第一章 初会(はつえ) 其の二
女の子は静という名前らしい。
どうしてか葵屋の内部構造に詳しいらしく、『内証』で話そうかと提案した俺に対して首を振り、「こちらへ」と二階に誘った。
遊郭の二階には、手前に客と遊女を引き合わせるための座敷がある。そこで話が上手く運べば奥の個室へと招かれる、というのが廓遊びのおよその流れだ。そして静は今回、階段を上ってすぐの座敷に腰を下ろした。光が十分に差し込んで明るかったので、俺たちにも特に異論はない。めいめい腰を落ち着け、ようやくいざ話し合い、である。
とはいえ、何から話せばいいかわからないくらいに色々なことが起こったわけだが──
「とりあえず……君が何者なのかを教えてほしい」
俺はまず自分から自己紹介をしたあとで、静にそう頼んだ。なにしろこちら3名はただの高校生だ。せいぜいこの建物が俺の実家の所有物件だという程度で、他に特筆すべきものはなく──対する静は謎だらけだ。これでは少女にどんな態度を取ればいいかわからない。
「わちが何者か、でおすか」
呟く静は、今更のように気付いたが、着物を身に纏っていた。それも、幼い身──10歳くらいだろうか──にそぐわぬあでやかな、緋色の装束。たしか、襦袢に打掛というのだったか。幾枚も重ね着し、それぞれに龍や鳥の紋様が描かれていて、なんとも風雅な印象だった。
「わちはの」
そして、静は──くふりと笑んだ。俺はその表情に、なぜかぞくりとする。恐怖から、ではない。その幼い外見から発せられたとは思えぬ色香を感じ取り、知らず唾を飲み込んだ。
やっぱり、この子は普通の子供じゃない。俺の中で、改めてそうした実感が沸いた。
いや、もしかしたら人間ですら──
こちらのそんな内心を読み取ったのだろう、静はいっそう愉快げに目を細めると、告げた。
「──わちは、この葵屋の憑喪神よ」
「……憑喪神?」
「あい」
静は頷きに含み笑いを重ね、
「いわば、遊郭の──廓の霊でござんす。廓に住む霊、ではなく、廓そのものがわちなれば、この姿は映し見でおすが、同時に本体でもありんす。ゆえに、今あるじさまたちは、わちの中におると言うてもよい状況」
「……い、いや、ちょっと待ってくれ」
何か凄いことを言われたような気がする。だが理解が追いつかず、俺は反応に窮した。すると隣の真幌木が説明を加えてくれる。
「憑喪神とは、長き時を経た物に宿る霊魂のこと。つまり、この子は一種の幽霊。実体があるようだから、やっぱりあの大蛇のようにあやかしと考えた方が近いとは思うけど」
「そ、そうか」
なんとなく──本当になんとなくだが、わかったような気はする。昔見た漫才で、酒の杯に霊が宿って手足が生えて、なんてのをやっていたが、あれをもっとスケールアップさせたケースなのだろう。
もっとも、やっぱりこの建物と目の前の小さな女の子がイコールの存在だという実感は沸かないわけで、俺は混乱かたがた静をまじまじと見つめてしまった。すると少女は、裾をさばいてこちらに背を向けてしまう。
「そのように熱く見られなますな。わちにも照れはござんす」
だが背中越しに振り返るその顔に、照れた様子は毛ほどもない。遊郭の霊だけあって、男の視線に物怖じするようなことはないのだろう。
そのとき、隣に座っていた沖が不意に腰を上げ、静に水を飲ませてほしいと願い出た。大蛇との騒動では何回も叫んでいたし、喉がからからになっていたのだろう。静が飲み水を溜めた水甕と杯の場所を教えると、とたとたと小走りで姿を消す。
「よう気のつく娘でござんすな」
「ん?」
どういうことだ、と聞くも静は答えない。そのうちに沖が戻ってきて、手に持った杯を──はい、と俺に差し出してきた。
「沖?」
俺はきょとんとしながらも、反射的に杯を受け取ってしまう。すると、今度は「飲んで」と目で促してくる。俺が言われるがままに杯に口をつけ、ぐびりと一気に飲み干すと、沖はにっこりと笑みを浮かべた。
「杯が一つしか見つからなかったから。次は夜宵ちゃんね」
言って、真幌木の答えを待たずに再び水甕のほうへ姿を消す。
「……そういうことか」
