第三章 夜桜(よざくら) 其の三
「……静。今までどこに?」
「わちはこの廓のどこにでもおりんす。じゃから、あるじさまたちのこともずっと見ておした」
「なら、どうして」
「あるじさまであれば、想像はつきんしょう?」
静はこちらに顔を向けようとしなかった。その態度は、小屋に飼われた鳥が人を恐れるかのようで──俺の目に酷く弱々しいものに映った。
「土地に仇なすわちが、どうしておめおめと姿を見せることが出来んしょう。まして在ることすらもが害となるのでありんせば、最早わちにはどうすることも出来んせん。ゆえに身を隠し、あるじさま達が愛想を尽かして出て行くのを待ちんした。そうして取り壊しと共に消え行くつもりでありんした」
「……お前は、そこまで」
後悔の念が俺の胸を満たした。普段の我が侭放題の静の姿に捉われて、彼女がそこまで思いつめる可能性を思い浮かべなかったのだ。
だが、本当は他人を重んじる静の本質を理解していれば、想定して然るべき話だったのだろう。
「……あるじさまが、そうやってわちを気にかけなんすこともわかっておした。身を隠したのはそのためでもありんす。あるじさまの顔を面と見てしまえば、わちもまたあらぬ未練を抱いてしまいんせんゆえに」
「……静」
「だというに、あるじさま達はちっともここから出て行こうとせんかった。ばかりか、とうとう『夜桜』を成し遂げる道筋まで立てなんした。成功すればわちの力が増し、土地に災いを及ぼすやもしれぬというのに。じゃからわちは、こうしてあるじさまに伝えるために姿を見せたのでありんす。もうわちのことは放っておいてくりゃれと」
「……そんなこと、出来るか」
「して貰わねばなりんせん。いや、わちがそうしてほしいのでありんす。お願いじゃ、あるじさま。どうかわちのことは忘れ、お家に戻ってくりゃれ。あるじさまのご先祖のなしたことは、あるじさまとは関係ありんせん。わちのような邪悪な者にこれ以上肩入れせず、真っ当に生を過ごして──」
「ふざけんな!」
堪えきれず、俺は叫んだ。静の背中が叱られた子供のように震える。
その背に向けて俺は言った。
「嘘をつくなよ。それがお前の望みだと? 誰が信じるか。そんな泣きそうな声出してる女の言葉を、誰が信じるかよ。それに、もし消えるのがお前の願いだってんなら、最初に言った台詞はなんだったんだよ。お前はさっき言ったよな。あるじさまが自分を綺麗な姿に戻してくれるんじゃなかったのか、って」
「そ、それは──」
「もう一度言う。嘘はつくな。そっちがお前の本当の望みなんだろ? お前は元の綺麗な姿に戻りたいんだろ? そんな奴から消えたいだなんて言われて俺が信じると思ってんのかよ。──我が侭なお前が、今更物分りの良いこと言うなよ」
本当は、口で言うほど静を我が侭だと思ってるわけじゃない。大抵は裏でちゃんとした理由を持って動く奴だと俺はもうわかっていた。
けれど、だからこそ今だけは我が侭になってほしかった。簡単に自分自身を諦めるようなことを言って欲しくなかった。
「……あるじさまは勝手なお方よ。人の気持ちも知らず、道理に外れたことばかりを仰言えす」
「そうだな」
「けれど、それでもわちは譲りんせん。わちは消えねばなりんせん。たとえわち自身がそれを望んでおらずとも」
「っこの──」
わからず屋、と続けようとした俺を、静の声が遮った。
「じゃから、あるじさま。わちはこれより、あるじさまに惨いことを申しんす。あえて情けの無い言葉を叩きつけおす。情けの無い──ありのままの事実を」
「……どういう、意味だ?」
「──あるじさま」
静は俺には取り合わず、突然その声を冷え切ったものに変化させた。
「そもそもが、あるじさまは期待外れでござんした」
「なんだと?」
自分の顔が一気に強張るのがわかった。だが静は背を向けたまま、振り向きもしない。振り向かずに──奇妙な笑い声を返す。そして数秒遅れてから、俺はそれがどういった種類の笑いであったかを悟った。
それは、せせら笑い。
静は今、俺を嘲笑ったのだ。
「わちは葵屋に縛られる身でござんすが」静は続けた。「それでも、龍脈を通じて土地の噂はわちに届いておりんした。その中には御厨一族の名声もまたござんした。ゆえにわちは期待しんした。遠からぬうち、再び御厨の御方が現われ、その富を以ってわちを瞬く間に修繕しなます時が来ると」
「それは……」
俺は言葉に窮した。静が何を言いたいのかがわかってしまったからだ。
