第二章 初午(はつうま) 其の一
翌日より十羽織は、葵屋での活動に本格的に参戦した。
この出来た妹は、全体の状況を把握するや直ちに予定していた作業に抜けがないかをチェックし、『初午』に向けてのスケジュール工程を綿密に組み上げてくれた。
今まで漠然と進めていた活動が、ここに来て明確な形を成したのである。だがこれはどちらかというと、十羽織が来るまで大雑把な進め方をしていた自分が迂闊だったのだろう。
その一方で、静も抜け目の無さを見せていた。朝にさらりと言われてしまったのだが、実はあれは単なる歓迎会ではなく、『初会』という客と遊女の顔合わせの儀式を兼ねていたらしいのだ。
静によれば、吉原での遊女と客の逢瀬は都合三回のステップを踏むらしい。一回目が『初会』で、このときは杯を交わすだけ。次が『裏返し』で、客は遊女の付き人たちに心づけの金銭を渡す。最後、三回目でようやく両者は『馴染み』となり、ここで遊女が受け入れれば晴れて『床入れ』の儀に進む──とのことだ。
なんとも面倒な手順だが、吉原ではこうしたしきたりが定着していたようだ。だからこそ、さりげなく俺たちに最初のステップを踏ませたのだろう。知らず俺との関係を進ませられていたと聞かされて、沖(となぜか十羽織)は激しく動揺していた。一方の静は『言いせんでしたかや?』などとしれっとしたものである。宴を開けば静の力が増すとは聞いていたが、そんな裏があったなんて話は聞かされていない。まったくもって油断ならない奴だった。
さておき、そうした互いの思惑とは別に、『初午』の準備は粛々と進んでいく。
宴会から数日ほどの時間が経過し──この日、俺は妹のスケジュール表に従い、真幌木と連れ立って街の図書館に来ていた。
その目的は、雪洞の製作法の調査である。なにせあんなものの作り方など誰も知らないのだ。そこで、実際に製作を担当することになる俺──こういった作業は常より俺の領分である──と、本好きだという真幌木が調査を買って出たわけである。
だがあてが外れ、資料の調査はあまり捗らなかった。備え付けのパソコンで検索すると、まず引っかかるのが雪洞というカマクラもどきで、次が雛人形の横に飾られるミニチュア雪洞、その次が大根や人参を切って作る調理法としての雪洞だった。灯籠や行灯と同じ照明器具としての雪洞については、その歴史や変遷を綴ったものがせいぜいで、作成方法はどの本にも記載がなかった。
「見よう見まねで作るしかないかな」
画像写真はそこそこコピー出来たし、複雑な構造のものではないので、何とかならないわけじゃない。ただ、どうしても質が落ちるのは避けられないように思えた。葵屋の行灯部屋にも昔は幾つかの雪洞が保管されていたそうだが、今はすべて紛失してしまっている。一つでも実物があればだいぶ違うんだが。
というようなことを俺が話すと、真幌木は開いていた本をパタンと閉じて俺の顔を見た。
「どうした?」
「もしかしたら、家にあるかもしれない」
「何が?」
「雪洞の、実物」
◇
真幌木の実家は、いわゆる旧家と呼ばれる類の屋敷だった。なるほど、雪洞なんて古風なものを置いているとしたらこういう家だろう。変わった苗字だなと思っていたが、元は『真幌場』だったらしい。まほろばとは『素晴らしい場所』を意味する古語で、古事記でヤマトタケルが最期に詠んだ国偲び歌──静の影響ですっかり和歌にも詳しくなってしまった──にもこの単語が出てくる。相当に古い言葉であることは間違いなく、真幌木の家の歴史を窺わせる話だった。
ちなみになぜ真幌『木』に変わったのかと訊いてみたら、五行思想がどうのという何やら難しい話が始まってしまった。このあたりは、話が終わる前に真幌木宅についてしまったため、俺もまだよくわかっていない。
