第一章 初会(はつえ) 其の三
この日より、俺たちの生活は一変した。
静はその日のうちに結界を解除したため、沖たちも一旦は解放されたが、なし崩し的に決まった取り決めに従って二人は毎日葵屋にやってくるようになった。本当はそんな義理もないのだが、やはり幼い静を放ってはおけないのだろう。沖などは「九郎君が気にすることないよ」と苦笑いで、頭を下げる俺を慰めてくれた。
もっとも──彼女が平静を保てているのは静がいない時だけだった。この憑喪神の教えは苛烈なもので、薙刀以外の稽古の時ですら沖たちは全身に湿布を貼る羽目に陥っていたし、代案でない方、すなわち『遊郭の本来の営み』をなすためにも静はあの手この手の策略を仕掛けてきた。
その内容については、主として沖の名誉のためにいちいち説明はしないが──
「九郎君、知ってる?」
ふらりと現われた真幌木が、いきなり質問してきた。
「何が?」
「最近の九郎君と私たちの関係を表す言葉があるみたいなの。世間では、『らっきーすけべ』と言うんだって」
「……」
「らっきーだった?」
「黙秘させてもらう……」
がっくりくるようなことを言われたりもしたが、俺は俺でやることが山積みだった。『初午』に向けての準備を進めつつ、楼主として江戸時代の経理知識──算術教本を読み解く。更には残りの時間を使って葵屋内部の補修を行なう。材木は、知り合いの大工たちから余りものを引っかき集めて何とかしたが、都合よく形の合うものが入手できない場合も多く、この作業はなかなかに骨が折れるものだった。
それでも、修繕を進めることでも多少は静の力が増すとあっては、面倒がってもいられないのだった。でないと、いつまた発生するかわからない大蛇の襲撃を警戒するあまり、静が良からぬことを企てる可能性がある。
そうなった時に一番ありえる展開と言えば、日々あいつがプロデュースしている『らっきーすけべ』が洒落にならない内容になることだ。もし今以上のことが起きたら、今度こそ沖に泣かれてしまう。その牽制のためにも、俺は俺で修繕作業をしっかりと進めていきたかった。
そんなこんなで幾ばくかの日々が流れた、ある日。
葵屋の屋根に上り、汗みずくになりながらトンカチを振るっていた俺を、軒下から呼ぶ声がした。
「精が出ますね、兄さん」
俺はぴたりと作業の手を止め、声のした方を見た。
「……十羽織? お前、どうしてここに」
十羽織は名の通り、御厨の10番目の子だ。俺にとっては一つ違いの妹ということになる。その十羽織が、葵屋の玄関口に立って俺を見上げていた。
「私に兄さんを放っておけと言うのですか」
なぜか十羽織はぶすくれた顔で言った。
「父様たちとあんな酷い喧嘩をしておいて、それでもきっと戻ってくるかと思っていたら、いつのまにかこんな場所に移り住んだなんて話を聞かされて……心配するなという方が無茶だと思いませんか」
「そいつは……いや、たしかに俺が悪かった。すまん」
忙しさにかまけ、電話のひとつもしていなかったことに今更思い至り、俺は屋根の上から頭を下げた。
と、そこで十羽織の姿が妙なことに気付く。
別に服装がおかしいわけではない。トレードマークとも言える平安時代の姫君のような長い黒髪を優雅に垂らし、きっちりとしたダークブラウンのコートに身を包んでいる。
ただ、妙に隣に置いてある鞄が大きいのだ。ボストンバックよりもなお大きい。まるでこれから長期の海外旅行にでも向かうかのような──
「……おい、十羽織。お前まさか」
長年の付き合いから、ピンと来てしまった。それを目敏く察して、妹はふふんと鼻を鳴らす。
「理解が早くて助かります。そんなわけで、しばらくお世話になります」
「よく親父たちが許したな……」
