第一幕 始まりの物語 第一章 縁(えにし)の始まり……
------ 第一幕、第一章 ------ 縁の始まり…… ------
「……ずいぶん、遠くまで来た……。……そんな気がする」
「はい。マイン・マイスター……」
二人の足跡が、どこまでも続く真っ白な砂浜に伸びて行く。
少女が、光る金糸を嫋やかに揺らしながら、青年に声を掛けた。
「……随分、遠くを見ている目ですね。……何を考えていらしたのですか?」
青年の目元が、優しく緩む。
「……昔のことを……。 “ マリー ” と初めて会った日からのことを考えていた。
八歳の終わりの、春のことだった……」
「はい。……あれから色々ありました。結構、忙しい年月でしたね……。
……季節は休み無く廻り続けます。……もうすぐ、あれから十二回目の夏なのですね……」
「ああ……。僕の二十一年余の歩みには、 “ 赤点 ” ギリギリの内容も多かったけれど……。
今日、ようやく “ 結婚の儀 ” を迎えることが出来たのは、皆の御陰だ……。
マリー。これまでの君達の忠節に心から感謝する。そして、これからも変わらぬ交わりを願う……」
少女は、右手を左胸に当てると、恭しく頭を垂れた。
「何を言われるかと思えば……。私共、全 “ 精霊 ” の忠節は不変です。
こちらこそ、幾久しく御傍で仕えさせて頂くことを乞い願うものです。どうか、何時までも御姿の傍らに……」
青年は、微笑んで、静かに肯いた。
……遠くで女性が呼ぶ声が聞こえる。
「“ 亮くん ” ……。……もう準備しないと、遅くなるよ……」
「ああ。今、行く……。
マリー。行こう」
「ダー。マイン・マイスター」
彼は、遠くで手を振る女性の元へと真っ直ぐに歩きながら、再び自らの歴史に思いを馳せていた。八歳の、あの日に……。
…… “ 亮圭 ” は、家の玄関扉の前まで、ようやく歩いて来た。
[顔が熱い……。体中が痛い……痛ぁ!]
真っ赤に腫れた顔の傷を触って、思わず手を引っ込める。もう少しで声が出るところだった。
……何故ならば、体中アザだらけ。顔は、一回りも大きくなっている。特に左目斜め上と右の頬の傷は、尋常じゃない!
ドアを開けるのは、躊躇われる……。でも、立って居るのもやっとだ。ここに、こうして居る訳にもいかない。
意を決っして扉を開けと……。早速、姉の “ 幸来 ” に気付かれた。
「何やってんの “ 亮 ” ! その傷!」
「何でも無いよ!」
「お母さん! 直ぐに来て! 亮圭が大変!」
何事かと出て来た母親の “ 京花 ” は、息子の顔を見て青褪めた。
「どうしたの “ 亮ちゃん ” ! その傷は!」
「何でも無い。心配しなくて平気」
「平気じゃ無いでしょ、その傷は! 直ぐに御医者さんに行くわよ! 幸来、留守番して居て頂戴」
「えー、予定が……。……仕方がない、分かったよ。
“ 亮 ” ! 貸にしないから、ちゃんと見てもらって来な!」
[……嘘だぁ。 “ 幸来姉 ” が、従順な態度をしている……。何時もなら、キツイ突っ込みを入れてくるのに……]
弟は、言葉にならない不安を覚えた。
[……そんなに気を使ってもらう程、凄い傷なのかなぁ??]
そんな言葉の形をした思考も、母親の大声に掻き消される。
「行くわよ! 亮圭!」
母親は、大急ぎで団地の二階にある自宅から下に降りると、息子を無理やり自転車の後ろの “ 子乗せ ” に押し込んだ。
「歩けるよ!」
母親は、息子の抗議に、数倍の威力で言い返す。
「大丈夫な訳、無いでしょ!! 階段だって、フラフラ下りて来て!!」
亮圭は、もう直ぐ小学三年生に進級する児童の中では、大柄な方だ。自転車は、ズッシリと重たくなっている。しかし母親は、驚く程の力で自転車を押し始めた。
ここに来て、ようやく亮圭自身も事態の深刻さを悟り始める……。
……小塚小児科に到着して早々、待合室は大騒ぎになった。
「うわ!! 亮圭君、どうしたの?! その傷……」
顔馴染みの看護師が、思いっきり引いている。彼女は、我に戻ると診察室へ駆け込んだ。
「小塚先生! 急患です!!」
二人は、最優先で診察室に通された。患者を見上げた小塚先生も、一瞬だが仰け反った。
「おい! どうした亮圭君?!」
「……転びました」
「転んだ位で……。いいや! 事故でも、こういう怪我はしない!
