第一章 初会(はつえ) 其の一
分断された。
現状を冷静に分析すれば、そういうことになるのだろう。
原因は不明だが、どうやら俺たちはのっけからトラブルに見舞われたようだ。
現在、屋敷の中には俺に加え、沖、真幌木の女子二人。外には高木、新谷の男子二人。
ちょうど、前を行く俺達三人が玄関をくぐった直後のことだった。殿役の高木たちが続く前に、突然屋敷の出入りが出来なくなってしまったのだ。
しかも、この分断のされ方がまた現実離れしていた。玄関の木戸は開け放たれ、障害物らしきものもないのに──さながら見えない壁があるかのように人の通行だけが禁止されているようなのだ。
(ありえねえ)
俺は内心でそう呟きつつ、周囲を見回した。
古びた漆喰の壁が、みしりと軋んだ音を立てた。
時代がかった日本式の建築。築年数は三百を越えるという──遊郭跡。江戸の大火事を機に吉原が移転を迫られた際、運良く火難を免れていたこの『葵屋』は、今ある県下に移築されたのだという。
だが移築者の一族が没落してのちは、維持する者もおらず廃墟同然となっていた。そこに、とある事情により訪れたのがこの俺、御厨九郎とその友人たちだったわけだが──
「ど、どういうことなのかな、これ」
あはは、と乾いた笑みを沖が浮かべた。彼女が手を外に伸ばすと、なぜか途中で『壁』にぶつかる。どこにもそんなものは見えないというのに。反対側では高木と新谷の凸凹コンビが同じように侵入を試みているが、やはり無理なようだった。こいつら二人も情けないほどに狼狽している。
「……悪い。とにかく、俺が巻き込んだことは確かみたいだ」
俺はそう言って沖に頭を下げた。肝試しのノリでついてきた男どもや真幌木はともかく、この子については完全な巻き添えだ。過去のちょっとした経緯から好ましく感じていた相手なだけに、いっそう申し訳なさが募った。
「う、ううん、気にしないで。好きでついてきたのは私も同じだし」
実際には親友の真幌木の付き添いだったはずだ。だがそんなことはおくびにも顔に出さずに、沖は気丈に笑う。何が起きているのかはわからないけど、この子を危険に晒すわけにはいかないよな──沖の顔を見て、俺は改めてそう思う。
それに、他の連中についても、やはり責任は俺にあるのだろう。
少なくとも、俺が『妙なこと』を言い出さなければ、皆が今この場所にいることはなかったはずなのだから。
そう──改めて考えても、『妙なこと』なのだろう。
正気を疑われても仕方ないのかもしれない。
なにせ俺は、こう言ったのだから。
この廃墟に住もうと思う、と。
◇
内容はともかく、そう考えるに至った理由は単純なものだ。
まず、葵屋を移築したという粋人、それがすなわちこの俺の家、御厨のご先祖様にあたる人物だということ。
それと、常より両親との折り合いが悪かった俺が、先日とうとう大喧嘩の末に半ば勘当、半ば家出状態となり、住処を失っていたということだ。
一応、最初のうちは友人の家を泊まり歩くなどしてしのいでいた。だがそんなやり方ではいつか限界が訪れる。そこで俺が思いついたのが、実家の誰もが放置していたこの遊郭跡を仮宿とすることだった。
無論、突拍子もない話ではある。しかし実を言えば、俺はもともとこの葵屋に興味があったのだ。仲の良い親族が運営する建築事務所にガキの頃から出入りしていた俺は、職人さんたちから手慰みに大工仕事を教わっていたこともあって──以前から、ご先祖様が取り壊しを惜しんだというこの葵屋を自分の手で修繕してみたいと考えていたのだ。
もっとも、当然ながら相当な費用がかかる話だから、簡単に成し遂げられるわけではない。だから、当面はあくまで出来る範囲で行うというのが前提だ。ただし最終目標は高く掲げており、登録文化財として国に認めさせるところまでを見据えているため、俺自身はそれなりに本気だった。そのためここ一年ほどは、空き時間を作っては大工技術を磨く努力を地道に続けていた。
そして、そんな折に家を追い出されるというトラブルが起こったため、取り急ぎ葵屋の中部をチェックしてみることにしたのだが──教室でつい口を滑らせたのが失敗だったのだろう。高木たちが肝試し気分でついてきてしまい、結果としてこうして巻き込んでしまった、という次第である。
◇
