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終の棲家

最後まで読んでもらえたら嬉しいです。

 はっと息をのんだ。一瞬、私は衝撃のあまり自分と言う存在を忘れた。

 それほどに家の中は静かだった。

 __いや、音がない、という事ではない。

 その日本家屋の玄関をくぐる前から続いてた蝉の声は変わらず生を主張しているし、裏の竹林から笹が風に擦れる音も、そこでスズメがさえずるのも聞こえる。__スズメじゃないかもしれない。でもスズメだといいなと思った。

 誘われるがまま夢見心地に靴を脱ぎ、置かれたスリッパに目を向ける事なくつま先を差し込む。

 奥行きのある廊下は栗の木らしい。

 ニスでも塗ってあるのだろうか、それとも積み重なった年月が生み出したのか黒くて濡れたようなつやがある。

 そこに足をのせると、わずかにきしりと鳴いたように思えた。

 ところがそれが不快ではない。

 もう一歩踏み出す。さっきよりも小さくきしり。

 静かだ。

 こめかみを伝っていた汗がその静けさに神妙になってつぅうと伝うぐらいに静かだ。

 空気がまるで違う。

 ひんやりとしていて、どこか浮世離れている。

 先程まで自分が存在していた世界は遠い過去のように背後の玄関の向こう側に存在し、やかましい太陽の白い光線も、それがもたらす身(もだ)えする暑さも、それから蝉も竹も風も鳥も、全て一切が()()にあり、自分が今いる場所とは切り離されている。

 そのせいか家の中と外とでは時間の進み方が異なるように思える。

 初夏特有のあの白い視界に慣れたせいか、今家の中は薄暗い。

 時の重みを感じさせる柱や漆喰の壁、天井は高くはないが息苦しさは皆無だ。

 まだたったの二歩しか進んでいないと言うのに、そこから見える家の様子は威厳があり、それでいて親しみを覚えるものであった。

 __この家は生きている。そして私を歓迎してくれている。

 39歳の年、私はついに終の棲家に出会った。


                   ×


『ねぇ、聞いたよ!

 お隣に新しい人越してきたんだろ?』

「そうなんだよ、もう気が気じゃなくて」

『大丈夫なの?』

「大丈夫なのって…そんなの私に聞かれても困るよ。

 でも、まだ留守がちだから__なんでも聞いた話によると、やり残した事がいくつかあって完全に移り住めないみたいだね。町長も私に「お隣さんの事何かと気に掛けてやってくださいね」って。嫌だねぇ、他人事なんだからさぁ」

『あいつは本当こずるい男だよ、昔からそうさ。

 一度政吉にいちゃんに痛い目遭わされてからは、兄ちゃんに取り入って金魚の糞みたいについて回ってた。それで自分よりも強そうな相手には兄ちゃんの名前を出して、へなへなした子にはおおいばりするんだから、本当見てて呆れたよ』

「きくちゃん、やだねあんた、それ茂吉の方だよ。ほら上京したきり帰ってこない酒屋の」

『あれ?そうだったっけ?