堅い棒か何か……。 “ 細い鉄パイプ ” みたいな物で、頭を何度も叩かれたんだろう?!」
「……はい……」
小塚先生は、患者を少し診ただけで、傍らの看護師へ指示を出した。
「直ぐに救急車を呼んで! 『頭部外傷で転院だ』と……。
それから、田無警察署にも連絡して!」
「はい!」
彼女が、慌てて診察室を出て行く。初老の医師は、電話の短縮ダイアルを押した。相手は、3コールで出た。
『“ 多摩北部地域総合医療センター、救急科 ” です』
「“ 多摩北医療センター ” ですね? 御世話になっています、東久留米の小塚小児科です! “ 脳神経外科 ” か “ 小児外科 ” の当直の先生を御願いします!」
『小児の頭の怪我ですか?』
はい! 頭部外傷です……。……細い鉄パイプのようなもので、暴行されたと考えられます……」
……二人の不安は、電話の遣り取りを聞きながら、更に大きな物になっていった。
「……では、よろしく御願いします!」
小塚先生は、電話を “ ガチャリ ” と音を立てて置くと、二人の方に向き直った。恐ろしく真剣な目をしている。
「救急車を呼びました! 命に係わる怪我ですから、直ぐに多摩北医療センターへ行ってもらいます。
“ 沢さん ” 、救急車の方はどうなっているの?」
隣の部屋から、看護師の大きな声が聞えた。
「直ぐに来るそうです! 後、二分位だと思います!」
遠くから、サイレンの音が聞えて来た……。
……多摩北医療センターへ到着してからの喧騒は、凄まじかった! 亮圭の頭越しに、事態がドンドンと音を立てるように動いていく。
中でも一番驚いたのは、制服の警察官から話を聞かれたことだった。亮圭は、落ち着いて答えた。
「……では、『“ 池田 ” 君と “ 松野 ” 君が、鉄パイプで君を殴り続けた』んだね。」
「……はい……。」
「……あとねぇ……。……君が庇おうとした子の名前、どうしても教えて貰えないかなぁ?」
「それは……」
警官は、口の重くなった少年に苛立ったようだ。
そこへ、横から男性の声が割って入った。
「そろそろ、止めて頂けますか?!」
交番勤務の “ お巡りさん ” は、声の方を向いて怯んだ! 十数人の視線が、こちらを睨み付けている! 一瞬の間の後、胸に “ 脳神経外科長 ” の名札を付けた初老の医師が口を開いた。
「……これ以上は無理です! 日を改めて下さい!
“ CT ” が空きましたので、これから検査をして緊急手術です!」
治療に関する医師の言葉には、警察も口を挟むことが出来ない。
「済みません! じゃあ亮圭君、この続きは後で、また……」
一団は、半分腰の引けた警官を置き去りにして、CT室へと入っていく。
怪我人は、ストレッチャーから細いベッドに移されて、全身をベルトと頭の器具で固定された。
[大きな機械だな……]
患者が感心している間に……。あんなに居た人が全員、急いで部屋から出て行く。
技師が、操作室から話し掛けて来た。
「じゃあ亮圭君。検査を始めるから、動かないで、ジッとして居てね」
体が、大きな白いドーナツの中に入って止まると、機械が “ ブーン ” と音を立てる。ドーナツの中で、何かが回っているのが分かった。
不意に、技師の声が聞こえた。
「はい、終わりです。亮圭君、御疲れ様ぁ」
アッと言う間に検査が終わった。
直ぐに、若い医者と看護師と技師が何人も入って来て、亮圭の体を再びストレッチャーに移す。本当に手際が良くて、動きに無駄が無い。
若い医者が、患者に話し掛けて来た。
「亮圭君。 “ 脳外 ” と “ 児外 ” の科長先生が、『念の為、 “ MRI ” も撮ってくれ』と言っているから……。もう一回、別の部屋に行くよ。良いね。」
[そんなに検査しなきゃならないなんて……。やっぱり、重い怪我なんだ……。
……僕、死ぬのかな……]
八歳の少年は、そう思った。でも、恐怖心が湧いて来なくて、冷静だった。それは、とても不思議な感覚だった。
一団が、CT室から出る。表には、担任の “ 坂口 ” 先生と “ 江上 ” 副校長先生が一緒に来て居た。
「亮圭君、大丈夫?……」
「うん。副校長先生も来てくれたんだ……」
江上副校長は、何時もの調子で答えた。
「心配しなくても、この程度の怪我、大丈夫、大丈夫。チャチャっと直して来なさい」
坂口先生も自分が担当する児童に呼び掛けたいみたいだが、若い女性にはショックが強すぎるのか、次の言葉が出てこない。
「坂口先生……。あんたが、そんなことで如何するのよ。亮圭君、心配しちゃうぞ」
「……はい……」
「坂口先生。僕は、大丈夫だよ」
女傑の誉れ高い副校長は、児童の言葉に苦笑いをする。
一団が、MRI室の入口に到着した。
亮圭は、改めて二人の先生に挨拶をする。
「行って来ます」
「うん、行って来な!」
江上副校長に続いて、坂口先生が、やっと言葉を搾り出す。
「……行ってらっしゃい」
ストレッチャーを中心とした一群が、鋼鉄の扉の向こう側へと入っていく……。
そして亮圭は、検査の途中で意識が無くなり……。
……次に気が付いた時には、病室のベッドの上だった。
医師が、何事か両親に話をしている。壁の時計は、午後九時近くを指していた。
看護師が、患者の変化に気が付いた。
「あっ、亮圭君、気が付いた? 良かった……。
先生! 亮圭君、意識が回復しましたよ!」
その声に、皆が一斉に寄って来る。
「亮圭! 御前は、真っ直ぐだから……。……どうしょもないな……」
父親は、そう言って、目に涙を溜めて苦笑いする。母親は、ベッド脇で泣き崩れた。
徐に、最年長の医師が口を開く。
「御父さん、御母さん。彼の意識が戻りましたので、第一関門は突破です。もう、この怪我で死ぬ可能性は、当初の半分までに成りました。一安心です……。
