第71話 帰って来たハッピータイム
「シアンちゃ〜ん! ハッピータイムよ〜!」
爽やかな月曜の朝。いつにも増してご機嫌な声が屋敷中に響き渡った。シアンの勉強部屋は防音設備はないため、他の五人の耳にも幸福な時間の開始宣言は届いたことだろう。
「お元気そうで何よりです」
微笑みかけたシアンに、カージナルは明るく顔を綻ばせた。
「元気そうな顔が見られてよかったわ〜。シアンちゃん成分を摂取できなくて死ぬかと思ったわ!」
「……それは僕が発しているんですか?」
「もっちろ〜ん。貴重な成分よ。なにせシアンちゃんからしか出ないんだから〜」
それはシアンには身に覚えのない成分だが、その成分を摂取することで元気になったり嬉しくなったりするのなら、それはきっと確かな養分なのだろう。人間の体に養分を発する仕組みはないため、要は“気分”ということだろう。
「無駄話してないでさっさと始めろ」
スマルトが冷ややかな視線を向けると、カージナルは眉を吊り上げた。
「何よ! 久々の再会なのに!」
「シアンは忙しいんだ」
「もー、わかってるわよ。始めましょ、シアンちゃん」
「はい。よろしくお願いします」
「今日は待ち遠しかったわ〜。新しい教材を早く見せたくて堪らなかったのよ!」
「それは楽しみです」
カージナルが机に広げた教本は、少しだけ難しい内容にシアンには感じられた。賢者の知能があれば自力でも学べるだろうが、カージナルの授業はどれも面白くわかりやすい。説明を受けることでより深く理解することができるだろう。
思った以上にカージナルの授業は楽しかった。内容は難しくなっているはずなのに、説明を聞いているとどんどんと解像度が上がっていく。自分の頭の中に次々に知識が増えていくのを感じた。
マゼンタがハーブ水を持って来て、小休憩の時間になった。
「やっぱりカージナルさんの授業は楽しいですね。少し難しくなったような気がしますが、すごくわかりやすいです」
「そう言ってもらえて光栄よ。アタシの授業について来られるのはシアンちゃんだけだわ〜」
カージナルがしみじみと言う。これまでにも何人かの教え子がいたようだ。
「いままでの教え子はみんな、シアンちゃんより年上だったけど、少し難しくしすぎたみたいだわ。だからシアンちゃんは簡単なところから始めたのよね。それでも吸収力が凄まじかったわ」
これまでのカージナルの教え子と違って、シアンの中には賢者の魂が含まれている。普通の子どもと比べるにはあまりに不釣り合いだが、そうでなくてもカージナルの説明はわかりやすいとシアンは思っている。
「シアンちゃんは、少しずつ難しくしても確実に着いて来るわ。教えていて楽しいと思ったことはこれまでになかったもの」
教え子が内容を理解できないのでは、それに合わせた授業にする必要がある。カージナルが本領を発揮できないこともあっただろう。教えたら教えただけ伸びる生徒のほうが、教える側も楽しめるはずだ。その点で、シアンは最良の教え子なのかもしれない。
「だから、シアンちゃんの家庭教師になれて光栄よ。アタシの力も引き出されているような気がするわ」
「能力を存分に発揮できているなら何よりです」
「ええ。なにせ、シアンちゃんの能力と一緒にアタシも成長していくんだから……」
カージナルは恍惚の表情で、ほう、と溜め息を落とす。カージナルもシアンと同じで、自分の能力が伸びていくことに喜びを覚える性質のようだ。
「素晴らしいわ……。教えたら教えただけアタシも成長するなんて……」
カージナルは夢見心地だ。それでも小休憩が明けると教師モードに戻るのだから、頭の切り替えが優れていると言えるだろう。
カージナルは真剣に説きつつ、心から褒めることも忘れない。シアンがひとつ理解するたびに、まるで大きな発見のように賞賛する。これで能力が伸びないというほうが不思議かもしれない。
『私の先生がカージナルさんだったらよかったのにな〜』
スカーレットが残念そうに呟いた。賢者は師事していた頃のスカーレットの成績を把握していたが、お世辞にも優良とは言えない。
(学校の成績は平均ギリギリじゃったな。頑張ってはいたのだろうがの)
『魔法の成績は良かったんですけどね〜。座学はてんで話になりませんでしたよ』
人間というものは、得意だと思っていることほど伸び、苦手だと思っていることは伸び悩む。苦手だという先入観が頭の柔軟性を奪い、吸収力を阻害するのだ。シアンにももちろん苦手な分野はあるが、それを克服するための勉強だと思っている。それを楽しめるかどうかの話だろう。
『でも、賢者様が授業を受けることで私も勉強している気になれます。難しくて理解はできていませんが』
(勉学は一朝一夕では身に付かんからのう。少しずつでも理解できるようにすればいいんじゃよ)
『学ぶことはまだたくさんありますもんね。それが楽しいのかもしれませんね』
(勉強は楽しんだ者勝ちじゃ)
授業が終わると、カージナルは興奮のため息切れしていた。
「久々の授業で張り切りすぎたわ……」
「僕も楽しかったです。難しかったですが、説明がとてもわかりやすかったです」
「シアンちゃんに教えるために、自分でも勉強し直しているのよ。どうしたらシアンちゃんが理解できるか考えると、わくわくが止まらないのよ……」
シアンは自分を勉強オタクだと思っているが、カージナルはまた違う勉強オタクらしい。その相互作用でシアンの能力が伸びるなら、シアンにとっては得というものである。
