第三章 夜桜(よざくら) 其の二
そんなこんなで──なんだかどっと疲れるような紆余曲折があったものの。
『夜桜』開催へ向けて、最初に灯が、スタートの笛を鳴らしてくれたのである。
ちなみに灯への呼び方が変わっているのは、本人からの指示によるものだ。ふりでも何でも、婚約だのの話が持ち上がってるのに他人行儀な呼び方は不審がられるから、というのが理由だ。あと、葵屋で自分だけ苗字で呼ばれていたのが密かに不満だったらしい。
なんにせよ、俺が不用意に消してしまった彼女の火は再び点ったのである。
いや、正しくは、彼女の火は一度も消えなかったのだ。その名に相応しく、静かに、だけどたしかな熱を持って、燃え盛り続けていたのだろう。
そしてその熱は他へも波及した。
次に動いたのは、十羽織だった。沖の努力によって人手が集まっても、それでも埋められない穴を、この出来た妹は的確に見抜いて素早く動いたのだ。
その穴とは──桜の手配である。
『夜桜』は、『仲見世通り』の入り口に桜を植え、下草に山吹を添える。中に雪洞を立てた青竹の柵を周囲にめぐらせ、その桜雲の景色の中で、着飾った沖たちが演舞楽奏を行う──というのが全体の段取りである。だが、一番始めに静が『厄介』だと評したとおり、桜だけはこの地の人間がいくら集まってもどうしようもないのだ。
なぜなら、この地の桜は、四月一日には咲かない。平均的な見頃は四月中旬という種類のものばかりであり、植え替えるにも伝手がないのである。
もともと、これはかなり無茶な要件だった。『夜桜』は、吉原だったからこそ四月一日だったのだ。あの地の桜が咲く時期に合わせて、この催しの日取りは定められた。だというのに、吉原より寒く、中旬に咲くというこの地で、一日に満開の桜を用意するのだ。自然の在るべき姿を無視した話だと言えるだろう。
仮に実現するとしたら、咲きかけの桜をどこかから見つけてきて突貫で植え替えるくらいしか手立てがないように思える。早朝に植えることが出来れば、昼に近づき暖かさが増すに従って桜は花を開くだろうが──どうにも無理がある感が強い。何より、咲きかけの桜なんて貴重なものを、どこの誰が貸してくれるというのだろう。そんなタイミングの植え替えでは桜を傷つける危険性もあり、いっそうハードルは高い。
しかし、十羽織にはあてがあるようだった。
彼女は部屋で荷物をまとめながら、俺に言ったものだ。
「兄さんは覚えていないのですか? 御厨の庭にある桜には、ちょうどその時期に咲くものがあったでしょう。昔はよく、その下で私のままごと遊びに付き合って下さったじゃないですか。木登りして落ちてしまった兄さんを前に、大泣きしてしまったこともありましたっけ」
懐かしそうに言う十羽織に、俺も「ああそうか」と思い出した。
実家の庭には、そういう種の桜もたしかに存在した。なにせ広い庭だ。色々な種類の木を植えているのである。
ただ、俺が実家の桜を思い浮かべなかったのは、単に忘れていたから、ということだけが理由じゃない。今更御厨の家に助力を請う選択肢はないと思っていたからだ。
「けど、私でしたら。元々私は兄さんについてきただけですから、父様も母様も無碍にはしないと思うのです。もちろん一筋縄ではいかないでしょうから、しばらくはあちらに泊り込むことになりますが」
「そう上手くいけばいいんだが……」
どうにも実家の人間が信用ならず、俺は渋い顔。十羽織の無茶な願いが俺のためだということはすぐばれるだろうし、そうなるとあの人たちなら、十羽織に妙な条件を突きつけてきても不思議ではない。それに一度向こうに行かせてしまったら、もう二度とこちらへ戻って来れなくされるのではないかという不安がある。
「大丈夫ですよ、弱気な兄さん」
十羽織はそう言って、俺の鼻を指で小突いた。まるで生意気な妹──けれど本当はとても優しくて兄を気遣ってばかりの、俺の大事な妹。
「では、行って参ります。桜の件は私に任せて、兄さんは自分のすべきことをして下さい」
玄関先で、優雅に、少し気取ってお辞儀して。
十羽織はそうして、葵屋から一時の離脱を果たしたのだった。
◇
「すべきこと、か」
最後にはなんとか笑顔で十羽織を送り出して──それから俺は、深くため息をついた。
十羽織がどんな意味でそう言ったのかはわからないが、その言葉は今の俺には少し重たかった。
もちろん『夜桜』の準備に向けてやることはたくさんある。沖と共同での協力者探しもそうだし、集まってくれた人たちを指揮して仲見世通りの舞台を整えるのは、やはり俺の仕事なんだろう。あと半月程度の期間でそれを成し遂げなければいけないのだ、余計なことに気を回している暇はない。
けれど、俺にとって一番大事な仕事は、このいずれでもないと思っている。
夜宵と、静──今はこの二人と、なんとしてでも話をしなければならないと思っていた。
二人に具体的にどうしてほしいかなんて結論は俺の中でも出ていないが──それでも、このままじゃ駄目だ。このままじゃ、葵屋の『夜桜』はきっと失敗する。