というか、なんだかんだで真幌木と道中ずっと話を続けていた自分に驚いて、それどころじゃなかったってのが本当のところだ。
人気のない家だった。
両親は「いない」とのこと。それは今いないのか、ずっといないのか、どちらの意味にも取れる答えだったが、俺はそれ以上は聞くことが出来なかった。
だだっ広い庭に、のっぺりと横たわる木造平屋の家屋、どこかくすんだ宅内の空気に、時折前触れ無く響く甲高い鳥の鳴き声──。
そうだと明示するものはなくとも、家の空気のすべてが俺に語りかけていた。
すなわち、真幌木の娘は、物寂しい暮らしをしているのだよ、と。
「お手伝いさんとかいるのか?」
親のことには触れずに、俺はそんなことを聞いた。この広い家を真幌木一人で維持するのは現実的ではないように思えたからだ。
そして真幌木は俺の想像に頷きで応えてくれた。更には「今もいる」と言うので挨拶をさせてくれと頼むと、俺たちのいる客間の柱にかかっていた鈴を数回鳴らしてくれる。すると、しばらくして廊下側から小さな足音が聞こえたかと思うと、客間の襖を開いてかなりの高齢と思われる老婆が顔を出した。
「ひいさま、何か御用でしょうか?」
「うん。この人が挨拶したいって」
「おや。これはこれは……」
老婆は皺のように重なった瞼を持ち上げ、中から僅かに覗かせた瞳で俺をじいっと見つめた。
「は、はじめまして。夜宵さんの友人で、御厨九郎と申します」
やや気圧されながらも、俺はそう自己紹介する。すると、老婆はくしゃりと顔を笑みの形に歪ませ、皺だらけの手で俺の手を取った。
「ひいさまが男の方をお招きになるなんて、初めてのことです。わたしはりつと申しまして、この家の使用人をやらせて頂いております者です。どうぞ、御厨様、ひいさまのことを宜しくお頼みいたします」
「は、はあ」
やたらと繰り返し頭を下げられてしまい、俺も頷くしかなかった。
「……ところで、ひいさまってのは?」
「りつは、私のことをいつもそう呼ぶ。私は夜宵でいいって言っているのだけど」
「そんな、そんな、ひいさまを呼び捨てだなんて、とんでもございません。わたしはひいさまにお仕えする身。そのような無礼を働いたと知れたら、閻羅王様に地獄へ落とされてしまいます」
「どうして『ひいさま』なんです?」
「ひいさまは、ひいさまだからです」
「……?」
いまひとつ、どころかさっぱり意味がわからない。首を捻る俺の横から、珍しく真幌木が「そんなことより」と強引に話を進めた。
「りつ、雪洞はうちに置いてある?」
「雪洞、ですか……さて」
りつさんはしばらく記憶を辿っていたようだが、やがてぽんと手を合わせた。
「そうそう、裏の蔵の二階に、たしか一張だけ残っていたはずです。お持ちいたしましょうか?」
「ううん、自分で取ってくる。鍵だけちょうだい」
「左様でございますか。では、少々お待ちください」
それから俺たちは、りつさんから受け取った鍵を持って裏庭にあるという蔵に向かった。
それは、非常に大きな土蔵だった。十メートルはあろうかという土壁を漆喰総塗籠とし、壁厚もおそらく三十センチは下るまい。葵屋にもまだ手付かず状態の蔵はあるが、これほどの規模ではなく、これほど手が込んだものでもない。重要文化財の一部と言われても納得が出来るだろう。
しかし、内部はお世辞にも整備されているとは言い難かった。りつさんと真幌木の二人で管理しきれるものではないのだろう。中に足を踏み入れた途端、目の前には乱雑に積み上がった保管物の山が展開されていた。
もっとも、吹き抜けの窓からしか光が差し込まないため、まだ日は落ちきっていないにも関わらず、一階はほぼ真っ暗だ。何が置かれているのかが輪郭でしか判断出来ないので、貴重な物を誤って壊さないよう慎重に歩を進める必要があった。
「九郎君、これ」