俺はようやく気付いた。沖が水を欲したのは、自分のためではなく、混乱していた俺のためだということに。
「落ち着きんしたか?」
静がそう問いかけてくる。ここで正直に「まだだ」と答えて、沖の気遣いを無碍にするほど俺も馬鹿じゃない。頷いた俺は、静に次々と質問を始めた。そして、これに対する少女の回答によって、俺たちはおおよその事態を飲み込めるようになった。
その内容を整理すると、だいたい次のようになる。
まず、ここ葵屋は──これは俺も承知していた話だが──江戸時代に吉原の遊郭として建てられた。その当時は大層繁盛したらしい。静によれば、ここが『龍脈』という土地の力が集まるポイントに建てられたことが大きかったそうだ。風水、というやつと同じ考えで、とりわけ葵屋はその恩恵を強く受けていたのだと。
その後、吉原は明暦の大火という大火事に見舞われる。そして風俗の乱れを産む吉原を疎んじていた時の幕府は、これを機に移転を強要。殆どの廓は新たな地で建て直されたのだが──龍脈の力により火難を免れていた葵屋は、俺の先祖である御厨権八によって今の場所に移築された。この権八も一方ならぬ人物だったようで、移築先としてまた別の龍脈が宿る場所を選んだらしい。彼はそれによって大いに富を成したのだとか。
だが、龍脈の流れは一定ではないものらしい。権八の死後、龍脈の力が他へ移ったと同時に俺の家は没落。葵屋は放置され、やがて幽霊屋敷となった。
しかし10年ほど前に、この地には再び龍脈の力が戻ってきたのだという。だからといって老朽化した建物が勝手に修復されることはないが──代わりに、憑喪神である静が顕現。葵屋の守り人として、あるじの帰りを待つようになった──。
「だから、権八の子孫の俺が『あるじさま』なわけか」
「あい。ゆえにわちの望みはあるじさまと共にこの葵屋を盛り立て、かつての栄えを取り戻さんこと。そのためであればいかな手立てとて厭わぬ腹積もりでおす」
「その気持ちは有り難いんだが……」
実際、俺の望みもそれに近いものではある。この葵屋を綺麗に出来れば住むには困らなくなるし、元々が立派な建築物だったのだから、それ自体に大きな価値が生まれる。そうなれば四方儀兄──建築事務所を営んでいるという家族のことだ──も喜ぶだろうし、人のことをやれ出がらしだなんだと見下してばかりの両親を見返してやることも出来るだろう。
しかし俺には、渡りに船と単純に喜ぶ気にはなれなかった。
なにしろ問題は、まだまだ残っているのだから。
「結局、あの蛇はなんだったんだ?」
「あれは、葵屋の龍脈を狙う悪しき妖怪でおす。数年前よりたびたびわちの結界を侵すようになりんした」
「結界というと……あの玄関口にあったやつか?」
「あい。以前であれば侵入を許すこともござんせんでしたが、どうしてか彼奴めは近頃力を増しており、今日とて気付けば広間に居座られる次第。わちとて龍脈の恵みを受け少しずつ力をつけておりんすが、彼奴めの勢いには及ばず……」
先ほどは本当に危のうござんした、と静は息を吐く。つまり次を守れるかはまったくわからない、ということなのだろうか。
「しかし、葵屋が栄えればわちの力は更に増しんす。そうなりゃァ彼奴めに遅れを取ることなどありいせん。ゆえよって、この機にあるじさまらが来なましたことは、大層幸いでござんした」
「……あるじさま"ら"? 俺はともかく、沖たちには関係ない話だろう?」
「九郎君」
そのとき、真幌木が口を挟んだ。この状況下で、呆れることに持参していた本を開くというマイペースっぷりを披露していた彼女だが──それをパタンと閉じて俺を見つめる。
「気になったことがあるの」
「な、なんだ?」
「その結界のこと。今の話だと、静が外部の者の侵入を防ぐために作ったものみたいな言い方だったけど、本当にそれだけなのかな」
「というと?」
「もし結界がそうしたものなら、なぜ私たちは通ることが出来たの? なぜ高木君たちにだけ効果があったの? そして、なぜ一度は入った私たちが出ることが出来なくなっていたの?」
「それは……」
どうなんだろう、と俺は静を見る。
すると──ふいっと顔を背けられた。
……ん?
