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終章 後朝(きぬぎぬ)

 こうして、葵屋の『夜桜』は幕を閉じた。

 後には四方儀兄による建物の補修状態のチェックが入ったが、静によってしっかりと往時の姿を取り戻していた葵屋は問題なく合格。四方儀兄は驚きながらも笑顔で俺たちをねぎらった。

「凄いね。いったいどうやってここまで綺麗にしたんだい? もう出回っていない染料まで使っているようじゃないか」

 もちろんこれには、企業秘密だ、と答えておいた。

 まさか事実を教えられるはずがないのである。

「とにかく、これで私は御厨に戻らなくていいんですよね?」

 十羽織は腰に手を当てて鼻高々だ。すっかり敵役扱いの四方儀兄は苦笑い。少し同情してしまう。

「もちろん父さんたちにもきちんと説明しておくよ。もう十羽織は九郎のものだってね」

「そういう話じゃなかったはずだぞ!?」

 つい大声で反応してしまった。まったくこの兄も意地が悪い。十年前のことだってちゃんと教えてくれれば良かったのに、と思うのは俺の甘えだろうか。

 と、十羽織が俺の前に進み出て、満面の笑みで言い放った。

「それは今更な話です。私はずっと、ずうっと前から、九郎兄さんのものですから」

「と、十羽織!? 何言ってんだお前!?」

「……はは。これは御馳走様、と返すべきなのかな。でも二人とも、たまには御厨に帰ってくるんだよ? 九郎も、どこかで父さんたちと話し合う必要はあると思ってるんだろう?」

「そうなのですか、兄さん?」

「……参ったな。しっかりお見通しか」

 四方儀兄は流石だった。特に顔に出したつもりもないのに、全部見抜かれている。言われたとおり、俺は折を見て一度実家に顔を出すつもりだった。


 たしかに、両親が俺に対して冷たくあたってきたことは、周囲も認める事実だ。

 だが桜の手配については──間に十羽織の捨て身の取引があったとはいえ──そんな両親の手を借りることとなってしまった。元はといえば、俺が葵屋にこだわったことから始まった件にも関わらず、だ。

 経緯はどうあれ、これを甘えだと評されれば、俺には反論の言葉はない。

 だから、せめてもの筋として、一度は直接礼を言ってこなければいけないのである。たとえ、どんな辛辣な言葉が跳ね返ってきたとしても。

「だいぶ表情が固いね」

「そ、そうか?」

「まあ無理もないけどね。あの二人が九郎に言いそうな台詞は見当がつく」

 僕らが取りなしても聞く耳持たないしね、と四方儀兄は肩を竦め、

「ただ、二人の態度は殆ど同族嫌悪から来てるようなものだから、あまり真面目に受け取らない方がいいと思うよ」

「同族? それ言ったら御厨は全員──」

「違う違う、才能のない者同士、って意味の同族だよ。父さんも母さんも、自分たちがそうしたものには恵まれなかったと考えている。だから、同じように才能がない子が疎ましかった、ってこと」

「だ、だったら俺はいつまで経っても」

 あの二人から一方的に嫌われ続けるだけじゃないか──と言おうとしたのに。

「九郎は、違うだろ?」

「え?」

 四方儀兄の指が、俺の胸をとんと突いた。

「片鱗、見せたじゃないか」

「……いつ?」

 正直に言って、これといった覚えがなかった。けれどこの兄はやはり、最後までは優しくしてくれない。

「それは自分で考えないとね」

 そして、僕はそこまで親切じゃないし、と冗談とも本気ともつかないことを口にする。

「少し、嫉妬もあるしね」

「そっちは確実に冗談だろう?」

「さてね。そうそう、聞いた話だと、あの神主の男性も九郎を気に入ってくれたそうじゃないか。となると、神社の跡継ぎなんて将来も夢じゃない。そうすると宮大工なんかも選択肢として現実味を帯びてきそうなものだけど──九郎はこれから先どうしていくつもりだい?」

