妹を大切にしてくださった婚約者様へ
「――一目惚れなんだ、アリシア。僕と、これからこの国を支えていってくれないか?」
その言葉を聞いた瞬間、世界がふわりと色づいた気がした。
胸の奥が熱くなって、声なんて出せなくて、ただ必死に頷いた。
あのときのジールの瞳は、確かに私を見ていた。
――そう、アリシアという一人の人間を。
帰りの馬車で、妹のセシリアが目を輝かせながら言った。
「大国の王子様に見初められるなんて、さすがお姉様だわ!」
その言葉が、どれほど嬉しかったことか。
あの瞬間、アリシアは自分を誇らしく思えた。
だから、どれほど他の令嬢に妬まれ、陰で意地悪をされても、耐えられた。
だって、選ばれたのは――アリシアなのだから。
……でも、人の心は思っているよりずっと脆い。
鏡を見るたびに、自信が少しずつ削られていった。
アリシアとセシリア。双子ゆえに姿形はほとんど同じ。
なのに、どうしてこんなにも扱いが違うのだろう。
子供らしくて可愛いと言われるのは、いつもセシリア。
笑顔を褒められるのも、仕草を愛でられるのも、いつだって彼女だった。
気づけば、人前に出るのが怖くなっていた。
ヴェールをかぶるようになった。
……それが隠れるためだと気づいたのは、ずっと後のこと。
ある日、ジールが苦笑するように呟いた。
「……きっと姿が似すぎて、手違いでこんな陰気な姉と婚約させられたんだろう。僕があのとき告白したのはセシリアの方だったのに」
その声は、あの優しかった王子のものとは思えなかった。
でも、怒ることなんてできなかった。
――だって、どこかで思っていたのだ。
もしも彼が、本当にセシリアを見ていたのだとしたら?
あのときの輝きは、アリシアの勘違いだったのかもしれない、と。
それからというもの、ジールは月に一度の婚約者同士のお茶会すら欠席するようになった。
代わりに人目の少ない場所を選んでセシリアと並んで街を歩き、個室で観劇をし、実家の花園で微笑み合う。
噂が耳に入らない日はなかった。
それでもアリシアは、二人を責めきれなかった。
セシリアは優しい子だ。大切な妹。
きっと彼女も困っているのだろう、と信じたかった。
ジールだって、きっと一時の迷いなのだと。
だって、彼は未来を約束してくれたのだから。
アリシアは今日も、窓辺でひとり紅茶を淹れる。
外から笑い声が聞こえるたび、胸の奥がちくりと痛む。
でも、信じている。
きっとまた、あの頃のように笑い合える日が来ると――。
◆
今日は珍しく、外の空気を吸っていた。
屋敷に籠ってばかりのアリシアを、侍女が心配してのことだった。
「たまには気晴らしをなさってくださいませ」と言われ、断りきれずに馬車へ乗せられた。
社交用の外出は煩わしいけれど、今日は少し違った。
買い物だ。香油に新しい筆記具、小さな贈り物。
ただそれだけのことなのに、まるで遠足のように胸が軽かった。
――妹、セシリアへの髪飾りも買った。
あの子は最近、外出の機会が増えているし、新しいものを喜ぶだろう。
そんなことを考えながら、休憩のために評判のカフェサロンへ足を向けた。
上流階級向けの落ち着いた店で、客の視線も穏やか。
客たちは誰も声を荒げることなく、
囁くように会話を交わしていた。
衣擦れの音さえ調和の一部に感じられるほど静謐な空間。
グラスが触れ合う澄んだ音と、ティーポットから注がれる紅茶の音が、
音楽のように優しく耳をくすぐる。
店の奥では、暖炉の火が小さく揺れている。
飴色に磨かれた木のカウンターには、古びた銀器と季節の菓子。
あたたかな光がアリシアの頬を包み込み、
緊張で固くなっていた心がようやく溶け出していくのを感じた。
