第43話 ワンツーグランマ
翌日の朝食会も賑やかだった。祖父ナイルはとにかく笑う。飄々としていたり、悪戯っぽかったり、楽しそうだ。そうしているとネイビーとブルーもいろいろな話をして、それからシアンに話を振る。シアンもとても明るい気分で過ごすことができた。
「それで」父ゼニスが言う。「いつまで滞在するつもりなんだ?」
「気の赴くまま、だな」と、ナイル。「なんならこちらに移住してもいいくらいだ」
「なりません」祖母ヴェニーがぴしゃりと言う。「今日だってみんな、忙しいのですから」
「それはそうだろうが……。お前たちは今日は何をするんだ?」
ナイルのその問いに、アズールとネイビーの頬が揃って引き攣った。その質問を恐れていたような表情だ。それをヴェニーは見逃さず、鋭い視線を向ける。
「ダンスレッスンがあるのね?」
「うっ……」アズールが声を振り絞る。「……そうです……」
ネイビーも先ほどとは打って変わって憂鬱そうな表情になった。その様子に、シアンとブルーは顔を見合わせる。
「お婆様がいらっしゃるときは」セレストが微笑む。「お婆様も講師になってダンスレッスンにご参加になるの」
「鬼講師、ね」
注釈を入れるネイビーに、ヴェニーは肩をすくめてそれを流した。否定する必要はないらしい。ヴェニーの厳格さからその姿は容易に想像できるし、彼らにとっては共通認識のようだ。
「アズール兄様もご一緒にレッスンを受けるんですね」
シアンがそう問いかけると、アズールは乾いた笑みを浮かべる。
「せっかくだから、ね。普段はひとりで練習しているんだけどね」
「そういえば」と、ブルー。「アズール兄様とスマルト兄様は、いつダンスの練習をしているの?」
「ブルーが寝る準備をしている頃だよ。アガットから習っているんだ」
「へえ……。みんな、夜更かしなのね」
ブルーは先日、いつも二十一時頃にはベッドに入ると言っていた。大人の兄たちにとって二十一時就寝は早寝中の早寝で、まだまだ活動する時間だ。シアンもそれより遅く寝ているが、子どもの体はよく寝るようにできているためすぐ眠くなる。子どもたちが寝ているあいだも、大人たちの努力は続いているのだ。子どもたちは早く寝るのが仕事である。
「あなたたちはまだ磨き甲斐があるもの」ヴェニーが言う。「磨けるだけ磨かないと」
「お婆様はお若い頃」と、セレスト。「ダンスにおいて右に出る者はいないと言われていたのよ。お婆様より上手に踊れると自信を持って言える人はこの国にはいないわ」
「すごいですね」シアンは言った。「拝見してみたいです」
「大袈裟ですよ。人よりほんの少し上手だっただけです」
本人がそう言うということは随分と自信があるようだ、と賢者は思った。ナイルもヴェニーのダンスは屈指だと言っていたし、とても興味を惹かれてしまう。
「仕事の合間に見学に行ってもいいですか?」
「もちろんどうぞ」
優しく微笑むヴェニーに対し、アズールとネイビーの表情はまた凍りつく。シアンの見学がよりプレッシャーになってしまうようだ。そうとわかっていても、この先いつこの機会があるかわからない。シアンは知的好奇心を抑えたりしない。
「もしかして」ネイビーが顔を上げる。「お爺様の演奏で踊るの?」
「あら」ヴェニーが微笑む。「それでもいいわよ?」
「無理無理無理! ただ確認しただけだから!」
ナイルの演奏はふたつの曲調を一曲にする。練習量は倍以上が必要になるだろう。何より難しいのは転調の瞬間だ。拍子と足取りが変わるため、躓いてしまうこともあるかもしれない。
「あなたたちにまだそんな技量はないわ。そもそも、二種類の曲調を一曲に組み込めるのはクレイジー・サルビアだけなのだから」
(クレイジー・サルビアに後継はおらんのじゃの)
シアンがそう考えてぼんやりしていると、クレイジー・サルビアが悪戯っぽくからからと笑った。
「わからんぞ? シアンの腕なら二代目クレイジー・サルビアになれるかもしれん」
「可能性はあるわね。練習しておく?」
あくまで穏やかににこりと微笑むヴェニーに、アズールとネイビーは血の気が引いているようにすら見える。
