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【短編ざまぁシリーズ】婚約者様

妹を大切にしてくださった婚約者様へ

作者: 居坐 るい

 


「――一目惚れなんだ、アリシア。僕と、これからこの国を支えていってくれないか?」


 その言葉を聞いた瞬間、世界がふわりと色づいた気がした。

 胸の奥が熱くなって、声なんて出せなくて、ただ必死に頷いた。

 あのときのジールの瞳は、確かに私を見ていた。

 ――そう、アリシアという一人の人間を。


 帰りの馬車で、妹のセシリアが目を輝かせながら言った。

「大国の王子様に見初められるなんて、さすがお姉様だわ!」

 その言葉が、どれほど嬉しかったことか。

 あの瞬間、アリシアは自分を誇らしく思えた。

 だから、どれほど他の令嬢に妬まれ、陰で意地悪をされても、耐えられた。

 だって、選ばれたのは――アリシアなのだから。


 ……でも、人の心は思っているよりずっと脆い。

 鏡を見るたびに、自信が少しずつ削られていった。

 アリシアとセシリア。双子ゆえに姿形はほとんど同じ。

 なのに、どうしてこんなにも扱いが違うのだろう。

 子供らしくて可愛いと言われるのは、いつもセシリア。

 笑顔を褒められるのも、仕草を愛でられるのも、いつだって彼女だった。


 気づけば、人前に出るのが怖くなっていた。

 ヴェールをかぶるようになった。

 ……それが隠れるためだと気づいたのは、ずっと後のこと。


 ある日、ジールが苦笑するように呟いた。



「……きっと姿が似すぎて、手違いでこんな陰気な姉と婚約させられたんだろう。僕があのとき告白したのはセシリアの方だったのに」



 その声は、あの優しかった王子のものとは思えなかった。

 でも、怒ることなんてできなかった。

 ――だって、どこかで思っていたのだ。

 もしも彼が、本当にセシリアを見ていたのだとしたら?