やるしかないよな、と拳を握った俺は、まず夜宵の家へ向かった。もしかしたら『敵』に回っている可能性すらある彼女と会って、お互いの立ち位置を確かめておかないと、静を励ますことも出来ないと考えたからだ。
「御免ください」
時刻は夜である。重たげな開き戸は硬く閉ざされ、俺を威圧的な姿で睥睨している。
此処は土地神が名代、真幌木の家ぞ。御厨の末裔がいかな面を下げて参ったのかと。
そして呼び鈴をいくら鳴らしても内側から開けられる気配はない。
りつさんはきっと、夜宵から土地神と御厨の一族のいざこざをすべて聞いたのだろう。そして先日来た男がその末裔だと知り、さぞや嘆き、怒りに身を焦がしたことだろう。主を決してあの者に会わせるまいと考えるのはむしろ必定だ。
さて、ではどうするか。俺は門前で腕を組んだ。
ここまでは予想の範囲。しかしこれという手段を用意してきたわけでもない。
やっぱり壁を乗り越えるしかないか──と考えていた時、開き戸の隣の勝手扉が、音も無く横へ開いた。
「九郎君」
そう言って隙間から顔を覗かせたのは、りつさんではなく──
「夜宵……?」
「静かに」
しっと指を立てて、夜宵は背後を窺う素振りを見せた。それから手招きで俺を中へ導き入れ、そっと扉を閉じる。
「こっちへ」
俺はその声にいざなわれて、わけもわからぬまま夜宵の後ろを身を屈めてついていった。
◇
夜宵に連れてこられたのは、屋敷の離れにあたる小さな建物だった。
かつては座敷牢として使用されていた場所とのことで、湿った畳と厳めしい格子が陰鬱とした雰囲気を醸し出している。
けれど夜宵がその中心に座った途端、清冽な空気が室内を満たしたような感じがした。
今日の夜宵の装いは、水浅葱に小花柄の可愛らしい小紋をあしらった、爽やかな彩りの着物だ。聞けば、自宅ではいつもこうした格好で過ごしているらしい。対面で胡坐を掻いて座った俺は、やっぱりこの子はお姫様なんだよなとしみじみした目で眺めてしまった。
とはいえ、いつまでも見惚れてばかりいるわけにはいかない。
俺が居住まいを正して本題に入る構えを見せると、それを察した夜宵が先に口を開いた。
「ここは、真幌木の一族に気狂いが現れた時、その者を隔離するための部屋。もう使われなくなってからかなり経つけど、忌み場と見なされてるから、りつもここには来ない」
「……やっぱり、りつさんは俺のことを怒ってるのか?」
夜宵は俺の目を見たままこくりと頷いた。
「そっか。まあ当たり前だよな。言っちまえば、俺は仇敵の一人みたいなもんなんだし」
みたいというより、『そのもの』だ。
そしてりつさん以上に俺を敵視して然るべき人が、今俺の目の前で座っている。目の前で俺を見ている。
だから──だから、俺はここに来たんだ。
俺はすうっと息を吸い込んで。
次の瞬間、その場で頭を下げた。畳に額がつかんばかりに、深く。
「──すまん」
「……」
「謝って許されるような話じゃないことはよくわかってる。俺の祖先が夜宵の家に対して行なったことは、俺なんかが頭を下げて済むような問題じゃない。だから、これは誓いだと思ってほしい。今後一生をかけてでも罪を償っていくつもりだと、俺がここで誓うことを夜宵に認めてもらいたい」
「九郎君……」
「本当はすぐにこれを言わなきゃ駄目だったんだ。だってのに、俺は動揺しちまうばかりで。そうこうしているうちに、灯と十羽織が『夜桜』に向けて動き出した。そうだよな、あいつらは土地神と夜宵の家との間には主従関係があった、くらいの認識で、夜宵の両親がどうして亡くなったかまでは知らないんだから。だから、土地神から『夜桜』を成功させてみせろと言われたら、じゃあその条件をクリアすれば問題は解決するんだ、と考えるに決まってる。……でも、たとえ『夜桜』が成功して、土地神が葵屋を認めても、夜宵の両親が御厨のせいで亡くなった事実は変わらない。だから、そのことを知っている俺がまず夜宵に詫びて、お前の考えを聞かなければいけなかったんだ」
「私の、考え……?」
「そうだ。灯や十羽織には悪いが、『夜桜』が気に入らないなら今すぐ準備を取り止めにする。お前の承諾なくしてあのイベントは進められないからな」
「……もし私が、九郎君の一族と、葵屋そのものが許せないと言ったら? 九郎君は一生かけて償うと言ってるけど、静のことはどうするつもりなの?」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。わかっていたことだし、誤魔化すつもりもなかったが──究極的にはそこが一番の問題だった。
俺のことはいい。御厨の一族のこともひとまず置く。先祖の罪を子孫が清算する、というだけの話だからだ。だが静は、ただ廓の霊として生まれただけだ。だというのに、その建物が在ること自体が許されないとなったら、あいつはどうなるんだ? 取り壊しとなったら、恐らくあいつは消えてしまう。何の間違いも犯していないというのに。それを、俺は──たとえその資格がないのだとしても──どうしても見過ごすわけにはいかなかった。
しかし──どうする?