 まあ五十年も昔の話だからねぇ……そうそう、家にいないなら安心じゃない。よかったねぇ、枕を高くして眠れるよ』

「でも、いつかは住むわけだろ?隣に

 ああ、もう嫌だ。ナミアムダブツ、ナミアムダブツ……」


                    ×


 田舎の一軒家に住む__それは私の幼い頃からの夢だ。

 生まれも育ちもC県の都心からちょっと離れたベットタウンだった私は、大学進学の契機で引っ越すまでずっと3DKの四角い間取りの中に暮らしていた。

 集合住宅というのは、常々(つねづね)蜂の巣そっくりだと思う。

 妙にスタイリッシュな商業ビルが姿を消し、何代も続く一軒家が軒を連ねる下町からしばらく経つと、代わりに仲良く手をつないだ住宅団地がどんっと陳列し出す。

 それを見上げると私は謎の頼もしさと共に「ああ、これは蜂の巣を模した人間の巣だ」と胸の内でごちる。

「巣」などと言うと畜生と同列にされたようだが、そもそもが人間は高等生物である、と顔を赤らめることなく言い切る方が恥ずかしい話だ。

 マンションは「人間の巣」だ。

 無論、一軒家もアパートもどんな大豪邸も「人間の巣」であることには変わらないのだろう。

 ただ、マンションは「蜂の巣を模した人間の巣」なのだ。

 私の「巣」だった団地なんかは、何棟もの平たい建物が平行に等間隔に並んでいて、そのさまはまさに養蜂箱を上から覗いた様に通ずる。

 ハニカム構造とは違って人間版は四角形だったけれど、互いの境界がきちりと区切られ、ある一定の法則のもとに並んでいるのは同じだ。

 そしてそのいくつもある部屋__セル__の内の一つが私の「巣」で、私はその共同体の中にある人間「A」だった。


 __マンションで生活していた頃、自分という存在があやふやになる錯覚を私は始終感じていた。

 私と同じマンション住人達の子供達との間の境界は、自分の住んでいる部屋のようには明確ではないのでは?働き蜂同士の見分けがつかないように、私とその子達とにも明確な違いなどなくて、コピーペーストの繰り返し__そんな思春期らしいと言ったら思春期らしい思考に浸っていたのだ。

 そうして電車が駅に向かうように、私も一軒家に住みたい、それも田舎の築何十年という日本家屋にという漠然とした夢へとレールを敷き始めた。

 __隣の芝生は青い。

 分かっている。一軒家に暮らしていたミカちゃんは終始「いいなあ、私もみんなと同じとこに住みたいなぁ」と羨ましそうに私達の巣を見上げていた。

 しかし、結局人間と言うものは自分に無いものを追い求める動物なのだ。

 私の人生計画はすでに出発し、ところどころに歪みや穴があるレールの上を覚束ないスピードでそろそろと走り始めていた。

『終の棲家』

 その言葉を知ったのは高校生の頃だ。

 その頃には枕木は木製からコンクリート製に変えられ、綿密な設計図で製作された二対の鋼鉄が目的地へ滑らかな直線を描いて列車は安定した走りを見せるようになっていた。

『終の棲家を手に入れよう。

 何年かかろうといい。思い描いていたどおりの家を__私の家を見つけよう』

 会計士だった祖父の几帳面さが隔世遺伝したのか、私は自分で敷いたレールの上を脱線することなく順調に進み続けた。


                    ×


『昨日、挨拶に来たらしいじゃない。お隣さん』

「もう、やめとくれよ!わざとだろう!

 ぞっとするからお隣さんだなんて言わないどいとくれ」

『ははは、ごめんごめん。で?どんな子だったんだい?』

「都会から来た子って感じだねぇ。そりゃ愛想は悪くなかったけど、なんだかそれが逆に居心地悪くてすぐに追い出ししまったよ。だってねぇ?」

『可哀そうに、教えてあげればよかったのに』

「なんだよ!まるで私がひどい女みたいじゃないか。

 あんただってなんも知らない他所者に面と向かわれたら言葉に詰まるよ」

『あんたが小心者なだけだって。

 昔からそうなんだから、あの時だって黙ってればバレなかったのに。先生はカマかけただけだったのにさぁ、あんたわ』

「っもう!いつの話してるんだい!それにあれはあんたが足跡残したせいじゃないか」

『何言ってんだよ、この人はまったく。あれはね私じゃなくて__』


                    ×

 

 何故、日本家屋だったのか?

 初めは多分、テレビでやっていた日本の夏の映像を見たせい。

 田舎のおばあちゃんちに帰省して、縁側でスイカを食べる。

 庭には木があって、蝉がそこで鳴いている。

 白い雲、どこまでも広がる青い空に、連なる山々の瑞々しいまでの緑。

 その中にある黒や茶色を合わせた複雑な色の古い一軒家。

 本来、そういうものに憧れを抱くのはもっと年を経てからのケースが多いが、幼い私はその映像を録画してもらって何度も繰り返し見ていたらしい。

 第二時成長期を経て、多少なりとも言語化するという能力を得た時に、私は人生計画ノートの一ページにそれをまとめた。何度も辞典を引いて書き直したその変に気取った文章を見返すのは、痛々しさにまゆ)をひそめて苦笑してしまうが、それでも私の大事な宝物であることには変わらない。

