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転生賢者の麗らか貴族生活〜余生のつもりが過保護な家族に溺愛されて長生き待ったなしのようです〜  作者: 瀬那つくてん(加賀谷イコ)
サルビア家の夏の日々

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第72話 アズールの危機

 午前の仕事を終えてダイニングに向かう途中、シアンは、暗い顔でふらふらと歩くアズールに気が付いた。

「アズール兄様、どうかしたんですか?」

 シアンを振り向いたアズールは、絶望感を湛えた表情をしている。

「事務所で仕事をするようにという通達が来たんだ……」

「そうなんですか。屋敷で仕事をすることがなくなるのですね」

「そうなんだよ……」

 アズールは力無く頷く。事務所で仕事をするようになるのは決まっていたことで、それを今更になって憂鬱に思うこともないようにシアンには感じられた。

「なぜそんなに暗い顔をしているのですか?」

「仕事を終えて帰って来るまで、シアンに会うことができなくなるんだ……」

「なるほど……」

「いまでもそうだろ」と、スマルト。「日中の仕事をしているあいだは会ってないんだから」

「同じ場所にいるというところに意味があるんだ! それに、屋敷にいればシアンのピアノの演奏が聞こえて来るだろ!?」

 シアンとアズールは別々の仕事をしているが、同じ屋敷であるため確認事項の際に会うことはある。シアンは屋敷でピアノのレッスンを受けており、演奏とまでは言えないが、シアンの奏でるピアノの音は各部屋にも届いているだろう。事務所で仕事をするようになれば、その一切がなくなるようになる。そこがアズールにとって重要のようだ。

「でも、個人的な感情でお断りできるお話でもありませんね」

「そうだね……。いずれ行くことは決まっていたしね」

「いつから事務所に移るのですか?」

「秋頃の予定だよ。先任との引き継ぎで、何度か事務所に行くことになるだろうけど」

 アズールは肩を落として溜め息をつく。仕事自体に不満はないだろうが、朝に家を出てから夜に帰って来るまでシアンに会えないということが憂鬱のようだ。

「諦めろ」スマルトが肩をすくめる。「俺たちは父様の仕事を受け継いで行く。遅いか早いかの話だ」

「わかっているよ。私情を挟むわけにはいかない」

「僕もいずれ事務所で働くようになりますから。そのときは一緒に仕事をできるんじゃないですか?」

「それまでまだ何年もあるんだよ……。気が狂ってしまうんじゃないだろうか……」

「大袈裟ですよ……」シアンは苦笑する。「夜と日曜は一緒に過ごせるんですから」

「シアン成分が不足してしまうよ。父様は強いから耐えられているけれど」

 シアンが発している自覚のない謎の成分は、こうして兄弟のあいだにも蔓延しているようだ。ネイビーが事務所で働く際にも同じことを言うのかもしれないと考えると、シアンには少し面白おかしかった。彼らからすれば真剣なのだろうが。

「まあ、しょうがないね。シアンと離れがたいがために断ったら、シアンのせいみたいな言い方をされる可能性もあるわけだし」

「優秀な人材を僕のためだけに引き留められませんからね。兄様と一緒に事務所で仕事をするのを楽しみにしています」

 なんだか別れの挨拶のようになってしまった、とシアンが考えていると、アズールもやはりそう感じたようだった。重い溜め息とともに肩を落とし、きっとまだしばらくはそうしているだろう。



   *  *  *



 昼食を終えるとアズールも気を取り直した様子で、屋敷に残るシアンとスマルト、ネイビーに仕事を引き継ぐために大量の書類を持って来た。屋敷で担う仕事と事務所で行う仕事では内容が違うため、アズールがこの先に引き受ける予定だった仕事は三人に振り分けられることになる。負担になるほどではないが、アズールのほうが多く仕事を担っていたようだ。