――けれど、その安らぎは、ほんの一瞬で砕け散った。
「……ああ、いたのか。陰気臭いな」
そこにいたのは、ジールと――セシリア。
わざわざ奥の席まで来て、言ったのだろうか。
カップを持つ手が冷たくなっていくのを感じる。
アリシアの思考が一瞬、真っ白になった。
「おやめくださいませ、ジール様。お姉様は恥ずかしがり屋なだけですわ」
セシリアがそう言って微笑む。その声は、柔らかくて、冷たい。
かばうふりをしながら、心の底では嘲っているのだ。
それでも、アリシアはセシリアを大切にしたい。家族なのだから。
「あ、あの、セシリアにも髪飾りを買ったの。帰ったら渡そうと思って……」
だから精一杯、笑ってみせた。震える声を押し殺して。
「まあ! ありがとうございます、お姉様」
ぱっと花が咲いたような笑み。けれど、その瞳は少しも笑っていなかった。
そして燻ったような瞳をアリシアに向けて、ジールは言う。
「失せろ」
低い声が響いた。
和やかな店の空気が一瞬で凍りつく。
「お前からの既製品より、僕が贈る一級品のほうがセシリアにふさわしい。そうだろう、セシリア?」
「……まあ、ジール様ったら。お姉様をからかわないでくださいませ」
唇の端だけで笑うセシリア。その目には、明らかに優越の色が宿っていた。
視線を感じた。
周囲の客たちが、カップを持つ手を止めて、こちらを見ている。
そのざわめきが、皮膚の下を這うように痛い。
「セシリアはいつもこいつの話ばかりするが、無理をしなくてもいいのだぞ?」
ジールがわざとらしくため息をつく。
「たかが姉だ。しかもぱっとしない。……こういう身内がいては、苦労するだろう?」
セシリアは小さく笑って答えた。
「ええ、本当に。――困ったお姉様なのです」
その瞬間、心の奥が、静かに裂けた。
痛い。
胸の真ん中が、焼けるように痛い。
それでも、涙は出なかった。
代わりに、周囲のささやきが耳に刺さる。
やはり噂はほんとうなのだと、ひそひそと、徐々に熱を帯びる声。
逃げ出したかった。
けれど、足が動かない。
もし今、背を向けたら――それこそ負けだと思った。
口内を噛んで、ただ微笑む。
セシリアの楽しげな笑い声が、遠ざかっていく。
――ああ、もうわかってしまった。
アリシアはこの二人の敵なのだ。
かつて信じた優しさも、姉妹の絆も、全部、幻だった。
店を出るとき、空はやけに澄んでいた。
けれど、その青さが痛いほど目にしみて、
初めて、自分が泣いていることに気づいた。
◆
屋敷へ戻った頃には、もう夕暮れだった。
馬車の窓から見える空は茜色に染まり、沈みゆく太陽が、まるで何かを燃やし尽くすようだった。
アリシアは手にした小箱を見つめる。
――セシリアへの髪飾り。
あの場で渡せなかった、いや、渡せなかったわけではない。ただ、渡せる状況ではなかった。
心の中がまだざらざらしている。
それでもアリシア、妹の部屋へ向かった。
廊下を歩くたび、足音がやけに響く。
本当は行きたくない。でも、髪飾りを手元に置いておく方が、辛いから。
扉をノックし、返事がないのを確かめてから中に入る。
部屋の中は整然としていて、私の部屋とほとんど同じだった。
机もベッドも、鏡台の位置も、寸分違わない。
――両親は、アリシアたち姉妹を平等に育ててくれた。
誰が見てもそう言うだろう。
けれど、目に見える『数』だけが違っていた。
ジールから贈られたであろう花、アクセサリー、手紙。
机の上に並ぶそのひとつひとつが、平等という幻想を静かに壊していく。
アリシアはそっと、髪飾りの箱を机に置いた。
それで帰るつもりだった。
――けれど、視線が自然と、机の上に置かれた一通の封筒へと吸い寄せられた。
王家の紋章。そして、見慣れた赤い蝋印。