『__言うなれば、草木を使用して巣をつくる鳥類と木造の家を作る人間は同一だ。

 両者とも生き物の死骸しがいを使っているのだ。

 樹木などの生物の亡骸なきがら)を加工し、巣・家の形に仕立て上げ、その死体のもとで生活する。

 乾いた肉で出来た骨組みに瓦を敷き詰めて風雨を防ぎ、ござを敷いた肉片のパッチワークの上に寝転がる。

 恐ろしい所業だ。

 しかしそれなのに何故木造の家はコンクリートや石でできた家と違って暖かみというか、独特の空気感があるのだろうか。

 長年の謎であったそれに私はついに答えを見つけ出した。

 私は先日、ある家に訪れた。

 私の果てない欲求を知った彼女が「じゃあ、夏休みうちのばあちゃんちに来る?」と誘ってくれたのだ。

 そこで私は初めて自分の夢の形に現実に触れ、体感した。

 その時分かったのだ。

 家は死体などではなかった。

 家は生きていた。

 確かに私の手に触れた木の柱は__死んでいるはずのそれが呼吸をしているのを感じた。

 私は驚いて、手をばっと離した。

 それからもう一度そろりと触れてみた。

 ひんやりとした空気が手を撫でた。

 何故、木造の家が涼しいのか。それは木が吐く息のせいだ。

 独特の空気感は、住人と共に暮らす彼らの呼吸から生まれた副産物なのだ。

 もう一度言おう。

 家は生きていたのだ』



                   ×



「チエ子さんにおすすめの良い物件がありましたよ」

 馴染みの不動産屋から連絡を受けたのは5月とは思えない蒸し暑い初夏の日だった。

「いやはや、異常気象ですな」

 駅に迎えに来てくれた中年の男__私よりも十は上の中年だ__もギンガムチェックのハンカチで絶えず汗を拭く。暑さにやられたのか今日だけで何度そのセリフを口にしたか数えられていないようだった。

 白いワゴンは多少人気のある街中からあっという間の田園地帯へと進むと、あとはとろとろと私を終の棲家候補地へと連れて行った。

 絵のような二本の松が門前で私を出迎えた。

 外観は満点という訳にはいかない。つげの生垣だったものは今すぐ剪定せんてい)が必要なことを明確に示していた。

 木戸の門扉をくぐった先もやはりどこか寂れたような気配が漂う。

 口が欠けている鉢には何も植えられてはおらず、乾いた白いぼろぼろとした土の中から黄緑の筆を手首のスナップで縦にピッと放ったような雑草が数本生えているだけだ。

 人のいなくなった家独特の寂しさを横目に不動産屋の背中に続いて私は玄関へと向かう。

 __建付けの少々悪い玄関引戸を引くと、例のあの廊下が目前に現れた。

 不動産屋は鍵を開け、スリッパを上がり口に置くと脇に身を引いて私に先を譲った。そういう所が上手な男だった。

『内見っていうのは、見合いですよ。見合い。

 家と人間のお見合いで、私はその仲人なこうどです。

 私はこれまで千二十五組のカップルの手助けをしてきました。

 ですから、相性と言うものも分かりますし、お見合いの席をどう進めるべきかというのもまたコツは知っているつもりです」

 まさに不動産を取り扱う為に生まれた男だ。

 その後に「それなのにチエ子さんの時はなんでうまくいかないかなぁ」と頭を抱えて言うのだが、私はそれにはそっぽを向いていた。

 不動産屋ならぬ、結婚相談所で私は既に十件以上空振りしている。

 歴戦の仲人らしい男は、こんなことは初めてだと嘆き、少々自信を喪失しているらしかった。

 すっかり顔馴染みになってしまった私に若干の恨めしげな視線を寄こした。

 だからこそ、私が遂に運命の相手に出会った時、__そして、それが自分の見つけた相手だった時、男はそりゃ化け狸のような得意顔でその年は始終にたりにたりと満足げに頬を緩めていたらしい。


                    ×


「おお、きくちゃん、こうちゃん!

