第49話 賢者のこれまで
愛らしい笑い声で賢者が目を覚ますと、シアンがウィローと遊んでいる。カーテンの向こうはまだ暗く、夜更かしを楽しんでいるようだ。賢者が起き上がるのに気付いて、シアンは微笑みを深めた。
「ねえ、おじいさん。おじいさんのことを教えて?」
「わしのことか……。そうじゃのう……」
賢者は首を捻る。自分に関する情報は、細かいところまでは憶えていない。なにせ、名前まで忘れてしまった。
「わしは平民の出身じゃな。一般家庭で普通に育った気がするのう。貴族だったこともあるがの」
「賢者になるのは大変だった?」
「そうじゃな。これまでの転生がなければ、きっと称号は得られなかったじゃろうな」
“称号”は人から与えられるものではない。この“世界”に認められることによって付与されるのだ。もし人によって与えられるものであれば、誰も賢者を認めなかっただろう。
「いっぱい頑張ったんだね。いっぱい頑張れる人ってすごいと思うな」
「シアンもよく頑張っておるぞ。家族に心配をかけないようにと思っとったのは偉い」
賢者が微笑みかけると、シアンは少し不安そうな表情でウィローを抱き締める。
「そうかな……。僕、頑張ってるかな」
「もちろんだとも。このわしが証明しよう」
「うん……」
シアンがチリアン・オーキッドたちの件をいまだ引き摺っていることは賢者にはよくわかる。もともと気にしやすい性格のようで、頭の切り替えが上手くいかないようだ。シアンがどんな目に遭っていたか、いまの賢者はすべてを知っている。到底、許されるものではない。
「おじいさんの前の人って、どんな人だったの?」
「うーむ……冒険者の少女だった気がするのう。よくない記憶ばかりが残っとるがの」
行動をともにしていた者の顔も名前も覚えていないが、三人の影は記憶にある。彼らがどんな表情をしていたかも。
「嫌な目に遭ったんだね。僕にはよく見えないけど、おじいさんは頑張ってたんだね」
「そうかのう」
「そうだよ」
珍しくシアンが自信を湛えて微笑むので、賢者はひとつ頷いた。シアンがそう言うなら、きっとその通りなのだろう。
「他にはどんな人がいたの?」
「貴族の令嬢だったこともあるのう。厳しい家じゃった。悲惨な結婚生活がその令嬢だったか別の女性だったかは憶えてないがのう」
政略結婚において、女性が虐げられるのはよくある話だ。子を持った記憶はないため、子を成せない女性であれば尚更だろう。
「勉強が楽しくなかったんだね。カージナルみたいな人はいなかったの?」
「そうじゃな。いつも怖い顔をしていたような気がするのう」
「叩かれたりしたの?」
「そうじゃな。いま思えば、わしに優しくしてくれたのはスカーレットだけじゃった気がするの」
『酷いもんでしたねー』
スカーレットの呆れた声が聞こえる。その声はシアンにも聞こえているようだ。
『虐げるとまでは言いませんが、教えてもらっている身なのにあんなに偉そうにして。賢者様に敵うと思っていたんでしょうかね』
「どうしてみんな、おじいさんに冷たかったの?」
「なぜじゃろうなあ。わしが悪かったのかもしれんのう。何かが気に食わなかったんじゃろうな」
『賢者様は優しすぎるんです。だからみんな、つけ上がっていたんですよ』
弟子たちの顔を名前は覚えていない。唯一覚えていたのがスカーレット・マソーだ。年齢のせいで忘れかけていたが。
「人間は、能力値が伸びると自分は偉いと思い込む生き物じゃ。誰だってそうじゃよ」
「……チリアンのことも、僕のせいだったのかな」
シアンが俯いて小さな声で言うので、賢者は彼の頭を優しく撫でた。
「そんなまさか。お前さんは何も悪くない。たまたまそうなってしまっただけじゃよ」
「うん……」
「家族だってお前さんのせいじゃとは思っとらんよ」
「……そうだね」
シアンは安堵したように呟く。こういった不安な気持ちを誰にも打ち明けられなかったのだろう。
「おじいさんはどんな勉強をしたの?」
「いろいろ勉強したぞい。魔法やいろんな学問、ダンスやマナー、仕事もそうじゃ。いろいろなことを経験して来たのう」
どんな経験だったかは覚えていないが、経験値はしっかり身についている。そうして能力値は上がっていったのだ。
「それがお前さんの役に立つのなら、散々な目に遭って来た時間も、決して無駄ではなかったのじゃな」
「うん……ありがとう。おじいさんのおかげで毎日、楽しい気分。みんなと一緒にいられて嬉しい」
「うむ、うむ。そうじゃな」
「……おじいさん、僕のところに来てくれてありがとう。おじいさんがたくさん頑張ってくれたおかげなんだね」
シアンの明るい微笑みは、いままで向けられたことのない輝きだった。胸の中が暖かくなる。こういう気持ちを、いままで知らなかったのだ。賢者だと言うのに。
「おじいさんと一緒なら、きっとなんでもできる。スカーレットもいてくれたら、もっとなんでもできるよ」
