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第二章 初午(はつうま) 其の三

 丸椅子に座った真幌木は、ゆっくりと話をしてくれた。

 それは、彼女の先祖の時代に遡ることから始まった。

 かつて、真幌木家はこの地を収める領主の一族だったらしい。りつさんが『姫様』と呼んでいたのもその名残りだ。ただしその統治形態は、巫女に近いものだったという。地に根ざした土地神の声を聞き、領民に伝える。いわば代行者として地位を得ていたのだと。

 しかし、ある時を境に土地神の力は衰退し、やがてその存在自体がいずこかへと消えた。この原因は今もって不明だそうで、そうなれば権力の拠り所を失った真幌木家も凋落するしかない。そればかりか、土地神が抑えていた悪霊たちから恨みの矛先を向けられるようになってしまった。

 真幌木の人間の殆どはある程度の霊力を有していたため、そうした悪霊からの攻撃もしばらくは凌いでいたのだが、世代を重ねるごとに霊力は衰えていくばかり。真幌木の両親は土地の要所要所に祠を設置して悪霊たちの力を弱めていたのだが、ある時限界が来て殺されてしまった。

 そして真幌木当人は──

「私は、殆ど『見る』ことしか出来ないの。霊を祓う力なんて本当に僅か。だからいつも悪霊に怯えていた。お父さんとお母さんが作ってくれた祠だけを頼りに、いつ殺されるかわからない暮らしをしてた。……それに、祠は少しずつ古くなっていく。結界の力も弱まっていった。だから私も、もうすぐ終わりかな、と思っていた。灯と会えなくなるのは寂しいけど、それも仕方ないのかな、って。でも、去年くらいから、突然結界の力が戻り始めたの。はじめは気のせいだと思った。けど日を追うごとに悪霊は姿を見せなくなった。だから私はその原因を調べ始めたのだけど──すぐにそれはわかったの」

 そこで真幌木は、なぜか俺のことをじっと見つめた。

「九郎君。原因は貴方。貴方が結界の力を取り戻してくれていたの」

「お、俺が?」

 いきなりすぎて、わけがわからなかった。なぜここで俺が絡んでくるのか。霊力だのなんだの、俺にはそんな力なんてまるでないと思うんだが──

「ううん、それは違うの。霊力自体は、普通の人が思うほど珍しいものじゃないから。ただ力の現われ方は人によってさまざまだから、気付かないまま一生を終える人が多いだけなの。そして九郎君も自覚してないだけで、霊力を持っている。おそらく貴方の力は、物質に篭めることで初めて発揮されるもの。とても目立たないものだし、本来は活用出来るようになるまでに相応の訓練も必要となるはず」

「……よくわからんけど、そんな俺がどうして結界なんて大層なもんを直せたんだ?」

「結果的に、手伝っただけだから、だと思う。結界の礎はあくまでお父さんたちが作り上げていた。貴方はその綻びを繕っただけ。だけと言っても、やっぱりある程度の適性は必要なのだけど」

「でも、俺は結界なんて見てないぞ? どんなもんかも知らない」

「九郎君は気付いてないみたいだけど、貴方が時々修復してくれていた道祖神、あれが結界の力の源だったの」

「へ? あれが?」

 そりゃ、大工修行の片手間で、道すがら見かけた道祖神の祠を少しばかり綺麗にしたりはしてたが……言われてみればここ半年ほどで結構な数に手を入れた覚えもあるが……

「だから、九郎君。私はそのことに気付いてから、ずっと貴方に感謝してた。いつか恩返しをしたいと思っていたの」

「……自分の知らないところでやってたことだからなあ。感謝されるようなことじゃない気がするんだが」

「善行や功徳は本来意識せずに積まれていくものだ、ってお父さんは言ってた。九郎君は気付いてないみたいだけど、灯の家の犬が元気になったのも、犬小屋に籠もった貴方の力が良い影響を与えたおかげだと思う。でも逆に、九郎君が何か邪な気持ちで小屋を作っていた場合は犬は死んでしまっていたかもしれない。貴方の力はそういう性質のもの。だから、犬が元気になったのは九郎君がきちんと思いを籠めていたことの証拠。それによって灯との縁が生まれたのも、貴方の優しい心があったからこそ。そのことは、誇りにして良いのだと思う」