それでは……。亮圭君、簡単に今の状況を簡単に説明するよ……」
亮圭は、薬のためか怪我のためか、頭が良く回らない。そんな中で、理解出来たのは、『退院までに、二週間はかかる。手術は成功したが、脳にダメージが有り、障害が残る可能性が大きい』こと位であった。
「……では亮圭君、ゆっくり休んでくれ。
御両親は、済みませんが、こちらに来て頂けますか」
医師達と看護師達と両親は、一緒に病室を出て行った……。
部屋には看護師が一名残って、最後の片付けをしている。
亮圭が横を見ると、戸棚の中に備え付けの鏡があった。
「もし、もし……。おねえさん……」
「何?」
看護師が、こちらを向いた。少年は、御願いをしてみた。
「鏡、こっちに向けてくれる?」
「ええ」
……鏡に写った自分の顔は、包帯だらけで、まるでミイラだ。
「これが僕……」
「そうよ。でも、大丈夫よ。治るわ。心配しなくても平気よ」
「うん……」
亮圭の心からは、言いようの無い、一抹の不安感が離れない。
「あのね……」
「何?」
「後遺……。ううん、何でも無い……」
看護師にも、亮圭が後遺障害を不安に想う心は、察して有り余る。彼女は、話題を変えようとして、勤めて明るく言った。
「そうだ、何か欲しい物はある?」
亮圭は、少し考えて言った。
「じゃあ、 “ JR時刻表 ” と “ 東京時刻表 ” ……」
「時刻表?!」
「うん。お父さんと良く、時刻表旅行をするんだ。本当の旅行には、余り行けないから……」
「どこへ行くの?」
「北海道とか……。僕の御祖母ちゃんの実家が在るんだって……」
「へー……。亮圭君の御祖母ちゃんの実家って、北海道にあるんだ……」
「うん。お父さんの、お母さんの方の……」
「じゃあ、北海道へ行ったことが……」
「ううん、無いんだ。お金も時間も掛かるんだ……」
「どうやって行くの?」
「飛行機と鉄道とバス。
えーっと……。 “ メマンベツ “ が一番近い空港だけど、 “ チトセ ” から鉄道でも行けるよ」
小さな患者が一生懸命答える様子は、少し痛々しい。それに、発音もぎこちない。
[間違い無く、体に負担となっているわね……]
看護師は、会話を打ち切ることにした。
「分かったわ。明日、お父さんに言って、持って来てもらうからね。でも……」
看護師の悪戯っぽい目に、亮圭の心が竦む。
「今は静かに眠って頂戴。先生の言ったとおり、絶対安静なんだからね」
「はぁい……」
彼女は、医療機器と薬の詰まったワゴンを押しながら、扉横の灯りのスイッチに手を伸ばした。
「明日の朝、また来るわね。出来るだけ何も考えないで、ゆっくり休むのよ。どうしても眠れなかったら、ナースコールを押してね。
それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
看護師が出て行くと、部屋の中は薄暗くなった。誰も居なくなった病室は、とても静かだ。
亮圭は、何の気無しに壁の時計の日付を見て、変なことに気が付いた。
「三月二十日?今日は十八日だったんじゃ……。何で終業式の日なの……」
そう呟いた次の瞬間、現実が頭の中に現れる。
[僕は、丸一日以上、寝ていたんだ……]
その事実が、少年をげんなりとさせた。やがて、そこから思考が繋がり始める。
[そうだ、先生は『手術は成功した』とか言っていたな……。きっと、大きな手術だったんだ……]
気が付けば、壁の時計の針は、午後九時四十分を指している。
寝心地の良いベッドの上で、まどろみながらテーブルの花を見ていると、今の現実が圧し掛かってくる。
[後、一ヶ月で三年生なのに、病院に入院か……。
……御母さん、泣いていた……。
……医者の先生は、退院まで二週間とか言っていた……。
……坂口先生は、大丈夫かなぁ……]
亮圭の思考は、取り留めもなく、続いていく。
[でも、これで全部、先生達に言わなきゃならない。ごめんな “ 雄ちゃん ” ……]
涙が、顔に巻かれた包帯を濡らす……。
……何時しか、少年は眠っていた……。
……亮圭は、 “ 鈴木 雄二 ” を後に庇いながら、二人の苛めっ子と対峙していた。
相手は二人で、こちらも二人。数の上では対等だ。
だが雄二は、体が大きくて威圧感があるのに、竦み上がって何もすることが出来ない。結果的に、一人で二人を相手にしなければならない!
それでも、二人を相手に素早さで善戦して持久戦になり、相手は時間を気に始はじめる。
[このままなら、時間切れで相手が引く]
そう考えた亮圭に、一瞬の隙が生まれた。
次の瞬間……。痺れを切らした相手の一人が、近くにあった “ 細くて短い鉄パイプ ” で、思いっきり殴り付けて来た。
亮圭は、反応が一瞬遅れ……。その一撃を頭に受けて意識が飛ぶ!
……気が付くと、二人から鉄パイプで全身を滅多打ちにされていた。
「ギャァァー!!」
絶叫の悲鳴に、大人達が気付いて駆け付けて来る。
「……やべえ、逃げろ!
またボコボコにしてやる! 楽しみにしてろよ!」
二人は、捨て台詞を残して、慌てて逃げて行く。
そして雄二も、左側の二の腕を押さえながら、逃げて行った。
「ごめん “ 亮ちゃん ” 。でも、お父ちゃんには言わないでなぁ! お願いだぁ!」
亮圭は、親友の去り際の言葉に、右手を上げて答えた。
雄二の父親は、何かに付けて、雄二を『臆病者!!』と罵り殴っているようだ。
[このことで、更に父親から殴られたら “ 雄ちゃん ” が持たない]
そう悟っていた “ 臆病者の友人 ” は、駆け付けた大人達の介抱を断って、家に帰ったのだった……。
……いきなり、目の前に自宅の扉が現れた。中へ入ると両親が居て、苦い緑茶を出して来た。
[また、あの話かな?]
