第一話 ひぐらしと月の回廊
ひぐらしと波の声が響き渡る夏の夕方
「そう…ですか…」
月菜は自分の耳を疑った。「自分の頭はおかしくなったのだ。」そう思いたかった。
魚屋のおじさんによると
兄は“あの廃屋”に入ったらしい。
“あの廃屋”とは、港に公園のトイレぐらいの小さな廃屋があるのだがそこには和服を着て、鈴を鳴らしている幽霊が出るという噂がある。
また、漁師や市場の人によるとそこに入っていった人たちは誰一人帰っては来なかったという。
恐る恐る震える手をドアに伸ばす。
月菜の頬を夏の夜、耳元で踊り狂うの蚊のような不快な汗が流れ、心なしかひぐらしの声が大きくなる。
覚悟を決め、ドアを開けると地下へと続く洞窟のような階段が姿を現した。
「うわ…」
入口には何かに引きずり込まれたような妙な血痕が、奥からは潮の香りとともにほんのりと鼻を刺すような腐敗臭がする。いつの間にか波の音もひぐらしの声も消え、得体のしれないものに襲われる時のような恐怖を感じた。しかし、月菜は吸い込まれるように中へ入っていった。
階段を降り、殺風景な屋内プールのような空間を探索する。
「最悪…」
足元は窓もないのに海水で浸水していて、かすかにいくつかの魚影が見える。
なんでこんなところに…
そんな疑問を抱きながらも少しずつ奥へ奥へと進んでいった。殺風景とはいえ、机や椅子など誰かが生活していたような痕跡はある。しかし、どれも似たような配置で同じ色。気味が悪い。不快感を感じつつも、探索を続けると、
「なにこれ、爆竹…?」
いくつかあった机の上にひとつ、ポツリと悲しそうに置かれていた。月菜はそれをポケットにしまった。
バシャ、バシャ
歩くたび、そんな音が中に広がる。しばらくして、月菜は自然と足を止めた。
目の前には、この廃屋よりも古く、来るものをすべて飲み込んでしまうようなトンネルが口を開けていた。
これ以上は無理だ…
そう思ったとき…
シャン、シャン
神社などで聞くような鈴の音がする。
「お、お兄ちゃん?誰かいるの?」
震える声で問いかける。
シャン、シャン
段々と音が近くなっている。ドアを開けたとき以上の恐怖がこみ上げてくる。もう声を上げてしまいそうになったその時、
“ソイツ”は姿を現した。
シャン、シャン
噂で聞いた幽霊に酷似している。
シャン、シャン
赤い和服、鈴の音すべて同じだ。
シャン、シャn…
「いやぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!」
月菜は思わず悲鳴をあげ、飛ぶようにトンネルの奥へ逃げた。必死に走っているうちに、いつの間にか足元の海水は消え、ヒグラシの声が聞こえてきた。
ふと足を止めると、“ソイツ”はもう追ってきていなかった。後方からの恐怖から逃げるため、そそくさとヒグラシの鳴き声のする方へと向かった。
「あれ?港じゃない…」
外にはアリ視点で見たお団子のように大きな月が出ていて、なぜかひぐらしが鳴いている。近くには小川もあるようで、川のせせらぎが聞こえ、周辺には今出ている月のように白く、美しい花が咲き誇っていた。まるで平安時代にでもタイムスリップしたみたいだった。
月菜はあまりの美しさに言葉を失い、見とれていた。
「は、早くここから出ないと…」
ふと我に返り、飛び出してきたトンネルの方を向く。
「嘘でしょ…無い?」
そこにはトンネルなどなく、月明かりに照らされた美しい回廊が続いていた。
“帰れない”そんな考えが頭をよぎったとき
「あなた、外の人?」
そう後ろから話しかけられ、そっと後ろを振り返ると、和服を着た少女が心配そうにこちらを見ていた。
体は小さいが、和服を着こなしていて髪を後ろで結んでいる。
「きみは、誰?」
そう問いかける、
彼女の名は、縁側回廊月ノ(えんがわかいろうのつきの)ここの案内をしているらしい。
