第41話 孫にひと目でも会いたくて……
朗々とした歌声に目を覚ます。懐かしい歌だ。シアンが誘われるようにバルコニーに出ると、スカーレットの後ろ姿が見えた。彼女から流れ出る言葉はかつて暮らしていた国の言語。つられて歌い出したシアンに気付いて、スカーレットは明るく微笑む。この街にとっては異国語で、この口には慣れていないはずだが滑るように歌詞を唱えた。足元でウィローが踊るように跳ねる。シアンは朝の微睡が好きだったが、こんな朝もたまにはいいのかもしれない。
「――Hey!」
スカーレットが拳を天に突き上げるので、シアンは驚いて歌うのをやめた。
「あっ、すみません……。つい気分が上がっちゃって」
「はは。歌で目を覚ますのもいいものじゃな」
「朝のひんやりとした空気の中で歌うのは清々しいですね」
季節は初夏に差し掛かる。今年の夏も暑くなるのなら、ひんやりした朝の空気を味わえるのもあと数週間内だろう。寒くもなく暑くもない。シアンにはちょうどいい時季だ。
「シアン様、おはようございます」
室内からマゼンタの声がする。スカーレットはシアンの中に、シアンは寝室へと戻った。シアンの着替えを手にしたマゼンタは、明るく微笑んで見せる。
「スカーレット様と歌ってらっしゃったのですね」
「うん。朝から楽しくなったよ」
「私もです。とても素敵な歌でした」
屋敷の中にいたマゼンタにも聞こえていたということは、他の寝室にも声は届いていたかもしれない。朝を告げる歌、と詩的に表現すると情緒的に感じられた。
手早く身支度を済ませ、家族の待つダイニングに向かう。その途中、後ろから声をかけられた。
「スマルト兄様、おはようございます」
「おはよう。随分とやんちゃな締めだったな」
「はは。気分が上がってしまったそうです」
「朝から元気な娘だ」
スカーレットは、姿は賢者に師事していた十代の少女だが、色彩の騎士の称号を冠するほど鍛錬をしていたと考えると、実年齢はもっと年配なのだろう。スカーレットのことだから、何歳まで生きていたか訊いても答えてくれないかもしれない。
ダイニングでは、他の五人はすでに着席していた。おはようの挨拶のあと、アズールが朗らかに口を開く。
「異国語の歌だったね。どんな意味があるのかわからないから不思議な気分だったよ」
「誰かの歌声で目を覚ますのは健康に良いわ」と、ネイビー。「聞いたことのない歌だと特に良いわね」
「ヘイ! って言ったのは面白かったけど」
おかしそうにブルーが笑う。ブルーはスカーレットのことを知らないため、おそらく一緒に歌っていたのはマゼンタだと思っているだろう。
「シアンは歌のレッスンを受けたらもっと上手になるでしょうね」セレストが微笑む。「また将来の選択肢が増えたわ」
「本当にそうだな」と、ゼニス。「歌ならカージナルも教えられるんじゃないか?」
「そうですね」アズールが頷く。「今度、話してみましょうか」
「それも面白いかもしれないな」
シアンとしては自分の歌声に自信があるわけではない。これまで楽器を習って来たから音感はあるだろうが、だからと言って必ず歌が上手いとは限らない。歌の習うのは楽しそうに思え、これからもスカーレットとともに歌うことで鍛えるのもいいかもしれない。
朝食後のパワフルハグは久しぶりのように思う。ここ数日は何かと異例の朝で、家族全員でのんびりすることがなかったからだ。父の腕にはいつの以上に力が入っているような気がした。背骨が若干、悲鳴を上げる。
「ここ数日、慌ただしかったが、今日から普段通りに過ごせるはずだ」
「よかったです。普段通りなのは安心しますね」
「ああ、そうだな。心安く過ごしてくれ」
「はい」
いつもと変わらない日常を過ごせるのは幸福なことだと賢者は思っている。それが平穏な日々であれば尚更だ。安寧の暮らしこそ何よりも素晴らしい。
仕事に向かう父を見送ると、さて、とアズールがシアンを振り向いた。
「普段通りということで、僕を一緒に仕事をしないか?」
「普段通りって言ってただろ」と、スマルト。「お前と仕事をすることのどこが普段通りなんだ」
