5
冷や汗が頬を伝う。どうする。逃げる手段はもうない。
「返せ」
周りを囲むものたちのどれかが言った。
「返せ、ルルイエ異本返せ」
そして大合唱が始まる。ルルイエ異本というとあの拾った本のことだろう。あんなもの何時でも返してやるが残念ながら今は手元にない。
「あの本ならわたしの部屋にあるわよ。勝手に取っていけばいいじゃない」
言ってみたが無駄だった。合唱はやまない。それどころか。
「かえせ」
一人が私に近づいてきた。身の危険を感じて一歩後ろに下がったが意味はない。後ろにもそれはいるのだから。
逃げようがなかった。足が震えていた。感情は落ち着いていたが身体は恐怖を訴えていた。
それは私に手を伸ばしてきた。その手が私に触れようとした瞬間。
鳥の羽ばたきに似た音が響いた。視界を白い何かが埋め尽くす。
ばっさばっさとはためき、私に触れようとしたそれにまとわりついた白い物。それは本のページだった。あっけにとられていると空気の渦巻く気配が肌を撫でた。嫌な予感がして反射的に地面にふせる。すると、舞っていたページが突然激しく火を吹いた。まとわりつかれていたそれは業火につつまれ、幾何学的な悲鳴を上げてのたうち回る。周囲を取り囲んでいた連中も炎にまかれて逃げ出した。
不思議なことに、私は炎の中心にいたのにまったく熱さを感じない。まあ、焼け死ぬなんて冗談じゃないから不可思議な現象だろうとラッキーてなものだが。
「この火、何時になったら消えんのよ」
ろくに燃えるものもないのに火勢は衰えない。炎はすでに公園を埋め尽くし、民家に燃え移りそうだ。
「おや、お嬢ちゃん、こんな所にいたのかね」
燃えさかる炎の中、黒いコートに黒いサングラスという場違いな格好で背後に現れたのは。
「シュルル教授」
「シュリュズベリイだよ、お嬢ちゃん」
シュリュズベリイはにっこりと笑いかけてきた。
「しかし、少しばかりあついね」
少しばかりである筈がないのだが、シュリュズベリイはなんのこともないと言いたげにパチリと指をならす。
炎が消えた。それこそ跡形もなく。あの炎は幻かと疑ったがあたりに立ちこめる焦げ臭いにおいが現実を主張していた。
花壇の花は塵になっていたし、ベンチも焼け焦げている。
「いやはや、大した才能。さすが」
先ほど鳴らした指先にシュリュズベリイは本をつまんでいる。題名はルルイエ異本。