そんな俺の様子を気配で察したのか、静は再び耳障りな笑い声を立てた。
「しかして、訪れなんしたのは情けなくも放逐された身である"九郎"さまお一人。サテ、わちの落胆が分かりなますかねェ。役者不足の御方と知って、なおもあるじと仰がねばならぬ、わちの苦い胸の内が」
そのねっとりとした声音は、俺をいたぶるようだった。
「その手に財は無く、修繕は叶わず」
まるで歌うように、静は言う。
「仰言えしたことと言やァ『自分で直す』との小鳥の如き囀りのみで、それとてたった今紅殻格子を見ながらため息をつきなんしたように、半端な出来でしかござんせん」
「……」
俺は、言われるがままとなっていた。そして、そんな俺に追い討ちをかけるように、ある一つの記憶が思い出されてきた。
あれは──俺が修繕作業をしている時のことだ。あの時、静は本当に嬉しそうな顔をしていた。大工道具を並べて補修箇所と格闘している俺の後ろで、にこにこと、にこにこと、抑え切れない喜びに顔を綻ばせていたことに俺は気付いていた。
なのに、その口から今発せられているのは、二人の記憶を素手で引き裂くような辛辣な言葉だった。
「期待外れなのでおす」
静はもう一度繰り返した。
「かような男に身請けされた時点でわちの行く末は絶え果てておしたものを、今の今まで認めきれなかったわちも大概でござんした」
そして彼女は、
「──九郎さま」
彼女の声は、俺を貫いた。
「身の程をお知りなんし」
◇
俺は格子の前で立ち尽くした。
最初から頭の隅にあった懸念──後ろめたさのようなもの。それを明確に指摘されてしまい、言葉を失っていた。
そう──静が俺を『あるじさま』と呼んだのは、俺が御厨の者だからだ。葵屋を修繕する財力を有する一族の人間だったからだ。
だというのに、蓋を開けてみれば俺には何の力もなく。気休め程度に素人紛いの修繕作業をする程度で、最近ではそれすら疎かにしていた。
もちろん、『夜桜』開催に対して自分が役立たずだったとは思わない。けれど、そこに俺でないと出来ないことがあったか? 動いたのは灯だ、十羽織だ。俺は流されるままそれらを手伝ったに過ぎない。
『あるじさま』は俺である必要はなかった。いや、そればかりか、葵屋を建て直す力の無い俺は、『あるじさま』として不適格なのだ。たとえそれが静が一方的に期待していたことだと言っても──期待に応えられないという事実は変わらなかった。
わかっていたことだった。
だが、それをはっきりと言葉にされて、俺は立ち尽くす以外のことが出来なかった。
「……わちは酷い女でござんす。このようなことを平然と口にする凶女でおす。じゃから躊躇いなどは無用でござんす。九郎さまの志を無為に踏みにじったわちを、存分に憎んでくりゃれ。そして葵屋をわち共々取り壊してくりゃれ」
その時、静が刹那、俺の方を振り向いたように見えた。
嫌な予感を覚えた俺は、咄嗟に格子の隙間から手を伸ばす。
「待て、静──」
だが、格子に邪魔され、その手は届かず。
「──あるじさまの手にかかるならば、わちもそれが本望」
そう呟きを遺して、静の姿が、暗がりの中に消えた。
◇
静が姿を消した後も、俺は無力感に苛まれながら格子の前に立っていた。
ただひたすらに、自分を不甲斐なく思う。
同時に、そんな俺の手にかかることを本望と言った静の心がわからなかった。
まったく大したことをしてやれていない俺に、なぜ静がああも情を傾けてくれるのかがわからなかった。
だが時間の流れは容赦を知らないようで、俺は間を置かずに廓の中から誰かに呼ばれてしまった。
間違いなく、『夜桜』の準備の話だろう。
俺は半ば思考を麻痺させたまま、仕方なしにふらふらと玄関をくぐった。
「──まったく。だらしがないですね、兄さんは」
そんな俺を、十羽織の遠慮ない言葉が出迎えた。
そういえば、廓に入れるのはいまだにいつものメンバーだけだった。そして灯が街に出ている今、中から俺を呼ぶとしたら妹しかいない。
もしかして、静との会話も聞かれていたんだろうか。
「威勢良く叫んでたと思ったら、結局最後は逃げられてしまうなんて。甲斐性なしの廓の主なんて、冗談にもならないではないですか」
……どうやら全部聞かれていたらしい。
愕然とする俺に構わず、十羽織はぷんすか怒り顔で腕を組んだ。
「まさか兄さんだって、あれが静の本心だとは思っていないでしょう?」
「え? いや、でも……事実だろう? 俺には葵屋の主人である資格が無い。建物を修繕してやるだけの金が無いんだから」