「失礼いたします。ブロンド様がお見えです」

 アズールの執務室を訪れたアガットがそう言うと、アズールの表情が険しくなる。アガットに案内されて来たのは、綺麗な長い金髪を肩でまとめた女性だった。

「ブロンド、まさかきみが引き継ぎを?」

「いえ。あなたの補佐に任命されました」

 涼しい顔で言う女性に、アズールはひたいに手を当てて項垂れる。女性はそれを気に留めず、アズールの隣に腰を下ろした。

 ひとつ溜め息を落とし、アズールは女性を手のひらで差す。

「彼女はブロンド・ネープルス子爵令嬢。僕の昔馴染みで、父様の事務所で働いている」

「どうぞよろしく」

 ブロンドは引き締まった表情で会釈する。愛想を振り撒く性質ではないようだ。根っからの仕事人間という印象をシアンは感じ取った。

「シアンに会えなくなる上にブロンドの監視下で仕事をしなければならないのか……」

「何か不服かしら」

「よくそんな質問ができたものだ」

 アズールは呆れたように溜め息混じりに言う。それでもブロンドは澄ましていた。アズールはブロンドが補佐になることに不服が余りあるらしい。

「確かにきみは優秀だ。きみが補佐になれば、仕事は格段に進むだろう。だが、優秀すぎるんだ。全従業員がきみと同じだけ仕事ができれば、この国で上位の事業になれるだろうな」

「お褒めに預かり光栄だわ」

「褒めてはいないんだよな」

 厳しい人のようだ、とシアンは考える。アズールが憂鬱に思うほどの優秀さが遺憾無く発揮されたときどうなるのか、シアンには想像に難くなかった。

「あなただって優秀よ。三十六時間休みなく働いたら上々の成果を得られるはずだわ」

「きみは一日が何時間かわかっていないんだ。時間に関してだけ馬鹿になるのはなんなんだ」

(どこかの世界に、ブラック企業なんて言葉があったのう)

 本当に三十六時間休みなく働かせるようなことはないのだろうが、それに近い働き方をさせられるのかもしれない。自分が優秀である人間は、それを他者にも求めるようになる。それが他者にとって無茶なことであったとしても、自分と同じだけできると思いがちなのだ。だが、ゼニスがアズールの補佐として最適だと判断したのなら、そんな脳内が無法地帯な人間を指名することはないようにシアンには思えた。

「無茶をさせるつもりは毛頭ないわ。もちろん、あなたに合った仕事を組むわ」

「まあ、父様がそうするのが最適だと判断したなら文句は言えない。お手柔らかに頼むよ」

「そんな冷徹なお方には見えませんが……」

 シアンが伺うように言うと、アズールは肩をすくめる。

「確かに、冷徹というのは違う。もう少し人間臭くはあるよ」

「仕事人間であることは確かなように感じられます」

「お褒めに預かり光栄だわ」

「褒めてはいないんだよ」

「僕もいずれ事務所で働くので、いろいろ教えていただけるとありがたいです」

「私でよければいくらでも」

「それはやめておいたほうがいい」

 アズールは苦々しい表情で息をつく。アズールがここまで言うならよほど厳しい人のようだが、厳しさの適度というものを知っているようにも感じられる。

「私はあなたにそんなに厳しくしたことはないわ。むしろ優しいほうよ?」

「どんな仕事をされたのですか?」

 シアンが問いかけると、アズールは小さく肩をすくめて口を開いた。

「月末が期限の仕事が、担当者の手違いで材料が届いていないことが月中過ぎに判明したんだ。ブロンドは各方面に手を回し、必要なだけの材料を数日で揃えた。そこからは地獄にいるようだったよ。期限まで数日しかないのに、いちからだったんだから」