 あのときの輝きは、アリシアの勘違いだったのかもしれない、と。


 それからというもの、ジールは月に一度の婚約者同士のお茶会すら欠席するようになった。

 代わりに人目の少ない場所を選んでセシリアと並んで街を歩き、個室で観劇をし、実家の花園で微笑み合う。

 噂が耳に入らない日はなかった。


 それでもアリシアは、二人を責めきれなかった。

 セシリアは優しい子だ。大切な妹。

 きっと彼女も困っているのだろう、と信じたかった。

 ジールだって、きっと一時の迷いなのだと。

 だって、彼は未来を約束してくれたのだから。


 アリシアは今日も、窓辺でひとり紅茶を淹れる。

 外から笑い声が聞こえるたび、胸の奥がちくりと痛む。

 でも、信じている。

 きっとまた、あの頃のように笑い合える日が来ると――。




 ◆




 今日は珍しく、外の空気を吸っていた。

 屋敷に籠ってばかりのアリシアを、侍女が心配してのことだった。

「たまには気晴らしをなさってくださいませ」と言われ、断りきれずに馬車へ乗せられた。


 社交用の外出は煩わしいけれど、今日は少し違った。

 買い物だ。香油に新しい筆記具、小さな贈り物。

 ただそれだけのことなのに、まるで遠足のように胸が軽かった。


 ――妹、セシリアへの髪飾りも買った。

 あの子は最近、外出の機会が増えているし、新しいものを喜ぶだろう。

 そんなことを考えながら、休憩のために評判のカフェサロンへ足を向けた。


 上流階級向けの落ち着いた店で、客の視線も穏やか。


 客たちは誰も声を荒げることなく、

 囁くように会話を交わしていた。

 衣擦れの音さえ調和の一部に感じられるほど静謐な空間。

 グラスが触れ合う澄んだ音と、ティーポットから注がれる紅茶の音が、

 音楽のように優しく耳をくすぐる。


 店の奥では、暖炉の火が小さく揺れている。

 飴色に磨かれた木のカウンターには、古びた銀器と季節の菓子。

 あたたかな光がアリシアの頬を包み込み、

 緊張で固くなっていた心がようやく溶け出していくのを感じた。

 ――けれど、その安らぎは、ほんの一瞬で砕け散った。




「……ああ、いたのか。陰気臭いな」


 そこにいたのは、ジールと――セシリア。

 わざわざ奥の席まで来て、言ったのだろうか。

 カップを持つ手が冷たくなっていくのを感じる。

 アリシアの思考が一瞬、真っ白になった。


「おやめくださいませ、ジール様。お姉様は恥ずかしがり屋なだけですわ」


 セシリアがそう言って微笑む。その声は、柔らかくて、冷たい。

 かばうふりをしながら、心の底では嘲っているのだ。

 それでも、アリシアはセシリアを大切にしたい。家族なのだから。


「あ、あの、セシリアにも髪飾りを買ったの。帰ったら渡そうと思って……」


 だから精一杯、笑ってみせた。震える声を押し殺して。


「まあ! ありがとうございます、お姉様」


 ぱっと花が咲いたような笑み。けれど、その瞳は少しも笑っていなかった。

 そして燻ったような瞳をアリシアに向けて、ジールは言う。


「失せろ」

 低い声が響いた。

 和やかな店の空気が一瞬で凍りつく。


「お前からの既製品より、僕が贈る一級品のほうがセシリアにふさわしい。そうだろう、セシリア?」


「……まあ、ジール様ったら。お姉様をからかわないでくださいませ」


 唇の端だけで笑うセシリア。その目には、明らかに優越の色が宿っていた。


 視線を感じた。

 周囲の客たちが、カップを持つ手を止めて、こちらを見ている。

 そのざわめきが、皮膚の下を這うように痛い。


「セシリアはいつもこいつの話ばかりするが、無理をしなくてもいいのだぞ?」

 ジールがわざとらしくため息をつく。

「たかが姉だ。しかもぱっとしない。……こういう身内がいては、苦労するだろう?」


 セシリアは小さく笑って答えた。

「ええ、本当に。――困ったお姉様なのです」


 その瞬間、心の奥が、静かに裂けた。

 痛い。

 胸の真ん中が、焼けるように痛い。

 それでも、涙は出なかった。

 代わりに、周囲のささやきが耳に刺さる。


 やはり噂はほんとうなのだと、ひそひそと、徐々に熱を帯びる声。


 逃げ出したかった。

 けれど、足が動かない。

 もし今、背を向けたら――それこそ負けだと思った。


 口内を噛んで、ただ微笑む。

 セシリアの楽しげな笑い声が、遠ざかっていく。

 ――ああ、もうわかってしまった。

 アリシアはこの二人の敵なのだ。

 かつて信じた優しさも、姉妹の絆も、全部、幻だった。


 店を出るとき、空はやけに澄んでいた。

 けれど、その青さが痛いほど目にしみて、

 初めて、自分が泣いていることに気づいた。




 ◆




 屋敷へ戻った頃には、もう夕暮れだった。

 馬車の窓から見える空は茜色に染まり、沈みゆく太陽が、まるで何かを燃やし尽くすようだった。


 アリシアは手にした小箱を見つめる。

 ――セシリアへの髪飾り。

