第91話 シアンの新しい旅
新しい旅の朝は清々しい。九月二日、月曜日。今日からシアンは新しい舞台に一歩を踏み出す。
「今日から王立魔道学院ね」
和やかな朝食の席、セレストが優しく微笑んで言った。
「はい。楽しみです」
「資格試験と入学試験を半年間で突破するとはね〜」
感心してネイビーが言う。シアンは昨年、王立魔道学院の入学資格の試験に合格し、その半年後、昨年の十一月に王立魔道学院の入学試験を突破した。合格通知を受け取ったときから、この日をいまかいまかと待ち望んでいた。
「シアンも学校に行っちゃうし……」と、ブルー。「兄様たちも事務所に行っちゃうし……。ついに屋敷に残るのはあたしひとりになっちゃったわ」
「セレストがいるだろう」ゼニスが呆れて言う。「別の場所に移り住むというわけでもないのだし、朝と夜は会える」
「ブルーも来年の入学試験を目指すなら」と、アズール。「ひとりでも屋敷で頑張るしかないよ」
「わかってるわ。シアン、学校でのお話をたくさん聞かせてね」
「うん。いいよ」
朝食を終えると、シアンはゼニスと同じ馬車に乗り込む。シアンが今日から通う王立魔道学院はサルビア家の事務所の手前で、途中まで父と同じ馬車で行くことになったのだ。カージナルの父オクサイド・オペラモーヴ卿も同じ馬車であるのは変わりない。ゼニスがいつまでも屋敷を出ないということはなくなるのだが。
アズールとスマルト、ネイビーは本人たちは不本意ながら別の馬車に乗っている。もちろんブロンドも一緒だ。
「シアンも背が伸びたな」オペラモーヴ卿がしみじみと言う。「本当に十歳で入学できるとはな」
「それだけ頑張ったということさ」ゼニスが笑う。「お前は私の誇りだ」
「はい。あとは無事に卒業するだけですね」
「そうだな。自分が満足するまで通うといい」
「はい」
この三年間で、シアンも多少なりとも背が伸びた。それでもゼニスのパワフルハグでは足が浮いてしまう。今日からパワフルハグも座ったまま行われることになる。馬車の外で行うのは少々気恥ずかしくなる年頃だ。
「楽しんで来い。嫌なことがあれば、必ず言うんだぞ」
「はい。いってきます」
シアンの制服にはフードがついている。いまとなっては特に気にしていないのだが、シアンの容姿は目立つ。不埒な輩の目印にならないようにするためだ。
今日は王立魔道学院の入学式。荘厳な学院の正門には、多くの若者たちが集っている。希望に満ち溢れた新入生の雑踏に立ち入ると、新しい旅の始まりを実感した。
「シアン」
不意に声をかけられて足を止めた。このフードで背後からよく気付けたものだと考えながら振り向くと、歩み寄って来るのはクロム王太子だった。彼もシアンと同じ制服を身に着けている。
「クロム殿下。ご入学おめでとうございます」
「お前もな」
王族のクロムはとにかく目立つ。多くの学生がチラチラと視線を送っていた。
クロムも昨年に入学試験に合格し、今日から王立魔道学院に通う。シアンとは同級生になり、ともに勉学を励むことになる。
「殿下とご一緒できるのは嬉しいですね」
「クロムでいい。今日から学友だろ」
「それはいけません。いくら友人間でも、僕を許してしまえば他の学生も許さなければいけなくなります。殿下とお呼びするのは、次期国王というけじめですよ」
「そうか」
クロムの隣を歩いていることでフードの意味がなくなる、とシアンはそんなことを考えていた。とは言え、それは学院でクロムを拒絶する理由にはならない。クロムとともに通えることは、純粋に嬉しいことだ。
「試験の首席合格は余裕だったらしいな」
感心した様子でクロムが言う。シアンは資格試験だけでなく、入学試験も首席で合格した。余裕とまでは言わないが、あまり難しく感じなかったのは確かだ。
「俺は特待クラスでギリギリだった」
「特待クラスでも充分に優秀ですよ」
王立魔道学院には階級がある。ふたりが所属することになる特待クラスは最高位の学級だ。もちろん合格は楽なことではない。特待クラスの学生は、国内で屈指の実力者候補ということになる。