先を行く真幌木が、ハンカチを渡してくれた。俺は礼を言ってそれで口元を覆い、埃から喉を守る。女の子らしい気遣いを意外に思いつつも、ちょっと嬉しくなった。
中央付近のはしごを上り、階上へ向かう。ひとつひとつは短く、途中で二つの踊り場を経由した。はしごも数本ずつ並んでおり、自分が使ったもの以外は腐りかけているから使わないで、とのこと。
そのため、といえば言い訳なのだろうが、考えてみると、スカート姿の真幌木のすぐ後ろについてはしごを上ってしまった。殆ど真っ暗だったため途中まで気付かなかった──というのも言い訳か。暗がりにかすかにはためくスカートの裾と、その中に隠された真幌木の脚。真幌木は多分気にしないのだろうが、ちらりと白いものが見えた時には動揺してはしごから足を踏み外しそうになってしまった。
「暗いから、気をつけて」
「あ、ああ」
別に暗いせいじゃなかったんだが──あえて恥をかかせるわけにもいかず、俺は心の中で謝るに留めた。
「私の下着を目印にして着いてきて。白だから目立つはず」
「気付いてたのかよ!」
黙っていたことが裏目に出て、俺がこっそり覗き見していたみたいな感じになってしまった。真幌木はどうでもいいと思ってそうだが、どこかで名誉を回復させてほしい切にと願う。
二階に到着した真幌木が、備え付けの行灯で灯を点けた。階上全体がぼんやりと照らされ、たくさんの所蔵物が暗がりに浮かび上がる。行灯の灯はゆらゆらと揺らめき、それらの影を壁の表面で怪しく踊らせていた。張り紙を通しての光は淡く優しいが、壁に映ったシルエットはどことなく不気味だ。古い日本家屋の、土蔵の奥深く。『何か』が出てもちっともおかしくない──それはそんな雰囲気で。
真幌木はしかし、慣れた様子で雪洞を探し始めた。古びた箱を順次開けては、埃を吸い込んでむせている。りつさんの話によると、雪洞の大きさはだいたい一メートル程度だ、とのこと。それを納める箱は、上蓋もそこそこの重さとなり、小柄な真幌木はもてあまし気味だ。俺は真幌木と位置を入れ替え、次々箱を開けていく。
雪洞は程なくして見つかった。一部削れていて読めないが、『嘉永』の文字と、おそらく製作者のものと思われる銘が刻まれている。およそ二百年前のもののようだ。俺は慎重に雪洞の柄と台座とを支え、箱から取り出す。
「持ち出すのは難しそうだな」
箱は本体側が見た目よりずっと重たく、二人がかりでも階下に下ろすのが困難に思えた。かといって雪洞は老朽状態が激しく、裸だと持っていく途中で柄が折れてしまいそうだ。
「きちんと準備すれば持ち出せそう?」
「ああ。でも、そこまでしなくても良さそうだ」
大きなライトを用意して、人手も揃えて。そうすれば箱に入れて持ち出すことは出来そうだが、俺の目的は雪洞の細かな構造を知ることであって、この雪洞そのものを使いたいわけじゃない。この場でしっかり検分出来れば、あえて労を払う必要はなさそうだった。
「ふむ、ふむ」
こういう古い道具を隅々眺めるのは面白い。今では忘れ去られがちなこだわりが随所で発見できるからだ。葵屋の建物もそうだった。半分以上は成り行きであの場所に移り住んだ俺だが、純粋にあの興趣に富んだ建物に美しい姿を取り戻させたいという気持ちも、今やしっかりと根を張っているのだ。
俺は集中して、夢中にすらなって、雪洞の構造把握に努める。一見シンプルな外見の中に、なんと見事な趣向の凝らし方だろう。顔も知らぬ製作者の心意気を間近で嗅ぎ取り、俺はいよいよもってこの道具に魅せられていく。
「どう?」
「ああ。凄く勉強になってる。真幌木がいてくれて助かったよ」
「そう。……良かった」
「え?」
今、真幌木には珍しい台詞が聴こえた気がして、俺は振り向いた。この子は今、良かった、って言ったのか? 俺のために、喜んでくれたのか?