この緑茶が出ると、亮圭にとって内容の重い話になることが多い。
(この場合なら……。霊感に関する話……)
心の中で言葉にしなくても、漠然と答えが出て来る。そして、それは良く当たった……。
亮圭は、赤ん坊の頃から、 “ 自縛霊 ” も、 “ 守護霊 ” も、 “ 悪魔 ” も、 “ 天使 ” も、認識出来た。
しかし両親は、こと有るごとに息子に諭した。特に母親は、神経質な程だった。
母親が、予想通りの話を始める。
「……彼等は、感情や考え方などの相対基準さえ合わせなければ、何も出来ないの。だから注意していれば、体を乗っ取られたり、悪の道に嵌ることは滅多に無いと思うわ……。
……要は、悪いものに憑かれなければ問題無いのよ……。
……でも小さな頃は、良いものと悪いものの区別が出来ないだろうから……。
……取り敢えず、亮ちゃんに憑こうとする、全ての霊を拒否しなさい。
……それからね……。……恐らく教会の人達でも、あなたの話には付いて来られないわ。だから……。この話は、人に話さないで頂戴……」
「分かっているよ。今までも之からも、霊の話は取り合わないから大丈夫。
僕、言い付けは、全部守って来たでしょ?」
母親は、満面の笑みを浮かべた。
不意に、亮圭の目の前が暗くなって……。
……夢から覚めた時、時計の針は翌日の午前零時を指していた。
[寝ちゃってたんだ……。……ん!]
何者かの気配がする!
「誰!?」
亮圭の問いに、男の声が答えた。
「初めて御目に掛かります。 “ ガブリエル ” と申します」
ベッドの横に進み出て来た男は、二十歳代に見えた。結構な美形だが、着ている物のデザインは古めかしい。
「……何の用、ですか」
年少者の問いに、男は微笑みながら答えた。
「昼間の闘いを見ました……。
守る価値も無い者を、あそこまで守ろうとするとは……。流石は河村様の息子様です! 感服しました」
「お父さんを知っているの?」
「ええ、もちろん! 他の元教会員達には誤解されていますが、天に多大の貢献をされました。
……実は……」
男は、済まなそうな顔をして、言った。
「今日、訪問させて頂いたのは、他でも在りません。
勇者の息子である亮圭様に、折り入っての御願いが有って、参上しました」
少年は、無理に体を起こそうとしながら、言った。
「これは召命なの?
…… “ 天使長ガブリエル ” 。このベッドを起こして下さい」
男は、この返答に、少し吃驚した様子を見せた。
「良く、私が天使と……。それも、長を務めている “ 身 ” と判りましたね……」
ミイラのような少年は、悪戯っぽく、笑いながら答える。
「フフフ……。
……だって、暗いのにハッキリ見えていて、それなのに透けているもん。
小父さん……。じゃなかった! 貴方の霊的波動は天使だし……。物凄く強い霊気と霊位を感じるから、特別な天使だと思った」
相手も、悪戯っぽく答える。
「……私は、 “ 悪魔の長、ルーシェル ” かもしれませんよ……」
少年が即答する。
「うん。悪魔と天使は、同根だよ。
けど僕は、その違いが分からない程、シロウトじゃないよ。何度、 “ 悪魔の陣営 ” に騙されそうになったか……」
ガブリエルは、亮圭の度量に感服した。
「……私の気配を、そこまで察知して分析出来るとは……。貴方様の霊性は素晴らしい! 見極めも御見事です。
その通り! 私は、 “ 意の天使長 ” を拝命しておるものです」
不意に天使長は、ベッドに横たわる少年の何かに気が付いた様子で、ある場所を指差した。
「あ、それとですね……。
申し訳ありませんが、今の私では物質を直接扱うことが出来ません。
右手をベッドの横に出して、私の指の先辺りを探ってみて下さい。コントローラーがあります」
確かに、そこにはベッドのコントローラーが在った。
亮圭は、ベッドを起こすと、ガブリエルを真っ直ぐ見詰める。
「僕は、何をすれば良いんですか?」
意の天使長は、一礼すると、話し始めた。
「……亮圭様にして頂きたいのは、 “ 精霊 ” の平定です」
「精霊?」
「はい。
私共、天使は “ 男性相 ” です。そして、精霊は “ 女性相 ” です。このことは、教会学校で習いましたよね」
「うん」
「……本来ならば、精霊達は私共の相対として創造されています。……まぁ、平たく言えば、結婚相手です……。
しかし、子羊の婚姻の前に、天使の三分の一が離反してサタンとなりました。
その為に、子羊の婚姻の後に予定されていた私共の婚姻が行なわれることは無く……。天使と精霊達が在るべき姿を失ってしまっているのは、御承知の通りです。
そんな中で彼等は……。おっと、彼女等と言った方がしっくりしますが……。その絶望を越えるべく、彼女等なりの努力を行ないました。そして……」
カブリエルの顔と霊的波動には、深い憂いが刻まれている。亮圭は、思わず唾を飲み込んだ。
短い沈黙の後、意の天使長が切実な声で言葉を紡ぐ。
「有ろう事か! 彼女等は、この “ 地上界 ” に “ 直接干渉 ” しようとしています!
そこで、貴方様に彼女等の “ 仮の主 ” となって頂いて、 “ 来る良き日 ” まで管理して頂きたいのです」
少年が、不安そうな声で聞き返した。
「……管理って?」
“ 彼の身 ” は、少年の言葉を受けて話し続ける。
「……彼女等が暴走しないように、命令して欲しいのです。『天法に従え。 “ 霊界 ” のものが、自己判断で地上界に直接干渉するな!』と……。」
「……僕に、出来るの?」
亮圭の問いに、ガブリエルが声に力を込めて言う。
「貴方様ならば、必ず出来ます!