「それが事実だとして。いえ、兄さんが貧乏人なのは事実なのですけど、だからといってどうして静が口にしたことを素直に信じる必要があるのですか」
「ありのままを告げるとあいつは言っていたんだが──」
「女の言葉をそのまま信じますか。まして別れ話の最中の言葉を。男はこれだから単純なんです」
分かった風な口をきいて、十羽織は俺を睨んだ。
「いいですか、兄さん。これまでの静との暮らしを思い返して下さい。その上で答えてください。静は、ただ財力の有る無しだけを『あるじさま』の条件とするような性格でしたか? 金さえあれば誰でも主人と呼び慕うような、そんな腰の軽い子でしたか?」
「それは……」
「もちろん、私にだって深い理由はわかりませんよ。でも、静は兄さんに『あるじさま』でいてほしいと考えている。それくらいはわかります。なのに兄さんときたら、表面的な拒絶の言葉に狼狽えて、言いたいだけ言わせて逃がしてしまうんですから。はあー、妹として恥ずかしいやら情けないやら」
「……いや、たしかにその通りなんだけどな。けど」
特に反論があるわけじゃない。ただこうぽんぽん続けられると、無理やりにでも口を挟まなくてはいけない気分になってくるわけで──
「けど、なんですか?」
ぎろりと横目で十羽織が睨む。俺は首を竦めた。機嫌が悪い時の妹に勝てる人間はいないのだ。
それからは延々と十羽織の説教が始まった。一言呆れの言葉を残して立ち去られるのかと思っていたら、何十分も、一時間を越えても、延々と。
その間、俺に放たれた罵倒は幾つあっただろうか。種類を数えるだけでも結構なものかもしれない。馬鹿だの甲斐性なしだのに始まって、まず一般人は耳にしないだろう悪態をさんざ浴びせられた。無駄に知識が豊富で語彙のある妹を前に、俺は結局一言も言い返すことが出来なかった。
昔から、十羽織がしつこいほど怒る相手は俺に限定されていた。おしとやかな見た目にそぐわず勝気な十羽織ではあるが、不満があっても八割方の相手には内心を表に出さずに──滲み出る迫力でばれてしまうことも多いが──外見どおりの性格を演じようとする。そして、たとえば静のように多少心を許した残り二割についても、一言短く文句を言う程度に留める。だから俺は唯一の例外なのだ。
とはいえ俺もマゾじゃない。こうも罵倒され続けるとちょっと凹む。段々腹だって立ってくる。そこまで言わなくていいじゃないかと思ってしまう。
そして──はたと気付く。
自分がさっきまでは滅茶苦茶落ち込んでいたのだということに。
たぶん俺は、ついさっきまでこの世の終わりのような顔をしていた。大げさなようだが、すべての目的を失ったような気持ちでいたのだから、当たらずとも遠く外れてはいないはずである。
けれど今は──"ちょっと"凹んでいる程度になっている。
妹の罵詈雑言を受けながら、なんだかんだと言い返そうともしている。実際に言い返せているかはともかくとして。
「だから兄さんは──」
お説教が終わるまで絶対に逃がしません、とばかりに俺の腕を掴んで、いつまでも毒舌を吐き続ける十羽織。けれどその顔はむしろ、俺を心配しているように見えた。今俺を一人にしてしまうことを恐れているようにも見えた。だから、そう、だから十羽織はこんなにもこんなにも長く、俺のそばから離れようとしないのかもしれなかった。
そして、一度そう思ってしまったら──後はもう、駄目だった。
十羽織には悪いが、その悪口はちっとも効かなくなってしまった。
それどころか、目を閉じて工夫に富んだ憎まれ口を呟き続ける妹を眺めて、なんだかほっとした気持ちになってしまった。
俺は十羽織の頭に手を乗せた。
「──! い、いきなり何ですか、兄さんっ」
「ありがとな」
「な、なぜここでお礼が出てくるのですかっ。私の話を聞いていたのですか? お、おかしいじゃないですか、私はずっと兄さんを悪く言ってたのに──」
「それでも、ありがとな」
「で、ですから……! もう、に、兄さんは変ですっ。それと、いつまで頭を撫でてるんですかっ。は、離して……っ」
顔を赤く染めて逃れようとする十羽織だったが、一転その手を俺が掴んで離さない。そしてもう片方の手でしつこいくらいに頭を撫で続ける。
「も、もう──兄さんは、変ですっ……」
十羽織の声が、段々と小さくなっていく。その勢いの衰えに合わせて下がってくる頭をそれでも撫でながら、俺は改めて一つの疑問を頭に思い浮かべていた。
──静はどうして俺にこだわるんだろう?