胸の奥が、不吉な音を立てた。
手が震えているのに、目を逸らせなかった。
封を開けると、ふわりと香水の匂いが漂う。
ジールの香り。あの人がいつも纏っていた、爽やかで高貴な香り――。
中には、短い手紙。
その一文を読んだ瞬間、心臓が止まった。
『一週間後に控えた舞踏会もアリシアではなくセシリアをエスコートしたい。
ドレスは、今回も僕から贈ってよいだろうか?』
視界がぼやけた。
あの時、あんなに真っ直ぐに見つめてくれた瞳が、
今はもう、アリシアではなくセシリアを映している。
――ああ、そうか。
もう、完全に心変わりしてしまったのだ。
握っていた指先が力を失い、箱が床に落ちた。
カラン、と乾いた音が響く。
中から転がり出た髪飾りが、無惨に光を反射した。
それはまるで、心そのもののように砕けた輝きだった。
何も言わずに部屋を出た。
足が勝手に自分の部屋へ向かう。
扉を閉め、背中を預けた瞬間、膝が崩れた。
どうして、あんなにも嬉しかったのだろう。
「一目惚れなんだ、アリシア」――あの言葉。
あの笑顔。
信じた想い。
全部、夢だったのだろうか。
枕に顔を埋めると、嗚咽が漏れた。
声を押し殺しても、涙は止まらなかった。
それでも、泣いている間にも、心の奥で何かが確かに変わっていった。
――ふっと、音を立てて何かが切れた。
涙が途切れ、呼吸が静かに落ち着いていく。
胸の奥に、冷たいものが流れ込んだ。
それは怒りでも嫉妬でもない。もっと深くて、鋭い、確かな意志だった。
「……もう、許さない」
唇から零れたその声は、かすれていたけれど、確かだった。
ジールも、セシリアも。
奪われた全てを、必ず取り返す。
――あのとき誓った想いの代償を、今こそ支払わせてあげる。
窓の外では、月が静かに光っていた。
その白さは、涙の跡を照らしながら、どこか冷ややかに微笑んでいるようだった。
◆
アリシアは、エスコートなしで夜会に出席した。
父が何度も申し出てくれた。「お父様がエスコートしようか?」と。
けれどアリシアは、静かに微笑んで首を横に振った。
――誰の腕も借りるつもりはない。もう、誰の庇護にも甘えたくないのだ。
今日、アリシアが纏ったのは、澄んだ空の色。
夜明けを思わせる淡い青――まるで闇を押しのけて朝日を迎える空のような、希望と静けさの色だった。
ジールの好みに合わせて、暖色のドレスばかりを選んできた日々が遠く霞む。
その名残を払うように、青い裾を揺らしながらアリシアは馬車を降りた。
(……もう、誰かのために色を選ぶ必要がないように、これからを祈りましょう)
高鳴る鼓動を、冷たい風が撫でていく。
まるで新しい自分を祝福するように。
ひとりで大扉をくぐった瞬間、会場のざわめきが波のように押し寄せた。
無理もない。
公爵令嬢が、付き添いもなく夜会に現れるなど前代未聞だ。
けれどその視線に怯えることはなかった。
むしろ、アリシアは静かにその注目を受け入れた。
――見ていなさい。今夜、皆の疑問の答え合わせをしてあげる。
遅れて、扉の外から賑やかな声が響く。
ジールとセシリア。
他国の王子とこの国の公爵家の令嬢――最も高貴な二人の入場に、楽団が気品のある音楽を奏で始めた。
金糸のような灯が彼らを照らし、注目の視線が集まる。
セシリアはジールの腕に絡み、幸福を絵に描いたような笑みを浮かべていた。
ジールもそれを優しく受け止め、微笑む。
……まるで、王と妃のように。
けれど、その視線の先でアリシアは、ただ静かに微笑んでいた。
嫉妬でも怒りでもない。
冷ややかな笑み。
誰よりも美しく、誰よりも冷たい、月のような笑みだった。
(――滑稽ね。
貴族の倫理も、体裁も、あなたたちは忘れたの?
