で汗して働く。
そうして日々は続いていくのである。
「なーんか平和そうでちょっとむかつくね?」
「ミシア嬢が逞しいですから」
「監視だってタダじゃないんだよ」
「人件費も一緒に徴収しますか」
「それもいいね。ま、リーシアの邪魔しないならどうでもいいけど」
そんな会話が遠くファラング王城で交わされていることなど、彼らは知る由もない。
最初に書き上げたものはミシアがやたらと男前に「むしろ重荷を叩き壊してくれたリーシア様ありがとう。大丈夫、夫と舅ぐらい面倒見てみせます」とか言ってそのうち過労死しそうだったので書き直しました。
元王と元王太子には失ったものの大きさを噛み締めながら労働に勤しんでもらいたい。