「シアンが二代目クレイジー・サルビアの称号を冠したらにしましょ。ね?」
ネイビーが同意を求めるようにシアンを見遣るので、シアンは苦笑しながら頷いた。頷くほかない。
柔和なカージナルと厳格なヴェニーが組み合わされるとどんなレッスンになるのか、シアンはそう考えると楽しいような気がした。見ている分には。
* * *
仕事をひと段落させてシアンがスマルトの執務室のドアを開くと、さっそくカージナルの掛け声が聞こえて来た。スマルトの執務室の防音は完璧のようだ。
ダンスレッスン用の広間では、カージナルの演奏でアズールとネイビーが踊っている。ヴェニーの鋭い指示が飛び交い、とても厳しいレッスンのように見えた。
シアンは邪魔にならないようこっそりと広間に入り、壁際のナイルの隣の椅子に腰を下ろす。四人の集中力が途切れることはなく、カージナルの跳ねるような演奏とヴェニーの掛け声に、アズールとネイビーは置いて行かれまいと必死に足を運んでいた。それでもふたりは微笑んでいる。社交界に生きる貴族の顔は体とは別物なのだ。
「厳しいだろう?」ナイルが声を潜めて言う。「あのレッスンについて行ける者は他の家にはおらんよ」
「ダンスの講師をされているんですか?」
「師事する者は多いがな」
ナイルの言葉には含みがあった。レッスンについて行けるかどうかは話が別なのだろう。
シアンの目には、アズールとネイビーのダンスは上級者に見える。それでもヴェニーの声は厳しさをはらみ、カージナルの掛け声はいつにも増して熱がこもっていた。ふたりは穏やかに微笑み華麗に舞い、この難易度の高いレッスンをひとつの失敗をすることもなく乗り切った。
「少し休憩しましょう」
ヴェニーがそう言って手を叩いた瞬間、アズールとネイビーは示し合わせたように膝に手をついて肩で息を整え始める。この疲労の一切を表に出さず踊り切るのだから鍛え抜かれた身体だ。
「はあ〜い、シアンちゃん。見学に来たのね〜」
「こんにちは。思っていた以上に厳しいレッスンですね」
「まだまだですよ」と、ヴェニー。「この程度で音を上げていては、自信を持ってサルビア家を名乗れませんよ」
「お婆様が来るとこれだけが憂鬱なのよ〜」
ぜえはあと息を整えながら言うネイビーに、ヴェニーは涼しい顔で肩をすくめる。カージナルはにこにことそれを聞いており、どうやらヴェニー側の人間のようだ。
シアンが水の入ったグラスを差し出すと、アズールとネイビーは一気にそれを飲み干した。
「はあ……もう汗だくだわ。早く湯浴みしたい……」
ふたりとも顔には一滴も汗をかいていないが、服の中には滝のように流れているのだろう。社交界に生きる貴族は不思議な生き物だ、と賢者は思った。
「この程度で息が切れるなんて、もっと体力をつけなさい」
「さすが『ワンツー・レディ』は健在だわ……」
「ワンツー・レディ?」
シアンが首を傾げると、ネイビーは腰を屈めた。
「お婆様はお若い頃、クレイジー・サルビアを踊りこなす唯一のレディだったの。ついた二つ名がワンツー・レディ。お見合いの申し込みは後を絶たなかったそうよ」
あのクレイジー・サルビアの演奏を、汗ひとつかかず、微笑みを絶やさず完璧に踊りこなしていたのなら、それは誰でも嫁に欲しいと思うだろう。
ふふ、とカージナルがおかしそうに笑った。
「クレイジー・サルビアとワンツー・レディの婚姻は、誰もが納得したものよ〜」
「そのピアノやダンスの腕を継いだ方はいらっしゃらないんですか?」
「私たちの子どもは」と、ナイル。「みんな、事業に比重を置いていてね。社交界は二の次だ。ゼニスはサルビア家の嫡男だから期待されたが、まあ人並みだ」
(このふたりの“人並み”はアテにならんの)
「随分と陰口を叩かれたものだが、ヴェニーに『だからなんですの?』と言われたら黙らざるを得なかったさ」
屈指の踊り手「ワンツー・レディ」にダンスについて「だからなんですの?」と言われたら物申せる者はいなかっただろう。ダンスにおいて二つ名を持つ彼女より発言力を持つ者はいないはずだ。ナイルは「人並み」と言うが、ゼニスもダンスにおいて上級者であることは間違いないように賢者には思えた。