人前で愛を囁くなんて、恥でしかないわ)
周囲の貴族たちは、凍りついたように二人を見つめている。
ざわざわと囁く声が、会場の隅で膨らんでいく。
その音を、アリシアはまるで音楽のように感じていた。
――さあ、最初に鐘を鳴らしに行かなければ。
「ジール王子殿下、ならびにエルジェント公爵令嬢に、ご挨拶申し上げますわ」
アリシアの澄んだ声が、静寂を裂く。
ジールが顔を顰め、セシリアはぷっと吹き出して笑いを堪える。
一人で挨拶に来たことがよほど面白いらしい。
しかしその仕草さえも、アリシアには心地よかった。
自信満々の顔ほど、崩れたときに美しい。
(――その余裕、今に消えてなくなるわ)
そして、アリシアはヴェールを取った。
──ざわっ
ざわめきが爆ぜるように広がる。
アリシアが、七年ぶりに公の場でその素顔を晒したのだ。
光が彼女の頬を照らす。
そこにいたのは、セシリアと瓜二つの少女。
髪も瞳も、微笑みの角度まで同じ。
貴族たちの間から驚愕と困惑の声が漏れた。
「どうしたのですか、エルジェント公爵令嬢?
……いえ、『お姉様』とお呼びしたほうがよろしいかしら?」
アリシアの声音は、まるで氷の刃。
微笑みの形をした挑発。
ジールの顔が引きつる。
そして、アリシアが一歩近づき、同じように腕を絡めた。
まるで舞台の上の女優のように言葉を紡いぐ。
「ジール様、ごめんなさい。
私……お姉様に『入れ替わって』と言われて……逆らえなくて」
その瞬間、ジールの顔が真っ青に変わった。
誰が本物で、誰が偽者なのか――その境界が溶けていく。
貴族たちの視線が一斉にジールに集まり、ざわめきが濁流のように渦巻いた。
(……ああ、なんて滑稽。
愛した女の顔も見分けられないなんて)
しかしセシリアも焦ったのだろう。声高に、ジールに詰め寄る。
およそ、貴族令嬢として褒められたことではないが。
「ッジール様! 私こそがセシリアです! 見てください。昨日、こうして愛してくださったでしょう?!」
震える声で叫び、首元のチョーカーを指でずらした。白い肌の上、公爵家の家紋のすぐ下――赤い痕が、刻まれている。
その瞬間、空気が凍りついた。
……なるほど。昨日、ね。
そんな話、初耳だが、証拠として見せるにはあまりに下品。いや、愚か。
それにどうであれ、妹のおさがりなど、死んでも御免だ。
だが、ジールの表情は対照的だった。
心底ほっとしたように息をつき、セシリアと視線を交わして――微笑んだ。
それはまるで、恋人同士が愛を確かめ合う瞬間のようで。
アリシアは、喉の奥で小さく笑った。
――騙された。そう思わせることができただけで、十分だ。
心のどこかで、ぞくりとした快感が走る。これでいい。これで、もう少しだけ舞台は整う。
次の一手を待つために言葉を継ごうとした、その時だった。
――ぱんっ!!
頬に焼けつくような衝撃。視界が白く弾け、体が軽く宙を舞う。
背中が床に叩きつけられ、息が詰まった。
「なんなんだ、これは!」
ジールの怒声が、耳を裂く。
「お前が、セシリアの真似事だと!? 嫉妬も大概にしろ! 不愉快だ! セシリアに謝れッ!!」
――ああ、そう来るのね。
冷静な思考が、痛みの向こう側で淡々と動いている。
男の腕力というのは、これほどか。軽く一メートルは吹き飛ばされた気がする。
頬が焼けるように熱く、腰に鈍い痛み。骨が軋んでいる。
それでもアリシアは笑わなかった。泣きもしなかった。
ただ静かに、目を伏せて耐える。
「ジール様、おやめください!」
弱々しい声。けれどその瞳には、涙がきらめいている。
――絶対にそう思っていないだろう。
その小さな手がジールの腕に添えられても、ジールを止める気などない。
蹴りが続く。打撃音が響く。
楽しげな笑いすら、混じっていた。
貴族たちは遠巻きに、顔をしかめながら見守っている。
恐怖ではなく、怒りと嫌悪を宿した目で。
だがジールもセシリアも、そんな視線などどうでもいいらしい。