……なに、御心配には及びません。私は、その為の方法も用意して、ここを尋ねさせて頂いておるのですから。
では、これを……」
気付いた時には、意の天使長の手に細い真っ直ぐな “ 短剣 ” が握られていた。刃渡りは30cm位で、特に飾りも無い。
「持って見て下さい」
亮圭が柄を握ってみると、手応えは無いが、それが手に有ることは分かる。そして、それは手を開いても下に落ちなかった。
「……これは、物じゃ無いの?」
意の天使長が、肯きながら答える。
「はい、その通りです。実体の無い、霊的な物です。
今のところ、恐らく貴方様にしか扱えません」
ガブリエルは、次に鞘を取り出した。それは、横から刃を挟み込む形式になっていた。
「では、この鞘に短剣を収めて下さい。それで霊的な者にも、短剣の存在は感知出来なくなります」
鞘を取り付けると、それは亮圭の手の中で消えた。
「消えちゃったよ。短剣が在った感じも、無くなった」
「では、手に短剣を持っている心算で、短剣を前に突き出して下さい。次に、鞘が外れるのをイメージしてみて下さい」
言われた通りにしてみると、手の先に突き出した短剣が現れ、鞘は外れて下に落ちた。
「一回で出来るなんて、とても上手です。
……それでは……」
意の天使長は、再び剣を鞘に収めて消す。次に少年へと向き直って言った。
「亮圭様、この召命を受けますか? 受けませんか?」
少年の意思は、もう決まっていた。
「僕で良ければ、受けます」
ガブリエルは、とても嬉しそうな顔をした。
「有難う御座います。では作戦の説明を……。……ん? 何かあったのか?」
天使が長の耳元で囁く。その途端、意の天使長の表情が曇った。
「精霊達の行動が早まっています。幾分、時間も少なくなってきました。
申し訳有りませんが、手短に説明させて頂きます」
亮圭の前に、霊的な画像が表示される。それを元に、ガブリエルは説明を始めた。
「精霊達は、ここから車で十五分位の場所にある “ さいかち窪 ” と言う場所に集います。
亮圭様には、彼女等より先に、そこで待機して頂きます。
この黒い外套を頭から被れば、彼女等に見付からなくて済みます。」
ミイラの少年は、差し出された黒い外套を見て、目で同意の意思を伝えた。
「所定の位置に付いて頂くと、精霊の長と真直に相、対します。
タイミングを逃さず、亮圭様に御渡しした短剣を、精霊長の顔の額に突き立てて下さい。
そして、以下の命令をするのです。
『受諾せよ!創造主である神の許しにより、我、河村亮圭が命ずる。神の法に従う烈氏である我の命令に従え。我に常に正しい情報を与え、判断と行動を助けよ。そして、我を永久に悪から庇護せよ』
……以上です。何か御質問は?」
亮圭は、間髪入れずに質問した。
「“ さいかち窪 ” までは、どうやって行くの?」
「……下にタクシーを用意してあります。但し、運転手には話し掛けないで下さい。彼は、貴方様が乗っていることを認識しないまま、 “ さいかち窪 ” の入り口まで運転します」
「剣を突き立てるのに、失敗したら?」
「……その場合は、精霊達が逃げて、作戦は御仕舞いです。
チャンスは一度だけ、一瞬のことと思って下さい」
「作戦が終わった後は、どうすれば良いの?」
「……彼女等を使役して、戻って来られれば良いと思います。
多分、行きよりも楽に戻って来ることが出来るでしょう。
私は、直ぐに報告に戻らなければならないので、現地で失礼することになります。
……あっ、失敗した時は、私共が対処致しますので、御心配無く……」
……亮圭の傍らでは、母親が付き添い用ベッドの上で寝息を立てていた。
「御母さんや看護師さん達に気付かれないように、ここを出れるのかなぁ……」
「……それに付いては、対策をしています。御母様は、朝までぐっすりです。
では、準備しましょう。機械と点滴は、私の指示に従って外して下さい。
それと、病棟衣の裾が邪魔になると思いますから、腰のところまで捲り上げて縛って下さい。パンツは外套に隠れて見えませんから、大丈夫ですよ」
「うん、分かった」
亮圭は、言われた通りに全てを外すと、裾を腰で縛った病棟着の上から外套を被った。
そうこうしている間にも、意の天使長の耳元で天使達が囁く。
「亮圭様。今の報告に依れば、一刻の猶予もありません。
大窓の扉から屋上庭園に出て、非常階段から下に降ります。付いて来て下さい」
「はい」
施錠されていなかった大窓の引き扉から屋上庭園へと出て、そこを突っ切って非常階段に出ると、下に降りて出口の扉を出る。そこには、予定通りにタクシーが停まっていた。
「ドアは、手で開けて下さい。
ただし、扉は余り音を立てないように、閉めて下さい」
「うん」
タクシーは、扉が閉まると直ぐに出発した。
八歳十か月の少年は、体の鈍い痛みに耐えながら、じっとしている。
「亮圭様……。貴方様の忍耐は、天が覚えております……。今しばらくの御辛抱を……」
「大丈夫……。ガブリエル、心配しないで……」
ミイラ少年は、出来るだけ明るい声で答えた。
やがて、タクシーは三車線の道路に出て、しばらく走り続ける。
「……次の信号を赤で止まったら、タクシーを降りて下さい」
「うん」
少年とガブリエルは、信号待ちをする僅かな時間で車を降りた。そのままタクシーは、走り去って行く……。
亮圭達は、横断歩道を渡って、入り口らしい門から暗い敷地の中へと入った。
「場所によっては、真っ暗になります。でも、私の後姿が見えるはずです。
付いて来て下さい」
周りが何も見えない中では、ガブリエルの背中と、彼に照らされた足元の地面が見えるのだけが頼りだ。
そして二、三分も進んだろうか……。
「ここからは、水の中に入ります。水深は、深くても貴方様の膝下位です。安心して下さい。
……では、行きますよ!」
亮圭は、暗い道の中で少し心細くなっていたが、勇気を奮い起こして考えた。
[でも、後には戻れない!
お父さんが、前に言っていた……。『大切なところで戦い切れなかったら、全部無くなる』と……。
僕は、お父さんの子だ。だから、僕も逃げないで戦う!]