◇
多くの問題が残ったものの、その後俺たちは、改めて『夜桜』に向けた準備に取り掛かった。
静とはあの日以降話せていない。やはり廓のどこかにいるのだとは思うが、姿を見せる気配はなかった。
しかし十羽織のおかげか、あるいは一度静に叩き落されたためか、俺の中ではある種の開き直りが生まれていた。
こうなったら、あいつに見せてやろうと思ったのだ。
葵屋の『夜桜』が喝采の中に幕を閉じる、その姿を見せつけて、自分は不要だの害悪だのの暗い考えを吹き飛ばしてやろうと思ったのだ。
葵屋には今、夜宵もいない。俺と十羽織と灯の三人で事を進めなければならない。しかし、協力者は日に日に増加していた。特に街の神社の神主が協賛を申し出てくれたため、毎年そこで開かれる縁日の関係者が参入してくれたのが大きかった。遊郭の催しになぜ神社が、とは思ったが、神主の男性は穏やかに微笑むばかりで真意を教えてくれない。とはいえ、失礼な話だが彼に裏があるようには感じられなかったので、素直に好意を受け取らせて頂いた。
そして、参加者が増えれば俺の忙しさも累乗的に増す。寝る間は惜しんだ。食事の時間も削って、携帯食やサプリで誤魔化した。俺はまだ若い。一週間程度の無茶ならばどうとでもなると、準備作業に没頭した。夜中、広間でリハーサルの舞を踊る灯や、三味線を嫋々《じょうじょう》と鳴らす十羽織の姿に励まされながら、俺は余計なことに意識を捉われることなく日々の作業をこなしていった。
そのようにして、残りの一週間はあっという間に過ぎ去り──
とうとうこの日、四月一日。葵屋は、『夜桜』を迎えることとなったのである。
◇
その日も、朝から大忙しだった。
なんといっても桜の植え替え作業がある。
完全に咲いたものを運ぶのは至難だし、開花間近の桜を運び込んできても、暖かい昼時を経ねばその日に咲かない可能性がある。
よって、確実に朝のうちに植え替えを完了させなければならない。
ここはしかし、十羽織が頑張ってくれた。
前日の土曜日より実家に入り、最も条件に適した桜を一本、ばかりか数本、大型トラックに積みこみ、きっちりと葵屋へ届けるまでの指揮を取ってくれたのだ。
一本でも十分だと思っていた。しかし複数あればそれだけ華やぎは増す。持ってきた桜が開花しなかった場合の保険にもなる。また助けられた、と俺は植樹の陣頭に立っていた十羽織に礼を言いに向かうと、そこにはもう一人の見知った人間の姿があった。
「四方儀兄……」
「四方儀だよ」
御厨四方儀。その名のとおり、御厨家の四男にあたる。その得意とするフィールドは建築。自前で設計事務所を運営し、精力的に活動を行なっている。とりわけ有機的な意匠構築の評価が高く、最近ではプリッカー賞の有力候補として毎年必ず名前が挙がるほどである。
そして俺はこの兄の事務所に出入りして、職人さんたちから大工技術を学んだ。その意味では、様々な面で俺の先を行く人物だと言っていいだろう。それぞれに癖の強い御厨家の者たちの中では、比較的俺にも友好的な目を向けてくれる存在でもある。
ただし、親しみと一さじの嫉妬とを込めて俺がヨモギ兄と呼ぶと、本人は気に入らないらしく律儀に訂正をしてくるわけだが──それはさておき。
「どうして四方儀兄がここに?」
「見ての通りさ。いくらなんでも十羽織だけに植え替えを任せるわけにはいかないだろ? 僕は付き添いだよ」
「そっか。こう言っていいのかわからないけど、助かった」
「構わないさ。僕だってこの廓のことは気になってたんだ。まあ父さんたちはいい加減取り壊したいみたいだから、僕も本来はそれに協力しなければいけない立場なわけだけど──」
「それは……迷惑をかけちまうな」
「気にしないでいいよ。僕は十羽織が出した条件に従っているだけなんだからね」
「条件?」