「さあ、思い出話はそれくらいにしましょう。時間は限られているのですから」
それから、アズールとネイビーは夕食前までのあいだ、しこたましごかれた。あまりの厳しさに、賢者は若干、引いていた。
* * *
夕食会が始まっても、アズールとネイビーの顔には疲労の色がありありと浮かんでいた。いつも穏やかに微笑んでいる彼らがこんな表情をするのだから、ワンツー・レディの厳しさは群を抜いているようだ。
「明日の昼には帰りましょう」
有無を言わさぬ声で言うヴェニーに、ナイルは不満げな声を上げる。
「もう少しゆっくりしてもいいだろう?」
「なりません。孫の顔を見に来ただけなのですから。こうしているあいだにも仕事が溜まっているのですよ」
ナイルとヴェニーは隠居の身であるはずだが、辺境伯として領地経営はしているらしい。この祖父母が辺境伯でなければ、チリアン・オーキッドたちは居場所を失くしていたかもしれない。
「みんな、元気なようで安心したわ。見送りは不要よ」
五人兄弟が揃って頷くと、ヴェニーは満足げに微笑む。ナイルのようにもう少しのんびりしたいと思っているのかもしれないが、五人の邪魔をすることは本意ではないのだろう。賢者は老人心になんとなくそんなことを考えた。
それから、ゼニスとナイルは事業の話をし、セレストと五人兄弟はヴェニーに日々のことを話した。いつにも増して和やかな夕食会だった。
* * *
湯浴み後のマゼンタの髪の手入れが終わると、シアンは客間のドアをノックした。祖父母ともう少し話をしたかった。
ナイルがドアを開けて、シアンの訪問に顔を綻ばせた。
「シアン、よく来たな。お茶を持って来させようか?」
「いえ、眠れなくなるかもしれませんし……」
「そうだな。さあ、お爺様の隣に座りなさい」
促されるままソファに腰を下ろすと、ヴェニーも優しく微笑む。シアンは、どう話を切り出そうか迷っていた。
「チリアンたちのことが気になるのか?」
ナイルが穏やかに問いかけるので、シアンは小さく頷いた。心配しているとまでは言わないが、本当に健全な暮らしが確保されているのか気になっていた。
「彼らは町の学園寮で暮らしている。何不自由ない生活だ。反省しているかはわからないが、気落ちはしているな」
オーキッド家も貴族の中では名家である。その嫡男が辺境の町の学園寮で暮らすのは、プライドの高い彼らには屈辱的なことだろう。それでも、彼らの行動に対して妥当な処遇なのだろうが。
「彼らは“子どものしでかしたこと”でサルビア家との関係を悪くしてしまった」と、ヴェニー。「家に帰れるとしても、何年もあとのことでしょうね」
「受け入れられるかわからんがな」と、ナイル。「自業自得なのだから、お前は気にする必要はない」
「……はい」
シアンが処罰を軽くすることを提言しても受け入れられないだろうが、そうする理由はシアンにはない。彼らのことは、きっと考えているだけ無駄だろう。ナイルとヴェニーの表情からそれはよくわかった。
「それにしても」ヴェニーは声の調子を変える。「赤の血統の祖先である緋色の騎士がシアンに宿っていたなんてね。シアンには青、緑、赤……すべての血が流れているのね」
青のサルビア、緑のベルディグリ、赤のマソー。魔法界の御三家とも言える血筋がシアンに受け継がれているのなら、この国でシアンに敵う魔法使いはいないとすら思えた。すべては、その素養をシアン自身がどう伸ばしていくにかかっている。
「将来が楽しみだ」ナイルが笑う。「お前の成長を見届けるために、長生きしなければな」
「あなたがこちらに来ると彼らと会ってしまうかもしれないから、私たちがこちらに顔を出すわ。またその元気な顔を見せてちょうだい」
「はい。また会える日を楽しみにしています」
ナイルとヴェニーは暖かく微笑む。その表情には深い愛情が込められており、そして期待もはらんでいる。彼らの瞳に応えられるだけの能力が自分にあると思うと、とても誇らしかった。
『自分の子孫に会えるなんて、一気に歳を取った気分です』
(……わしの感慨を返しとくれ)