少年も、覚悟を決めて水の中へと入って行く。
しばらく進むと、ガブリエルが歩くのを止めて、こちらを振り返った。
「ここです。
位置を微調整します。右に半歩、後ろに少しだけ動いて……。そこで結構です。」
東京でも、三月終り頃の水は冷たい。亮圭は、震えながら呟いた。
「……寒い……」
ガブリエルは、済まなそうに言った。
「辛い思いをするだけの、価値の有ることをしているのです。
後、五分位で始まりますから、頑張って!」
ガブリエルは、亮圭を励ましながら、外套の乱れを直していく。少年の身なりが整うと、 “ 彼の身 ” は最後の指示を出した。
「フードの中から外を覗くようなつもりで、目の穴以外は全て閉じて下さい。そうしないと彼女等に悟られます。
私は見付からないように、敷地外に退避しなければなりません。
時間的には十分も掛からないはずです。
貴方様に摂理が懸かっています。御願いします!」
ガブリエルが、何かを撒きながら、その場を離れて行く。亮圭の周りには、実体的にも霊的にも、真の静寂が訪れた。
少年の胸を寂しさが貫き、涙が無意識にポロポロと流れ落ち始める。
[負けるもんか……]
無理やり前を見た亮圭は、凄い物を見た。
[綺麗!]
そこには、木々の間から見える満天の星空があった。少年は、しばらく水の冷たさから気を逸らすことが出来た。
やがて……。
[星が動いた?]
そう思った亮圭の周りに、幾つもの眩しい光る星が飛んで来て、ぐるぐると回り始める。
光りは霊的なものであるらしく、木々の暗さが光を通しても見て取れた。ところが、数を増し続ける星達は、周りの風景を塗り潰し始める……。
……やがて亮圭は、混沌とした極彩色の光の中に埋もれてしまった。
次いで一際大きい空色、菫色、黄色、藍色、鳶色、鶯色、紅色、翠色、蒼色、等の星達が集まり、亮圭を中心に踊り始める。やがて、一際大きい白色と黒色の星も加わり、辺りは喧騒の坩堝と化す。
そうした中に在っても外套の中は、とても静かだった。八歳の少年が冷静で居られるのは、隙間無く着込んでいる外套の御蔭だ。
不意に、目の前へ何かが立つのが見えた。
顔だけが、はっきりと認識出来る。それは、亮圭の前に近付いたり離れたりを繰り返しながら、腕を伸ばせば届くところに漂う。
『……』
何かの言葉を発しているのだろうが、聞き取れない……。
そして、相手が目の前で完全に静止して、一際大きな声を上げた。
[今だ!]
少年の体は、考えが言葉に成るよりも素早く反応した。全てが無駄無く動き、短剣の先が相手の額を深々と捉える!
それと同時に、自らを引き離そうとする凄まじい力が襲い……。外套が、一瞬にして跡形も無く吹き飛ぶ!
「受諾せよ!」
亮圭が、この言葉を発し終わった瞬間、掛かっていた力が一瞬にして消えた!
剣は、相手の額に辛うじて刺さっている。
[やった……]
そう思った次の瞬間……。亮圭の心に、相手の思念が流れ込んで来た。言葉には成っていないが、後悔や恨みや侮蔑等の心情に満ちている。周りを見れば、全ての光は地に落ちて蠢いていた。
亮圭は、自分も悲しくなって、頭が真っ白になる。でも一言一言、搾り出すように言葉を発した。
「創造主である神の許しにより、我、河村亮圭が命ずる。神の法に従う烈氏である我の命令に従え。我に常に正しい情報を与えよ。我の判断と行動を助けよ。そして……」
一拍の間の後、少年は静かに言葉を続ける。
「我と、我の決めた者と、我の子孫を、永久に悪と災いから庇護せよ!」
凄まじい思念の盆流の中で、不意に女性の声が聞えた。
「受諾、致します……」
……気が付くと、何もかもが消えて、辺りは元の静けさを取り戻していた。
「短剣が無くなっちゃった……」
不意に、女性の声が聞えた。
「使命を終えて、分解消滅したのです。無くて当然ですよ」
亮圭が吃驚して前を見ると、目の前に西洋系の面立ちをした、十五歳位と思われる女性が立っていた。
背丈は170cm位だろうか? 外国の女性ならば、不思議ではない。しかし、その髪は腰の下まで在る綺麗なストレートの金糸で、この世のものとは思えない。着ている物も、一般に女神が着ている服装のイメージに近かった。
「君は、ひょっとして精霊?」
相手は、悲しい顔で、コクリと肯いた
「はい。貴方が僕とした精霊の “ 長 ” です。御主人様」
「御主人様って……」
少年は、包帯の下の顔が、赤くなった。
「僕は “ 河村 亮圭 ” です。 “ カツヨシ ” と呼ん……。痛っ!!」
御主人様と言われた少年が、頭の激痛に顔を歪めて、その場に崩れ落ちそうになる。 長が大声を上げた。
「“ GVCE ” で御主人様を支えて! 空中に寝かせて、今の状態を確認!」
不意に、亮圭の周りから、重さが消えた。ゆっくりと体が浮き上がり、空中に寝かされた形となる。
そして、光りが少年の体の周りを漂い、次に長の元へと行き、また少年の元に戻ることを繰り返す。幾つかの星は、そのまま亮圭の頭の周りを廻り続けていた。
……星が長の元へ行く度に、彼女の顔が凍りつく!
精霊の長は、自らの主となった少年の傍らに来て言った。
「この辺に居るであろう天使達をボコボコにするのは、遺憾ながら後にします。
今は、御主人様の玉体が危機的……。いえ、危篤の状態です!