 あの場で渡せなかった、いや、渡せなかったわけではない。ただ、渡せる状況ではなかった。


 心の中がまだざらざらしている。

 それでもアリシア、妹の部屋へ向かった。

 廊下を歩くたび、足音がやけに響く。

 本当は行きたくない。でも、髪飾りを手元に置いておく方が、辛いから。


 扉をノックし、返事がないのを確かめてから中に入る。

 部屋の中は整然としていて、私の部屋とほとんど同じだった。

 机もベッドも、鏡台の位置も、寸分違わない。


 ――両親は、アリシアたち姉妹を平等に育ててくれた。

 誰が見てもそう言うだろう。

 けれど、目に見える『数』だけが違っていた。

 ジールから贈られたであろう花、アクセサリー、手紙。

 机の上に並ぶそのひとつひとつが、平等という幻想を静かに壊していく。


 アリシアはそっと、髪飾りの箱を机に置いた。

 それで帰るつもりだった。

 ――けれど、視線が自然と、机の上に置かれた一通の封筒へと吸い寄せられた。


 王家の紋章。そして、見慣れた赤い蝋印。

 胸の奥が、不吉な音を立てた。


 手が震えているのに、目を逸らせなかった。

 封を開けると、ふわりと香水の匂いが漂う。

 ジールの香り。あの人がいつも纏っていた、爽やかで高貴な香り――。


 中には、短い手紙。

 その一文を読んだ瞬間、心臓が止まった。




『一週間後に控えた舞踏会もアリシアではなくセシリアをエスコートしたい。

 ドレスは、今回も僕から贈ってよいだろうか?』




 視界がぼやけた。

 あの時、あんなに真っ直ぐに見つめてくれた瞳が、

 今はもう、アリシアではなくセシリアを映している。


 ――ああ、そうか。

 もう、完全に心変わりしてしまったのだ。


 握っていた指先が力を失い、箱が床に落ちた。

 カラン、と乾いた音が響く。

 中から転がり出た髪飾りが、無惨に光を反射した。

 それはまるで、心そのもののように砕けた輝きだった。


 何も言わずに部屋を出た。

 足が勝手に自分の部屋へ向かう。

 扉を閉め、背中を預けた瞬間、膝が崩れた。


 どうして、あんなにも嬉しかったのだろう。

「一目惚れなんだ、アリシア」――あの言葉。

 あの笑顔。

 信じた想い。

 全部、夢だったのだろうか。


 枕に顔を埋めると、嗚咽が漏れた。

 声を押し殺しても、涙は止まらなかった。

 それでも、泣いている間にも、心の奥で何かが確かに変わっていった。


 ――ふっと、音を立てて何かが切れた。


 涙が途切れ、呼吸が静かに落ち着いていく。

 胸の奥に、冷たいものが流れ込んだ。

 それは怒りでも嫉妬でもない。もっと深くて、鋭い、確かな意志だった。


「……もう、許さない」


 唇から零れたその声は、かすれていたけれど、確かだった。

 ジールも、セシリアも。

 奪われた全てを、必ず取り返す。


 ――あのとき誓った想いの代償を、今こそ支払わせてあげる。


 窓の外では、月が静かに光っていた。

 その白さは、涙の跡を照らしながら、どこか冷ややかに微笑んでいるようだった。




 ◆




 アリシアは、エスコートなしで夜会に出席した。


 父が何度も申し出てくれた。「お父様がエスコートしようか?」と。

 けれどアリシアは、静かに微笑んで首を横に振った。

 ――誰の腕も借りるつもりはない。もう、誰の庇護にも甘えたくないのだ。


 今日、アリシアが纏ったのは、澄んだ空の色。

 夜明けを思わせる淡い青――まるで闇を押しのけて朝日を迎える空のような、希望と静けさの色だった。

 ジールの好みに合わせて、暖色のドレスばかりを選んできた日々が遠く霞む。

 その名残を払うように、青い裾を揺らしながらアリシアは馬車を降りた。


(……もう、誰かのために色を選ぶ必要がないように、これからを祈りましょう)


 高鳴る鼓動を、冷たい風が撫でていく。

 まるで新しい自分を祝福するように。


 ひとりで大扉をくぐった瞬間、会場のざわめきが波のように押し寄せた。

 無理もない。

 公爵令嬢が、付き添いもなく夜会に現れるなど前代未聞だ。

 けれどその視線に怯えることはなかった。

 むしろ、アリシアは静かにその注目を受け入れた。

 ――見ていなさい。今夜、皆の疑問の答え合わせをしてあげる。


 遅れて、扉の外から賑やかな声が響く。

 ジールとセシリア。

 他国の王子とこの国の公爵家の令嬢――最も高貴な二人の入場に、楽団が気品のある音楽を奏で始めた。

 金糸のような灯が彼らを照らし、注目の視線が集まる。

 セシリアはジールの腕に絡み、幸福を絵に描いたような笑みを浮かべていた。

 ジールもそれを優しく受け止め、微笑む。

 ……まるで、王と妃のように。


 けれど、その視線の先でアリシアは、ただ静かに微笑んでいた。

 嫉妬でも怒りでもない。

 冷ややかな笑み。

 誰よりも美しく、誰よりも冷たい、月のような笑みだった。


(――滑稽ね。

 貴族の倫理も、体裁も、あなたたちは忘れたの?