アリシアの視界の端で、床に赤が滲んでいく。
足の感覚が薄れていく。手の指も冷たくなっていく。
――それでも、心だけは、妙に静かだった。
痛みも、屈辱も、すべてを冷たい水に沈めて。
その奥で、確かに灯るのはただひとつ。
復讐の焔。
ジールが馬乗りになり、顔を歪めて息を荒げた。興奮しているのがわかる。
――あぁ、なんて醜い顔。
見下ろすその瞳には、かつてアリシアが恋をした優しさなど、ひとかけらも残っていなかった。
その時だった。
――ガチャリ、と大きな扉の音。
重厚な入場門が、夜会の静寂を裂いて開いた。
誰もが息をのむ。
本来ならば、ジールとセシリアが最後の入場者。もう誰も来るはずのない時間だ。
ジールもアリシアの上から動かず、扉の方へと顔を上げた。
そこに立っていたのは――
この国の王。そしてその傍らに、第一王子アデルワース殿下。
光を背に受けた二人の姿は、神殿画のように荘厳で、まるで救済が訪れたかのように見えた。
ジールは慌てて身を起こし、形式だけの礼をとる。
頬に血が飛び散っていたのを気にしてか、白いハンカチで拭い取り、すぐ隣にいたセシリアの腰を抱いて――頬を寄せた。
ああ、見せつけたいのだ。
自分は愛を掴み選んだと、そう言わんばかりに。
だが、その愛は薄氷。
アリシアの血の赤と、彼の手の白がまじり合って、汚れた雪のように見えた。
やがて、国王とアデルワース殿下が大階段を降りきる。
床に倒れ伏したアリシアの前で、二人の足が止まった。
「……これは、どういう状況だ?」
国王の声が、会場の空気を震わせる。
威厳と怒気が混ざり、感覚のない肌にまで伝わってきた。
王子は一瞬たじろぎながらも、笑顔を作って言った。
「これは……アリシアが、愛しのセシリアに扮して僕をからかったのです。まったく、嫉妬深くて――」
「なぜ、ここまでしたのかと聞いているのだ!!」
雷鳴のような叱責。
王の声が響いた瞬間、ジールの笑顔が崩れ落ちる。
ざわ、と会場の貴族たちが揺れた。
アデルワースがアリシアのもとへと歩み寄る。
膝をつき、そっと抱き起こそうとするが、体は力を失って動かない。
その手つきは驚くほど優しかった。
まるで壊れたガラス細工を扱うように、指先で顔にかかった髪を払ってくれる。
「……もう、大丈夫だから」
低く落ち着いた声。
その響きが、胸の奥の氷を少しだけ溶かした気がした。
頬に流れる血を見て、アデルワースが眉をひそめる。
次の瞬間には、アリシアを軽々と横抱きにしていた。
世界が揺れ、彼の肩に頬が触れる。
温かい。けれど、それがかえって、胸を締めつけた。
そんな中で、ジールはまだ言葉を続ける。
「大国の王子である僕が、わざわざ彼女を婚約者に望んだのに!
彼女は何もせず、陰気で、会話も盛り上がらない。だから……今夜の舞踏会で、正式にセシリアと恋人だと公表しようと思っていたのです!」
ざわめきが、広間全体に走った。
誰かが息を呑み、誰かが顔を覆う。
そして国王が、一歩前に出て言った。
「今、なんと申した?」
その一言にジールはまたも浅い笑みを浮かべて――まるで、何かを思いついた子供のように声を弾ませた。
「そうだ、婚約破棄だ! 僕はこの場でアリシアと婚約破棄をし、セシリアと新たに婚約を結びます!
……セシリア、嬉しいだろう?」
セシリアはびくりと体を震わせ、青ざめた。
俯いたまま、声を発さない。
肯定も否定もできない。
――そういうところが、妹らしい。
一応この状況がまずいことはわかるらしい。
いつもそうだ。自分の立場が危うくなると、言葉を呑み込んで被害者の顔をする。
あまりにも見慣れたその姿に、いつしか冷静になっていた。
アデルワースの声が響く。
「……なんと愚かなことを。あなたは、そこの『悪女』と添い遂げるというのか」
空気が、張り詰めた。
ジールは勝ち誇ったように笑い、アリシアを指さす。
「は? ああ、このアリシアが悪女だというのだな!