「この学年に、お前を超える者はいないだろうな」
「そうでしょうか?」
「賢者を超える学生はいないだろ」
「それはわかりませんよ。僕より優秀でも称号がない人は山ほどいますから」
「まあ、それはそうだろうが、少なくとも学生には無理だろ」
クロムもこの三年間で随分と身長が伸び、シアンとは頭ひとつ分の差がある。シアンが小さいのかクロムが大きいのかよくわからない、とスカーレットは言っていた。おそらくどちらもだろう。
「卒業する頃にはひとりくらいはいるかもしれませんよ」
「卒業する頃にはお前も伸びている。差が縮まることはないだろ」
「ふふ、すべての同級生に期待しています。もちろん殿下にも期待していますよ」
「全力は尽くすが、そもそも首席合格にすら届いていないからな」
元々魔法の力が覚醒していなかったクロムが魔法学校である王立魔道学院に入学するには、小さい頃から魔法が使えた者より多くの鍛錬を積む必要があった。シアンもそれだけ支援してきたが、クロム自身も文字通り血が滲むほどの努力をした。それで特待クラスに入れたのだから、クロムの実力も相当なものだ。
「それに、僕は元々首席合格を目指していたんです」
「そうなのか」
「はい。学生の中にはもちろん、殿下に擦り寄って来る者がいるはずです。僕はその防波堤になります」
クロムは怪訝に首を傾げる。シアンの真意を掴み兼ねているようだ。
「殿下に擦り寄って取り入ろうとする家の者が、学生の中にも必ずいるはずです。サルビア家で首席となれば、しばらくのあいだは僕に敵う学生はいないと思います」
「それはそうだな」
「僕と殿下が友人関係にあると知れ渡れば、僕を蔑ろにすることはできなくなります。僕を退けて殿下に接触しようとするのは無理というものです」
「それを言ったら、お前にだって擦り寄る者はいるだろ」
「そうですね。ですが、王族である殿下のそばに首席合格でサルビア家の僕がいたら、もう近付ける学生はいないですよね」
「じゃあ、俺もお前にとっては防波堤になるな」
「そうかもしれません。みんな、まだ若いですからね」
「十歳がよく言うよ」
『プラス九十八ですけどね〜』
スカーレットが楽しげに言う。この声はクロムには聞こえていないが、こうして一言を添えるのはいつものことだ。
怖いもの知らずの学生はもちろんいるだろうが、王族もしくはサルビア家に取り入りたい家の者が危険を冒すことはないはずだ。慎重に接近して来るだろう。王族と国内屈指の実力を誇る家の者が並んでいれば、そう簡単に擦り寄って来ることはできないだろう。こうしてクロムと行動をともにすることで、ふたりとも学院での安全を確保することができる。害を為す不埒な輩がいたとしても、賢者と色彩の騎士がいればクロムには絶対に手が届かない。従者の立ち入りが許可されていないこの学院では、シアン以上にお誂え向きな護衛はいないだろう。
「護衛みたいだな」
「みたいではなくそうなんです。だから王陛下も僕と同じ年にご入学するようにされたのではありませんか?」
「やめてくれ。お前をそんなことに利用しようだなんて誰も思っていない。俺がお前と一緒に通いたかっただけだ」
「光栄です」
シアンがそう言って微笑むと、クロムは肩をすくめる。これは、シアンが何を考えているかよくわかっていない表情だ。
セラドン国王とシャルトルーズ王妃がそういった目的を持っているとはもちろんシアンも思っていないが、少なからず期待しているのではないかと考えている。その逆に、クロムがシアンを守れるように、という考えである可能性も否めないが。オーキッド家の一件は彼らも知っている。シアンがまたそういった目に遭う可能性は否定できない。それを案じているのだとすれば心配性だ、とシアンは思わざるを得ない。
厳かな入学式が終わると、それぞれのクラスに分かれてオリエンテーリングが始まる。教本の配布と学園生活の説明が、そのクラスを担当する講師によって行われるのだ。