「今日の内容が難なく理解できたなら、もう少し難しくしてもいいかもしれないわね。楽しみすぎて動悸がするわ……」
(寿命が縮んでそうじゃ)
『人間って一生に打てる心拍数が決まってるって言いますよね』
カージナルも楽しめているなら良いことだろうが、シアンは身体面の健康には良くないような気がしていた。精神面が健康的であれば長生きできるのだろうか、とそんなことを考えた。
「賢者様の能力値を伸ばすことが課題だと考えると、光栄が身に余りすぎるわ……」
「シアンとしては未熟ですから、伸ばそうと思えばまだいくらでも伸びるはずです」
「いまよりさらに……!? そんな……アタシのほうが楽しくなりすぎて死んじゃうわ……!」
(やはり寿命が縮んどる)
『楽しみながら死ねるなら良いことのようにも思えますけどね。長生きはしてほしいですね』
カージナルの表情は幸福感で満たされているが、そのせいで寿命が縮むのはシアンとしても本意ではない。楽しみのうちに長生きするのが最良の人生と言えるだろう。
「ご期待に応えられるよう頑張ります」
「全力で期待しちゃってもいいかしら……」
「うーん、僕がお応えできる程度の期待でお願いします」
教材を片付けると、見送りは不要よ〜、と明るく笑いながらカージナルは去って行く。途端に空気がしんと静まり返るので、まさに嵐のような人だった。
「休暇を挟んでも相変わらずなやつだ」
ダイニングに向かいながら、スマルトがつくづくと呟く。
「休暇を挟んだからという気もしますが……。力を貯めていたんじゃないですか?」
「あの授業で楽しんでいられるのだから、お前にもあいつに似た狂気性を感じる」
「勉強はいくらしてもし足りないものですから。その点ではカージナルさんと同じ思考回路かもしれませんね」
スマルトは小さく肩をすくめる。シアンの言うことは理解できるだろうが、カージナルの授業を楽しめるほど熱心ではないようだ。そもそもシアンは勉強オタクであるため、比較対象にはならないかもしれない。
和やかな昼食会が始まると、ネイビーが揶揄うような口調で言った。
「今日のカージナルはまさにハッピータイムだったみたいね。スキップしていたわ」
「久々のシアンの授業だから」と、アズール。「いつも以上に気合いが入っているようだったね」
「はい。そのおかげで楽しかったです。カージナルさんの授業は僕にちょうど合うのかもしれませんね」
ブルーのための授業だったらまた話は変わるだろう。カージナルもブルーに合わせた授業をできるはずで、シアンの勉強用だからああいった授業になるのだろう。
「どうしたら勉強が楽しくなるの?」
ブルーが唇を尖らせて言った。授業内容を見直したあとも、まだ勉強が楽しいとは思えていないようだ。
「勉強というのは、自分に新しい知識を貯めることだよ。例えば、見たことがない花の名前を覚えることだって勉強なんだから」
「うーん……」
「自分の中に新しい知識が増えれば、それだけできることが増えるんだ。自分の知識が何かの役に立つときが必ず来る。その日のために知識を貯めるんだよ」
ブルーの年齢では、貯めた知識が何かの役に立つ実感がまだないのかもしれない。知識を活用する場面もまだ少ないだろう。知識を貯める意義を知る日はまだ遠いようだ。
「いま勉強することで、将来、父様の役に立てると考えるといいかもしれないよ。勉強は未来の自分への投資だからね」
「なるほど……。確かに、父様の役に立てるようになりたいわ」
「そう考えていれば、勉強はどんどんできるようになる。できるようになったら、きっと楽しくなるよ」
「必ずしもいますぐ役立つとは限らないのね」
「そうだね。僕と王立魔道学院に通うことを目標にしてもいいし、その先を見据えてもいい。勉強したものはなんにでも役立つよ」
「なんだか頑張れそうな気がしてきたわ」
ブルーの表情が明るくなる。未来の自分への投資を理解できるなら、これからいくらでも能力を伸ばすことができるだろう。
「いまのうちにいっぱい頑張っておくのよ」ネイビーが言う。「仕事を手伝うようになったら、勉強に割ける時間は限られてくるわ。いまの自由なうちにいっぱい勉強しておくのよ」
「わかったわ。早く仕事を手伝えるようになりたいわ」
そのためには王立魔道学院に入学する必要があり、ブルーが仕事を手伝い始める日はまだ遠い。それでもネイビーの言う通りで、思う存分に勉強ができるのはいまのうちだ。この貴重な時間を最大限に活かすことで、将来の自分の実力に繋がっていくだろう。
「ネイビー姉様より仕事ができるようになりたいわ」
「あら、いい度胸だわ。まずは追いつくところからね」
「僕たちの中で最も仕事ができるようになるのはシアンだろうから」と、アズール。「ネイビーを目標にするのはちょうどいいかもしれないね」
「どういう意味よ!」
ネイビーが眉を吊り上げると、そのままの意味だよ、とアズールは肩をすくめた。
「シアンが三人を追い抜く日は、遠くないでしょうね」
セレストが心から楽しみにしている表情で言う。成長を楽しみにしてくれる存在がいることは、未来への投資をより良いものとする原動力になる。その期待に応えるための努力を惜しまないように奮闘することができるだろう。
「そうなれるように頑張ります」
明るく言うシアンに、セレストは満足げに微笑む。シアンなら期待に応えられると確信している表情だ。それを裏切らないよう励むのが、シアンに課された任務だろう。それだけの能力が自分にあると、シアンはそう確信している。