どうやらここは、寝殿造に似た構造でいくつか部屋があると教えてくれた。
「そういえば、あなたのお名前は?」
月菜は軽く自己紹介をし、ここに来た経緯を洗いざらい話した。
どうやらここは、「月のハコブネ」と呼ばれており、ここから出るには“ツキノカケラ”と呼ばれる白い勾玉のようなものを集めなくてはならず、それは“危険な回廊”にあるらしい。その回廊には“徘徊者”がおり、集めるのは至難の業とのこと。
どうしたものか
月菜が困っていると、月の光が差す居間になんだか覚えのある少し古臭いカバンがポツリと置かれているのに気づいた。
「このカバンは何?」
と月ノに問い詰める。なんだか言いづらそうにしているが、答えてくれた。
「これは少し前に来た人のもの」
詳しくは話してもらうと、その人は月菜と同じようにここへ迷い込み、
「妹を探す」
と言って、危険な回廊へと行ってしまったらしい。なんてことだ。間違いない、兄だ。確信した途端、突風が吹くように月菜は覚悟を決めた。
「私、お兄ちゃんとツキノカケラを探してくる」
幸いカバンにはライターが入っていて灯りには心配なさそうだ。
必死に引き留めようと泣きつく月ノをなんとかなだめ、その回廊にはどうやって行けばいいか聞き出した。
まず、鏡に月を映し、その間に自分を映せば良いらしい。
意外と簡単じゃないか
そう思って早速やってみることにした。
「待って、行くならこれ…持っていって…」
と言って、月ノは爆竹を小さな手に溢れんばかり持って渡してきた。
なんで爆竹?
そう思いつつも快く受け取った。
準備はできた。覚悟もできた。できていないのは夏休みの宿題くらいである。
「行ってきます」
月菜は力強く挨拶し、鏡と月の間に立った。すると、夜中に暗いトンネルに入った
ときのように視界が暗転した。
目が覚めると、さっきまでとは一転して
暗く、心霊スポットのような不気味な回廊が広がっていた。薄っすらとヒグラシの声が聞こえ、いくつかの小さくて頼りないロウソクがひとつ、ふたつと灯っていた。
どうやらここが“危険な回廊”のようだ。
うぅ…やっぱり怖い…
恐怖で押しつぶれそうになりながらも、ここに来た理由を思い出し、中を探索し始めた。
しばらく探索を続けて分かったことがある。ここには廊下は勿論、部屋が無数にあって、部屋には洋服を入れるような引き出しタイプのタンスがあることがある。いくつか漁って懐中電灯や方位磁針を見つけた。懐中電灯はこの暗闇に必須なのだが…
方位磁針は要らないような気がする。
そもそもこの異界に方位もクソもあるのだろうか?
気づけばこんな事を考える余裕もできた。それでも怖いことには変わりないので月菜は、くもりの日にプールの授業をしたときのようにブルブルと震えていた。結局余裕ないじゃん。すると、近くの部屋の中で青白く障子からさす月明かりのように小さな光が見えた。恐る恐る慎重に、まるで獲物に飛びかかる前の肉食獣のように月菜は部屋へと入っていった。
月菜は、目を見開いた。青白い光、勾玉のような形、間違いない“ツキノカケラ”だ。
意外と簡単じゃん。“ツキノカケラ”を見つけ、浮かれていた月菜。そんな時、“ヤツ”は姿を現した。聞き覚えのあるシャンシャンという鈴の音。赤い和服。締め付けられるような圧迫感。滝のように滴る冷や汗。
手を付けていない夏休みの宿題も含めて今までの記憶が蘇ってきた。ハハッこれが走馬灯か。しかし、月菜の体は諦めていなかった。咄嗟にポケットから廃屋で拾った爆竹を取り出し、火をつけ、“ヤツ”に投げつけた。
この間わずか三秒。驚きの瞬発力である。