「あの犬小屋が……」

 大慌てで作ったから、力を籠めていたなんて言われてもピンとは来ない。けど、短い時間の中、老犬に元気になれよと願いながら作っていたことは確かだ。それがもし本当にあの犬を元気にしたのだとしたら──

(うん。それは、嬉しいかもしれない)

 この子の言うように、素直に誇りにも感じようと思う。

「そして私も同じなの。修復された祠を見れば、九郎君がそれをとても大切に扱ってくれたことが私にもわかった。あれは、お父さんとお母さんが作ったものなの。だから、それをあんなに綺麗にしてくれて、私はとても嬉しかった。そして貴方との縁が生まれたことを喜んだ。──なのに」

 真幌木は、膝に置いた手をぎゅっと握って俯いた。

「なのに私は、命の恩人の貴方を、あんな目に遭わせてしまって──」

「ちょ、ちょっと待った。悪霊の力は弱まっているんだろ? 姿すら見せなくなっていたんだろ? だったらどうしてあの影は、いきなり蔵の中に現れたんだ?」

「それは──わからないの。土地の力はむしろ強まっているくらいだし、どうしてなのか、私にもまるで……」

「そ、そうか……なら、静にでも聞いてみるか?」

「静には、襲われた後ですぐに聞いてみてるの。でも、見当がつかないみたいだった。調べてみるって言ってくれたけど、まだわからないみたい」

「そうか……」

 静でも無理となると、俺にはお手上げだった。せめて未補修の道祖神を探して手当たり次第に直していく程度のことはしたいが、怪我が治るまでは難しいし、仮に直せたとしても、どれほど効果があるのかはわからないままだ。

 けど、いつまでも暗い話ばかりで真幌木を落ち込ませるのも馬鹿らしい話だ。俺はもどかしい気持ちを抑えて、努めて明るい声で言った。

「でも、まあ、なんだ。なんとか二人とも無事だったんだし、あの蔵に入らないように気をつければ──」

「無事じゃない!」

 突然、真幌木が大声で怒鳴った。俺はあっけに取られたが、すぐに自分の軽はずみな言動に気付いて彼女を宥めようとする。

「わ、悪い。怪我人の俺がそんなこと言ったら、真幌木が困るよな。でもほら、今大声出すと」

「く、九郎君は大怪我したの! 死んじゃってたかもしれないの! わ、私は、だから──!」

 その時、廊下でぱたぱたとスリッパの音が響いた。俺は咄嗟に真幌木の口を押さえ、耳を澄ます。

 それは物音を聞きつけたナースの足音だった。

「御厨さん? どうしました?」

 ナースは扉をノックしながらそう尋ねてきた。なんでもありません、と俺は答えたが、声が上擦るのを押さえ切れなかった。

「うーん? ちょっと失礼しますね」

 不審なものを感じたらしく、ナースがドアを開けようとした。ノブが回る音を聞いた俺は、慌てて真幌木をベッドの上に引き上げると、自分の体ごとシーツを引っ被った。

「何か人の声がしたみたいに思えたんですが……」

「ちょっと……うなされちゃったみたいで。でももう平気です。痛みもないですから、大丈夫だと思います」

 ドアの隙間から顔を出したナースにそう答えると、彼女もそれ以上の追及は遠慮してくれたようだった。

「そうですか。何かあったらすぐ呼んでくださいね」

 そう言って、パタンとドアを閉じる。数秒して、俺はシーツから顔だけを出して止めていた息を吐き出した。

「あ、あぶなかった……あれ? 真幌木?」

 すぐに出てくると思ったのに、なぜか真幌木は動こうとしなかった。仰向けに寝たままシーツの中を覗き込むと、俺の胸辺りに顎を乗せてこちらを見ている真幌木と目が合う。

「どうした?」

「……九郎君。体は平気? 私がこうしていて痛くない?」

「? いや、右手以外は動かさなければほぼ大丈夫だけど。真幌木は軽いし」

「そう」

 真幌木は、そのまま上半身を起こした。下半身は俺にまたがった状態だ。シーツが頭からずり落ち、肩に引っかかって止まる。それはまるで白いマントを羽織っているようで、黒いワンピースとのコントラストが淡い月明かりの下で映えて、とても綺麗だった。