なるほど、セシリアに扮して可憐さを貶めた――ふむ、確かに悪女だ」
アデルワースは静かに首を振った。
その眼差しは、冷ややかで、そしてどこか憐れみに満ちていた。
「なにを言っているんだ? そこのセシリア嬢のことだ。……悪女というのは」
「……は?」
ジールが間抜けな声を上げた。
セシリアも顔を上げ、きょろきょろと周囲を見渡す。
けれど――誰も、二人に味方する者はいなかった。
貴族の女性たちは扇子で口元を隠し、目を逸らす。
男性たちは露骨に顔をしかめ、軽蔑を隠そうともしない。
その視線が痛いほどわかるのに、二人はそれに気づかない。
──気づきたくない。
まだ、自分たちがまだ祝福される立場にいると信じているかのように。
アリシアは、アデルワースの腕の中でゆっくりと目を閉じた。
もう、痛みもほとんど感じない。
ただ、心の奥で――凍えるように澄んだ決意だけが息づいている。
煌びやかな光が、白磁の床に落ちて揺れていた。
金糸の刺繍が施されたカーテンの隙間から、夜風がわずかに吹き込み、
床にあるアリシアが外した淡いヴェールをそっと揺らした。
「アリシア嬢は、私の亡き母に代わり、この国の社交界を取り仕切ってくれている。
本当は、貴国に嫁ぐため──そこのセシリア嬢が、この役割を担うはずだったのだが……」
アデルワースの声は、まるで深い湖面に落ちる石のように静かに響いた。
そこに混じる一瞬のためらいが、かえって真実を際立たせた。
──つまりこうだ。
ジールがセシリアに懸想し、セシリアもそれを受け入れた。
そして幸か不幸か、ジールはセシリアとの遊びに、もっぱら人目を避けた場所や密室を選んでいた。
本国へ、ジールが不貞をしていると報告されるのを避けたためだろう。
結果として、セシリアが社交の場から退き、アリシアがその欠けた座を埋めることになった──それだけのこと。
けれど、その『穴』を埋めることがどれほどの覚悟を要したか、誰が知るだろう。
アリシア・エルジェント公爵令嬢。
役目を果たすため。己の人見知りも、怯えも、弱さも──すべてヴェールの下に封じた。
そこにあるのは、粛々と慎みを持ち、完璧な所作で座する一人の淑女。
派閥、爵位、家格、そして家々の癖までも読み取り、均衡を保つ。
アリシアこそが、社交界という盤上の王であった。
……それなのに。
「それに、あなたはこのように、日常的にアリシア嬢に暴力を振るっているのだろう?」
アデルワースの声が、冷ややかに夜会の空気を裂いた。
その声音に、誰もが凍りつく。
真っ先に顔色を変えたのは、言われた本人──アリシアの婚約者であるジールだ。
「は? なんだそれは!」
「いや、この状況を見て、否定できるか?」
その瞬間、会場の空気が震えた。
泣き出しそうな令嬢たちが、まるで自分が傷つけられたかのように息を呑む。
アリシアの頬には、シャンデリアの光を反射するように紅い跡が浮かんでいる。
その痛々しさが、何より雄弁だった。
ヴェールが外れ、素顔を晒したアリシアの姿は、あまりにも儚く美しい。
涙の跡が淡く光り、時折、恐怖に怯えるように小さく震える。
そのたびに、アデルワースの腕の中で身体がびくりと揺れ、彼の袖を掴む。
意識していないようで、けれど本能的に助けを求めている。
庇護欲を刺激する、完璧な仕草だった。
それを見た瞬間、アデルワースの瞳がわずかに陰る。
彼は、胸の奥から込み上げる怒りを呑み込むように唇を結んだ。
「……私自身も、社交界で噂は耳にしていた。
半信半疑だったが──どうやら、真実のようだな。
……アリシア嬢、この状況を、どうしたい?」
静寂の中で、アデルワースの声がひときわ優しく響いた。
その優しさが、かえって苦しいほどに。
アリシアは伏せていた瞳をゆっくりと上げる。
虚ろな光が、涙の膜越しに淡く揺れる。
「……あの婚約者様も、妹も……ほんとうは……っ」
言葉が途切れ、肩が震えた。
アデルワースがそっと手を添える。
「大丈夫。ここで君を悪く言う者がいても、私が許さない」
その瞬間、アリシアの胸に熱いものが込み上げた。
まるで氷に覆われていた心が、初めて融けていくような感覚。
しかし同時に、決意は鋼のように固く、冷たく残っていた。
「……はい」
その声は、まるで壊れた硝子のようにかすかに響いた。
「……ほんとは、すごく、怖かったのです……っ」
震える声でそう告げ、アリシアはアデルワースの胸に顔を埋めた。
白い指が、彼の胸元をぎゅっと握りしめる。
社交界で見せる完璧な微笑みとは、まるで別人。
守られる側の少女の顔だった。
アデルワースは喉を詰まらせる。
彼の中で、何かが静かに切れた音がした。
──これほどの女性を、どうして傷つけられる。
──どうして、見過ごされてきた。
そんな怒りを押し隠すように、彼はただアリシアを庇うように立つ。
だが、そのとき。
「お、お姉様!? なにをおっしゃっているの!」
慌てた声が響いた。セシリアだった。
「私、暴力なんて振るったことないわ! それに、お姉様の婚約者を求めたなんて……っ!