外をぐるっと見てくる、という高木たちと別れ、俺たち内部組は玄関の框を上がり、屋敷の中を探索することにした。暖簾をくぐると、目の前には大きな広間が広がっている。実家に転がっていた資料によれば、左手には遊郭の主人の部屋である『内証』が、奥には二階への階段があるはずだが、暗闇に覆われて確かめることは出来ない。まだ日は落ちていない時間だし、古い建物だから多少は隙間から日差しが差し込んでいるだろうと踏んでいたのだが──予想以上に内部は形が維持されているようだ。喜ばしくある反面、懐中電灯を持ってこなかったことが悔やまれる。
「二階へ行けば、少しは明るくなるかも」
そう口にしたのは真幌木だ。真幌木・夜宵。その名に相応しい黒一色のワンピースに身を包み、ふと目を離せば葵屋の暗がりに溶け込んでしまいそうな──そんな物静かな彼女が久しぶりに口にしたのが光を求める発言だったことに、俺はこんな状況にも関わらず面白さを感じてしまう。
「そうだね。こんなだと何も出来ないし」
そして応じたのは沖だった。沖・灯。栗色の長髪と大きな瞳が印象的な、向日葵のように笑う少女。それでいて月を思わせる真幌木とはとても仲が良く、俺たちの通う高校では揃って人気が高い。
「俺が先に行くから、その後についてきてくれ。床が腐ってるかもしれないから、足元に注意して」
俺は頭の中に葵屋の構造図を思い浮かべながら、慎重に歩を進めた。饐えた匂いが鼻をつく。埃が喉に入って軽く咽る。俺たちが動いたことで空気がかき回されたのだろう。後ろの二人も咳き込んでいる。
ぎい、と床が不愉快そうに軋んだ。こほこほ、と俺たちの咳き込む声もどこか不吉だ。闇の中、他に物音は一つとしてない。不愉快で、不吉で、そして、不気味。得体の知れない怪物の棲家を無断で荒らしているかのようで、冷たい恐怖が背中を這い上がった。
「九郎君」
真幌木が俺の名を呼んだ。この子は妙に勘の鋭いところがある。恐怖心を見抜かれたのだろうかと振り向くと、正面から視線が合った。暗闇に光る猫の目のような、存外鋭い眼差し。
「どうした?」
「……ちょっと」
「?」
真幌木はそう呟いてから、周囲をきょろきょろと見回し始めた。しかし俺には意味がわからない。普段から奇矯なところのある少女だが、この暗闇で何が見えるわけでもないだろうに。
そういえば──俺はふと、新谷の奴が言っていたことを思い出した。「夜宵ちゃんには一つ噂があるんだ。それによると、彼女はいわゆる『霊感少女』ってやつなんだって」と。それから「変なんだ。こっちはまだ話もしてなかったのに、突然向こうから九郎の家の肝試しに参加すると言ってきたんだ」と──。
「九郎君!」
そのとき、真幌木が叫んだ。初めて耳にする彼女の大きな声。切羽詰った声。だがそれを意外に思うよりも前にぞくりと首筋が泡立ち、俺は咄嗟に沖を引き寄せてかばう位置に立った。
──かばう位置? 何から? そしてどこから?
思考の冷静な部分がそう疑問を発した。
だが目だけは直感に従って広間の天井を見上げる。
そこには──一匹の巨大な蛇が蠢いていた。
「……ひ」
沖が口元を手で覆い、くぐもった声を漏らした。
俺もまた、あまりの光景に身動ぎ一つ出来ない。
こんなにも暗いのに、それが蛇だとわかる異常。
それが、重力を無視して天井に張り付いているという異常。
そして、蛇というより大蛇と呼ぶのが相応しい、そのサイズの異常。
あらゆる点で日本という国の日常から逸脱したその存在は、もはや"まとも"な生物とは思えない。
そう、それは言うならば──
「……"あやかし"」
真幌木が呟いた。俺は──そして俺は、こんな現実があるはずないだろうと理性が否定する声を聞きながらも、本能に従って体を動かしていた。
「こっちだ!」
確証があったわけではない。だが俺は沖の手を引き、真幌木の背中を押して、進んでいた方向から大きく左へ逸れて走った。その先には遊郭の主の部屋──『内証』があるはずだ。通常、屋敷内で最も堅牢であるとされる場所が。
幸い痛んだ床を踏み抜くこともなく、俺たちは部屋の戸の前に辿り着いた。ちらりと背後を見遣ると、天井を這っていた大蛇はいつのまにか床に降り立ち、鎌首を高く持ち上げてこちらを睨んでいた。
ぞくり──肌が泡立った。俺は女子二人と共に『内証』の中に転げ込むと、扉を閉めて閂を下ろした。だが、まだ安心するには早い。
「なんでもいい! 扉の前に物を積むんだ!」
部屋の中もまた、広間と同様に暗かった。俺たちは手探りで、手当たり次第に、室内の調度や家具を抱えては扉の前に積み上げていく。
