5 希彦
希彦は疲れた目を瞼の上から指で揉み解すようにして、大きく息を吐いた。
少し新患を制限した方がいいかもしれない。さすがに無理が出てきた。
いつきクリニック。
精神科医・伊月希彦の経営するこの小規模なクリニックは、このところ活況を呈していた。
精神医療——という分野は、一般の人にとってはなんとなく茫洋とした分野として映るだろう。
希彦もそれは認めざるを得ない。
むしろ「認めようとしない」ガチガチの医師によって、日本の精神医療は停滞しているとさえ言ってもいい——と思っている。
ひどい場合、精神疾患があるのだからと患者の意思などお構いなしに身体拘束まで行うような「虐待」とも言える治療をしている病院さえある。
患者の人権などないに等しい。
それがまた、精神医療の誤解を生んでいる。
希彦の「いつきクリニック」では、カウンセラーや社会福祉士などとの連携をしながら、徹底的に患者に寄り添う——という治療方針で臨んでいた。
患者は医療の「対象」などではなく、今を生き、それゆえに苦しみを抱えた1人の人間である。
その人のために、専門知識 も 動員してできる限りのことをする。
畢竟、1人の患者にかかわる時間は長くなり、その分、希彦自身の身体的精神的負担も大きくなる。
それでも希彦の初心を貫く意志は固かった。
それが評判を呼んでだろう。開業して数年でスタッフの数を倍に増やさなければならなくなった。
スタッフが増えたからといっても、診断の主要部分は医師である希彦がする他ない。それの手を抜く気はさらさらなかった。
それがどうやら限界に来ているらしい。
と希彦も思わざるを得ない。
このところ、訪れる患者が異様に増えてきているのだ。
しかもそれは、どうやら希彦のクリニックだけの現象ではないようだった。
同業の仲間に聞いてみても、明らかに精神疾患の患者が増えているという。
うつ病、双極性障害、記憶障害などの他、幻覚や幻聴といった認知疾患の症状を訴える患者が急激に増えてきているというのだ。
今のところ、そんな感じがする——というだけで、きちんと調査されたデータがあるわけではないのだが、感覚的には明らかに増えている。
原因はなんだろう?
社会そのものに起因するストレスだろうか?
もうひとつ、はっきりしていることがあった。
それらの患者に共通するのは、MRIを撮っても脳そのものに萎縮や病変は見られない、ということだ。
人間は脳で世界を認識している。
幻覚、幻聴や記憶障害など、さまざまな異変が現れるということは、脳機能に何某かの変調をきたしているということだ。
もちろん、断層画像でわかるような形質的な変化を起こしていない場合もあるが、かなり重度の認知障害を起こしているにもかかわらず、全ての患者のMRI画像が完全に健康な脳の状態を示す、というのも異様な感じがする。
そんなことを考えながら、希彦はパソコンに向かって今日の事務処理を行っていた。
診療の終了が夜9時を回ってしまったので、夕食がわりの調理パンをかじりながらパソコンで今日中にやっておかなければならない事務仕事をこなすのは10時過ぎになる。
毎日がこんな調子だ。
スタッフは「社員」なので、労働時間には上限がある。残った部分は労基法の縛りがない自分がやるしかない。
希彦は目を瞑って、目頭を指で押さえた。
「ふう。これじゃ、自分がまいっちゃうなぁ。」
目を開けるとパソコンのモニターの上を何かの虫が這っていた。
磯でよく見るフナムシみたい・・・にも見えるが、もっと体が丸い。どこが頭か尻かわからないそれは全方位に無数の足が出ていて、それがワサワサと動いていた。
なんだ? これは・・・
どこから入ってきた?
希彦が少しのけぞるようにしてモニターを這うそれを見ていると、それはモニター画面の中央よりやや右上のあたりで、すうー、っと画面に吸い込まれるようにして消えた。
消えたのだ。
希彦は目を瞬いた。
虫はどこにもいない。
もしかして、擬態?
画面の図表などの色に、体の色を合わせただけかもしれない。
そう思って希彦は定規でモニターの上を撫でてみた。
モニターはまっすぐで、何かが張り付いているようなことはなかった。
・・・だとすれば、パソコンがウイルスに感染したか・・・?
立体的に見えたが、そう思わせる画像だったかもしれない。
患者の情報が、それもかなりセンシティブな情報が入っているパソコンだ。セキュリティ対策は万全を期しているはずだが・・・。
明日、専門業者にチェックしてもらった方がいいかもしれないな。
そういえば、「虫が這っているのが見える」と訴える患者が複数いたな・・・。
そんな話に引きずられたか?
疲れで、一瞬眠ったのかもしれない。疲れすぎるとまれにある現象で、その一瞬の間に夢を見ることがある。
そんなことを考えている時だった。背後で妙な声が聞こえたのは・・・。
希彦はふり返るが、診療室の中には誰もいない。
部屋の入り口のドアには四角い窓がついていて、型ガラスがはまっている。
その向こうが暗かった。
なんだ、廊下の明かりは点けておくように言ったのに・・・。
誰かが消して帰ってしまったらしい。
やれやれと、大きく息を吐き出した時、その型ガラスの向こうにぼんやりと白い人影が見えた。
「誰かいるんですか?」
希彦は声をかけてみるが、返事はない。
人影は、すうぅ、と離れるように消えた。
希彦は立ち上がってツカツカと診療室の入り口に向かい、ドアを開ける。
廊下には明かりが点いていた。
かすかに潮の香りがする。海などどこにもない都会のど真ん中であるというのに。
「これは・・・」
このところ増えてきた患者の訴える症状に似ている・・・。
希彦は医師である。
得体の知れない呪術やオカルトの信奉者ではなく、科学の徒なのだ。
心霊現象や、魔界からの侵略などではなく、必ず科学的に説明のつく原因があるはずだ——と考える。
わずかな恐怖心と、科学の徒らしい大きな探究心で、希彦が自身の症状を観察し始めた頃。
科学誌に掲載された一本の論文が目に止まった。
* = * = * = *
2024年。
ニューメキシコ大学アルバカーキ校の研究チームは、法医解剖を受けた92人の脳、腎臓、肝臓の組織を調べた結果、脳の重量の0.5%に相当するマイクロプラスチックを検出した——と発表した。
脳には腎臓や肝臓よりも7~30倍ものマイクロプラスチックが確認された。
2016年の調査から50%も増えているという。
成人のヒトの脳の重量は平均約1400グラムなので、この事実は単純計算で次のことを示していることになる。
人間の脳のうち7グラムは、すでにプラスチックである——。
もちろん、あなたの脳も・・・。
了
すいません。 ジャンル嘘つきました。。m(_ _;)m
「ホラー」ではなく、「警鐘を含むSF」です。
(ひょっとしたらホラー要素もあるかも・・・)
なお、
この物語はフィクションであり、登場する人物・団体等は全て架空のものです。
ただし・・・・
「* = * = * = *」
の外側だけは、現実世界の「事実」です・・・。
その影響については、まだ何もわかっていませんが。