妙なことを言う、と思った。俺たちは助力を願った側だ。それが相手に条件を突きつけるというのは、道理に合わない。
「なんだ、聞いてないのかい? あの子らしいね。九郎には秘密にしていたわけか」
「どういうことだ?」
「九郎だって、御厨が無条件で十羽織の願いを聞くとは思ってなかっただろう? つまりはそういうことだよ。両親は交換条件として、十羽織に家に戻るよう迫った。しかし、十羽織もただそれに従うつもりはなかった。そこで両親と一つ交渉をしたのさ。『夜桜』の日までにあの廓を九郎が補修し終えたのならば、自分が廓に留まることを許してくれと」
「……それは本当か?」
「僕がこういう時に嘘を言うと思うかい? つまり僕は、両親から派遣された検分役なんだよ。廓の以前の姿を知っている僕が、現在の状態を確認して、十羽織が条件をクリアしたかどうかを判断するのさ」
「だから四方儀兄が来たのか……」
小さい頃、俺に葵屋のことを丁寧に教えてくれたのは四方儀兄だ。その意味では、この兄がすべてのきっかけを作ってくれたわけだが──それが今は、厄介な障害となっていることになる。
「両親は、数ヶ月程度で廓が綺麗に補修できるなんて思わなかった。だからこれはただの時間稼ぎだと見なし、妹の提案を呑んだ。二人とも、僕がどちらの結果を持ってくるのかについてまったく疑っていない。正直僕も不可能だと思っている。そんなオッズが非常に低い状況下で、あとは九郎次第というわけだが──さて、もう見てきてもいいかい?」
「ま、待て! 待ってくれ!」
「なぜだい?」
四方儀兄は穏やかに、けれど決して誤魔化しを許さない声で尋ねてきた。
そう、これが御厨だ。柔らかな物腰に騙されてはいけない。四方儀兄は、冷徹に廓の状態を判断し、条件を満たしていないとなれば容赦なく十羽織を連れて行くだろう。
「と、とにかく、夜までは待ってくれ! 頼む!」
「……一日でどうこう出来るようなものでもないだろうけど。まあいいか、僕もわざわざここまで来たんだ。『夜桜』は見物していきたい。ただしその後は、わかってるよね?」
「……ああ」
俺は頷いた。だが内心は苦々しさで一杯だ。
四方儀兄の推測通り、葵屋の補修は進んじゃいない。今見に行かれたら確実に条件未達となる。しかし達成するためには、悔しいが常識的な方法では不可能だ。廓の憑喪神である静の力を取り戻させるしかない。
けれど、その静はここにいない──
「しかし、九郎はあの建物にこだわるよね。僕にはそこがどうしても理解できないんだ。往年の姿が美しいものだったとは想像できるけど、当時小さな子供だった九郎がそれを思い描けたとも思えないし。まして十年間もこだわり続けるなんて、こう言っては悪いが奇妙な話だと思うよ」
「……? 十年間? 四方儀兄、何を言ってるんだ?」
「何をって……九郎は十年前からあの廓を気に掛けていたんだろう?」
「いや、俺が初めて葵屋を見たのはわりと最近の話だし……」
それまでは、せいぜいが実家に残されていた資料を読む程度だったはずだ。たしかに妙に固執しているという自覚はあるが──
「……ふむ?」
「四方儀兄?」
何かおかしな齟齬が俺たちの間には存在しているようだった。しかし四方儀兄は俺の呼びかけには答えず、やがて「まあそういうことでもいいのか」と呟いた。
「? どういう意味だ?」
「いや、僕の勝手な勘違いだったってことさ。九郎があの廓に入れ込むようになったのは最近だった、と。うん、多分そっちが正解なんだろう」
一人そうやって納得した顔をすると、四方儀兄は「それじゃ」と言って二本目の桜を積んだトラックの方へ歩いていってしまった。
後に残された俺は、小骨が引っかかったようなしこりを感じながらも、その場に佇む。
と、視界の隅でこそこそ背を向けている妹の姿を見つけた。
「あ、こら、十羽織!」
「うきゃうっ!?」