俺は静の横に回り、再度目を合わせようとした。
今度は、反対側を向かれてしまう。
「静? おい?」
「九郎君」
呼ばれて振り向くと、真幌木が口を開いた。
「一つ推測出来ることがあるの。ここは元々は遊郭だった場所。静はそこを盛り立てたいと言った。補修するとかでは無く、栄えさせたいと。そして結界に入れたのは九郎君と灯ちゃんと私。主人である九郎君以外は、二人とも女。その上、私たちは出ることも出来なくされた。つまり、女だけを招き入れて閉じ込める──あの結界はそういう類のものだと思えた。……遊郭に女を閉じ込める理由なんて、私には一つしか思いつかない」
「……っておい、まさか」
俺は真幌木に詰め寄ろうとした。そのとき、かしゃん、と音がした。見ると、沖が呆然とした顔で立ち尽くしていた。その足元には取り落とした杯があって──
「つ、つまり、静ちゃんは私たちを女郎にしようと……?」
震える声でそう言う沖。だが確かに今の真幌木の話は辻褄が合う。何より静の不審な態度は、明らかに彼女の推測を裏付けていた。
「静。あの結界は、そういうことだったのか?」
閉じ込められたことと大蛇に襲われたことには、別々の理由があったということか。だが、遊郭を栄えさせるならば、男だって必要ではないのか。不快な想像だが、もし沖たちを遊女に仕立て上げようというのならば、その相手が必要なはずだ。主人がいて、遊女がいて、しかし客がいないでは廓は成り立たない。
積み重なるそれらの疑問に──そのとき、ようやく静が口を開いた。
「あの結界の名は、女衒と申しんす」
少女はひたと俺を見据え、言う。
「効能のほどは、そこな娘御の言うたとおり。雌を捕らえる蜘蛛の巣がごときもの。雄は弾く性質ゆえ、蛇めを遠ざけるためにも好都合でおした。あるじさまのみは効果の及ばぬよう細工しんしたが」
ゆえに、本来あるじさまだけは出ることも叶ったはずでおした、と続ける。
その口ぶりからすると、静の細工は思惑どおりの結果を生まなかったのだろう。それがために、主人である俺まで図らずも閉じ込めることとなってしまったようだ。憑喪神という常識外の存在であろうと、静はまだ10歳と若く、あまり複雑な術は使えないのかもしれない。
「ともあれ一部に手違いはあれども、結界はおおむね機能しておりんした。その目的について、最早説明は不要でござんしょう。そこの娘の申した通りでおす。ただし──一つだけ誤解がござんす」
「それは?」
「葵屋はただ今、特異な状況に置かれておりんす。なぜよって、葵屋そのものであるわちが、こうして一人の娘として生まれ出でたのでおすから。そして下っ端の女郎ならばいざしらず、吉原の花魁ともなりんせばその身持ちは大層固いものでおす。たとい幾百の小判を積まれようとて、心許した御方以外に肌を晒す不義は致しんせん」
静はそう言って、袖口で微笑む。幼い身ながら、遊郭の霊たる誇りがあるのだと、態度が告げていた。
「そしてわちが唯一人の御方に寄り添うならば、それは葵屋すべてが惣仕舞いにあるということ」
「惣仕舞い?」
「廓の遊び方の一つでおす。今風に言うなりゃァ一日貸切、といったところでありんしょう。その日、妓楼は筆頭女郎から禿などのお付きの女童、はては裁縫女や飯炊き女に至るまですべて一人の男に尽くしんす。当時、よほどの大尽でなくば叶わぬ豪気な遊びでござんした」
「……えっと、つまり静は、というか葵屋は俺が貸しきった状態になっていて──」
俺は頭の中を整理しながら、言った。
「だからお前は、他の男が立ち入れないように結界を設置していた、ということか?」
「あい」
「けど、その惣仕舞いってのはいつ終わるんだ?」
「わちが他の男に心変わりしいした日に」