御厨一族と葵屋を両親の仇とする夜宵。仇の一族の末裔である俺。そして、葵屋そのものである静。
八方塞りだった。
誰が望んだわけでもないのに、どうしてこんな状況になったのか。
だが夜宵の前で泣き言を言う資格は俺にはない。
俺は歯を食いしばりながら、必死になって思考を回転させる。それでも、ずっと答えの出なかった問いに今ここで答えられる謂れはなかった。
「……九郎君」
「あ、ああ」
結局──夜宵が口を開くのを待つ形になってしまった。どうしようもない情けなさを感じながら、俺は夜宵と目を合わせる。
すると、夜宵はこんなことを問いかけてきた。
「九郎君。貴方は、りつがどうして怒っているか、わかってる?」
「え……それは勿論、俺が御厨の人間だから──」
「違うの。りつはもともと私の乳母としてこの家に来ていた人だから。すぐに私を主人扱いしようとする癖は抜けないけれど……とにかく、りつとお父さん達との間に、殆ど接点はなかった。だから、そんなりつが怒るとしたら、それは私の代わりに怒ってるの」
「……だから、それって同じことじゃあ」
「ううん、違う。もちろん私は九郎君の先祖が真幌木家にしたことが許せない。でも、それで九郎君を憎む気はない。だから、りつも九郎君の出自に対して怒ったりしているわけじゃないの」
「それじゃあ、りつさんはどうして?」
「りつは、私のために怒ってる。それは──」
夜宵は言いながら、着物の裾を払って立ち上がった。
それから、しずしずとした足取りで俺との距離を詰める。衣擦れの音が微かに尾を引く。
そのまま夜宵は、俺の前で膝をつくと、そっとしなだれかかってきた。
「それは──こうやって思い悩んでいた私を、九郎君がずっと放っておいたから」
「や、夜宵……!?」
「わかってる。九郎君が苦しんでいたことも。私だってあの時そうだった。私のために怪我をした九郎君に、どんな顔して会えばいいかわからなかった。でも、それでも私は──貴方に会いに来てほしかった」
かすかに、すすり泣く声が聞こえた。伏せた顔は俺から見ることが出来ない。けれど俺の胸元を掴む細い指に込められた力が、夜宵の静かな激情を雄弁に語っていた。
ああ、俺は馬鹿だ。
本当に馬鹿だったんだなと、座敷の低い天井を見上げながら、俺はつくづくそう思った。
◇
「九郎君を憎んではいないけれど」
夜宵は俺に向かって、背中越しにそう呟いた。
あの後、ひとまず落ち着いて。
今はなぜか、胡坐を掻いた俺の胸に、夜宵が背中を預けて座っている。
いわゆる『抱っこ』の姿勢なわけだが、なんだろう、こうなると本当にお人形さんを抱いているような気持ちになってくる。
とはいえ、そんな邪な感情は今この場には相応しくなくて。
俺はこっそりと咳払いしてから、夜宵の言葉の続きを待った。
「憎んではいないけれど──それとは別に、やっぱり私には葵屋の建物にわだかまりがあるの」
「……ああ。それはそうだろうな」
「だからといって、静を憎んでるわけでもない。いくら静が自分は同一の存在だと言っても、あの人も望んでそう生まれたわけではないのだし」
「ああ」
むしろそう生まれさせたのは俺の先祖のせいだとも言える。ただ、夜宵は御厨を恨んでも俺は恨まないと言ってくれているから、あまり俺が気に病む風を見せるわけにもいかなかった。でないと、この子の気遣いを無碍にすることになってしまう。
だから罪悪感は心の底に押し隠して。きっと俺なんかのこの程度の小細工、この子にはばれてしまうのだろうけど。それでも、ばれてないふりをしなければいけないのだろう。
入り組んだ状況だな、と思う。
単純なようで、案外と糸は複雑に絡み合っている。
けれど、その糸を無理に解きほぐそうとするのではなく、ぎゅっと固めることで縁やしがらみというものは生まれていくのだと誰かが言っていた。
そしてこの子との糸は、もうどうやっても切れないくらいには絡み合ってしまったんだろうとも思う。
俺は夜宵の首筋にかかった髪を梳りながら、つらつらとそんなことを考えていた。