その高さが小柄な真幌木の背丈ほどにもなった頃だろうか、もう動かせるものがないと悟って、俺たちは大きく息を吐きながらその場にへたり込んだ。
「ふ、二人とも大丈夫か?」
「う、うん」
「……一応は」
沖と真幌木からそれぞれ答えが返ってくる。よし、と頷いた俺は休みたい気持ちを堪えて部屋の反対側の壁に這いより、ぺたぺたと手のひらで目当てのものを探し始める。
「何してるの?」
「この部屋には、楼主──遊郭の主がお忍びで抜け出せるように、勝手口があったはずなんだ。そっちにもあの見えない壁があったらお手上げだが」
「そんなことまで考えてたんだ」
「葵屋の資料を読んでいたのは俺だけだからな」
感心したような沖の声に、俺は努めて平静にそう返す。こっちは巻き込んだ側なのだから、褒められるような話じゃなかった。
それに──
「ああ、くそっ」
「どうしたの?」
「鍵がかかってる。よりによって頑丈な南京錠だ。鍵はきっとこの部屋のどこかにあるんだろうけど」
「でも、この暗さじゃあ……」
「ああ。見つけるのは無理だろうな。蝋燭くらいはあるだろうが、火をつける道具もない」
「そっか」
沖が肩を落としたのが気配でわかった。だが俺に気を遣ってか、すぐに話題を変える。
「あの蛇……一体なんだったんだろうね」
「多分、妖怪……ってことでいいんだよな、真幌木?」
「うん」
迷いのない答えだった。半信半疑で尋ねた俺も、その声音で否応なしに現実を直視させられてしまう。
つまり──俺たちは今、あの『壁』以上に常識の通じない状況に追い込まれてしまっているのだ。
「真幌木。君は、その……ああいったものに対抗するための力があるのか?」
「残念だけど、違う。私は見たり気配を察知することが出来る程度。戦う力はない」
「そうか……」
ということは、本当に動きが取れなくなったわけか。今のところ蛇が扉を押し開けようとするような物音は聞こえてこないが、もしこのまま膠着状態が続くようだと、この部屋で夜を明かすことにもなりかねない。俺はともかく、女子二人には辛い話だ。
「とりあえず高木たちにも連絡しておくか」
俺は携帯を取り出し、今の状況を説明した。だが上手く伝わったかは怪しい。第一、奴らに何が出来るとも思えない。
真幌木の知り合いに頼れそうな人物がいないかも尋ねてみたが、黙って首を振られてしまった。
残る手立ては、適当な理由をでっち上げて警察なり何なりのお世話になることくらいだが──しかし何と話したものだろうか。
考えあぐねる俺の横で、真幌木がつと顔を上げた。
「どうした?」
「部屋の外」彼女は即席バリケードの方を指差し、「蛇の気配がなくなった」
「……まじか?」
目まぐるしく変わる状況。だが願っても無い話だと、俺は思わず腰を浮かせた。そして──そこでぴたりと動きを止める。待て、少し都合が良すぎやしないか? あの大蛇は先ほど明らかに俺たちを見ていた。だというのに、一度も扉を押し開こうとする様子もなく立ち去るなど、有り得るのだろうか?
俺はバリケードとして積み上げたものを少し脇に除け、隙間に手を差し込んで閂を引っこ抜いた。それから、扉とバリケードの間に無理やり体をねじ込ませる。体の小さな女子の方が適任だろうが、さすがにこの役目を任せるわけにはいかなかった。
──鬼が出るか蛇が出るか。
蛇は出たから次は鬼か。俺は緊張で乾いた唇を舌で湿らせながら、薄く扉を開く。相変わらず広間は真っ暗なままで、殆ど視界に変化はない。ただ空気の流れが僅かに感じられる程度だ。
「あ」
部屋の中から、そんな真幌木の声が聞こえた。どうした、と訊ねるも返事はない。狭いところに挟まっているせいで、彼女の様子を見ることも出来ない。
「真幌木? どうした?」
もう一度訊ねる。なんであれ、嫌な予感がする。
「九郎君」
「お、おう」
「……もう一つ、気配が」
「は?」
と、俺が素っ頓狂な声を出した瞬間だった。
突然、開きかけだった扉が大きな音と共に開け放たれ、直後に俺の腹部にどすんと何かがぶつかってきた。
「"あるじさま"!」
甲高い声。小さな子供の。それは、たった今ぶつかってきた「何か」から発せられていた。
つまり、これは──
「……こんなところに、子供が?」
女の子は俺の下腹にしがみついていた。肩に手を置くと、その小ささがよくわかる。理由はわからないが、俺たち同様屋敷に入り込んだところを大蛇に襲われ、今まで逃げ続けていたのだろうか。
けど──あるじさま?