どうして言ってくれなかったの!? 私、なにも聞いてないのよ!」
その言葉に、アリシアの身体が小さく硬直した。
その反応を、アデルワースは見逃さない。
彼は一歩、前に出てセシリアとジールの前に立ち塞がった。
背中でアリシアを庇い、冷たい声で告げる。
「これ以上、彼女を追い詰めるな」
その声音に、誰もが息を呑む。
その一言で、場の主導権が完全に移った。
今や、社交界全体がアリシアの味方だった。
──そう、ここに至るまでのすべてが、彼女の計算だった。
社交界に立ち、微笑みの裏で少しずつ、少しずつ毒を流し続けてきた。
『いつもエスコートがないのは妹に婚約者を譲っているからなのです』
『彼は私をほったらかしで、妹とよく出かけているわ』
『妹は可愛いわよ。でも……少し、男性が好む仕草をしていて、困っているの』
『痛っ……な、なんでもないわ。少し、傷が染みてしまって』
と、わざとらしく微笑んでみせた。
その一つ一つが、丁寧に撒かれた種。
今、ようやく花を咲かせたのだ。
本当は知っている。
昔、セシリアの根は優しかったこと。
今となっては、アリシアが見初められたことを喜んでくれた日が遠く霞む。
それに、ジールを本気で愛しておらず、姉の婚約者として一定の遊びとして付き合っていることも。
けれど、流される者はこの世界で最も愚かだ。
弱いというのは、社交界では罪でしかない。
人は真実よりも、納得できる物語を信じる。
だからこそ、アリシアは物語を作った。
虐げられる姉という、誰もが信じたくなる幻想を。
そして今──彼女は微笑む。
ヴェールを捨て、涙の跡を光らせたまま。
アデルワースの庇護のもと、アリシアは静かに頭を垂れた。
シャンデリアの光が、その頬に落ちる涙を宝石のように照らす。
その姿は、敗北を装った勝者。
アリシアの中で、すべては計算通りだった。
──『妹と婚約者に虐げられた可哀想な公爵令嬢』。
その物語は、今宵、完璧に完成したのだ。
そして最後。
もう会うこともないだろう婚約者に、妹に。
アリシアは唇を噛みしめ、震える呼吸を抑えながら、かすれた声で――それでも優雅に微笑んだ。
「……妹を大切にしてくださった婚約者様へ。心より深甚なる感謝を申し上げますわ」
静寂を裂いたその一言は、藁に火種を投げ入れたようだった。
現に、これは決別を意図して言ったのだから。
そしてそれまで見て見ぬふりをしていた貴族たちの鬱積が、一斉に爆ぜたのだ。
「なんということを……!」「アリシア様にあのような所業を」「恥知らずな方たち」
声の波が広間を揺らす。アリシアはその喧騒の中、ただ静かに目を伏せた。
胸の奥に広がるのは、悲しみではなく――冷たい決意だった。
己の尊厳を踏みにじられた夜。その証人が、今や数百人もいる。もう逃げ場はない。
「静粛に!」
王の声が響いた。その声音には、諦念と怒りが入り混じっている。
ジールが顔を上げたときには、すでに勝負はついていた。
「……この国の王として了承する。そこのジール王子が言い出した婚約破棄を、な。準備にとりかかれ」
「え、あ……」
「破棄したかったのだろう? よいよい。ご両親にも口添えしておこう」
王の言葉は、氷のように冷たかった。
広間に立ち尽くすジールとセシリアの姿は、まるで罪人だ。
誰もがわざと視線を逸らし、扇の陰でささやき笑う。
あれほど尊大だった王子が、今や国外の厄介者にすぎない。
アリシアは震えるまぶたを伏せたまま、ふっと吐息をこぼした。
――これで終わりだ、と。