「真幌木? どうしたんだ?」

「……貴方に怪我をさせてしまって。『初午』の催しはきっと、難しくなってしまった。葵屋は、もしかしたらそれが原因で奪われてしまうかもしれない。静は消滅し、九郎君の家も、なくなってしまうかもしれない」

「それは……いや、なんとかするさ」

「九郎君を信じていないわけじゃない。でも、静の力を強める方法は他にもある。だから、私はそれをしようと思う」

「真幌木……何を」

 俺にまたがったまま、真幌木は腰の辺りでごそごそ何かしていたようだった。そして、ほどなくして彼女がワンピースの裾から取り出したものを見て、俺は絶句した。

「それ、それってまさか……」

 真幌木の手に握られた、白い布のようなもの。手のひらサイズに丸まったそれは、どう見ても真幌木の下着だった。

「九郎君と"する"こと。私は平気だから」

 そう言って、真幌木は下着を脇に置くと。

 ワンピースの前面の裾をたくし上げて、口に咥えた。

「──!」

 俺の眼前には、あられもない──真幌木の『その部分』が、かすかな月明かりの下で曝け出されていた。

「ふろうふんは、ふごけないはら」

 だから自分に任せて、と。たどたどしい動きで何か始めようとする真幌木。俺は──俺は硬直した思考を無理やりに動かして、自分の中の欲望が膨れ上がる前に、なんとか行動に移した。

 つまり──その肩を強く掴んだ。

「いひゃいよ、ふろうふん」

「……まずはその口を開けてくれ。頼むから」

 不満そうな顔で、真幌木が咥えていた裾を解放する。刺激的すぎる光景がワンピースの裏側に再び隠れたのを確認してから、俺はとんでもなく長い息を吐いた。

 やばかった。理性の敗北を見るところだった。むしろよく勝てたなと自分で自分を褒めてやりたい気分だった。

 そりゃあ俺だって男だから性欲は漲るほどにあるが……罪悪感に付け込んで女の子を抱くなんてことしたら、こっちがその後で罪悪感に溺れ死んでしまう。童貞ゆえの下らない意地だと笑わば笑え、武士は食わねど高楊枝というじゃないか。

 ……据え膳食わぬは何とかの恥ともいうけれど……。

「と、ともかく。真幌木はもうちょっと自分を大切にしてくれ」

「でも、これが一番現実的な対策……九郎君の『ここ』も、そう言ってる」

「……それは生理現象だと思ってください」

 薄い患者着だから、俺の下半身がどうなっているかは真幌木には丸分かりなんだろう。しかしこればっかりは仕方がない。男の矜持を粉々に打ち砕かれて泣きたい気分だが。

「そ、それに、葵屋から離れた場所で床入れして、意味なんかあるのか? あるとしてもかなり効果が低いんじゃないか?」

「……それは、そうかも」

「だろ? だったらほら、とにかく下着履いて!」

 俺の理性が保つうちに、と心の中で続けて、俺はようやく真幌木を諦めさせることに成功した。

 何気に物凄い危機だったんじゃないだろうか……。

「でも、これじゃ私の感謝の気持ちが伝えられないから」

「感謝? そんなのもう充分すぎるほどに伝わってい──!?」

 俺の言葉は、最後まで言わせて貰えなかった。

 なぜなら、言い終わる前に真幌木の唇が俺のそれを塞いでいたからだ。

「!?」

 俺は完全にパニックになった。目の前数センチ、どころか数ミリの距離に真幌木の顔があって、物凄く良い匂いがそこからして、何より唇が触れ合っているという事実だけで頭が真っ白になってしまっていて──