 人前で愛を囁くなんて、恥でしかないわ)


 周囲の貴族たちは、凍りついたように二人を見つめている。

 ざわざわと囁く声が、会場の隅で膨らんでいく。

 その音を、アリシアはまるで音楽のように感じていた。

 ――さあ、最初に鐘を鳴らしに行かなければ。


「ジール王子殿下、ならびにエルジェント公爵令嬢に、ご挨拶申し上げますわ」


 アリシアの澄んだ声が、静寂を裂く。

 ジールが顔を顰め、セシリアはぷっと吹き出して笑いを堪える。

 一人で挨拶に来たことがよほど面白いらしい。

 しかしその仕草さえも、アリシアには心地よかった。

 自信満々の顔ほど、崩れたときに美しい。


(――その余裕、今に消えてなくなるわ)


 そして、アリシアはヴェールを取った。



 ──ざわっ



 ざわめきが爆ぜるように広がる。

 アリシアが、七年ぶりに公の場でその素顔を晒したのだ。

 光が彼女の頬を照らす。

 そこにいたのは、セシリアと瓜二つの少女。

 髪も瞳も、微笑みの角度まで同じ。

 貴族たちの間から驚愕と困惑の声が漏れた。


「どうしたのですか、エルジェント公爵令嬢?

 ……いえ、『お姉様』とお呼びしたほうがよろしいかしら?」


 アリシアの声音は、まるで氷の刃。

 微笑みの形をした挑発。


 ジールの顔が引きつる。

 そして、アリシアが一歩近づき、同じように腕を絡めた。

 まるで舞台の上の女優のように言葉を紡いぐ。


「ジール様、ごめんなさい。

 私……お姉様に『入れ替わって』と言われて……逆らえなくて」


 その瞬間、ジールの顔が真っ青に変わった。

 誰が本物で、誰が偽者なのか――その境界が溶けていく。

 貴族たちの視線が一斉にジールに集まり、ざわめきが濁流のように渦巻いた。


(……ああ、なんて滑稽。

 愛した女の顔も見分けられないなんて)


 しかしセシリアも焦ったのだろう。声高に、ジールに詰め寄る。

 およそ、貴族令嬢として褒められたことではないが。


「ッジール様! 私こそがセシリアです! 見てください。昨日、こうして愛してくださったでしょう?!」


 震える声で叫び、首元のチョーカーを指でずらした。白い肌の上、公爵家の家紋のすぐ下――赤い痕が、刻まれている。

 その瞬間、空気が凍りついた。


 ……なるほど。昨日、ね。

 そんな話、初耳だが、証拠として見せるにはあまりに下品。いや、愚か。

 それにどうであれ、妹のおさがりなど、死んでも御免だ。


 だが、ジールの表情は対照的だった。

 心底ほっとしたように息をつき、セシリアと視線を交わして――微笑んだ。

 それはまるで、恋人同士が愛を確かめ合う瞬間のようで。


 アリシアは、喉の奥で小さく笑った。

 ――騙された。そう思わせることができただけで、十分だ。

 心のどこかで、ぞくりとした快感が走る。これでいい。これで、もう少しだけ舞台は整う。


 次の一手を待つために言葉を継ごうとした、その時だった。




 ――ぱんっ!!