「いまからなら僕と仕事をすることを普段通りにできるかもしれないだろう?」
「ちょっと、ズルいわ!」ネイビーが声を上げる。「それだったら私と一緒に仕事しましょ」
「お前ら、人の話を聞いてるか? 仕事量も通常に戻ったんだからひとりでやれ」
アズールとネイビーは諦めきれない様子で、不満げにスマルトを見遣る。普段通りであれば、シアンはスマルトと仕事をするのだ。
ブルーが不思議そうに三人を見上げた。
「どうして同じ部屋で仕事をしないの? みんなでやったら楽しそうだけど」
「アズール兄様とネイビー姉様は、僕がいると気が散るからね」
そう言ってシアンが微笑むと、アズールとネイビーは図星だったようで言葉に詰まる。シアンと同じ部屋で冷静に仕事をこなせるのはスマルトだというのは父の判断だ。それはきっと間違っていない。
「あとは、別々の部門の仕事をしているから、混ざってしまわないようにしてるんだよ」
「ふうん……ちゃんと区別してるのね」
ブルーも自分と一緒に勉強をと言い出さなくなった辺り、シアンの精神年齢が上がったことでブルーも追随しているようだ。
「シアンの有能さに磨きがかかって恐ろしい……」
戦慄いて言うネイビーに、同意するようにアズールが頷く。賢者の魂が覚醒したシアンの成長は彼らにとって急速で、いまだそれに慣れないようだ。シアンが大きくなるに連れ、彼らも落ち着いて来るのだろう。
それから、普段通りにスマルトの執務室で仕事に取り掛かった。仕事量も普段通りに戻ったようで、時間が余ってしまうようなこともない。ようやく戻ってきた日常に、シアンは心底から安堵していた。
「お爺様が取り込んだ新素材の事業は、どれくらい進んでいるんですか?」
「最終調整までは来ている。それが終われば、大きな貢献となるだろうな」
「父様の補佐になるなら、僕も事業の全体像を把握しなければならないですよね」
「そうだな。どの部門でも対応できるようにする必要があるだろうな」
「早く事務所に行ってみたいです」
「早いうちから見学するのはいいことだ。父様の許可が出たら行ってみるといい」
彼らは「事務所」と呼んでいるが、その実「本社」ということだろう、と賢者は考える。この世界では「会社」という言葉を使わないようだ。賢者の知っている会社とは、形態が違うのかもしれない。
きりの良いところまで仕事を片付けたところで、ちょうど昼食に向かう時間になる。今日の昼食はなんだろうかと楽しみにしていると腹の虫が鳴いた。今日も元気である。
ダイニングに向かう途中、エントランスから賑やかな話し声が聞こえて来た。アガットが客人の応対をしているらしい。あまりの賑やかさに顔を見合わせたシアンとスマルトは、その様子を見に行くことにした。アガットと話をしているのは、溌剌とした老紳士と落ち着いた老淑女だった。
「父方のお爺様とお婆様だ」
スマルトがシアンに言ったとき、老紳士が彼らに気が付く。
「シアン! スマルト! 元気だったか?」
その朗らかな笑みを見ると、シアンが賢者に彼らの情報をもたらした。祖父ナイル・サルビアと祖母ヴェニー・サルビアだ。一ヶ月前はぼんやりしていたシアンの意識も、次第に賢者の魂に馴染んて来ている。こうして瞬時に反応するのも難しいことではなくなっていた。
「お爺様、お婆様。お久しぶりです」
「ああ。大きくなったな、シアン。スマルトは相変わらず顔が怖いな!」
ナイルは明るく笑う。ヴェニーは少々冷ややかに夫を見ているが、これがいつもの挨拶のようだ。
「こんな急に何をしに来たんだ?」
「お前たちの顔を見に来ただけだ。お爺様が孫に会いに来ることになんの不自然もないだろう」
祖父ナイル・サルビアはこの領地の辺境伯だ。チリアン・オーキッドの一行は辺境伯のもとに預けられている。その件でシアンが心配になって会いに来たのかもしれない、と賢者は考えた。
「おや」ナイルが足元を見る。「この子は?」
その視線の先にはウィローがいる。ウィローがこの屋敷に来たのはつい先日のことで、まだ祖父母が会ったことはないはずだ。
「グリーンウォンバットのウィローです」シアンは言った。「僕の友達です」