と、夜宵が俺の手の動きに気持ち良さそうに身体を弛緩させながらも、どこか申し訳なさそうに呟いた。
「九郎君。お願いがあるの。私は……みんなには悪いけど、『夜桜』には参加しない。でも、邪魔をするつもりもない。今回だけは、見守る立場でいさせてほしいと思うの」
「……そうか。ああ、わかったよ」
俺は頷いた。落胆が無かったかと言えば嘘になる。けど、ここに来る前までのことを考えれば、なんて大きな進展だろうか。
夜宵は今、最大限の譲歩をしてくれたのだ。
真幌木は、土地神と葵屋のどちらの側にもつかないと。
であれば──後はこの二者だけの問題となる。
「ありがとな、夜宵」
「ううん。それに、私が真幌木だからそう感じるのかもしれないけど、今回の件、土地神様にも思うところがあるような気がしてるから」
「そう、なのか?」
「うん。だって、葵屋の建物が地の力を吸い上げてしまうことは、『夜桜』の成功失敗とは別の話だから。だから、土地神様がどうしてそんな条件を出したのか、今でも不思議なの」
「……たしかに、そうだな」
なんだろう。言問命には、まだ別の企みがあるのだろうか。相対した時の彼女の超然とした態度を思い出し、俺は喉元に針が刺さったかのような違和感を覚えたのだった。
◇
言問命の思惑は気になるものの──夜宵と話が出来たことにより、俺は『夜桜』に向けた準備を本格的に始めた。
やるべきことは山のようにあった。
当日は楼主として祭りのホスト役を勤めるために覚えることが多いし、協力を申し出てくれた人たちを迎え入れて柵作りの指揮を取り、設置までの段取りを組む必要もある。
また、協力者を募る仕事を灯だけにさせるわけにもいかないので──嫁だけ働かせるとは何事だと一部から反発があり──出来る限りそちらにも合流しなければならなかった。
他にも細々とした仕事は溢れるほどにあり、俺は四六時中その対処に追われた。そのため、と言えば言い訳かもしれないが、静と話をする機会を作れないまま、ずるずると時を重ねてしまった。
十羽織が実家から無事戻ってきたのは、そんな折のことだった。
「なんとかなりました」
十羽織は短くそう報告した。四月一日の朝、御厨の庭から開花間近の桜を葵屋へ植え替えする許可を、両親たちから取り付けてきたのだ。事が事なだけにさぞ交渉は難航しただろうと思うが、妹は「大したことありません」と笑って首を振るばかり。労いを求めるでなく、すぐさまこちらでの準備作業の流れに戻っていった。
「みんな、凄いな」
『仲見世通り』で桜の移送についての打ち合わせを行なった後、俺は葵屋へ戻る道すがら、ぽつりとそう呟いた。
灯は土地神の来訪にも怯まず、前を向いて走り続けて、停滞していた状況を押し開いてくれた。
十羽織は葵屋に戻ってこれなくなる危険を冒してまで、一癖も二癖もある実家連中との交渉をまとめあげてくれた。
夜宵はたくさんのわだかまりを飲み込んで、俺たちを見守ることを約束してくれた。
本当に、みんな凄いと思う。
なのに──廓の主である俺は、後押しを受けるばかりで何もしていない。
忙しく立ち回ってはいるものの、それは流されているだけだとも言える。俺から始めたことは何もない。
(始めようとしたことは、あったんだけど──)
視界の先に、葵屋の建物が見えてきた。
昼でも美しい紅殻色の格子は、一日の夜には大層映えることだろう。
俺は格子に近づき、手を触れた。
そこには、膠を塗ったかのような滑らかさがある。
けれど実際には違う。これは膠のつやとはまだ別のものだ。
だが、俺にはそれが何なのかがわからない。どうして格子がこんなに艶やかな光沢を帯びているのか、乏しい俺の経験ではわからない。
だから俺がこの格子についてやれたことは、単に汚れを拭い取っただけなのだ。
「葵屋を、以前の綺麗な姿に──か」
そう俺が呟いた時だった。
「──あるじさまが、それを成して下さるのではなかったのかえ?」
格子の内の暗がりに音もなく姿を現した静が、俺に背を向けたままそう問うてきたのは。