 頬に焼けつくような衝撃。視界が白く弾け、体が軽く宙を舞う。

 背中が床に叩きつけられ、息が詰まった。


「なんなんだ、これは!」

 ジールの怒声が、耳を裂く。

「お前が、セシリアの真似事だと!? 嫉妬も大概にしろ! 不愉快だ! セシリアに謝れッ!!」


 ――ああ、そう来るのね。


 冷静な思考が、痛みの向こう側で淡々と動いている。

 男の腕力というのは、これほどか。軽く一メートルは吹き飛ばされた気がする。

 頬が焼けるように熱く、腰に鈍い痛み。骨が軋んでいる。


 それでもアリシアは笑わなかった。泣きもしなかった。

 ただ静かに、目を伏せて耐える。


「ジール様、おやめください!」

 弱々しい声。けれどその瞳には、涙がきらめいている。

 ――絶対にそう思っていないだろう。

 その小さな手がジールの腕に添えられても、ジールを止める気などない。

 蹴りが続く。打撃音が響く。

 楽しげな笑いすら、混じっていた。


 貴族たちは遠巻きに、顔をしかめながら見守っている。

 恐怖ではなく、怒りと嫌悪を宿した目で。

 だがジールもセシリアも、そんな視線などどうでもいいらしい。


 アリシアの視界の端で、床に赤が滲んでいく。

 足の感覚が薄れていく。手の指も冷たくなっていく。

 ――それでも、心だけは、妙に静かだった。


 痛みも、屈辱も、すべてを冷たい水に沈めて。

 その奥で、確かに灯るのはただひとつ。


 復讐の焔。


 ジールが馬乗りになり、顔を歪めて息を荒げた。興奮しているのがわかる。

 ――あぁ、なんて醜い顔。

 見下ろすその瞳には、かつてアリシアが恋をした優しさなど、ひとかけらも残っていなかった。




 その時だった。

 ――ガチャリ、と大きな扉の音。

 重厚な入場門が、夜会の静寂を裂いて開いた。


 誰もが息をのむ。

 本来ならば、ジールとセシリアが最後の入場者。もう誰も来るはずのない時間だ。

 ジールもアリシアの上から動かず、扉の方へと顔を上げた。


 そこに立っていたのは――

 この国の王。そしてその傍らに、第一王子アデルワース殿下。

 光を背に受けた二人の姿は、神殿画のように荘厳で、まるで救済が訪れたかのように見えた。


 ジールは慌てて身を起こし、形式だけの礼をとる。

 頬に血が飛び散っていたのを気にしてか、白いハンカチで拭い取り、すぐ隣にいたセシリアの腰を抱いて――頬を寄せた。

 ああ、見せつけたいのだ。

 自分は愛を掴み選んだと、そう言わんばかりに。


 だが、その愛は薄氷。

 アリシアの血の赤と、彼の手の白がまじり合って、汚れた雪のように見えた。


 やがて、国王とアデルワース殿下が大階段を降りきる。

 床に倒れ伏したアリシアの前で、二人の足が止まった。


「……これは、どういう状況だ?」


 国王の声が、会場の空気を震わせる。

 威厳と怒気が混ざり、感覚のない肌にまで伝わってきた。


 王子は一瞬たじろぎながらも、笑顔を作って言った。


「これは……アリシアが、愛しのセシリアに扮して僕をからかったのです。まったく、嫉妬深くて――」


「なぜ、ここまでしたのかと聞いているのだ!!」


 雷鳴のような叱責。

 王の声が響いた瞬間、ジールの笑顔が崩れ落ちる。

 ざわ、と会場の貴族たちが揺れた。


 アデルワースがアリシアのもとへと歩み寄る。

 膝をつき、そっと抱き起こそうとするが、体は力を失って動かない。

 その手つきは驚くほど優しかった。

 まるで壊れたガラス細工を扱うように、指先で顔にかかった髪を払ってくれる。


「……もう、大丈夫だから」


 低く落ち着いた声。

 その響きが、胸の奥の氷を少しだけ溶かした気がした。

 頬に流れる血を見て、アデルワースが眉をひそめる。

 次の瞬間には、アリシアを軽々と横抱きにしていた。

 世界が揺れ、彼の肩に頬が触れる。

 温かい。けれど、それがかえって、胸を締めつけた。


 そんな中で、ジールはまだ言葉を続ける。


「大国の王子である僕が、わざわざ彼女を婚約者に望んだのに!

 彼女は何もせず、陰気で、会話も盛り上がらない。だから……今夜の舞踏会で、正式にセシリアと恋人だと公表しようと思っていたのです!」


 ざわめきが、広間全体に走った。

 誰かが息を呑み、誰かが顔を覆う。

 そして国王が、一歩前に出て言った。


「今、なんと申した?」


 その一言にジールはまたも浅い笑みを浮かべて――まるで、何かを思いついた子供のように声を弾ませた。


「そうだ、婚約破棄だ! 僕はこの場でアリシアと婚約破棄をし、セシリアと新たに婚約を結びます!

 ……セシリア、嬉しいだろう?」


 セシリアはびくりと体を震わせ、青ざめた。

 俯いたまま、声を発さない。

 肯定も否定もできない。

 ――そういうところが、妹らしい。

 一応この状況がまずいことはわかるらしい。

 いつもそうだ。自分の立場が危うくなると、言葉を呑み込んで被害者の顔をする。

 あまりにも見慣れたその姿に、いつしか冷静になっていた。


 アデルワースの声が響く。


「……なんと愚かなことを。あなたは、そこの『悪女』と添い遂げるというのか」


 空気が、張り詰めた。

 ジールは勝ち誇ったように笑い、アリシアを指さす。


「は? ああ、このアリシアが悪女だというのだな!