『お任せください! 私たちがいたら、シアンはもう無敵ですよ』
力強く言うスカーレットの声に、シアンはまた嬉しそうに微笑む。
「もう怖いものなんてないね」
「うむ、うむ。そうじゃな」
シアンはこれまで、怖いものがたくさんあったのだろう。それをひとりで耐えていたのだ。こんなに小さな心と体で。あまりに痛ましい、と賢者はそう思った。
「色彩の騎士って、どんな騎士?」
『世界王国に認められて称号を与えられた騎士です。ある程度の経験を積むと“騎士の器”という、魔法のような物が宿ります。それに“宝玉”という……魔法のような物が収まれば、世界王国に認められることができるんです』
「曖昧じゃのう」
『私もよくわからないんですよお。誰も説明してくれないんですもん』
拗ねたように言うスカーレットに、シアンがくすくすと笑う。スカーレットはひとつ咳払いをした。
『そうすれば精神体になって、いまみたいに人の魂に宿ることができるようになるんです。でも、それも“英魂”でなければ宿ることはできません』
「英魂って?」
『高潔で優れた魂のことです。賢者様のように何度も転生していたり、もしくは崇拝を集める聖女だったり、剣聖などの称号を得ていたり……。そういう高尚な魂です』
「簡単なことじゃないよね」
『もちろんです。そもそも“騎士の器”が宿ること自体、割と難しいことなんです。賢者様の教えがなければできませんでしたね』
賢者の知恵を授けたことはもちろんあるが、スカーレットの血の滲むような努力が功を奏したはずだ。彼女は昔から努力家だ。きっと並み大抵の努力では叶わなかっただろう。
「おじいさんはすごい人なんだね」
『賢者様だって、望めばきっと世界王国に認められますよ』
「うーむ……。わしは普通の人生を歩めればそれでよいからのう。それがいま叶っているのだから、何も不満はないぞ」
それは本当のことだ。普通の人生ほどありがたいものはない。それをいまになって実感している。
「何回くらい生まれ変わったの?」
「何回だろうのう……。よく憶えておらんな。やめどきがわからなくなっておったから、今回で最後にしようと決めたんじゃよ。賢者の称号も冠したし、もう転生の必要はないからのう」
「そっか……。じゃあ、最後に僕のところに来てくれてよかった」
「わしもそう思うぞ」
『私もそう思います!』
元気いっぱいなスカーレットの声に釣られたように、ウィローも楽しげな声を上げる。ぴょんと跳ねるウィローに、うふふ、とシアンが笑った。
「おじいさんは、いま幸せ?」
「うむ。とても幸福な余生じゃよ」
「僕もとても幸せな気持ち」
『私もです!』
自分も、と言うようにウィローが鳴く。シアンは楽しそうに笑ってウィローを撫でた。
「よかった。みんなで幸せになれば、きっとみんな幸せだよね」
「うむ、うむ。そうじゃな。お前さんが幸せになれば、きっとサルビア家の者たちも幸せじゃよ」
「うん」
シアンの明るい微笑みは、賢者が初めに目覚めた朝の鏡に映っていた少年とはまったく違う。とても血色が良くて健康的だ。
「おじいさんは何かやりたいことはある?」
「わしはお前さんがやりたいことをできればそれで満足じゃよ。こんな楽しい気持ちで勉強をできたのは初めてじゃ。カージナルの授業は楽しいのう」
「うん。僕も楽しい。早く王立魔道学院に行きたいな」
「うむ、楽しみじゃな」
「父様と一緒にお仕事をするのも楽しみ。早く大人になりたいな」
『大人になるなんてあっという間ですよお〜。子どもの時間は子どもの時間で大事なんですから』
「スカーレットは何歳まで生きたの?」
『あらっ! 女性に年齢を訊いちゃダメなんですよ!』
からからと笑うスカーレットに、シアンは不思議そうに首を傾げる。
「そうなの?」
『シークレットオブスカーレットです!』
「シーク……? どういう意味?」
『スカーレットの秘密ってことです。姿は十七歳のままなんだから、それでいいじゃないですか〜』
スカーレットが色彩の騎士の称号を冠する前、何歳までひとりの少女として生きたのかは賢者も知らない。確かに外見は賢者に師事していた十七歳のままだ。
『私は賢者様のイメージでできているので、賢者様はこの姿が印象深かったんですね』
「その姿しか知らんからのう。お前さんが大人になる前に死んでしまったのじゃからのう」
『十七歳は大人です!』
「成人しとらんじゃろ。まだまだ子どもじゃよ」
『ちゃんと成人以上は生きたんですから!』
むきになるスカーレットに、シアンがおかしそうに笑う。
「お話ししているだけなのに楽しいね」
「うむ、うむ。そうじゃな。そうすることでしか得られない幸せというものもあるからのう」
「うん。たくさんお話ししようね」
『飽きるまでお話ししましょう!』
同意するようにウィローが鳴く。またぴょんと跳ねるので、シアンが楽しげに笑い声を立てた。