「それは──」不意を突かれ、俺は押し黙った。

 そのことは──今この時も考え続けている。

 この葵屋を修繕したいと考えた理由の一つ。自分は何が出来るのか。何がしたくて、どうしていきたいのか。

 将来を、どうしたいのか。

 出がらしでないことを証明するためにも、俺にはそれを固める必要があるのに──この数ヶ月のすったもんだの中で色々な経験を積んでおきながら、いまだに結論を出せていない。

(けど、今はどのみち──)

 どのみち、と俺は肩を竦めた。

 しばらくの間、俺はこれまでどおり葵屋にかかりきりとなる。ならざるを得ない。だからその間にも、じっくりと自分の将来を考え続けようと思っている。

 四方儀兄を見送った俺と十羽織は、葵屋二階の座敷に向かった。そこでは、静が灯と夜宵を相手に碁を囲っていた。二人がかりでも静の相手は務まらないのか、新人神様は余裕の表情だ。

 静は階段を上がってきた俺に気付くと、碁の盤面に視線を落としたまま問うてきた。

「帰ったのかや?」

「ああ」

「ようござんす」彼女は頷き、「では、元に戻しんしょう」

 言うやいなや、脇に置いた火鉢から鉄串を一つ掴み、中空の何もないところで円を描く。

 次の瞬間、円から淡い光が発せられて座敷全体を満たした。光は更に障子や襖をすり抜け、どうやら廓全てに行き渡ったようである。

 すると──『夜桜』を経て美しく生まれ変わったはずの葵屋が、以前の姿へと戻ってしまった。俺が補修した箇所はまだしも、他へ少し目を向ければ誤魔化しようのない痛みや汚れが目立つ、みすぼらしい姿に。

 ここからは見えないが、おそらくは外観も同じように戻っているはずだ。とても四方儀兄を始めとした御厨の人間には見せられない状態になっていることだろう。

「一年は我慢かな」

「仕方なしんすえ」

 俺は静と目を合わせて互いに苦笑する。と、早速隙間風が肌に刺さってきた。あそこは優先的に補修しなければならないだろう。

 葵屋は元に戻ってしまった。それは、結局『夜桜』だけで完全修復に必要な力を得ることが叶わなかったためだ。土地神となった静が龍脈の力をすべて注ぎ込めば最盛期の状態へ戻すことは可能だが、それでは龍脈を独占することとなってしまう。言問命の意志を受け継ぐ者としてそれは出来んせんと静は言い、俺も賛同した。同じ理由で彼女の見た目も童女に戻ってしまっているが、あにはからんや本人は飄々としたものである。

 そんな状況のため、四方儀兄には静が幻影を見せた。単なる一時の誤魔化しである。『夜桜』後の修復度合いからすると、完全に元の姿に戻るのは当初の予測よりもずっと先になるようだ。最悪、来年の二月までかかるのかもしれないというのが静の分析だった。三月の『初午』より始まって、春夏秋冬。すべての月を一巡りしてようやく葵屋は成るのかもしりいせん、と予測を大外しした彼女は済まなそうに言ったものだ。

 だから今年一杯は、毎月の催しを行なわなければならない。『七夕』を始め、一つ一つに大変な準備がいる。きっと目の回るような忙しさとなるだろう。

 だが、面倒だと思う者は誰もいなかった。勿論俺もだ。

 静たちは、早くも碁の続きに戻っている。遊んでいるのではない。そうやって葵屋に活況を与えようとしているのだ。

 ぱちん。その時、夜宵が碁石を一つ置いた。静が僅かに目を見開く。やりおすな、と呟いた彼女は楽しそうに顎に指を添え、長考体勢に入る。

(意外と良い勝負になるかもな)

 場では十羽織までもが夜宵たちの支援に入り、三対一の争いとなっていた。弟子たちが師匠を打ち破る瞬間が、いつかは訪れるのだろうか。

 わいのわいのと賑やかな碁の場を後にして、俺は一人で階下に下り、『内証』へ向かった。

 今、楼主の部屋たるあの場所には、廓の主に必要な知識を収めた書物が山と積まれている。静たちが花魁の修行に明け暮れるなら、俺は楼主として皆を先導していかなければならないからだ。