 なるほど、セシリアに扮して可憐さを貶めた――ふむ、確かに悪女だ」


 アデルワースは静かに首を振った。

 その眼差しは、冷ややかで、そしてどこか憐れみに満ちていた。


「なにを言っているんだ? そこのセシリア嬢のことだ。……悪女というのは」


「……は?」


 ジールが間抜けな声を上げた。

 セシリアも顔を上げ、きょろきょろと周囲を見渡す。

 けれど――誰も、二人に味方する者はいなかった。


 貴族の女性たちは扇子で口元を隠し、目を逸らす。

 男性たちは露骨に顔をしかめ、軽蔑を隠そうともしない。

 その視線が痛いほどわかるのに、二人はそれに気づかない。

 ──気づきたくない。

 まだ、自分たちがまだ祝福される立場にいると信じているかのように。


 アリシアは、アデルワースの腕の中でゆっくりと目を閉じた。

 もう、痛みもほとんど感じない。

 ただ、心の奥で――凍えるように澄んだ決意だけが息づいている。

 煌びやかな光が、白磁の床に落ちて揺れていた。

 金糸の刺繍が施されたカーテンの隙間から、夜風がわずかに吹き込み、

 床にあるアリシアが外した淡いヴェールをそっと揺らした。


「アリシア嬢は、私の亡き母に代わり、この国の社交界を取り仕切ってくれている。

 本当は、貴国に嫁ぐため──そこのセシリア嬢が、この役割を担うはずだったのだが……」


 アデルワースの声は、まるで深い湖面に落ちる石のように静かに響いた。

 そこに混じる一瞬のためらいが、かえって真実を際立たせた。


 ──つまりこうだ。

 ジールがセシリアに懸想し、セシリアもそれを受け入れた。

 そして幸か不幸か、ジールはセシリアとの遊びに、もっぱら人目を避けた場所や密室を選んでいた。

 本国へ、ジールが不貞をしていると報告されるのを避けたためだろう。

 結果として、セシリアが社交の場から退き、アリシアがその欠けた座を埋めることになった──それだけのこと。


 けれど、その『穴』を埋めることがどれほどの覚悟を要したか、誰が知るだろう。


 アリシア・エルジェント公爵令嬢。

 役目を果たすため。己の人見知りも、怯えも、弱さも──すべてヴェールの下に封じた。

 そこにあるのは、粛々と慎みを持ち、完璧な所作で座する一人の淑女。

 派閥、爵位、家格、そして家々の癖までも読み取り、均衡を保つ。

 アリシアこそが、社交界という盤上の王であった。


 ……それなのに。


「それに、あなたはこのように、日常的にアリシア嬢に暴力を振るっているのだろう?」


 アデルワースの声が、冷ややかに夜会の空気を裂いた。

 その声音に、誰もが凍りつく。

 真っ先に顔色を変えたのは、言われた本人──アリシアの婚約者であるジールだ。


「は? なんだそれは!」

「いや、この状況を見て、否定できるか?」


 その瞬間、会場の空気が震えた。

 泣き出しそうな令嬢たちが、まるで自分が傷つけられたかのように息を呑む。

 アリシアの頬には、シャンデリアの光を反射するように紅い跡が浮かんでいる。

 その痛々しさが、何より雄弁だった。


 ヴェールが外れ、素顔を晒したアリシアの姿は、あまりにも儚く美しい。

 涙の跡が淡く光り、時折、恐怖に怯えるように小さく震える。

 そのたびに、アデルワースの腕の中で身体がびくりと揺れ、彼の袖を掴む。

 意識していないようで、けれど本能的に助けを求めている。


 庇護欲を刺激する、完璧な仕草だった。

 それを見た瞬間、アデルワースの瞳がわずかに陰る。

 彼は、胸の奥から込み上げる怒りを呑み込むように唇を結んだ。


「……私自身も、社交界で噂は耳にしていた。

 半信半疑だったが──どうやら、真実のようだな。

 ……アリシア嬢、この状況を、どうしたい?」


 静寂の中で、アデルワースの声がひときわ優しく響いた。

 その優しさが、かえって苦しいほどに。


 アリシアは伏せていた瞳をゆっくりと上げる。

 虚ろな光が、涙の膜越しに淡く揺れる。


「……あの婚約者様も、妹も……ほんとうは……っ」


 言葉が途切れ、肩が震えた。

 アデルワースがそっと手を添える。


「大丈夫。ここで君を悪く言う者がいても、私が許さない」


 その瞬間、アリシアの胸に熱いものが込み上げた。

 まるで氷に覆われていた心が、初めて融けていくような感覚。

 しかし同時に、決意は鋼のように固く、冷たく残っていた。


「……はい」

 その声は、まるで壊れた硝子のようにかすかに響いた。


「……ほんとは、すごく、怖かったのです……っ」


 震える声でそう告げ、アリシアはアデルワースの胸に顔を埋めた。

 白い指が、彼の胸元をぎゅっと握りしめる。

 社交界で見せる完璧な微笑みとは、まるで別人。

 守られる側の少女の顔だった。


 アデルワースは喉を詰まらせる。

 彼の中で、何かが静かに切れた音がした。


 ──これほどの女性を、どうして傷つけられる。

 ──どうして、見過ごされてきた。


 そんな怒りを押し隠すように、彼はただアリシアを庇うように立つ。


 だが、そのとき。

「お、お姉様!? なにをおっしゃっているの!」

 慌てた声が響いた。セシリアだった。


「私、暴力なんて振るったことないわ! それに、お姉様の婚約者を求めたなんて……っ!