「ん……ちゅ、んぅ……」

 真幌木のキスは長く続いた。俺はその間ずっと、されるがままだった。床入れの件もそうだったが、こういうことに一番縁遠そうな子と唇を合わせている状況が信じられず、現実にいるという気がしなかった。

 やがて、三十秒とも一分とも分からない時間ののち、ようやく真幌木は俺から唇を離した。

 互いの唇の間で唾液の糸が引き、窓の明かりにかすかに光る。

「これからは、私のことを名前で呼んでほしい」

 そう言って、じんわりとした笑みを浮かべる少女。俺はその顔を呆然と眺めるばかりだったが──当の真幌木自身にも、この時変化が訪れていた。

「あれ……?」

 真幌木は頬に手をあてて、不思議そうな声を発した。

「顔が熱い……どうして?」

 見ると、その顔は暗い中でもはっきりとわかるほどに赤く染まっていた。床入れを平気だと言い切り、俺にあんな部分を晒したというのに、どうしてキスくらいで彼女が赤くなっているのか、俺にもまるでわからなかった。

「私、どうしたんだろう」

 真幌木はそうやってしばらく自分の頬をぺたぺた撫でていたが、やがて自分の唇に指をあてながら俺をじっと見つめた。

「……そうか。もしかしたら」

 そんな呟きが彼女の口から発せられた。

「もしかしたら……そういうことなのかもしれない」

「な、なにがだ──?」

 混乱覚めやらぬまま尋ねた俺に、真幌木は一人で合点がいった様子で答えた。

「……私、床入れをすることになっても、別に平気だと思ってた。それは、今もそう。だって、それは私の心とは関係ない行為だから。子供を残したり、快楽を得るための行為であって、心を曝け出すこととは繋がっていないから」

 それからもう一度自分の唇に指を添え、

「でも、今のキスは……きっと、違うんだ。今のは、生理的な快楽とは関係なくて、ただ私の気持ちを表に出す、という行為だった。だから私は、それがとても恥ずかしかったんだと、思う。私はずっと前から、心を誰かに知られることを、とても苦手にしていたから」

 そうやって真幌木は、たどたどしく自分の感情の在り方を語った。

 俺も、それでようやく腑に落ちた気がする。

 どうして真幌木がいつも無表情なのか。どうして他人との距離を置いていたのか。

 それはきっと、「精神的に未成熟だから」の一言で片付けても間違いじゃない話なのだろう。

 けれど、彼女の置かれてきた境遇を思えば、軽々しく表現していいものだとは思えなかった。

 だから俺は、余計な分析なんかを抜きにして、改めてこの子の友人になりたいと思った。無二の友人である沖と同じように、この子との輪に加わりたいと、心から願った。

 けれど、今はそれはそれとして。

 やっぱり言っておかなければならないこともあるわけで──。

「……で、それはともかくな、まほ──夜宵」

「なに?」

 俺は、兄になったような気持ちで。あるいは友達としての心配から。あるいはそれ以外のあやふやな何かかもしれない心で。

 彼女に──夜宵に、忠告をしたのだった。

「──床入れは、キスの延長として考えてみないか?」


 ◇


 秘密の騒動があった夜から一週間が経ち。

 俺はこの日、ようやく退院を果たした。

 脳検査の結果が出るのが遅れたためで、俺も周囲もやきもきさせられたのだが、結果としてはどこも異常なし。文句言う気もさらさら起きず、晴れて病院を後にした。

 右手の骨のひびがくっつくのはまだ先だが、それから俺は出来る限り普段と同じ生活を心がけた。左手での薪割り──電気がない葵屋はこんなこともしなければならない──こそ最初はてこずったものの、元々片手は添えるだけが基本の作業だから、要領を掴めばなんとかなる。その他の力作業は皆の協力と気合で乗り切った。