だが、俺の目に映った真幌木の顔は、期待したような笑顔ではなかった。
かといって、いつもの無表情でもない。
まったく想定外の表情。
真幌木はなぜか、いつにない驚きの感情を顔に乗せて、肩越しに俺の背後を──土蔵の壁の方を見つめているようだった。
「真幌木? どうし、た──!?」
つられて壁の方に顔を向けた俺は、声を失った。
そこには、行灯の光に照らされて。
壁一面を覆うほどに膨れ上がった俺の影が、ぐねぐねと、別個の生き物のようにのたうっていた。
「な、なんだこれ」
明らかに異常だった。風の無い土蔵の中で、行灯の火の揺らめきはたかが知れている。だというのに、壁に映った影は太陽の縁を見るかのように激しく揺れ動いている。俺は総毛だった。自分の影が、何か別のものになってしまったような──それは肉体を奪われるに近い恐怖を喚起する。
「もしかして、これもあの蛇の仕業なのか……?」
ぞっとしない考えだった。だがそれが一番しっくり来る。龍脈が目当てならば、葵屋以外で襲撃されることはないと踏んでいたが──甘かったということか。
「……いけない!」
真幌木が俺の腕を掴んで引っ張った。俺は雪洞を抱えたまま、僅かにはしごの側へ倒れこむ。その直後、今までいた位置に俺の影が突き刺さった。触手のように立体化したそれには確かな質量があるようで、床に穴を穿ち、ずるりと引きずり出される。
人の身にあれを受けたらどうなるか──考えるまでもなかった。
「逃げるの!」
真幌木が叫んだ。俺はとにかく頷いて彼女の後を追う。はしごが間近に迫った。ゆっくり降りる暇はない。飛び降りるしかないが、しかし真幌木にそれが出来るのか?
その時、背後の影が天井まで覆い始めていることに気付いた。先端は既にはしごのすぐ上にまで到達し、そこから一本、爪の形に実体化した影が真幌木の頭目掛けて突き下ろされようとして──
「真幌木!」
考えている余裕はなかった。自分の身を省みる時間も。
雪洞を放り投げた俺は、真幌木に全力で飛びついて抱きかかえると、その勢いのまま床の途切れ目の先へ身を躍らせた。
俺たちの身体は、まず踊り場に落下。真幌木を強引に上にしたため、背中に強烈な衝撃が走る。人の身体はこれほど跳ねるのかという勢いでバウンドし、更に下へ。もう体勢を変えることも出来ない。ただ真幌木を守ることだけを考えて、その小さな身体を抱え込む。結果、脳天から次の踊り場の床に落ち、目蓋の裏で火花が飛散。最後はそこから転げ落ち、土蔵の地面を更に転がって長持にぶつかり、ようやく停止した。
「────!」
声は出ない。出せるわけがない。激痛を訴える箇所が多すぎて特定出来ない。骨が折れたかどうかさえもわからない。
ただ──生きている。意識はある。多分これは奇跡。脳が無事かに自信はないが、大丈夫、意識があるなら真幌木の状況を確かめることくらいは出来る。
「九郎君!」
真幌木が俺を呼んだ。すぐ真上で。その肩越しに天井が見える。それで俺は、床に横たわった俺に真幌木が覆い被さっているのだと理解する。
「怪我、は」
真幌木はぶんぶん、と強くかぶりを振った。目尻に溜まった涙が飛び散り、俺の顔にも降りかかる。
「わ、私は大丈夫っ……あなたが、かばってくれたから……!」
「そ、うか」
とにかく、真幌木が無事で良かった。と安心したのも束の間、目に何かが入り込んできてただでさえ霞んだ視界を完全に閉ざそうとする。その粘つく感触に、ああこれは血だ、と俺は理解した。頭を打った時に出来た傷口から流れた血が、瞼にまで広がってきているのだろうか。
って、仰向けでそうなるのってかなりやばいよな……。
「さっきの、やつ、は……?」
「追ってきてない! 大丈夫だから! だからもう喋らないで!」
真幌木の声が遠くに聞こえていた。血まみれになった視界で、かすかに彼女の泣き顔が映る。どうあれ、あの影から逃げることには成功したようだ。途切れ途切れの思考の中で、それだけでも確認出来て良かった、と思う。
そして、真幌木に言われるまでもないな、と思った。
だって、もう声なんて、出せやしないんだから。
俺の意識は次の瞬間、ぷつりと途切れた。