「そんなこともあったわね」ネイビーが懐かしむように言う。「あのときのアズール兄様はやつれていたわ」

「先方との兼ね合いもあったんだからしょうがないでしょう」と、ブロンド。「達成したあなたは立派よ」

「あれほど働いたのは前もいまもないよ」

「山場を超えたようなものじゃない。一度でも大変な思いをしていれば、後々が楽になるわ」

 飄々とした表情で言うブロンドに、うーん、とスカーレットがシアンの中で首を傾げた。

『私の師匠に似てるなあ〜?』

(それはそれは、厳しい師匠だったようじゃな)

『ええ、ほんとに。ね、賢者様?』

(そんな厳しい師匠がいるなら会ってみたいものじゃ)

『て、手強い……』

 厳しかったことは自覚しているが、中途半端に優しくもあり厳しくもありではスカーレットは伸びないと確信していた。スカーレットは期待通りについて来たと思っている。それはきっと、アズールとブロンドも同じことなのだろう。

「ブロンドさんもすごい人のようですが、アズール兄様もすごいですね。それだけの能力があるということですよね」

「ええ、そうね」

「ブロンドが補佐になることに問題はないさ」アズールは肩をすくめる。「あれだけの危機に見舞われることは、きっとこの先ない」

「そうでないと困るのよ」

「それはそうだ。ブロンドは人の能力を最大限に引き出す方法を知っている。そのためなら多少の無茶も厭わない人間だ」

「心外だわ」

「一日が何時間か、いい加減に把握してくれ。この世界はいつでもそうなんだから」

 アズールがこれほどまでに不平を漏らすのは珍しい。仕事に関して文句や愚痴を言っているところは見たことがないし、父の事業にそういった感情を懐くことはないだろう。ブロンドがあまりに優秀すぎるようだ。

「あなたならできると信用しているからよ。あなたの能力を信用しているの」

「修行のようなものね」と、ネイビー。「いずれ父様の跡を継ぐんだから、厳しいに越したことはないわ」

「お前はブロンドと仕事ができると思うか?」

「私にできるわけないじゃない。アズール兄様だからこそできるのよ。アズール兄様の能力を最大限に引き出せるのはブロンドだけだわ」

 アズールもそれはわかっているようで、またひとつ息をついた。

「なんにしても」と、スマルト。「父様の決定なら仕方がない。いまのうちに鍛えられるといい」

「そうだな。父様の仕事を継ぐには、高い能力が必要だからな」

 ブルーだったら、絶対に嫌、と言って聞かなかったかもしれない、とシアンはそんなことを思った。なんだかんだ言っても、アズールは父の判断が最善だとわかっている。父が判断を誤ったことはなく、アズールの補佐にはブロンドが最適。多少なりとも厳しくても、それがアズールにとって最善なのだ。

『そんな無茶な仕事をさせるような人には見えませんけどね〜』

 シアンもスカーレットの意見に賛成だ。先ほどにアズールが話していたような件では無茶も必要になるが、そうでなければ厳しすぎることはないのではないかと思う。

(必要なときだけ無茶させるんじゃろうな。だからその印象が強くなるんじゃな)

『大変だった記憶って鮮明になりがちですもんね〜』

(ゼニス父様がアズールくんの補佐に最適と考えるのだから、苦しむような働き方はしないはずじゃ)

『とにかく優秀なんですねえ。優秀さのベクトルは人それぞれですが』

『僕も早く一緒に仕事したいな。ブロンドは僕にも厳しくするのかな』

(どうじゃろうの。ブロンド嬢はきっと、その者に最適な仕事をさせるはずじゃ。アズールくんには厳しくするだけの価値があるんじゃろう)

 厳しくするのは期待するから。期待するのは期待に応えられると期待しているから。期待をされるのは素晴らしいことだ。何もできない能なしと思われるより厳しくされたほうがいい。賢者はそう思っている。厳しいから悪いということもない。その厳しさが、事業を成長させることもあるのだから。そしてそれは、人間としての成長にも繋がる。賢者なら、ブロンドのような補佐は大歓迎だ。いくら厳しくされても期待に応えられる。その能力があることを、証明できるのだから。







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