「……アリシア嬢、傷、痛むか?」
優しく降り注ぐ声に、顔を上げる。
そこにいたのは、この国の第一王子――アデルワース。
彼の瞳は月光のように穏やかで、けれど確かな意志の色を宿していた。
「は……い。すこし」
「では、先にお暇しよう。大丈夫だ。後は陛下に任せておけばいい」
横抱きで運ばれる感覚。
頬をかすめる彼の衣の香りが、どこまでも柔かかった。
広間を出る間、誰もが二人の背を見送った。
勝者の行進のように、静かな敬意がその道に満ちていた。
アリシアは、ぼんやりと天井を見つめながら思った。
――次に婚約を結ぶとすれば、きっとこの人があてがわれる。派閥を鑑みても、きっと。
けれど、そんな未来を想像するのもまだ早い。
心のどこかで、まだ痛みが燻っている。
そんな時だった。
アデルワースが、そっと微笑んだ。
「……叶わないと思っていたが、あなたは私の初恋なんだ」
その声は、まるで冬の終わりを告げる陽だまりのようで。
アリシアの胸の奥で、何かが静かに溶けた。
痛みは、確かにそこにあった。だが同時に、確かな希望もあった。
――もう、泣かない。
この人の隣なら、きっと。
◆
アデルワースに送られて帰宅してすぐ。
アリシアは屋敷の玄関で、両親に抱きしめられていた。
母は声を詰まらせ、父は肩を震わせながら「すまなかった」と繰り返す。
公爵家の人間ながら権力に興味がない両親。
社交に疎い二人は、ようやく娘の苦労に気づいたのだ。
その日、隣国の王子ジールとの婚約は正式に破棄された。
彼の有責として。
貴族たちはその判決に拍手し、大国からは莫大な慰謝料が支払われた。
――宮殿ひとつ、建てられるほどの額だという。
妹セシリアの部屋は、数日のうちに物置に替わるとのこと。
もはや戻ってこないのだと、アリシアは悟る。
あのときの沈黙は、彼女なりの逃避だったのかもしれない。
だが、もう構わない。姉妹であっても、道は違う。
そして、アリシアは今――
優しい王子、アデルワースからの真摯な求愛を受けている。
命令一つで手籠めにできる立場にありながら、彼はただ穏やかに笑って言うのだ。
「アリシア嬢の気持ちを、何よりも優先したいのだ」
その優しさに、胸が熱くなる。
彼の瞳に映る自分が、もう傷ついた令嬢ではなく、誇り高き一人の女性として見えているのだとわかる。
あの日の惨劇を経て、アリシアはようやく理解した。
幸福とは与えられるものではなく、自ら選び取るものだということを。
夜明け前の空は、群青から薄桃色へと染まりゆく。
新しい一日の始まりを告げる光が、窓辺に射し込んだ。
アリシアはそっと目を細める。
――これからは、もう誰にも踏みにじられない。
その決意を胸に、彼女の新しい人生が幕を開けた。
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ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。
ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!
追記
11月12日誤字訂正
同じ方から複数件報告をいただきました……。
加えて、表現でもやもやするポイントを修正しました。
ご報告ありがとうございます!
⬇️お時間ある方はこちらもどうぞ!ワンナイトの純愛⬇️
【この子、僕との子どもだよね?】
https://ncode.syosetu.com/n3969li/