 また、井戸端会議かぁ?好きだねぇ」

「むっちゃん!郷吉さんとこの帰りだろ?」

「ちょっと、まだ配達の途中なんだけど」

「いいからいいから、ほらたくあんとお茶出してあげるから」

「ったく、仕方ねぇな」

「で、新しい人は何の用で郷吉さんとこに行ったんだい?」

「おりゃついさっきの話をもうあんたらが知っている事の方が気になるよ」

「もうっ!じらすのはよしな!!」

「そうだそうだ、吐いちまえ」

「まったく、ばばあどもこれだから__おっと口が滑った。

 えーと、何でも家の所々に修理が必要だって、木材を譲ってくれないか相談しに来たみたいだな。

 大方、町長が薦めたんだろ」

「あの人は町に人を入れる事に熱心だから」

「きっと、今度来たのが独り者じゃなかったら、もっと目の色変えていただろうね」

「はは、ちがいねぇ」

「可哀そうにねぇ、その子も。あの家をあてがわれるだなんて」

「きっと不動産屋に騙されたんだよ。

 聞かれない限り教えないんだろ?不親切な話だよ」

「そうは言っても、持ってるだけじゃお金ばっかりかかっちまうからねぇ__でも、そもそもは向こうが悪いんだよ。高齢の人にずっと暮らしていた我が家から追い出そうとして」

「そうさ、そうさ。もうそんな長くないんだから最後までいさせてあげればいいのに、金はやるから出てけって、酷いわ、本当に。__ちょっと、むっちゃんぽりぽりうるさいよ!」

「これこれ、この歯ごたえがたまらないね、さてそろそろお暇しようかな」

「まったく、食うだけ食って」

「忘れたかい?俺は配達の途中なんだよ、じゃあな。あんたらもいいところでやめとかないと安西さんが聞いてるかもしれないぞ」

「ちょっと!やめとくれ!本当にいたらどうするんだい!」

「おお恐ろしや、恐ろしや、けどまあ近寄らなきゃ向こうも気にしまいよ。

 あの人が気にしているのは自分の家の事だけだ__触らぬ神に祟りなしってな」

 自転車がちゃりちゃりと音を立てて去っていく。

 二人の奥様方はうかがうように顔を見合わせた。

「「……でもねぇ?」」


                    ×


 結論から言う。

 田舎暮らしはシティーボーイ・ガールが夢見ているほど理想的な物じゃない。

 まず交通の便が都会とは段違いに悪い。

 1時間に一本のバス時刻表なんてビールを片手にテレビで見ている内はいいが、自分の生活圏内となれば話が違う。

 もちろん交通手段は自家用車に限られる。しかもそれですら近くのスーパーまで40分だ。

 歩いて3分に24h営業のコンビニエンスストアがデフォルトの人間には中々パンチが効いてる。

 また、闖入者のペースが都会の比ではない。

 この闖入者というのが、六本脚で二本の触覚を頭からにょきっと出している奴らやこちらの了承を得ずに家の中に新しい住まいを建設してしまう八本脚の彼らだ。

 後者に関しては、私は苦手意識は持っておらずむしろ蠅を捕まえてくれる益虫じゃない?と都会のマンション暮らしでは思っていたのだが、ここに来て意見が変わった。

 まさか手の平程の蜘蛛が平然と家の中に巨大な宮廷を作り出したら、そりゃ益虫なんて言ってられない。

 昔懐かしいボットントイレに対して「アンティークじゃない」と誤魔化して喜ぶことも出来なければ、我が物顔で居座るバッタを太らせて縦に潰したような生き物__後にカマドウマという名である事を知る__には奇声を上げてご退場願う始末。

 だが、それらは全て事前に知っていた事、計画の範囲内。

 1か月も経てばそれが私の日常となった。

 不便も、虫も、ボットンも全部全部私の夢、幻想を崩す事は出来なかった。

 私が見込んだ、そして見込まれた家はやはり素晴らしかった。

 最初からここで生まれたかのように家と私は馴染んだ。

 __そう問題は家ではない。

 何時だってそうだ。人間の問題は人間であり、人間の敵は人間なのだ。

 私はようやく自分がご近所さんトラブルという奴に見舞われていると認めた。

 別に都会者が移住先の文化に文句を言ってやろうと言う訳じゃない。

 いや、もし余所者が引っ越して来たら問答無用で村八分にしてやろうと言うのが文化であるなら二の句も継げないのだが、そんな文化は文化と言えない。旧世代の悪法で、ただの思考停止だ。