俺の実家、御厨はいわゆる名家にあたる家柄だ。権八亡き後一旦は没落したが、俺の両親の代で持ち直している。それは、『稼ぎ手を増やしてお家を再興せよ』、との祖父母からの言いつけを両親がきっちり守って子沢山となり、兄や姉がそれに応えて各々が一芸をものとし、それぞれの分野で活躍しているためだ。各業界紙では頻繁に御厨の名が踊り、特徴的な響きともあいまって、この国では知らぬ者のない一族となっている。御厨の再興は既に成ったのだ。
だがこれに気を良くした両親は、自分たちの功績とも言い難いのに傲慢となった。家柄にこだわり、子供たちにもそれを求めるようになった。
だから、そんな親父たちが、十羽織が葵屋に移り住むことを簡単に容認するとは思えないのだが──
「別に勘当はされてませんからね?」
兄さんじゃないんですから、と十羽織は憎まれ口を叩いた。
「ご存知のとおり、私は要領が良いのです。兄さんのように真っ向から父様たちにぶつかったりはしませんから」
「それは知ってるが」
むしろ普段の十羽織を知っているからこそ、今回の妹の行動が無茶に思えるのだ。
まったく顔に出していないが、おそらく十羽織がここに来るまでには、相当な苦労があったはずだ。考えてみれば、俺が葵屋に来た翌日には押しかけてきても不思議ではない性格なのである。それが数日かかったということは、その間ずっと両親からの許可を得るためにあれこれ手を尽くしていたということなのだろう。
「まったく」
仕方ないな、と俺は肩を竦めた。
「何か文句でも?」
「いや」
かぶりを振る。こいつがそういう奴だということも、重々わかっていたことだからだ。
御厨の子供たちの中で、俺だけはこれという特技がなく、両親から「出がらしめ」と蔑まれていた。けれど十羽織はそんなとき決まって「だったらその下の私も出がらしということじゃないですか」と励ましてくれた。俺がその言葉にどれだけ救われていたかについては、到底語り尽くせるものではない。
御厨の、十羽織。そんなわけで、こいつは俺にとって一番仲の良い大事な妹なわけだが──それだけに、一度決心をしたこいつに勝てないこともよくわかっている。
すなわちこのときより──葵屋に住人が一人増えたのだった。
◇
で、早速歓迎会という名の宴会の準備が始まった。
「え。なんなのですかこれ」
十羽織は展開についていけず、唖然としている。無理もないが、こいつだって突然押しかけてきたのだからお互い様というものだ。あの日葵屋を訪れてからというもの、静を中心とした騒動に俺も沖たちも翻弄され続けているが、こうなれば一蓮托生、妹にも存分に巻き込まれて貰おうと思う。
というわけで、兄一人で寂しく暮らしているのを慰めにきたつもりだった十羽織は、いきなり静・沖・真幌木の三人を紹介された上に、宴の準備に忙しく駆り出される羽目になった。一応主賓なのだから悪いとは思うが、実は今の葵屋には電気が通っていないので、何をするにしても手間がかかるのである。使えるものは猫でも十羽織でも──実際こいつは万事に有能なのだ──使わなければならない。
大蛇に狙われているのに何を暢気な、と思うなかれ、静によればこうした催しも立派な遊郭の営みなのだという。滞りなく行えばわちの力もそれだけ増しんす、と少女はのたまった。やたらと細かく手配する酒の銘柄を指定されたが、そのときの静の嬉しそうな顔といったらなかったが、とにかくそういうことらしいので俺も従った。沖と真幌木の二人も、今日に限っては葵屋に泊まることとなり、万全の体制である。
「はあ……まさか兄さんがこんなにたくさんの女性を連れ込んでいるなんて」
そうして宴会が始まると、いきなり十羽織がぼやき始めた。俺の正面の席に陣取り、どこか恨みがましい目でこちらを睨んでくる。
「いちいち嘆くほどのことでもなかりんしょう。ホレ、外を見りゃれ、杯を手にしなませ。月を肴に手には美酒。なればどんな荒御魂とて鎮まろうというもの。さァさ呑みんしょう」
「私たち、未成年だから……」
杯を掲げた静に、あははと苦笑いで応じたのは沖だ。見た目は静の方が若いので少し奇妙な光景ではある。
「でも、これ美味しい……。静さんって、料理が上手なんですね。遊女って自分で食事も作っていたんですか?」