 皆のいる座敷にいたい気持ちはあったが、集中するために俺は一人でいることを選んだ。

 いまだ定まらない未来を前にしているが──

 俺は今、あらゆることに本気なのだ。


 冬の終わりから春にかけての騒動は、こうして一応の収束を見せた。

 今は、続く騒動の真っ最中、ということになるだろうか。

 ついては各人の近況を語ろうと思うが、その前にまず俺自身について、一つだけ触れておきたい。これは朗報か凶報かにわかには判じかねるのだが──以前夜宵から告げられた、俺の奇妙な力。道祖神の結界が再構築されることに繋がったあの力は、俺が修復した事物と俺とのえにしを強める効果もあったらしい。もちろんそれだけでは大した意味もないのだが、葵屋内部では、土地神となり力を得た静が葵屋に常在していることで、物に魂が宿りやすいという特殊な事情がある。このことと俺の力が合わさった結果、何が起こるかと言うと──

『あるじさまは、日に日に皆々《みなみな》のあるじとなっていきなますな』

 俺は静のそんな言葉を思い出す。

 葵屋の中には、俺が修繕の手を入れた多くの物がある。それは茶釜のような細々としたものであったり、戸板や柱であったりと多岐に渡っている。

 今、それらの中で、少しずつ、"俺を主と見なす意志"が芽生えかけているのだそうだ。

(実際に、茶釜が宙に浮いたしな……)

 あれは、居間で灯が茶を注ぎ足そうとしてくれた時のことだ。勝手に茶釜が動き出し──壁に激突した。

 呆然とする俺達を尻目に、静が一人悠然と茶を啜っていたので問い質したところ、先の事実が判明したのである。

『まだ存在が固まりきっておらんせんしの。マァいずれは役に立つ日も来るはず』と静は気楽なものだが、このままでは葵屋が妖怪屋敷になってしまう危険性がある。たとえそれら妖怪が俺の言うことに従ってくれるのだとしても──遊郭たる葵屋の本義から外れすぎてはいないだろうか。

 これが、目下俺が頭を悩ませていることである。

 この先は愚痴になりそうなので、他の皆の話について手短かに触れてしまおう。

 まず、晴れて土地神となったこの建物の憑喪神について。彼女──静はどうせなら葵屋をとことん美しくして国宝にしたい、などと嘯いていたが、お前はその前に土地神の仕事をしろと返しておいた。在り様が変わってせっかく廓から離れることも出来るようになったのに、この女ときたら殆ど葵屋から動こうとしない。個人的には嬉しい気持ちもあるが、こんなのを祀らなればならない神主が少々気の毒でもあった。

 灯と夜宵は、『夜桜』前とまったく変わらぬ勢いで足繁く葵屋を訪れ、俺たちに協力してくれている。相変わらず仲良しの二人で結構なことなんだが、『夜桜』以降どんな話をしたのか、時々連携して俺に頼みごとをしてきたりするようになったから困りものだ。頼みごとの内容は様々であり、ここでは説明を割愛するが、二人がかりで来られると基本的に俺に勝ち目はない。良いように操られている感じである。

 最後、すっかり妓楼の女主人気取りの十羽織は、あれ以来妙な貫禄が出てきており、兄として残っている僅かな尊厳も根こそぎ奪い取られそうな勢いだ。静と完全に打ち解けたまではいいが、その影響をもろに受けるようになり、特定の分野においては師と仰いですらいるらしい。それが芸事に関することならいいが、二人の会話にはやけに頻繁に俺の名前が出てきているようで、こちらは得体の知れない恐怖を覚えている。

 その他にも、家庭訪問にやってきた担任の女教師が葵屋の一員に引きずり込まれそうになったり、静が餌付けしていた猫を人の姿に変えて禿に仕立て上げようとしたりと、葵屋では始終どたばたが絶えなかったのだが──

 きりがなくなりそうなので、それはまた別の話として、今はここで葵屋の顛末語りを終えることにしたい。

 続きが語られるかは──俺にもわからない。

 だからそれは是非、神様に直接聞いてほしいと思う。


【巻の壱 了】

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