1 プロローグ・豊香
=プロローグ=
2012年。海洋環境調査研究者のチャールズ・モアが1冊の本を出した。
『プラスチックスープの海』
拡がり続けるマイクロプラスチック汚染に対する警告の書だった。
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= 1 豊香 =
豊香は寝ぼけまなこで便座に座った。
今日は、遠方の得意先回りだったな。
妻に「立ってするな。誰が掃除してると思ってんの。」と言われてからはずっと、小用も座ってする癖がついた。
同僚からは「飼い慣らされたな」と言われたけど、まあ、自分が掃除してるわけじゃないのはその通りだし。
その妻はまだ寝ている。子供たちも。
気を遣ってベッドからはそっと出たが、それにしても身動きひとつするでなく、妻は軽くいびきすらかいていた。
「明日は早く出るから起きなくていい。」とは言ってあるが、一抹の寂しさのようなものも覚える。
結婚したばかりの頃は、こうではなかったな・・・。
潮のような臭いがしてふと顔を上げると、トイレの壁にぎょっとするほど大きな虫のようなものがくっついていた。
それは、モゾモゾと無数の足を動かして壁を這い登っていく。
なんだ? あれは・・・。
トイレの明かりが暗くて細部がよく見えないが、虫にしては巨大なそれは動いているだけでも気持ち悪い。
ゴキブリみたいなスピードでこっちに来られたら、と思うとゾッとする。
それからなるべく体を離したいと思うが、パジャマもパンツも下げている豊香はすぐには退避行動がとれない。
豊香は中腰になって焦りながら目をこすって、それが何なのかを確かめようとした。人は、わからないということに最も恐怖を感じる、と何かの本で読んだ記憶がある。
しかし豊香がもう一度意識を集中して見てみると、それは虫ではなく単なるビニールクロスのシミだった。
動いているように見えたのは目の錯覚だったのか・・・?
それにしても、あんなシミついてたっけ?
疲れてるのかな?
まずいな。得意先に疲れた顔で行くわけにはいかないぞ。
歯を磨きながら鏡で顔を見る。
特段、疲れた顔をしているわけでもなさそうだった。
頭がちゃんと起きてなかったんだな、きっと・・・。
そう自分を納得させたとき、鏡に映った自分の顔の背後の暗がりに、もうひとつ何かの顔があることに豊香は気づいた。
背中に冷たい汗が吹き出し、豊香は思わず歯ブラシの動きを止めて鏡の中を凝視する。
何もいない。
意を決して、歯ブラシをくわえたまま後ろをふり向いてみる。
豊香の背後にはただ洗面室の収納扉があるだけだった。
気のせい・・・?
朝っぱらからどうも嫌な感じだ。
何かが部屋の中にいるような感じがして気持ち悪い。
豊香は嫌な空気をふり払おうとリビングの照明をMAXにし、キッチンカウンターの上でスマホをプラスチックスタンドに立ててニュースをチェックする。
営業としては、ひと通りの話題の引き出しを常にアップデートしておかなければならない。
なにより(まだ外は暗いが)いつものように
朝。
———という感じがほしかった。
豊香はニュースを見ながら、昨日妻が用意しておいてくれた朝食を冷蔵庫から出してチンする。
あまりいいニュースはやっていない。
あっちでもこっちでも戦争やってるし。国際秩序が、ぐずぐずと崩れ出してる感じだ。なぜ世界はこうも暴力的で不寛容になっちまったんだろう?
2050年には海洋プラスチックの量が魚の量を超えるって?
そりゃあ大変な話だが、プラスチック製品を扱っている会社の営業マンとしてはなんとも微妙な気分だ。
なんだ、また刃物で人を刺して回ったヤツがいたのか。ついこの前もあったよな、似たような事件。
データによれば「犯罪件数」は減ってるというが、なんだか理解できないヘンなやつが増えたような気がしないか?
ニュースを耳で聞きながら、豊香はタッパーから直接食べる。皿には移し替えない。
妻の洗い物を増やすだけだし、時間も惜しい。
味わうというほどのこともなくさっさと朝食を済ませ、持病の薬を飲むと、豊香はリビング脇のクロゼットから仕事用のスーツを出して着た。
扉の裏の鏡でひと通りチェックする。
鏡を覗き込む豊香の目の端を何かが飛んでいった。
蜂? アブ?
いや、そんなものが家の中にいるはずがない。羽音も聞こえなかった。
・・・・が、もし蜂か何かが紛れ込んでるなら、見つけて殺さないと・・・。2階には妻と子供が寝ているんだ。
豊香は殺虫剤のスプレー缶を持ってリビングの中を探してみたが、それらしいものは見つからなかった。
一抹の不安を覚えながらも、豊香は玄関を出て鍵をかけ、車に向かう。
遅れるわけにはいかないのだ。渋滞に巻き込まれる前に、市街地を抜けてしまわなければならない。
東の空はすでに明るくなってきている。
車のエンジンをかけてから、豊香はスマホを忘れていることに気がついた。
何をやってんだ、もう!
もう一度玄関の鍵を開けて、リビングまでスマホを取りに戻る。
このところ物忘れが多くなった気がする。
まだそんな年じゃないぞ、俺は。
スマホはスタンドに立ったまま、まだニュースサイトの動画を流していた。
ちっ! せっかく充電しておいた電池がムダに減ってるじゃねーか!
くそっ!
何やってんだ! くそっ!
なんだか無性に腹が立ってきて、豊香は玄関のドアを乱暴に蹴り開け・・・ようとして、すんでのところでとどまった。
せっかく妻や子供を起こさないようにそっと出かけようとしていたのに・・・。
ちょっとどうかしてるぞ、今日の俺は。
いや・・・。
今日だけじゃないな・・・。
このところ、ずっとイライラしているような気がする。
仕事のストレスだろうか。
最近の顧客は、時々とんでもないこと言い出すもんな。
カスハラってのか? あれ・・・。
仕事・・・変わろうかな・・・。
・・・・・・・
でも、営業職って、ツブシ効かねーんだよな・・・。
あれ? 俺、玄関の鍵、かけたっけ?
豊香は自分の物忘れの酷さに苦笑しながら自宅の玄関の方を振り返り、そして驚愕した。
家の壁の色が変わっている!
落ち着いたベージュ色だったはずの壁が、くすんだ薄紫色になっているのだ。
いつ、塗り替えた? 誰が? 妻が? 俺に相談もなく・・・?
光と雨の作用で自然に汚れを落とすという樹脂製の塗料で、少し高かったが奮発して業者に吹き付けてもらった壁だった。
妻とも相談しながら、何度も見本色を作ってもらって決めたこだわりの色だったはずだ。
朝日が差す前の薄明の中で、豊香は呆然と立ちつくす。
その豊香の目の前で、壁の色は、すうぅ、といつものベージュ色に戻った。
豊香は声もなく目をこする。
自宅の壁は何ごともなく、いつも通りの落ち着いたベージュ色をしているだけだった。
俺・・・、目がおかしくなったのか?
あのトイレの虫といい、この壁の色といい・・・。
一度・・・、医者に行った方がいいかな・・・?