猫足膳に乗せられた小料理を口に運んで、沖が感嘆の声を上げた。静は杯を片手に、満更でもない様子でそれに答える。
「妓楼には専門の飯炊きがおりんしたよ。けれどわちは廓の憑喪神でおすから、あらかたのことは承知しておりんす」
「なにげに万能なんだよなあ、お前って」
いきなり静が襷がけとなった時は目を疑ったが、出てきた料理はなかなかのもの。見た目どおりの年齢ではないと思ってはいるものの、子供姿の静にこういう技を見せられると、高校生の俺としては思うところがないでもない。そんなわけで、今はひょいひょいと料理を摘みながら後学のために味を盗もうとしている最中だったりする。
「今夜はここで雑魚寝になりそうだな……」
酒宴の場は、例の座敷だ。隙間風が酷いため、俺と十羽織の部屋に置いていた火鉢もこっちに持ってきていた。そして宴の後ともなれば、それらを部屋に戻す気力が多分俺に残されていないだろう。
「本来は廓の流儀に反する話でおすが、しょうこともなしんすね」
計四つの火鉢と行灯の灯に包まれて、襦袢をはだけさせた静が艶めいた笑みを浮かべた。ちらりと覗いた胸元や太ももは冴え冴えと白く、幼い外見と相まって、色っぽいというよりも──危うい感じがある。だがそれがまた怪しい魅力を醸し出しており、十羽織などは息を呑んで見惚れている様子だ。
しかし俺の目には、他の三人もそれぞれに魅力的に映っていた。優劣をつけるなんておこがましい話だし、何よりこの場では無粋だろう。
沖も真幌木も、今日は葵屋に合わせてパジャマではなく和風の夜着を持参していた。先ほど風呂にも入って貰っていたため──実はこの準備が一番大変だったわけだが──既にそれらを身に纏っている。十羽織はもともと着物を好んでいたので、二人と似通った姿だ。
障子を僅かに開けた空には玄妙な月。下界には見目良き女どもが夜着姿で杯を干す。妙なる情景に俺の煩悩なんてものは綺麗に駆逐されてしまったようだ。ただ全員が全員美しく、一幅の絵画を目の前にしたかのような厳粛な心持ちで眺めるばかりだ。
「九郎君。お願いだから寝顔は見ないでね」
それでも見られる当人は恥ずかしいのだろう、沖がそう耳打ちしてきた。酒は飲んでいないはずだが、雰囲気に酔ってしまったのか、さっきから妙に距離が近い。脇にくっついて、どこか餌をねだる犬に似た感じがある──という言い方は失礼か。
ただ俺は、内心では常日頃からそういう印象を沖に抱いていたりする。絶妙な跳ねをみせる長めの髪がそうさせているということ以上に、その立ち居振る舞いや行動がどうにも犬っぽいのだ。まあ俺はそのおかげで、どれだけ学校内で人気がある存在であっても緊張せずに済んでいるわけだが。
俺は杯に注いだジュースを舐めながら、沖と知り合った当時のことを思い返した。
彼女と俺の交流は、実は半年ほど前に遡る。クラスが別だったため接点は皆無だった俺達だが、ある日俺が彼女の飼っている犬の小屋を修理したのだ。
前述したとおり、俺はここ一年ほど、葵屋を修繕するための大工技術の習得に勤しんでいた。もちろん本格的な訓練は大工さんの作業場に赴いてその手伝いをする形で行っていたのだが、当然何もかもをさせて貰えるわけではないから、身に付けた技術の使いどころを別の場所に求めたりもしていた。
その一つが、沖の家の犬小屋修理だったわけである。
たしか、特に用もなく散歩していた時のことだったはずだ。そこが沖の家の前だということも知らず──そもそもまだ面識がなかったから当然だが──のんびりと歩いていた俺の視界に、たまたま庭の犬小屋が飛び込んできたのだ。
その小屋からは一匹の老いた犬が上半身を出していたのだが、なんだか妙に居心地が悪そうで、そのせいか元気も無いように見えた。
だから、ついお節介で俺は家の奥様に言ってしまったのである。あの犬小屋を新しいやつに作りかえさせてくれと。