ひょっとして、この近くの病院に居たのですか?」
亮圭は、苦しい息をしながら答えた。
「多摩北、医療センターだけど……」
言い終わった途端、体が膜のような物に包まれて、空を飛び始める。
「先遣隊を編成! 病院の状況把握と再受け入れ準備、急いで!」
彼女の指示に、幾つもの星が光りの航跡を引きながら、先へ飛んで行く。
「……僕は死にそうなの?」
長は、主人の呟きに、泣きそうな顔で答えた。
「そうです! こんな無茶をして……。こんなことは、これっきりですよ!」
こうして……。亮圭は、精霊の長や数多くの光る星と共に、ゆっくりと空を飛んだ。
自らの頭の周りを、幾つもの光りが漂うように飛んでいる。それは、とても綺麗な様だった……。
……十五分位も、飛んだだろうか。
大きな白い星が、進行方向から飛んで来た。そして、人の形を成し、長の横に付く。
精霊の長は、報告を受けると表情が少し緩み、先程よりも穏やかな口調になった。
「脳内血管の出血は、こちらで食い止めに成功しました。現在の処置は、髄液の浄化に移行しています。
あと少しで、多摩北部地域総合医療センター上空に到達します。
まずは、病院のベッドに戻って頂き……。ゆっくり寝て下さい!
報告によれば、病院の方は、まだ御主人様が抜け出したことに気付いていません。私共による病院内の状況保全は、防犯カメラの画像も含めて、成功しています」
やがて一行は、病院の屋上庭園に着き、物陰の散水栓の前で空中に静止した。
[ん? 何だろ……]
亮圭は、長の顔を見て、嫌な予感に襲われた。彼女が、悪戯っぽい顔をしている。
「では、御主人様……。
そのままでは、足が汚れていてベッドへ入れませんので……。足を洗わせて頂きます」
容赦無く、足が洗われていく……。気が付けは、亮圭の下半身はパンツ一丁だ!
「うわ!」
少年が叫び終わるより早く、足に水が纏わり付き石鹸が泡立つ。
「恥ずかしいよ!」
「仕方ないですよ。諦めて下さい」
徹底的に、足が洗われ続ける。
亮圭は、頭の痛みが余り感じられなくなったことも有り、周りを見る余裕が出て来た。
足を見れば、石鹸が勝手に泡立ち、目に見えない力が足を擦り、水道の水が自在に空中を飛んで泡を落としていく。本当に不思議でならない。
精霊の主とされた少年は、タイミングを見て、それらを指差しながら長に質問した。
「何で、こんなことが出来るの?」
「“ GVCE ” を使用しています。 “ GVCE ” でも結構です」
「…… “ グヴス ” って、何?」
「“ Gravity Vector Control Equipment Group ” 。日本語なら “ 重力力積量制御機器群 ” です。
“ ゲージ粒子 ” だけではなく、 “ ヒッグス粒子 ” をも制御して、重力制御をします。
結構、細かいことが出来て、便利なんですよ……。
私の声も、これで空気を振動させて発しています」
「ふーん……」
“ 精霊の主となった少年 ” が、何となく感心している間に、足の洗浄が終わった。
「さぁ、洗い終わりました。足を拭いたら、ベッドに納まって頂きます」
病室の大窓の扉が、音も無く開けられる。
浮いたまま部屋に入ると、母親は自身のベッドで静かに寝ていた。
亮圭がベッドに納まると、検査機器や点滴が勝手に元の場所へと戻っていく。
「御主人様、今は休息が一番です。これ以降は、体を休めて頂く為に、夢の中で現在までに判っていることを御説明します。
このまま眠って、体を休めて下さい。直ぐに眠れるように、点滴に “ 筋肉の強張りを取る薬 ” と “ 緊張を取る薬 ” を少し配合してあります」
「分かった。後は夢の中で……」
亮圭の意識は、速やかに落ちていった……。
……気が付くと、自分の上に屋根がある。亮圭は、起き上がり、周りを見渡した。
「……ここは?」
どうやら、天蓋付のベッドの上で横になっていたようだ。寝具はシンプルだが、病院の物よりも肌触りが良く、とても快適だ。
しかし、周辺には灰色の霧が広がっており、何も見えない。
不意に、精霊の長が霧の中から、後ろに二名ほどを従えて現れた。
一人は、腰まであるストレートの黒髪が七色に光る、東洋系の顔立ちの少女に見える。
もう一人は、胸までのウェーブが入った僅かに黄色みがかった銀糸が、歩く度にフワフワと軽やかに揺れる、北欧系の顔をした少女に見える。
そして、どちらも長よりも幾分幼い顔立ちであった。
「御気分は如何ですか? 御主人様」
「うん。今は気分が良いよ。でも……」
「でも、何ですか?」
「“ 御主人様 ” って言われると、恥ずかしい……」
長は呆れた顔をした。
「今、この状況で気になることが、それですか……。流石と言うか、何と言うか……。恐れ入りましたね……」
亮圭がベッドから出ようとすると、長が止めた。
「あっ、御主人様は、そのままベッドに居らして下さい。西洋では、ベッドで朝食を食べる習慣の有るところも、あるんですよ」
「僕は、そんなに偉くないよ」
少年は、ベッドから出て、三身の前に立つ。彼女達は、傅いて控えた。
「『人に名前を訊く時は、まず自分から名乗る』と教わったから、僕から自己紹介。
河村亮圭と言います。今、八歳で……。もう一ヶ月ちょっとで九歳です。趣味は、旅行とかです」
自らの主の名乗りに、精霊の長が答礼する。
「御主人様から先に名乗られるとは、恐れ入ります。
私は、 “ 知の精霊長 ” にして全体の長をしております、 “ マリ*@§☆∈★○∩◎◇…… ” と申します」
長の次に、黒髪の少女が名乗る。
「私は、 “ 情の精霊長 ” をしております “ ルリ□£△%▲▽$¢@£…… ” です。以後、御見知り置き下さい」
最後に、銀髪の少女も名乗った。
「“ 意の精霊長 ” の “ エリ★§⊆⊃¢£△◎∧∀…… ” です。よろしく御願いします」
「こっちがマリ……。……んー、上手く喋れない……」
亮圭の耳と頭は、精霊の名前を正確に認識して記憶出来たはずだ。なのに、それを発音することが出来ない。
精霊長達は、優しく微笑んだ。
「それは、仕方ありません。創始の発音ですし、かなり長い名前ですから。御主人様が呼び易い、もう一つの名前を付けて下されば良いですよ」
「じゃあ、最初だけ喋れそうだから、 “ マリー ” 、 “ ルリー ” 、 “ エリー ” でも良い?」
“ 三身 ” は声を合わせて、とても嬉しそうに答えた。
「はい、御主人様! 素敵な名前を、有難う御座います!」
精霊の主の少年は、顔を真っ赤にして言った。
「……だから、 “ 御主人様 ” は恥ずかしいよぉ……」
不意に、ルリーが抱き付いて来た! 亮圭の顔が、ルリーの胸の間に密着させられる!