 私自身、独り者の余所者が急に来たらそりゃ警戒されるかもしれないと思い、出来る限り愛想よく心掛けたつもりだった。

 傍から見たら、仲間に入れてほしくて尻尾を振っている犬のようだったかもしれない。

 ちょっとオーバー気味だったかもしれないけど、ここで一生を終えるつもりなんだから、出だしから人間関係で失敗したくはなかった。それによほどのひねくれ屋でもなければ、初対面の相手が好意を持って接してくれれば応えようとするものだ。無論、相性というものはあるが。

 __引っ越す前には菓子折りを持って挨拶に回ったし、その時の対応に問題があったとはどうにも思えない。一応前職は営業職だったので空気読みには自信がある。

 ところが、現状町の人達に避けられている始末。

 挨拶をしても知らんふりでそそくさと去っていく。こっちがいくら愛想良くしてもダメ。

 とにかく無視、無視、無視!

 感情のコントロールが得意な私だって、こうも毎日村八分をきめられてはうんざりする。

 越してきたばかりの頃は、もっと歓迎されていたと思ったのに……

 私は一体何を失敗してしまったのだろう?

 はぁと溜息を吐くと、庭の方からガタリと物音がした。

 ひょいと覗くと、お隣さん達が庭からこちらを見ていた。

「ひぃい!」

 思わず出してしまった悲鳴に慌てて取り繕う。

 だが、お隣さん達は悲鳴を上げられた事をまるで気にしていないようだった。

 文句を言うでもなければ、軒先から一歩も動かず私を見ている。

 左隣の川谷さんがまるっきり私を無視しているのに対し、彼女らは一応私とご近所さん付き合い?をしてくれる。

 ニュアンスから分かるように右隣のお隣さんは私や川谷さんと違って家族で暮らしている。

 双子の姉妹だ。いや、多分双子。

 もう卒寿はとっくに超えてそうな山中さん姉妹は、しわくちゃの梅干しみたいなおばあちゃん達なのだが、きんさんぎんさんのような可愛らしさはまったくない。代わりに横溝正史の世界観に居そうな不気味さがある。

 私をちらっと見ては2人でこそこそと耳打ちをし、やがてはにやりと顔を歪め合う。

 私の目の前で繰り広げれるそれに、そのしわくちゃで邪悪な笑みを見ると毎回背中がぞっと寒くなる。

「だめなんだろうね」

「ああ、きっとだめさ」

「出ていった方がいいのに」

「ああ、さっさといっちまった方が身の為さ」

「でも、きっとまたおんなじだよ」

「ああ、またおんなじさ」

「くすくすくす」

「くすくすくす」

 __私は自分がノイローゼにならないのが不思議でならない。


                    ×


「もしもし、もしもし?きくちゃん?」

『川谷のばあちゃん、もううちのばあちゃんは寝てるよ。

 こんな夜中にどうしたの?』

「その声はごろちゃん?

 あらまぁ、あんたいつの間にこっち帰ってきてたんだい?」

『一昨日。じいちゃんが腰やっちゃったろ?だから畑の手伝いに来たんだよ。

 それより一体どうしたの?』

「そうそう!あのねぇ、お隣から物音がするんだよ」

『お隣って、あの幽霊屋敷?』

「こらっ!やめなさい!そんなこと言ったら祟られるよ!

 あんたは知らないだろうけどね、本当におかしいんだから、あの家は」

『はぁ……新しく越してきた人いるんでしょ?その人じゃないの?』

「だって、朝早くに荷物まとめて出て行ったばかりだよ?

 その日の内に帰ってくるなんて今までなかったのに」

『川谷のばあちゃん、随分お隣さんの事詳しいんだね』

「そりゃそうさ、またお隣で何かあったらわたしゃヤダよ。

 もう向こうへ逝くまであと少しだって言うのにこの歳になってこうも恐ろしい事が続くなんて、、分かってるよ、あんたの言いたいことは。そりゃ私は怪我も何一つしていないけど、すぐ隣なんだよ?そこで……、ああ到底口になんかできないよ。考えただけで恐ろしい」

『きっと新しく来た人だよ。新幹線使えば往復できる距離なんだから』

「それはそれで心配なんだよ。だって夜中にあの家にいるだなんて危険じゃないか」

『そんなこと言ったら、住めないじゃん』

「住まない方いいんだよ、あの家は。

 人が死んでるんだから」

『人が亡くなった家なんて人付き合いの薄い都会に行ったらザラだよ?