 どうして言ってくれなかったの!? 私、なにも聞いてないのよ!」


 その言葉に、アリシアの身体が小さく硬直した。

 その反応を、アデルワースは見逃さない。

 彼は一歩、前に出てセシリアとジールの前に立ち塞がった。

 背中でアリシアを庇い、冷たい声で告げる。


「これ以上、彼女を追い詰めるな」


 その声音に、誰もが息を呑む。

 その一言で、場の主導権が完全に移った。

 今や、社交界全体がアリシアの味方だった。


 ──そう、ここに至るまでのすべてが、彼女の計算だった。

 社交界に立ち、微笑みの裏で少しずつ、少しずつ毒を流し続けてきた。




 『いつもエスコートがないのは妹に婚約者を譲っているからなのです』

 『彼は私をほったらかしで、妹とよく出かけているわ』

 『妹は可愛いわよ。でも……少し、男性が好む仕草をしていて、困っているの』

 『痛っ……な、なんでもないわ。少し、傷が染みてしまって』

 と、わざとらしく微笑んでみせた。


 その一つ一つが、丁寧に撒かれた種。

 今、ようやく花を咲かせたのだ。




 本当は知っている。

 昔、セシリアの根は優しかったこと。

 今となっては、アリシアが見初められたことを喜んでくれた日が遠く霞む。

 それに、ジールを本気で愛しておらず、姉の婚約者として一定の遊びとして付き合っていることも。

 けれど、流される者はこの世界で最も愚かだ。

 弱いというのは、社交界では罪でしかない。


 人は真実よりも、納得できる物語を信じる。

 だからこそ、アリシアは物語を作った。

 虐げられる姉という、誰もが信じたくなる幻想を。


 そして今──彼女は微笑む。

 ヴェールを捨て、涙の跡を光らせたまま。


 アデルワースの庇護のもと、アリシアは静かに頭を垂れた。

 シャンデリアの光が、その頬に落ちる涙を宝石のように照らす。


 その姿は、敗北を装った勝者。

 アリシアの中で、すべては計算通りだった。


 ──『妹と婚約者に虐げられた可哀想な公爵令嬢』。

 その物語は、今宵、完璧に完成したのだ。




 そして最後。

 もう会うこともないだろう婚約者に、妹に。

 アリシアは唇を噛みしめ、震える呼吸を抑えながら、かすれた声で――それでも優雅に微笑んだ。


「……妹を大切にしてくださった婚約者様へ。心より深甚なる感謝を申し上げますわ」


 静寂を裂いたその一言は、藁に火種を投げ入れたようだった。

 現に、これは決別を意図して言ったのだから。

 そしてそれまで見て見ぬふりをしていた貴族たちの鬱積が、一斉に爆ぜたのだ。


「なんということを……!」「アリシア様にあのような所業を」「恥知らずな方たち」


 声の波が広間を揺らす。アリシアはその喧騒の中、ただ静かに目を伏せた。

 胸の奥に広がるのは、悲しみではなく――冷たい決意だった。

 己の尊厳を踏みにじられた夜。その証人が、今や数百人もいる。もう逃げ場はない。


「静粛に!」


 王の声が響いた。その声音には、諦念と怒りが入り混じっている。

 ジールが顔を上げたときには、すでに勝負はついていた。


「……この国の王として了承する。そこのジール王子が言い出した婚約破棄を、な。準備にとりかかれ」


「え、あ……」


「破棄したかったのだろう? よいよい。ご両親にも口添えしておこう」


 王の言葉は、氷のように冷たかった。

 広間に立ち尽くすジールとセシリアの姿は、まるで罪人だ。

 誰もがわざと視線を逸らし、扇の陰でささやき笑う。

 あれほど尊大だった王子が、今や国外の厄介者にすぎない。


 アリシアは震えるまぶたを伏せたまま、ふっと吐息をこぼした。

 ――これで終わりだ、と。


「……アリシア嬢、傷、痛むか?」


 優しく降り注ぐ声に、顔を上げる。

 そこにいたのは、この国の第一王子――アデルワース。

 彼の瞳は月光のように穏やかで、けれど確かな意志の色を宿していた。