「もぉ、可愛くて! 可愛くて! 我慢、出来ませんわぁ!
あの “ ダメ天 ” に比べたら、月とスッポン! 食べちゃいたい位ですわ!」
マリーが、すかさず口を挟む!
「こら! “ ルリ□£△%▲▽$¢@£…… ” !
私を差し置いて、御主人様に何てことをするのよ!」
「うわー、怖い、怖い。 “ 筆頭精霊長 ” も、抱っこさせてもらえば良いだけなのに……」
「私は、彼方みたいに、感情をストレートに表現しないだけなの!」
「本当は、抱っこしたい……。きゃーっ」
精霊の主は、ルリーを吃驚させながら、渾身の力で顔を横に向けた。そして、何度も深い息をする。
「苦しい……。死ぬかと思った……」
「……ほらぁ! “ ルリ□£△%▲▽$¢@£…… ” 。じゃなかった! ルリー! 御主人様に、謝りなさい!」
「御免なさい……。御主人様……」
「うん、大丈夫……。でも、もう放れて良い?」
ルリーは、名残惜しそうに亮圭を放した。
「皆さん。御茶の用意が出来ましたよ」
亮圭がエリーの声に振り向くと、丸テーブルと椅子が用意されていた。召使と思しき者達が、エリーと共に控えている。
「あれ、気が付かなかった……。何時の間に?」
マリーが笑って答える。
「御主人様、ここは貴方の “ 夢の中 ” ですよ。考えたことは、『あっ』と言う間に実現します。こちらへ、どうぞ」
マリーが、主である亮圭を一番上等な椅子に腰掛けさせる。次いでマリーが右隣に、ルリーが左隣に座る。そして、ルリーの左側、亮圭から見て左前にエリーが座る。
見ると、右前の席が空席となっていた。主は、筆頭精霊長に質問する。
「まだ、誰か来るの?」
マリーが、ツンとした顔で答えた。
「はい。もう少し後になると思いますが、必ず連れて参ります……」
マリーの返答に、ルリーが呟く。
「声が、怖い……」
亮圭にも、察しが付いた。マリーが、これ程の怒りを顕にする相手と言えば……。
「連れて来る時は、穏やかにね……」
「心得ております。御心配には及びません。御主人様」
「うん、平和が一番だよ……。それとね、御願いが有るんだけれど……」
「何でしょうか?御主人様」
亮圭が、赤い顔をして言った。
「“ 御主人様 ” の呼び方を換えてくれない? 恥ずかしいから……」
ルリーが口を開く。
「御主人様に、何か候補が御有りですか?」
「“ カワムラ ” とか “ カツヨシ ” ではダメなの?」
「御名は、大変に尊いものです。
悪霊対策もありますし……。
私共……。特に情の精霊である私は、御主人様の御名前を軽々しく口には出来ません。」
「じゃあ、他にアイデアは有るの?」
今度は、エリーが口を開いた。
「それでは、英語で “ 御主人様 ” を意味する “ マスター ” ではどうでしょう」
「うーん……。 “ 喫茶店エリシオン ” の “ 小竹 ” マスターみたい……」
「では、ドイツ語で “ マイスター ” は?」
亮圭は、一寸吃驚して言った。
「えっ? マイスターって、職人の親方のことじゃなかったの?」
マリーが答える。
「……御主人様の知識は、小学校低学年のレベルを超えていますね……。ドイツの “ マイスター制度 ” を御存知とは、驚きました。
ただ、 “ マイスター ” と言う言葉にも、色々な意味があります。
もし、この言葉を私が使うのであれば、 “ 私の御主人様 ” の意味で “ マイン・マイスター ” とも御呼びしたく思います」
精霊長達から “ 主 ” と認定された少年は、しばらく考えた末に決断した。
「こっちの方が、気が楽に感じる言葉だし……。音の聞こえが良いね……。
それじゃあ、これで良いよ」
三身は、声を合わせて答えた。
「はい、マイン・マイスター!」
------- 読んで下さった皆さんへ -------
ここまで、お付き合い下さり、有難うございます。
とてもゆっくりと更新していく予定です。気長に、お付き合い下さい。
また、第二幕の方の執筆が進んでいる関係上、第一幕と第二幕は重複して更新していく予定です。
今後とも、よろしく、お願いします。
------- 更新履歴 -------
2015.07.18 初版公開 (Ver 1-01.00)
2016.02.26 改訂第二版公開 (Ver 2-01.00)
2017.08.26 読み易くする為の修正版公開 (Ver 2-02.00)
2018.08.16 一部の解り難い部分、文章表現、誤字、ルビ修正版公開 (Ver 2-02.01)