いきなりの申し出に奥様は面食らっていたようだった。口にしてから俺もしまったと思った。しかし一度言い出した以上は後には引けないし、犬のためにも最低限の修理はしてやりたい。結局俺はなんとか話をまとめた後、大急ぎで小屋を完成させて立ち去った。
そしてこの日、沖はずっと出かけていた。だからこの時点で俺達が出会うことはなかったのだが──後日、突然俺は彼女に呼び出されて礼を言われたのだ。
なんでも、飼っていた犬が新しい小屋になってから急に元気を取り戻したのだそうだ。だからどうしてもお礼を言いたかったのだと。
ちなみに、不審がられないために俺が名を名乗っていたこともあって、犬小屋の作成者を沖が突き止めるのは簡単だったらしい。
そして俺も、自分の製作したものを喜んでもらえて嬉しくならないはずがない。だから更に後日、俺は犬小屋をより良いものとすべく沖のお宅にお邪魔した。突貫で作ったため色塗りも出来なかったし、他にも細かな手直し箇所は多々あったからだ。
その時の作業は丸一日かかった。日曜朝から始めて、夜遅くまで。幸い母君からの覚えもめでたくなっていたので、庭に入り浸ることに問題はなかった。その間、沖はやたらと甲斐甲斐しくお茶だのお菓子だの肩もみだのと尽くしてくれたのだが、実はこれが、俺が沖を犬っぽいと思うようになったきっかけである。
最後には沖自身が作ったという手料理まで夕食として振舞われてしまい、こっちが恐縮しながらお宅を後にしたわけだが──以来彼女とは、二人で遊んだりはしないまでも、目が合えばちょくちょく話す程度の関係が続いている。
「──どうしたの?」
「あ、ああ。すまん」
沖の声で、俺は我に返った。こっちも雰囲気に酔ってしまったのか、随分と前のことをつらつら思いふけってしまったようだ。
けれども、飲んでもいない酒に酩酊しているかのような感覚は、まだ少し頭から離れてくれないようで──
俺は、すぐそばにいる沖の顔をぼんやりと眺めた。
「沖」
「うん?」
「お手」
「? わん」
首を傾げながらも、差し出された俺の手に自分のそれを重ねてくれる沖。意外とこういうところはノリが良くて、楽しい奴だ。
というか、俺は何をやってるんだ。
「す、すまん」
焦って戻しかけた俺の手を、今度は沖が握ってきた。
「わん?」
「?」
彼女の意図が読めず、俺は首を捻った。だが、何かをせがむような目に一つぴんと来て、空いた方の手を沖の頭にぽんと乗せた。
「えと……よく出来ました?」
「へへー。わん」
へにゃ、と沖が相好を崩した。傍から見たらまったく意味不明だろうが、これは犬小屋修理の時に沖が飼い犬とちょくちょくやっていたやり取りなのである。彼女はこれを、主人とペットという関係でなく、対等の友達の遊びとして行っていた節があったから、俺にも同じ流れを求めたのだろう。
だから、別に沖が俺のペットになりたがっているとかそういう怪しい話ではないのだろうが──それにしても。
「ふふ、くふふ」
沖は幸せそうに蕩けた顔をしている。俺も、彼女の風呂上りの湿り気を残した髪の感触が思った以上に気持ちよくて、反応がいちいち面白くて、つい頭を撫で続けてしまう。なんというか、やめ時を見つけられない。見つけてしまうのが惜しい気がする。
「灯」
突然、真幌木が沖を背後から抱きかかえた。緩みきっていたところにいきなり腕を回され、びくうっ、と軽く飛び跳ねた沖が、そこで正気に返る。
「や、夜宵ちゃん? どうしたの?」
「……」
真幌木は何も答えず、沖の体を引っ張って俺から引き剥がした。
それから、いつもの静かな目を俺に数秒向けて、ふいっとそれを外す。ちょうどそこで自由人状態だった沖が摘んだ料理に舌鼓を打ったので、自然な流れで女子二人は会話に移行した。
後には、取り残された形で男が一人。
そんな俺を隣で笑う声がした。
「振られなましたな」
いつのまにかそばに座っていた静が、そう言って俺の頬を指で突いた。
「言ってくれるなよ、これで案外ほっとしてるんだから。……本当だぞ?」