「は……い。すこし」


「では、先にお暇しよう。大丈夫だ。後は陛下に任せておけばいい」


 横抱きで運ばれる感覚。

 頬をかすめる彼の衣の香りが、どこまでも柔かかった。

 広間を出る間、誰もが二人の背を見送った。

 勝者の行進のように、静かな敬意がその道に満ちていた。




 アリシアは、ぼんやりと天井を見つめながら思った。

 ――次に婚約を結ぶとすれば、きっとこの人があてがわれる。派閥を鑑みても、きっと。

 けれど、そんな未来を想像するのもまだ早い。

 心のどこかで、まだ痛みが燻っている。


 そんな時だった。

 アデルワースが、そっと微笑んだ。


「……叶わないと思っていたが、あなたは私の初恋なんだ」


 その声は、まるで冬の終わりを告げる陽だまりのようで。

 アリシアの胸の奥で、何かが静かに溶けた。

 痛みは、確かにそこにあった。だが同時に、確かな希望もあった。


 ――もう、泣かない。

 この人の隣なら、きっと。




 ◆




 アデルワースに送られて帰宅してすぐ。

 アリシアは屋敷の玄関で、両親に抱きしめられていた。

 母は声を詰まらせ、父は肩を震わせながら「すまなかった」と繰り返す。

 公爵家の人間ながら権力に興味がない両親。

 社交に疎い二人は、ようやく娘の苦労に気づいたのだ。


 その日、隣国の王子ジールとの婚約は正式に破棄された。

 彼の有責として。

 貴族たちはその判決に拍手し、大国からは莫大な慰謝料が支払われた。

 ――宮殿ひとつ、建てられるほどの額だという。


 妹セシリアの部屋は、数日のうちに物置に替わるとのこと。

 もはや戻ってこないのだと、アリシアは悟る。

 あのときの沈黙は、彼女なりの逃避だったのかもしれない。

 だが、もう構わない。姉妹であっても、道は違う。




 そして、アリシアは今――


 優しい王子、アデルワースからの真摯な求愛を受けている。

 命令一つで手籠めにできる立場にありながら、彼はただ穏やかに笑って言うのだ。


「アリシア嬢の気持ちを、何よりも優先したいのだ」


 その優しさに、胸が熱くなる。

 彼の瞳に映る自分が、もう傷ついた令嬢ではなく、誇り高き一人の女性として見えているのだとわかる。


 あの日の惨劇を経て、アリシアはようやく理解した。

 幸福とは与えられるものではなく、自ら選び取るものだということを。


 夜明け前の空は、群青から薄桃色へと染まりゆく。

 新しい一日の始まりを告げる光が、窓辺に射し込んだ。

 アリシアはそっと目を細める。


 ――これからは、もう誰にも踏みにじられない。


 その決意を胸に、彼女の新しい人生が幕を開けた。






いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!



追記

11月12日誤字訂正

同じ方から複数件報告をいただきました……。

加えて、表現でもやもやするポイントを修正しました。

ご報告ありがとうございます!




⬇️お時間ある方はこちらもどうぞ!ワンナイトの純愛⬇️

【この子、僕との子どもだよね?】

https://ncode.syosetu.com/n3969li/




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― 新着の感想 ―
清らか儚げ路線でいくなら「彼は私をほったらかしで〜」というストレート過ぎる言い回しはそぐわないように感じました。 その道のプロが身近に居ましたが、彼女は決して強い言い方をしない人で、きっとこのシチュな…
ん?アホまぬけ王子は強制送還として、セシリアはどうしたのですか?まさか、お嫁入り?
公爵家の人間が権力に興味なくて中立はわかるけど、社交に疎いは立場的にだめでしょ
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