その耳慣れない呼び名に違和感があった。時代がかっているというか、日常的でないというか。それに、違和感という意味では、やっぱりこんな場所に子供が一人でいるのはあまりにおかしい。
そもそも──俺はさっきの真幌木の台詞を思い出す。彼女はもう一つ気配があると言った。だが、真幌木が察知できるのは幽霊や妖怪のような化け物の存在だけじゃないのか? 彼女の力がどの程度のものかはわからないが、普通に考えれば、ただの子供の気配まで探ることが出来るとはとても思えないのだが──
──まさか、この子も?
俺ははっとして、女の子の肩を強く掴む。かがみこんで、目を合わせようとする。
だが直後に広間で大きな振動が起き、俺の視線は強制的にそちらに向けさせられてしまった。
「う……」
そこには大蛇がいた。いつのまに戻ってきたのか、奴は広間の中心で大きくとぐろを巻き、先ほど垣間見た攻撃的な目で俺たちを睥睨していた。
「……やばい。急いでこの子を」
部屋に入れないと──と言い終わる前に、俺にしがみついていた女の子が腕を解き、くるりと体の向きを変えた。
つまり、真正面から大蛇と向き合った。
「──無粋」
「え?」
女の子が何か呟いたが、俺にはよく聞き取れなかった。少女は──どうしてか暗闇にも関わらずその後姿がはっきりと見える──大蛇を見上げ、両腕を突き出した。
「古来より蛇は執念深いもの。じゃがおんなの情の深さも負けはしんせんよ。久方ぶりの逢瀬を邪魔した咎、とくとその身に受けなまし!」
途端、女の子の腕より現われ出でた縄──幾本にも束ねられたそれが大蛇に向かって伸び、巨体を絡め取ってしまった。
「な、な、な」
あまりの展開に俺は声が出ない。これまでのことが常識の外なら、今は理解の外だ。頭の回転が追いつかない。
そのとき、バリケードの隙間から沖と真幌木が顔を出した。それから大蛇と女の子の姿に気付き、二人揃って目を見張る。沖はともかく、真幌木にとってすら予想外の状況なのだろう。
「……何が起きてるの?」
「わ、わからん」
ただ、ようやく追いついてきた頭で考えてみたところ、どうやらこの女の子は大蛇と敵対関係にあるらしい。突っ込みどころは大量にあるが、そうとしか考えられない光景が眼前で繰り広げられている。
「……ぐ」
そのとき、当の女の子が苦しげな呻きを漏らした。どうしたんだと俺が尋ねると、少女は額に汗を浮かばせながら応える。
「口惜しうござんす。いまのわちでは力が足りんせん。加えて蛇と縄では相性も悪うござんす。やはり、封じ切ること叶いいせん」
「それって──」
言いかけて、俺はそこで口をつぐんだ。わざわざ確かめるまでもなかった。女の子が投じた縄は大蛇の体を締め付けている様子だが、蛇は手の中から鰻が抜け出るようにずるずると脱しようとしている。たしかにこれは、相性が悪い。
「ど、どうするんだ?」
「……」
今度は女の子は応えなかった。つまり、打つ手がないということか。けれど、最早部屋の中に逃げ帰る余裕もない。背を向けた途端、あの巨大な口にくわえ込まれることは容易に想像がつく。
何か出来ることはないか──考えあぐねた俺は、近くに転がっていた1メートルほどの長さの木の棒を手に取る。腐り落ちた柱の一部だろうが、幸い軸はしっかりしていた。簡単に折れるということはなさそうだ。
そして。
「あるじさま、何を?」
「"う、うわああああ"!」
あるじさまってのは俺のことだったのか──そんなことを考えながら、俺はわざと情けない叫びを上げた。さながら恐怖に我を失っているかのように。それから棒を前方に構え、戒めから抜け出しかかっている大蛇の頭に向かって突進する。
「九郎君!?」
沖の悲鳴。それはそうだろう。傍目には自殺行為にしか見えない。なにせ大蛇の口は軽く人間一人を咥え込む程度の大きさがある。こんな木の棒一つで倒せるはずがない。
けど俺にも、真っ向勝負を挑むつもりはなかった。恐怖に駆られ、支離滅裂な行動に出たと見せかけておいて──直前で大きくジャンプし、大蛇の目を狙う。