 学校へも翌日から通学を始めた。出席日数が危ないわけではないが、下手に教師に目を付けられると親に連絡が行き、そこから十羽織連れ戻し計画が始まらないとも限らない。出来うる限り危険の芽は潰して起きたかった。

 その他、大きな変化といえば夜宵の態度だ。あの日以来、学校でも、夜宵は四六時中俺に引っ付いて離れなくなってしまった。気遣われているというより、子猫に懐かれているような感じだ。沖の目にもそう映るようで、時々わんわんにゃんにゃんと二人で不思議な言葉遊びをしている姿を見かける。

 ただし厄介なこともあって、あの日の会話からどういう結論に至ったのかわからないが、夜宵は所構わずキスしようとするようになってしまった。

 俺が応じるわけではなくて、隙をついては舐めるようにこちらの唇を掠め取るのだ。もちろん沖に見られた。十羽織に見られた。静にも見られた。見た瞬間愉しげに笑っていた静はともかく、他二人の反応は推して知るべしである。週末にはパジャマパーティーを兼ねた夜宵を自重させるための検討会が開かれていたようだが、効果はなかったようで、夜宵はどこ吹く風という感じで平気で俺の後を付いて回っている。


 しかし俺たちには、そうしたことにばかりかまけている余裕はなかった。

 大蛇への具体的な対策を見出せないまま、三月一日の『初午』を迎えた葵屋は──その日、まったく予期していなかった『客』を迎えることになってしまったからだ。


 ◇


 『初午』の日。

 本来であれば軒下に大提灯が吊られ、とりどりの雪洞が薄く廓内を照らし出していたはずの葵屋は、心なし物寂しい雰囲気に包まれていた。

 二階の座敷では、静が琴を、十羽織が三味線を爪弾き、夜宵が笛を、沖が舞を演じている。だが皆の顔色もどこか冴えない。やはりこれでは『初午』の催しとしては不足なのだということを、誰もが実感してしまっていた。奏楽も演舞も、静が手ほどきしただけあって悪くない出来なのだが、『初午』である必然性には乏しい。三月一日の催しとしては、どうしても周囲を彩る舞台装置が必要なのだ。

 せめて提灯と雪洞をどこかから借り受けられれば良かったのだが──予算は乏しいし、唯一存在したレンタル業者の在庫は出払っていた。さらに静によれば、そういう一時借り受けの品を用いるとせっかくの催しの効果が大きく損なわれてしまうそうだ。江戸の遊郭は、それぞれが独自に舞台設備を用意していた。使いまわしは粋ではないとされた。ゆえに、あくまで葵屋のために存在するものでなければ意味がないらしい。

 そんなこんなで、どこか身の入らない『初午』を執り行っている最中のことだった。

「──む?」

 静の琴を弾く指がぴたりと止まった。

「どうした?」

 奏楽の始まりより、静は一度もミスをしていない。廓の神としての本領か、幼い外見に反して全員の中でも飛び抜けた技量を示しており、皆が自然と彼女に引っ張られる形となっていた。

 その静が手を止めたのである。他の全員がどうしたのだろうという目で彼女を見ていた。

 だが、当の静は俺たちを見ていなかった。ひどく真剣な面持ちで虚空を睨んでおり、俺たちの見えないところで何か重大な出来事が起きているのではないかという不安が過ぎる。

「え……これは」

 その時、別の反応を示した者がもう一人いた。夜宵だ。彼女は困惑の表情を浮かべ、静に問うた。

「静。もしかして、これは──」

「……あい。ぬしも気付きんしたか。これだけ近ければ当然かもしんせんが、しかしなぜあやつがここに?」

「じゃあ、やっぱり」

「あい。とにかく向かいんしょう。あやつは──この真下におりんす!」

 言うやいなや、静は畳を蹴立てて階下へ走り出した。次いで夜宵が、その後を俺たち残りの人間が慌てて追う。

 静の足は速かった。階段を降りきった俺が一階の広間に着いた時には、彼女は既に、見知らぬ何者かとの対峙を果たしていた。

 何者か──この場合、侵入者ということになるのだろう。

 それは、変わった装束を身に纏った女性だった。

 和風、ではある。だが静たちが身に付けているような花魁衣装とも違う。ゆったりとした薄手の衣をラフに着崩しており、代わりに腕輪や頭冠といった小物が華美な雰囲気を作り出している。