実際、今の沖とのやり取りは、普段の俺たちの距離感からすると大きく逸脱するものだった。先日から劇的に接する機会が増えたとはいえ、安易に雰囲気に流されてしまうことが互いにとって良い結果に繋がるとは思えない。その意味では、真幌木には助けられたと思っているほどなのだ。
「くふ。あるじさまは今の世に生きながら、江戸の男子よりも古い考えをお持ちのご様子。もしや源の名に寄り添おうとのお心でいなますか?」
「源? ……ああ、義経のことか」
源"九郎"義経。いきなり鎌倉時代の英雄の名を出され、俺は苦笑した。
「そりゃあ九番目の子供だから九郎ってのは同じだけど、俺の親に義経にあやかろうなんて気持ちはなかったらしいぞ。他の兄弟はそれぞれ凝った名前を付けられたが、俺だけは単に考えるのが面倒だから九郎にしたって話だ。……俺はそれを、親から直接聞かされたんだよ」
苦い記憶だった。まったく、せっかくの美味い飯が不味くなってしまうじゃないか。
と、静はもう一度笑い声を立てた。けれどそれは俺を馬鹿にしたようなものではない。そうわかったのは、まなざしが優しく、声が澄んでいたからだ。
「それでも良き名でおす。あるじさまの名は、とても良き名じゃと思いんす。十羽織にも負けておらんせん」
「それこそ、判官贔屓だろ?」
「贔屓で構わぬではござんせんか。日ノ本一の英雄の名を、『静』が慕わずになんと致しんす。そういえば葵屋の廓内にはかつて九郎助稲荷もあったはず。九郎様よ、廓の守り神よ、この廓を、わちを、その手で守ってくりゃるか?」
「……ったく、お前は」
そういえば、義経のパートナーの静御前は白拍子だったか。そして白拍子は時には遊女として振舞うこともあったとか。ちょっと面白い符号だなと思ってしまったのが失敗で、静はさりげなくこっちの懐に小さな体を滑り込ませてきた。すっぽりと胸元に収まる感じに、押しのけようとする気持ちは薄れ、襦袢に焚き込められた白檀の香にくらくらする。いや、違う。これは静の香りか。
などと俺が考えていると、不意に誰かに袖を引かれた。首を向けると、真っ赤な顔をした十羽織と目が合う。
「どうした?」
「……わ」
「?」
「わ、わ、わ」
「だ、大丈夫か?」
そういえば、こいつは匂いだけで酔ってしまうほど酒に弱いのだった。俺は頬をさすってやろうと手を伸ばす。だが、
「~~~~~!」
突然、涙目になった十羽織によって突き飛ばされてしまった。それから妹は唇を噛み、俺のいた場所に残されていた静にすがりつく。
「む、無理、私には無理ですっ」
「いきなり何をしんしたかと思えば……先の灯の真似事かや? 女にはおのおのの見目に応じた手管というものがござんすよ。ぬしにあれが出来るとは思いいせんが」
酔っ払いを相手に、珍しく静が呆れた顔をしていた。先ほどの沖・真幌木に続いて、またもや俺は置いてけぼり。二人の会話の意味がわからず、目を白黒させるばかりだ。
その時、障子の隙間からひゅるりと風が吹き込んだ。外で突風でもあったのかもしれない。その推測の証拠とばかりに、風に乗って一枚の花びらが舞い込んできた。
「ふむ。狂い咲きでおすな」
静が花びらを手に取り、愛おしむように見つめる。
それは桜の花びらだった。本来、二月のこの時期に咲くものではない。この近くに桜の木が植えられていた覚えもない。
どこかで季節外れに咲いたものが、遠く運ばれてきたのだろうか。
静は花びらを杯に浮かべ、障子の間から顔を覗かせている月を見上げた。
「わちもこの時代に狂い咲いた身。ならばせめて美しくありたいと思いんす。この桜のように」
見上げた視線の先で、鳥が一羽、空を行き過ぎていった。
花はある。鳥もある。風は吹き、月は照る。
俺たちは静に倣い、揃って夜空を見上げた。
色々と問題は山積みだが、今この瞬間だけはそう捨てたもんじゃない。きっとこの場の全員がそう感じているだろうという不思議な確信を覚えながら、俺は杯に映った月を飲み干した。