単純といえば単純な戦法、しかしブラフが利いた。大蛇は身をよじることも出来なかった。棒の先端は運良く──流石に実力だと自惚れる気はない──その左の目に突き刺さり、苦悶の叫びが上がる。一方勢い余った俺はもんどりうって床に叩き付けられた。弾みで棒も取り落としてしまう。
「あ、あるじさま!」
今度は女の子の悲鳴。もちろん俺もじっとしているつもりはない。急いで床を這い、彼女のもとへと逃げ帰る。
「……感服致しんす。無謀なれどその勇気、あるじさまは流石のお方」
「やれることが他に思いつかなかったからな。それより、多少は効いたのか?」
「そのことでおすが」
女の子は縄持つ手はそのままに、悔しそうに唇を噛み、
「彼奴めはあやかし。あの姿とて、映し見の一つに過ぎんせん。いかな眼の一つを奪ったとて、しばらくすれば元に戻りいす」
「そうなのか……」
逆に言えば、今のうちにもう片方の目も潰せば活路も生まれるかもしれないということだが──当然今ので警戒されてしまったはずだから、同じ手段は使えないだろう。
さて、どうする?
ここが正念場だと、直感が告げていた。だが慎重に対策を練る時間もない。蛇はすでに殆どの拘束を解き、身体の大半が自由となっている。とにかくも手放してしまった棒を取り戻すのが先か。
意を決した俺は、大蛇に向かって走った。危険だが、そちらに棒があるのだから仕方がない。背後で沖が何か叫んだ。次いで、女の子の制止の声──「あるじさま、なりませぬ!」
その意味に気付くのが、少しばかり遅かった。
結局のところ、俺はこの時、とうに冷静な思考を失っていたのかもしれない。
──愚かな。
そうあざ笑うかのように──今しも棒を手に取ろうとした俺の眼前で、床の一部が弾け飛んだ。
「うわっ」
木の破片が顔面に向かって飛んできた。咄嗟に両腕でそれを防いでから、俺は状況に気付いて愕然とする。
そのとき──大蛇は完全に戒めから逃れ、その尾の先を俺の前に振り下ろしていたのだった。
「う……」
本格的な恐怖に身体が強張った。その隙に大蛇は頭をもたげ、俺の目の前、口元から伸びる舌先が届くほどの距離から、こちらを睨み据えてきた。
これでは──もう身動き一つ出来ない。視線を逸らしただけで、"喰われる"。あるいは何もせずとも、数秒後には。
「あ、あるじさま……」
力を使い果たしたのか、女の子の喘ぎまじりの声が届いた。しかし俺にはそれに言葉を返す余裕もない。
手詰まり。
死。
死ぬのか、俺は、ここで。
こんなわけもわからない状況で。
しかし──
「……?」
俺は眉を顰めた。
何か、おかしかった。
いつまで経っても、大蛇がこちらを襲ってくる様子がない。
相変わらず敵意を宿した瞳で睨みつけてきながらも──決してそれ以上をしてこない。
「なんだ?」
疑問ばかりが頭に浮かぶが、だからといって安易に動くことも躊躇われる。
そうこうするうちに──先に大蛇が動いた。
ただし、こちらに向かって、ではない。
ふいに首を巡らすと、そのままこちらに背を向けて、ずるずると巨体をくねらせながら移動を始めたのだ。
俺たちが入ってきた──玄関口に向けて。
「お、おい?」
俺はひたすらに、戸惑う。だが蛇にはこちらの様子など意に介す風もない。巨体に似合わぬ素早さで遠ざかっていき──とうとうそのまま、屋敷の外へと出て行ってしまった。
「わ、わけわかんねえ……」
俺は、へなへなとその場にへたり込んだ。遅れて、どっと汗が吹き出てくる。このまま突っ伏して眠りたいくらいだった。
「あるじさま!」
声とともに、背中で暖かい感触がした。女の子がすがりついてきたのだ。気付けば沖たちも息がかかるほどの近くからこちらの顔を覗きこんでいる。
わかってる、と俺は心の中で応えた。自分がした無茶な行動を思えば、このまま眠ることが許されないくらいは、承知していた。
俺は床に手をつき、一回だけ大きく深呼吸をしてから、立ち上がった。
「俺は大丈夫。だから、とにかくどこか落ち着ける場所を探そう。話はそれからだ」