 どこかでああいう装いを目にしたことがある気がするが──

「ぬしは……」

 静は女性と顔見知りのようだった。

 ひどく顔を強張らせている。そこに普段の余裕の色はない。

 いや、余裕どころか──怖がっている?

 俺の目には静が逃げ出したいのを必死で堪えているように映った。まるで──見たままに、小さな子供が怖い大人を前に怯えているかのような様子だった。常からは想像も出来ないその姿に、信じられないものを見る気持ちだった。

「あの人は、まさか……」

「夜宵も知っているのか?」

「……見るのは初めて。だけど、私は真幌木だから、わかるの。あの人は──」


「邪魔をしておるよ」


 夜宵が言い終わる前に、女性の声が周囲を満たした。

 それは不思議な感覚だった。

 何気なく声を発しただけに思えるのに、他の音すべてを圧倒するような。そしてあらゆる箇所から響いたような。そんな『圧』を、俺の耳朶は受けたのだった。

「……なぜ、ぬしがここに?」

 静が搾り出すように問うた。だがその声は対峙した相手のそれに比してあまりにか細い。

 女性はどこからか取り出した扇子で口元を覆いながら、悠然とその問いに答えた。

「想像はつかぬか? 廓の霊よ。わらわがここを訪れる理由など、唯一つしか考えられぬであろうに」

「……わちは、顕現して日が浅いのでな。昔のことはあまり思い出すことが出来んせん」

「ふむ。拍子抜けだの。この地を脅かす悪しき存在のお前が、まるでその姿さながらに女童のようではないか。あの者が何ゆえ気を急いておったのか、これでは皆目わからぬ」

「あの者?」

「幾度かまみえておるはずじゃろう。影纏いの大蛇おろちのことじゃよ」

「……ぬしは彼奴めと繋がりがあるのかや?」

「まずはそこからかの。まあ良い、ちょうどそこに廓の主と『まほろばのひめ』もおるようだし、わらわが今日ここに参った目的ともども説明して進ぜよう」

 女性はそう言って、扇子をばっと顔の前で振り、舞台役者のように見栄を切った。

 それから、朗々と──とんでもない名乗りを上げた。


「わらわは、東雲斎言問命しののめいつきのことどいのみこと。この地を統べる神である」


 ◇


「……か、神様だって?」

「左様。そこな『まほろばのひめ』ならわかるであろ。千年の長きに渡りわらわと共に在った一族の末裔なれば」

 そう言って東雲何某と名乗った女性が目を向けた先には、夜宵がいた。そういえば、真幌木家の昔の名前は真幌場だったと聞いた覚えがある。

 だが、今はそれよりもずっと大きな問題が目の前にあって──

「夜宵? あの人が神様って、本当なのか?」

 俺の問いかけに、夜宵は戸惑いを目に宿しながらも、こくりと頷いた。

「……うん。今あの人が言ったとおり、私にはわかる。そこにいる人は──人に見えるけど、そうではなくて──この土地を治めていた、土地神なの。でも、どうして今になって? ずっと前に姿を消したという話だったのに」

「龍脈の流れが戻ってきたからじゃよ。加えて、わらわを祀る祠がそこの者によって修復されたおかげでもある。この廓の主によってそれが為されたというのは皮肉な話じゃがの」