「なら、いつそうなってもおかしくないじゃないか。俺とはついさっき会ったばかりなんだから。第一、御厨の男は俺以外にもいるんだ。そいつらが俺の代わりに主人の座に収まる可能性だってあるはずだろう?」
「それはなりんせん。なりんせんよ。決して、決して」
言葉に合わせて、静は一度、二度と、首を横に振った。やけに強い調子で。どうしてそんなことが言えるのか、俺にはこのときまるでわからなかったのだが──のちに、思わぬ流れで知らされることになる。
だが、今はそんなことよりも先に問い質すべきことがある。
「けど、もし惣仕舞いとやらが続くのだとしても、結局問題は残るじゃないか」
「と言うと?」
本気で不思議そうな静に、俺はちらりと横を見遣ってから言う。物凄く口にしにくかったが、話を進めるためには仕方なかった。
「……遊女となった子は、俺の相手をしなければいけないってことだろうが」
びくん、と沖が身体を竦める気配があった。俺はそちらを見ないようにしながら、静に詰め寄る。
だが当の静には、なぜかきょとんとした顔をされてしまった。
「それに何か問題がありんすか?」
「ないわけがないだろ」
「なにゆえでおす? 女が憎からず思う相手に抱かれるだけのこと。至極自然な流れだと思いんすが」
「待て待て、前提がおかしい。なんで沖や真幌木が、その……俺を好きだとかいう話になってるんだよ」
「ふむ? わちの見立て違いかや? のう、ぬしは灯と申したか。ぬしの方ではどうでおすか?」
「わ、私? 私は、その」
「……沖?」
あれ、と思った。矛先を向けられた途端、沖は取り乱し、おろおろと視線をさ迷わせた。だが途中で俺と目が合うと、ぼんっと顔を赤くして自分の頭を抱え込み、そのまま蹲ってしまった。
「お、沖?」
あまりに極端な反応に、俺もうろたえてしまった。
え。……まさか?
だが、確証もないのに思い込みだけで自惚れている場合でもない。俺は動揺する心を抑え、なんとか沖を落ち着かせるために腕を掴む。だが彼女は丸まったまま「待って、待って」と繰り返した。
「お、お願い。私、一度"こうなる"となかなか戻らないの。だからその、顔見ないで、お願い」
沖は耳の先まで真っ赤だった。汗を掻いたうなじが妙に色っぽくて、俺はごくりと喉を鳴らす。
「何とも初いおぼこじゃのう。そうまであからさまのくせに、これでは馴染みとなるのもいつになることやら。退くばかりが女の手管ではありんせんよ」
「も、もうやめてよぉー……」
静の続けた言葉に、沖はとうとう畳に突っ伏してしまった。泣きそうな顔で目を閉じている。申し訳ない気持ちになった俺は、振り返って静を睨んだ。とにかく今は黙ってろと目で告げる。
「ふむ、仕方なしんすえ」静は頷き、「ならば、もう一人はどうでおす? 夜宵だったかの。ぬしはどうか?」
「私は別に、構わない」
「は!?」
俺はばっと真幌木のいる方を振り向いた。
彼女は相も変わらず表情を変えぬまま、とんでもないことを言う。
「だから、九郎君の相手。別に私は、平気」
「や、夜宵ちゃん!? 何言ってるの!?」
沖がゆでだこ状態のままがばりと起き上がり、真幌木の肩をがしっと掴んだ。それはそうだろう。親友がいきなりこんなこと言い出したら、誰だってびっくり仰天して恥ずかしがっている場合じゃなくなる。
というか、びっくりしているのは俺もだった。口数の少ない真幌木とは学校でも接点がなかったから、どんな子なのか今の今まで知らなかったのだが──まさかこんな奴だったとは。
「"そういうの"は、ただの生存本能だから」
本当に平然とした顔で、真幌木は続けた。
「気持ちよくなることだって、当たり前の反応だから私は気にならない。あれは、針で刺されたら痛いのと同じでしょう? どうしてみんな恥ずかしがるのかわからないくらい」