素っ頓狂な声を上げて、十羽織が飛び上がった。俺は構わずずんずん近づいて、後ろからその首根っこを掴む。
「お前は、勝手なことをー!」
「ご、ごめんなさい、兄さんっ」
眉尻を吊り上げる俺と、叱られた子供のようにびくびくしている十羽織。正しい兄と妹の構図だが、俺たち兄妹に限っては普段と逆の珍しい事態だった。
「で、でも他に方法がなかったんです! ですから怒らないでください!」
「だからって相談くらいしろ! なにが『大したことありません』だ、一人で抱え込むんじゃねえ!」
「ごめんなさいごめんなさい!」
ぎゃいぎゃいとやり合う俺たちに、次第に周囲の注目が集まる。けれどお互いそれがなかなか目に入らない。
「ど、どうしたの? 二人とも」
唖然とした顔で灯が話しかけてくる。それでようやく我に返った俺は、十羽織の首からぱっと手を離した。解放された十羽織は、地面にへたり込んで、肩で息をする。
「あの、兄妹の間のことに口出す気はないんだけど……十羽織ちゃんは女の子なんだから、その、ほどほどにね?」
「あ、ああ」
俺は気まずい顔でそう返事した。周囲から「嫁が強いぞ」「妹ちゃんも頑張れ」など無責任な声が飛んできたが、ひとまずそれは無視。座り込んだ十羽織に手を差し伸べる。
「……ほら。俺もそんなに怒ってるわけじゃないから」
秘密にしていたことは怒らなければならないが、十羽織の気持ちを考えれば無理ないことだとも思っている。本心から怒るつもりなど、俺には始めからなかった。
「『そんなに』、ですか? 少しは怒ってます?」
「……ぜんぜん怒ってないから。だから立ちなさい」
そして、すっかり子供になってしまった十羽織を見た俺は、これでよく御厨に乗り込んで交渉してきたなと呆れたのだった。
◇
桜を選定したのは七生兄だったらしい。農業大学の若き准教授であるこの兄の見立ては確かなものだったようで、昼前には植え替えた三本のうち左右の二本が見事な花を咲かせた。中心の一本も咲きかけの蕾が控えめに、けれど美しく並んでおり、満開の二本に挟まれて見劣りする感じはない。むしろやや小ぶりだったこともあって、丁度父と母に連れられた子供のような趣きがあり、『大門』をくぐった関係者たちの目を和ませていた。
昼時を回り、徐々に『仲見世通り』には人の数が増えていく。協力を約してくれた神主の指揮の下、屋台の設営が始められたのだ。威勢の良い声が辺りを飛び交い、格安でレンタルさせてもらっていた発電機が一斉にうなり始める。
俺は俺で、桜を過ぎた辺りに構築した舞の舞台のチェックに余念がなかった。これには四方儀兄も付き合ってくれて、正直助けられたと思う。互いの思惑はあれど、舞台には十羽織も参加し三味線を弾く。妹の安全を案じるのは当たり前じゃないかと嫌味のない顔で言われ、そりゃそうだと俺も苦笑いで返した。
夕刻となった。会場はほぼ完成に近づいている。『大門』から『仲見世通り』を貫き、敷地の中心の四つ角までが『夜桜』の範囲だ。葵屋は現時点では範囲外にある。もし──もしすべてが上手く運んだなら、多くの人にそのかつての美しい姿を見てもらいたいと思うが、今は仕方がない。代わりに『仲見世通り』にはずらりと屋台が並んでいるので、一般客が不満を感じることはないだろう。
そして──遂に陽が山向こうに沈む。
周囲に帳が落ちる。
四月一日、夜。
時刻は十八時丁度。
楼主の俺、花魁姿の灯と十羽織の三名が、『仲見世通り』の入り口で桜を背に並ぶ。更に脇に神主や灯の母を従えて、俺は「東西、東西」で始まる口上を述べ始める。
目の前には大勢の一般客が並んでいた。雪洞の火がそれぞれの目を輝かせている。桜の花びらがひとひら、互いの間で遊ぶように舞い落ちた。ほぼ同じくして、俺の口上も終わりを告げる。
「それでは」
俺は袴の裾を払い、大きな扇子をばっと広げた。
「夜桜の宴、これより始まりに御座います──」