 女性は苦笑いを浮かべて俺を見た。眉尻を下げて、複雑そうな表情で。

 いきなり水を向けられた俺は、困惑かたがた問うた。

「いまいちよくわからないが、俺のことはともかくとして……その土地神様がここに何しにきたっていうんだ?」

「わらわのことは言問命と呼ぶが良い。……そうさの。お前たちの最近の言葉を借りて言うならば──宣戦布告、といったところかの」

「宣戦布告!?」

 女性──言問命が平然と口にした単語の不穏さに、俺は思わずそのまま繰り返してしまった。

「うむ。有体に申せば、わらわはお前たちの敵ということになる。より正しく把握してもらうために言い換えれば──お前たちこそがこの地にとっての敵なのじゃよ」

「ど、どうして俺たちが?」

「承知しておるじゃろうが、この葵屋は龍脈の上に建てられておってな。それはお前の祖先、御厨権八がそうしたのじゃが、あやつは単に龍脈の恩恵を多く受け取ろうなどという生半な考えの持ち主ではなかった。あやつが狙ったのは、龍脈の完全な占有じゃ。お前たちにはわからんじゃろうが、この建物は吸い上げた地の力を巧妙に外へ逃がさぬような構造になっておる。吉原にも龍脈はあったから、移築前はこの仕組みでさぞや繁盛したのじゃろうな。焼失を免れたのも同じ理由のはずじゃ。じゃが、吉原の移転先には龍脈はなかったゆえ、この建物は放置された。それを、権八が利用しようとしたのじゃろうが──すぐにそこに気付かなんだはわらわの不覚じゃ。気付いた時には、すでに地の力の殆どがあやつの手に渡っておった。龍脈は、わらわの力の源と言うてもよい。権八の一族は大きく栄え、対してわらわはその力の大半を失い、眠りを余儀なくされたのじゃ」

「……俺の先祖が、そんなことを──?」

「そうじゃ。じゃが、龍脈の力は星の巡りに応じて上がりも下がりもする。権八亡き後、栄華を当たり前のものとした一家はその変化に対応しきれず自滅。あやつを褒めるようで癪じゃが、傑物のあとを凡夫が継げばそうもなろうと言うものじゃ。じゃが、理由はどうあれ障害は取り除かれたことになる。ゆえに更なる時を重ねた今、龍脈の力が再び巡ってきたことによって、この地はかつての正しき姿を取り戻すはずじゃった。──じゃが、そこに取り除かれたはずの障害が戻ってきおった」

「……それって、もしかして──」

 その時、これまでずっと黙っていた十羽織が、震える手で自分自身を指差した。

「そう。すなわち──お前たち御厨の末裔が現れたのじゃ」

 言問命は、そこではじめて、俺たちに険しい眼差しを向けた。俺たち御厨の兄妹と静を、忌々しげに睨んだ。

「この廓は、我が地に害なす存在じゃ。じゃがまだ往時ほどではない。打ち捨てられておった間に龍脈の力を吸い上げる機能の大半が損なわれたゆえにの。じゃがそなたらの動きによって廓は徐々に機能を取り戻しつつある。それゆえ、わらわが力を掌握出来る今のうちに、この場所を破壊せねばならんのよ」

「お、俺たちにそんなつもりは──!」

「つもりはなくとも、存在するだけで害悪となるのじゃよ。建物だけではない。そこな廓の霊は、ただ在るだけで龍脈の力を過剰に食らう。じゃが同時に、そなたらに害意がないことも承知しておった。じゃからわらわは配下の者を使って様子を見させておったのじゃ」

「配下って……あの大蛇がそうだったのか?」

「うむ。あれで人の名も持つ者でな、有藤と言う。じゃが、功を焦ったのか知らぬが、あの者は人であるそなたらに直接手を下そうとした。真幌場の蔵での出来事はあの者が仕出かしたことじゃ。わらわはそのような無粋は好まぬゆえ、よく言い聞かせておったにも関わらずの」

「つまり、最初に葵屋で出くわした時に何もされなかったのは、お前の指示だったわけか?」

「うむ。じゃが所詮は畜生霊よ。神の意のなんたるかを理解せず、彼奴めは神のしもべにあるまじき不調法を行いおった。じゃからわらわはあの者を消した」

「け、消し……?」

 あまりにもあっさりとした物言いに、俺はぎょっとした。

 あの巨大な蛇を、影の化け物を、この女はそんなにあっさり……?