特待クラスはシアンが思っていたより学生の数が少なかった。王立魔道学院の入学試験は狭き門であり、入学資格試験でも不合格が多く生まれる。最上位である特待クラスの学生が少ないのは致し方ないことなのかもしれない。
「教本が多いですね」
配布された教本は十五冊に及ぶ。一冊一冊もかなり分厚い。一年で習うことがそれだけ多いということだ。
「アイテムボックスが使えない学生はいないでしょうが」
「アイテムボックスは初級中の初級だからな。使えることを前提にしてこの量なんだろ」
「授業が楽しみですね」
シアンは七歳になった頃から王立魔道学院への入学を見据えていた。待ちに待った入学に、いまだに胸が高鳴っている。明日は授業の説明会が行われるようで、実際に授業が始まるのは明後日からだ。シアンにはそれがいまから楽しみだった。
* * *
王立魔道学院の敷地内には、使用人たちの立ち入りは許可されない。徒歩で帰宅する学生が多いようだが、シアンもクロムも馬車が学院の近くまで迎えに来る。徒歩での登下校は危険が付き纏うためだ。
「馬車はどこに来ているんだ?」
「裏門の近くに来ているはずです」
「じゃあ、裏門まで送る」
「え、なぜですか?」
「お前の言う通り、さっきから遠巻きに見ている者が多い。警戒するに越したことはないだろ」
それはシアンも気付いていた。おそらく、話しかける好機を窺っているのだ。それぞれがひとりになる瞬間を狙っているのかもしれない。
「それなら僕が殿下をお送りしますよ」
「王族の俺より、貴族のお前のほうが手を出しやすいだろ。いいから行くぞ」
クロムが強く肩を引くので、シアンにはもう為す術はなかった。魔法の力ではシアンが上かもしれないが、単純な腕力でクロムに敵うはずなどない。これはもう裏門まで送ってもらうしかないだろう。
(オーキッド家との一件を知っているにしても、心配性が過ぎるんじゃないかのう)
『シアンは非力ですからねえ』
(そりゃあ単純な力では弱いじゃろうが、その代わりに魔法があるんじゃがのう……)
『学院内では私闘のような扱いになって罰せられるんじゃないですか?』
(ふむ……それはあり得るのう)
『それなら、クロム殿下のこのパワーを頼りましょう』
(びくともせん)
『体格差もありますしね〜』
裏門のそばにアガットの姿を認めると、クロムはようやくシアンを解放した。
「また明日」
「はい。また明日」
送ってもらった礼も含めて丁寧に辞儀をして、シアンはサルビア家の馬車に乗り込む。入学初日の興奮は、しばらく冷めなかった。
* * *
リビングに行くと、ブルーがシアンに飛びついた。
「おかえりなさい! 学校はどうだった?」
「楽しかったよ。これからの授業が楽しみだよ」
「おかえりなさい、シアン」
歩み寄って来たセレストが、優しくシアンの頭を撫でる。母との身長差はだいぶ縮まった。
「初日はどうだった?」
「楽しかったです。これからクロム殿下とご一緒できるのが楽しみです」
「クロム殿下も随分と楽しみにされていたそうよ」
おそらく、セレストの姉であるシャルトルーズ王妃が手紙にそう書いていたのだろう。フードを被っていてもシアンにすぐ気付いたのは、正門でシアンを待っていたのかもしれない。
「あたしも来年、資格試験を受けるわ! そのためにカージナルの鬼のような授業を受けてるんだから!」
「うん。一緒に通えるのを楽しみにしてるよ」
「ええ!」
ブルーが自信を持って宣言するということは、それだけの実力がついて来たとカージナルが判断したのかもしれない。来年に資格試験を受け、同じ年に入学試験を受ければ、ブルーの入学は再来年になる。シアンが最短の三年で卒業してもともに通う時期は充分に取れる。ブルーがそうであるように、シアンもその時間を楽しみにしている。
(シアン、学校はどうじゃったかの)
『うん、楽しかった。授業が楽しみだな』
(うむ、うむ。そうじゃな)
『卒業も首席を取りたいですね〜』
(それは頑張り次第、じゃな)
『頑張ろうね』
『全力を尽くしましょう!』
(そうじゃな。楽しみじゃよ)