どうせ殺されるなら一矢報いてやると言わんばかりに思いっきり投げた。しかし、爆竹はあさっての方向へと飛んでいき、遠くの方で爆ぜた。ヤバい、終わった。そう思った時、“ヤツ”は爆竹の爆ぜた方へと消えていった。なんと、“ヤツ”は月菜を追いかけるどころかまだ見つかってもいなかった。なんてこった。月菜はしばらくセミの抜け殻のように放心していたが、我に返りそっと胸を撫で下ろした。ふぅ…安堵したのも束の間、ドタドタという足音がした。まるで小さい子が家の中を走り回るようにけたたましい音が月菜の耳に飛び込んできた。
「あ、あぁ…人じゃない…」
そう確信し、近くの部屋に逃げ込んだ。次第に足音が大きくなり、人の発狂のようなものまで聞こえてきた。月菜は捕食者から身を守る小動物のようにブルブル震えて縮こまっていたが、障子の隙間から外の様子を伺っていた。その間にもどんどん足音は大きくなり、咆哮は鼓膜が破れそうなくらいにまでなった。そしてついに、正体を現し月菜は目を疑った。異様なまでに大きな体。そこからは無数に手や足が生えていて、廃屋で見たトンネルのような大きな口を開けて走り回っていた。見つかったら多分走って逃げ切ることは不可能だろう。そう思いつつ何とかその場をやり過ごした。
月ノの元に帰りたい、そう思った。しかし、ここに来たのは兄を探すため。自分の意志である。こんなことでへこたれていては命がいくつあっても兄を探し出せない。
月菜は腹をくくり再び回廊へと足を動かした。最初はこの暗い回廊に怯えていた。しかし、今はもう怖くない。怖くないは言いすぎかもしれないが、得体のしれない恐怖感は薄れていた。しかし、徘徊者は怖い。
一歩間違えれば殺されてしまうだろう。
そう思いつつ、ツキノカケラを握りしめ一歩一歩足を進める。幸い爆竹はまだある。
徘徊者達からは逃げ切れるはずだ。しかしどうしたらこの回廊から出られるのだろうか。もう、かなりの時間歩き回っているのだが、一向に出口が見つけられない。そういえば、さっきから方位磁針が変な方向を指している気がする。気のせいだろうか?月菜の時計の機能の一つ、方位磁針はここで拾った方位磁針の反対側を指している。イカれているのだろうかと思ったが、どこを向いてもある一定の方位を指している。行く当てもないので、月菜は騙されたと思ってその方位磁針に従ってみることにした。
道中、鈴の徘徊者に出くわしそうになったり、通ってきた道の天井が崩壊したりしたが、すべてくぐり抜けた。
「ハァ…ハァ…」
月菜はすでに疲弊していた。
しかし、今までとは作りの違う長い1本の廊下に出た。遠くに小さく光るものが見える。その瞬間、月菜は活力を取り戻し走り出した。
走れ月菜!なぜ舌が出る!?
そんなことはどうでも良い。とにかくおそらくあれが出口だ。
百メートルくらいだったが月菜は走りきった。そして光っていたものの正体はツキノカケラの集まりだった。少し欠けていて、月菜のツキノカケラはそこに型はめパズルのようにぴったりとはまり込んだ。おお、なんて気持ちがいい。それは、世の中の血液型A型の人々が歓喜するほどであった。すると、ツキノカケラの集まりが型から抜け、光だし、月菜の後ろに回った。ふと前を見ると鏡があった。なるほど。これで帰れというのだな。すると、案の定小さな月と鏡の間に立った月菜の視界が暗転した。
目が覚めると…
大きな月美しい川、小さな手、うん?手?
「月菜殿、月菜殿、起きて」
少し高い声、月ノだ。間違いない。
「んん…?月ノ?」
全身の激痛に耐えつつ、何とか体を起こす。すると、月ノの可愛らしい顔が飛び込んできた。イタい…
「月菜殿!無事だったんだね!」
月ノが弾けるような笑顔を見せた。
月菜も自然と笑顔になった。
しかし、まだ兄は見つかっていない。
ツキノカケラもここからの脱出にはまだまだ不十分である。この後も、また危険な回廊に足を運ばなくてはならない。だがこの程度で月菜はへこたれない。廃屋のドアを開けたときから、絶対に兄を探し出すと決めたから。月菜はギュッと拳を握りしめ、大きな月を見て、そう決意した。
to be continued