 俺の友達も金がなくてそういう事故物件に住んでたことあるけど、未だにピンピンしてるよ』

「おおこわ。若い人の考える事は本当に分かんないよ__でもねぇ、あんたの友達が住んでたところとあの家は全く別なんだよ。今もいるんだもの。その為にあの人は死んだんだよ。家から離されなくて済むように。だから、自分以外の人間があの家の家主を名乗ろうものなら……ああ、恐ろしい」

『あのねぇ、そんなに危ないと思うなら他所へ行くように言ってあげればいいじゃん』

「っそんなことしてお隣さんに私も敵だと思われたらどうするんだい!」

『お隣さんって?』

「安西さんだよ、安西さんに決まってるだろぉ」

『だから、安西さんはもう亡くなってるから__」

「っもう!さっきから言ってるだろ!お隣さんはまだあの家にいるんだよ!」

『はいはい、また明日ばあちゃんと話してよ。

 俺明日早いしもう切るね。じゃあおやすみ____tu……tu……』

「あっ!こらっ!!まったくあの子は本当に何にも知らないんだからっひぃっ!!……また音がした!

 ナミアムダブツナミアムダブツ……


                  ×


「きくちゃん、お隣のことなんだけどね」

 左手からお隣さんの声が聞こえ、私は足を止めた。

 私に関わろうとしない方のお隣さんだ。

 日本古来の建築は風通しがいいだけあって音もよく伝わるし、恐らく川谷さんは電話の音量を最大値にしている。耳が悪いわけではなさそうなのにうるさくないのだろうか?