「そうじゃ。蛇霊ゆえに滅することはないが、数百年は形を取ることも出来んじゃろう。そして無粋を働いた部下に代わって、わらわが直々に詫びに参った、というわけじゃ」

「……全然詫びてる感じじゃないんだが」

「対立していることには変わりがないからの。じゃが、詫びる心はあるのじゃ。部下の不始末の償いとして、わらわは一つ譲歩をするつもりで参った」

「譲歩?」

「うむ。わらわは土地神じゃ。統べる土地が栄えておればそれで良い。そしてお前たちにこの地に仇なすつもりがないことも存じておる。ゆえに、この地の繁栄に葵屋が大きく寄与するというのであれば、しばらくの間は様子を見ることもやぶさかではないのじゃ」

「……つまり、どうしろってことだ?」

「一ヶ月の期限を設けることとする。この間はわらわも手出しをせぬ。そして一ヶ月後の今日、四月一日までに葵屋がこの地に有益だという証を立てい。さすればわらわはここより当面手を引くことを約そう」


 ◇


 その後、言問命は、言うべきことはすべて言ったとばかりにさっと身を翻したと思うと、俺たちの眼前から一瞬で姿を消した。

 こちらは終始、言われるがままだった。

 完全にペースを握られていた。

 神様ってのはああいうものなのかもしれないが……それにしても。

 それにしても──参った。

 唐突な情報が多すぎてはじめは実感を伴なえないでいたが……少しずつ咀嚼していくうちに、徐々に事態の深刻さがわかり始めた。そして、おおよその状況を把握した今となっては、悪い夢だと思いたい気持ちが大半を占めるようになっていた。

 本当に、これは夢じゃないんだろうか。

 だとしたら……参った。

 足元から崩れ落ちる感覚とは、こういうものを言うんだろう。

 価値観を完全にひっくり返されてしまった。

 本当は立っているのも辛いほどだった。


 問題は山ほどあった。

 自分の先祖が仕出かしていた悪事のこと。

 知らなかったとはいえ、自分がそれと同じことを繰り返そうになっていたということ。

 敵だと思っていた大蛇が、実はこの土地にとっては正義の側にあったということ。

 そして、その大蛇にすら勝てないと静は言っていたのに、背後にはあいつより遥かに大きな存在が控えていたこと。

 加えて──静のこと。夜宵のこと。

 最後に譲歩をされたとはいえ、静は土地の神に存在自体を否定されたようなものだ。その衝撃はどれほどのものだろう。とても俺なんかに想像出来るものじゃないし、慰めの言葉も浮かばない。

 それと──夜宵に対して、俺はどんな顔をすればいいのだろう。

 彼女は俺を怪我させたことでひどく自分を責めていた。だが実はその根本の原因は俺の一族の側にあったのだ。

 それだけじゃない。俺は夜宵の話してくれたことを思い出す。

 彼女は、自分の家は土地神が姿を消したことで没落したと言っていた。両親は、その庇護を受けられなくなったために悪霊に襲われ命を落としたのだ、とも。

 だが、その原因すら、俺の先祖にあったのだ。

 真幌木家にとって、言問命は仕えるべき守護者であり、御厨の一族は憎き敵だったのだ。

 俺は、夜宵の顔を見ることが出来ない。

 加害者が、被害者に、どんな顔を向ければいいのかがわからない。

 重たい沈黙が場を支配していた。

 十羽織は先ほどから一言も声を発することが出来ずにいる。静は今にも倒れそうな顔をしていた。夜宵は俯いていてその表情が見えない。

「え、えっと、なんか色々大変なことになっちゃってるけど」

 ただ一人──。

「こ、こういう時は美味しいもの食べて! それで元気出そ! それから考えよ! ね?」

 ただ一人、沖がそういって何とか場を取り繕うとしてくれたのに──俺たちは、頷くことすら出来なかった。

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