「そうか、そうか。どれ、おいで」
ナイルが手を差し出すと、ウィローに警戒した様子はなく、素直に擦り寄って行く。ナイルはその毛質を堪能するように撫で、可愛らしそうに顔を綻ばせた。
「お荷物、お預かりします」と、アガット。「どうぞダイニングにお越しください。昼食のご用意があります」
「ああ。ありがとう」
アガットに荷物を預けたナイルは、軽々とシアンを抱え上げる。老紳士とは言っても賢者よりまだはるかに若く、肉体も溌剌としているようだ。
ダイニングに入ると、先に着席していたアズールとネイビーが目を丸くする。
「お爺様」アズールが言う。「どうしたんですか、こんな急に」
「お前たちの顔が見たかったんだよ」
「それにしたって」と、ネイビー。「報せ鳥くらい出してくれればよかったのに」
「はは、サプライズだよ」
朗らかに笑う祖父に、アズールとネイビーは困ったように笑う。歓迎しないというわけではないが、ナイルの突然の訪問はよくあることのようだ。
「お爺様! お婆様!」
ダイニングに来たブルーが、嬉しそうに祖父母に駆け寄る。ナイルはシアンを床に下ろし、今度はブルーを抱き上げた。ヴェニーも優しく微笑んでブルーの頭を撫でる。
「久しぶりね。元気にしていたかしら?」
「うん!」
スマルトの右に祖母ヴェニー、ブルーの左に祖父ナイルの席が用意され、昼食会は和やかに始まる。
「せっかく来てくれたのに申し訳ないですが」アズールが言う。「僕たちは仕事と勉強があるのでお相手する時間があまりありません」
「そうだろうな。サルビア家はいつでも忙しいからな」
そうとわかっていても突然の訪問をするのは、底抜けに陽気なのかマイペースなのか。おそらくどちらもだろう、と賢者は思った。祖父母は六十代後半くらいに見える。賢者よりだいぶ年下だ。
「シアン、ブルー」と、ナイル。「午後は私と一緒に遊ばないか?」
「僕とブルーは、午後はピアノのレッスンがあります。ですので、夜にでも」
にこりと微笑んで言うシアンに、ナイルは失恋した男性のような表情をする。それを見たヴェニーが、呆れた様子で目を細めた。
「だから言ったでしょう。この子たちは忙しいのだから、私たちはただのお邪魔ですよ」
「では」と、ナイル。「ピアノのレッスンの見学をさせてもらおう。それなら邪魔にならないだろう」
伺うような視線を向けられ、シアンとブルーは顔を見合わせた。ただ見学するだけなら、特に邪魔になることはないだろう。この祖父が“ただ見学をするだけ”でおとなしくしていられるのかはわからないが。
昼食に舌鼓を打っているあいだ、ナイルは上機嫌だった。五人は仕事や勉強の話をして、ヴェニーは静かにそれを聞いている。報告会のような時間だった。
「どれくらい滞在するつもりなのですか?」
アズールが問いかけると、ナイルは白髪混じりの顎髭を撫でる。
「気の赴くまま、だな」
「数日中には帰りますよ」と、ヴェニー。「私たちにも領地経営があるんですから。そう長く留守にできませんよ」
「たまにはのんびりしたっていいだろう?」
「いけません」
シアンはスマルトの言葉を思い出す。祖父は掴みどころがなく厳格な人だと言っていた。この朗らかな祖父から厳格さは感じられず、それは祖母に当てはまるように思う。
(孫は甘やかすだけでいいから可愛い、と言うしのう……)
賢者が孫を持ったことはないが、知人がよくそう言っていたのを憶えている。彼は孫が可愛くて仕方がないといった様子だった。
「そうだ。シアン、お前には誕生日プレゼントがあるんだ」
「わあ、ありがとうございます。楽しみです」
「ああ。気に入ってくれるといいんだがな」
シアンの心の中に“シアンの心”が残っていたのは、賢者にとっては僥倖だった。そうでなければ“七歳”の“可愛い”“孫”を演じきれたかわからない。シアンの心は祖父母の訪問に喜んでいるし、彼らに会えてよかったと思った。
「……シアン」祖父が言う。「なんだか年寄りくさい目をするようになったな」
「えっ」
ぎくりとして固まるシアンに、アズールとネイビーがこっそりと笑っていた。