 でも、そのおかげで「きくちゃん」こと井森菊代さんがなんと返答したか分かった。

『また出たのかい?』

 いつもであれば、私はさっさとその場を退散する。いくら向こうが垂れ流しにしているからと言って盗み聞きをしている後ろめたさがあるからだ。

 けれど、「お隣」という言葉に体が反応してしまった。

 良心の痛みを僅かに覚えながらも私は隣家との仕切りになっている竹を支柱にしたツゲの生垣の陰に背を這わせ盗み聞きのスタイルをとった。

「もうわたしゃ嫌だよ。また昨日も物音がしたんだ。

 おちおち寝てられやしないよ、早い事どっか行ってくれないかねぇ」

『そうは言ってもよそ者は知らないからねぇ

 そうだ、山中の婆さんらはお隣に行ってるんだろ?』

「まあね」

『あんた、あの人らに説得してもらうって言ってなかったか?』

「そりゃね、言ったことには言ったよ。

 出ていくように言ってくれって。

 でも、あの人らも半分そっちに足突っ込んでるようなものだからねぇ。

 ちゃんとこっちの言うことが伝わってるか分かんないよ」

『あの家は昔からどっかおかしいんだよ。

何でもどっかで妙な血が入り込んじまったらしくて、狂っちまったんだよ。だから普通じゃないのさ。

見えちゃいけないものが見えるし、自分達も同じようなもんだし。

けど、ありがたい話じゃないか。他の人間はあの家に近づくのも嫌なんだから』

「生垣挟んですぐ隣に住んでる私に言うことかねっひい!今そこで音がした!!」

 ガタンと椅子が倒れるような音がした。

『落ち着きなさいよ、まだ昼間だよ。明るいうちに幽霊なんかは出ないさ、鳥かなんかだよ』

 ヒステリーのように念仏を唱える川谷さんを井森さんが宥めているのが聞こえる。

 今度は音を立てないように私は中腰のままこそこそと家の中へと戻った。


                    ×


 月光が障子越しに寝室を薄明りに染める。

 午後のゲリラ雷雨はすっかり痕跡を消して穏やかな夜に満月が浮かんでいた。

 もぞもぞと寝転がりながら私は薄明りの中で昼間の川谷さんと井森さんの会話を思い返していた。


 __馬鹿らしい、何が幽霊だ。


 何度も繰り返し考えた末に出た結論に鼻をならす。

 結論と言うのは、二人は本当は私が盗み聞きをしていることに気づいて『幽霊話』を持ち出したのだろうという事だ。

 __若い女の一人暮らしだからって脅かせば出ていくと思ったに違いない。

 四十代を若い女と自称するのは少々こっ恥ずかしさも覚えるが、ここらへんの平均年齢は七十後半なのだ。彼女らからしたら自分は世間を知らない小娘だろう。

 しかも山中さん達も私を追い出そうとしていた。

 ちょっと頭がオカシイのかと思っていたけど、そうでなかった。

 不気味な二人組を装って私を怖がらせて出ていくことを狙っていたんだ。

 そうすれば、私がこの家を手放すと思って。

 __そんなに嫌か。余所者がやってくるのが

 なんて閉鎖的な地域なんだ。そりゃ出ていくばっかで人口が減るに決まっている。

 出ていくものかと思った。

 脅しに負けて尻尾を撒いて逃げ出すなんて私らしくない。

 ここは私の家になったんだ。ずっと夢見てきた私の家。私の終の棲家。

 他のどこでもいいわけじゃない、

 この家で暮らしたいんだ。

 この家で歳を取りたい。

 私はこの家で生を全うしたい。

 家が私を呼んでくれたんだ。私を受け入れてくれた。

 前住民だか幽霊だか嫌がらせをする旧世代の連中なんか知ったこっちゃない、他の誰にも私の居場所を取り上げさせてなるものか。


 __この家は私の家だ!!


 ふと目の前の薄明りが途切れた。

 __黒い影。

 胸の辺りがきゅっとした、振り返って背後を見やる。

 障子越しになにかが月光を遮っている。

 人影だった。

 私は慌てて口を抑えた。悲鳴が口の中でこもる。

 __ぬぼっとしたシルエットで、大きい。男の形をしている。

 そいつがじっと固まったまま動かない。どちらを向いているか分からないが、私は相手がこちらを見ているようにしか思えなかった。

 そしてそうだった。人影の手が障子の引き戸にかかった。

 __やだやだ、開けないで!

 呼吸が苦しくて、涙も勝手に出てくる。

 細く開いた隙間から月光が差し込み、私の足先を掠めた。__慌ててひっこめる。息が詰まった。上を見上げると、隙間に人間の目があった。


 目が合った。


 もう我慢できなかった。

 駆けだした。

 障子とは反対側の襖をあけてもうがむしゃらになって腰がぬけたまま転がり出た。

 足音がついてくる。

 __やだやだ!!着いてこないで!!

 家の中のものを後ろに放りながら、涙もぼろぼろと零れていく。

 乱れた息のせいで喉の奥がひりひりと痛む。

 目が痛くて、胸が痛くて、喉が痛くて、でもそれら全部を凌駕りょうがするほどに怖い。恐ろしい。

 __助けて!!

 無我夢中のまま何かの部屋に辿り着いた。

 台所だ。

 ことりことりと足音が廊下の先からこちらに近づく。

 私はさっと流し下の収納から錆びた包丁を抜き出した。

 入り口の横の壁に隠れる。涙で目がかすんで喉の奥からひゅーひゅーと息の音がするのが聞こえる。

 嗚咽を漏らさないようにするので必死だった。

 包丁を両手で握りしめたまま、がくがくする足で何とか立っている。

 音はもうすぐそこまで来ている。

 恐怖に震える体で包丁を持った両手を頭上に持ち上げる。

 怖い、嫌だ、もういや

 入り口にぬっと人影が現れた。

 私は両手を振り下ろした。


                    ×


 古ぼけた家の軒で二人の老婆が茶を飲んでいた。

「ああ、まただね」

「まただね」

「くりかえしちゃうんだろうね」

「もう四十年も前の事なのにね」

「ああ、それで忘れちゃうんだよね」

「しかたないねぇ」

「ああ、しかたない」

「ほら、くるよ」


『あ、初めまして。

 安西チエ子と言います。今度お隣に引っ越してきました。よかったら仲良くしてやってください』

最後まで読んでいただきありがとうございます。嬉しいです。

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