「夜宵ちゃん、あなたまさかもう……!?」
「ううん。"した"ことはないけど。でも、多分平気」
「や、夜宵ちゃんー……」
真幌木の肩を掴んだまま、沖は二の句が継げずに脱力した。それから、助けを求めるように涙目になった顔を俺に向けてくる。やばい、と俺も思った。このままだと混乱は増すばかりだ。どんどんとあらぬ方向へ押し流されていく話を止めるために、俺は「とにかく、真幌木がどうあれ俺にそんなつもりはない」と繰り返した。考えてみれば真幌木に失礼な物言いだったが、この時はそれを慮る余裕もないほど俺も動揺していた。
そして意外なことに、元凶の存在があっさりと俺に賛意を示した。
「まァ、あるじさまがそう仰言えすなら、仕方なかりんせんね」
静はそう言って、小さく息を吐いた。予想外に物分りの良い反応をされた俺は、ほっとする一方で、今度は静が心配になってしまった。
「仕方ない、のはたしかにそうなんだが……あの大蛇をなんとかする手立てはあるのか?」
俺が沖たちと"そういうこと"をしなければ、静の力は強くならない。元々俺が計画していた修繕作業を実施することでも多少の効果はあるだろうが、現時点の俺の力では本格的な作業は見込めないから、おそらく気休め程度の意味しか生まれないだろう。
だがこのままでは、静は近いうちに大蛇に敗北し、葵屋ごと消滅させられてしまうことになる。やり方に多少強引なところはあったが、こんな小さな女の子がそうなることを黙って見過ごすわけにはいかない。
その必死さが伝わったのだろう、静は「代案はないでもないのでおす」と答えた。
「それはどういう?」
「代案と言うても、廓に活気を取り戻させる方向性に変わりはありんせん。なれど、廓の営みは何も男女の床入れがすべてということではないのでおす。吉原こそが江戸の華よ、文化の発信地よ、閨の暗がり以外にも廓の"味"はありんす。でなくば歌麿呂も北斎も生まれ出ではせんかったはず。ゆえに灯、夜宵、そしてあるじさまも、みなには廓を学び、廓と暮らし、わちと共に葵屋を盛り立てていってもらいまする」
「……具体的には、何をすればいいの?」
そうもっともな問いを発した沖に、静は答えた。
「新造──若い女郎には教養。能、三味線、琴、碁、文、川柳、狂歌、薙刀の8つを身につけてもらいんしょう。あるじさまには楼主としての知識を学んでもらうことになりんす。けれど、これらは学ぶ過程それ自体が廓の営み。ゆえに時間制限などはありんせん。それよりも問題なのは月ごとの行事でおす」
「行事? そんなのがあるの?」
「あい。吉原では十二の月すべてに異なる催しを開き、世に盛況を示しんした。これらは時として床入れよりも優先されえした。逆に言いせば、この行事を外して廓を盛り立てることは叶わぬいうこと」
「じゃあ、今は二月だから──」
「大抵の行事は一日より始まりいす。なれば、次は三月一日ということになりんしょう。ただし、行事は旧暦で考える必要がござんすゆえ──この日に行なうべき催しは、旧暦二月の行事、『初午』でおす。雪洞を連ね、大提灯を軒下に掲げて花魁どもが奏楽を致しんす。それに向けて皆で準備を行なう、というのが、葵屋のさしあたっての動きとなりんしょう。──ただし」
「ただし?」
「これはあくまで代案であることを忘れなますな。月に一度の催しは大事なれど、廓の本来の営みはあくまで房事にこそありんす。ゆえよって、わちは先のやり口を諦めんしたわけではござんせん」
「お、お前はまだそんなことを……」
頭痛がしてきそうだった。隣では沖も言葉を失って、口をぱくぱくさせている。
静はそんな俺たちを見遣ると、嫣然とした笑みと共に言い放った。
「どちらがたやすいかを比ぶれば至極当然のことでござんしょう。みなみなさま、お覚悟しなませ」