第23話 ぼくの/あたしのしょうらいのゆめ
子どもの体というものは、よく眠るようにできている。昼食後の小休憩は睡魔との戦いだ。仕事や勉強が始まってしまえばその誘いを振り切ることは簡単だが、講師を待っているあいだはずっと手招きをされている。それはブルーも同じことだった。
「はあ〜い! シアンちゃん、ブルーちゃん! 素敵な昼下がりね!」
睡魔もカージナルのご機嫌な挨拶の前では無力というものだ。
「こんにちは、カージナルさん」
「ごきげんよう、カージナル先生!」
「うんうん! 今日もハピネスな音を奏でましょうね〜!」
呆れて目を細めるスマルトの監視下にて、今日も賑やかなピアノのレッスンになりそうだ。
「シアンちゃんは今日はお休みしましょうか」
いつも通りにブルーより先に練習を開始しようとしていたシアンは、カージナルが優しく言うので首を傾げる。
「病み上がりで楽器の演奏は疲れちゃうわ。音楽は音を楽しむためのもの……。万全な状態で奏でてくれたほうが、きっとピアノも嬉しいはずよ」
「そうですね。じゃあ、ブルーの練習を見てますね」
「ええ。ブルーちゃん、そういうわけだから」
その分を頑張らなければならないこと、その上でシアンが見学していること。そのふたつがブルーの肩に圧力をかけていた。ブルーはいまだピアノを弾くことに緊張しており、シアンのあとにレッスンを受けることでそれを解していたのだ。
「大丈夫! 一生懸命に弾けばそれでいいのよ〜!」
「うう……あたしが万全の状態じゃなくなったんだけど……」
「大丈夫だよ、ブルー。僕は見ているだけだから」
シアンとブルーとでは、シアンのほうが成績が良い。それも年齢と性別で手の大きさが違うからだとシアンは言うが、ブルーは少しだけ気にしているらしい。
椅子に腰を下ろしたブルーの肩を、カージナルが軽快に叩く。優しい手つきに誘われて、まるで魔法のようにブルーの肩の力が抜けた。
「さっ、いつも通り指の準備運動から始めるわよ〜」
さんはい、と言うカージナルの合図に乗り、ブルーは慣れた手つきで鍵盤に指を這わせる。指を柔軟に動かすための準備で、いまではブルーもすらすらと弾くことができた。
「良い調子! じゃあまずはバイエルいってみましょ!」
ピアノの譜面台にカージナルが教本を広げる。振られた運指番号を見て正しい運指で弾くための練習をする、子ども向けのピアノ教本だ。これも指の準備運動に使われている。
「う〜ん、ちょっと力が入りすぎだわ。もっと楽しみましょ!」
「うう……シアンが見てると緊張するわ……」
「あらっ! それはいつものことじゃない!」
「そうだけど……」
「もしかして、失敗しないようにって思ってる?」
ポロン、と鍵盤を叩きながら歌うように言うカージナルに、ブルーは眉尻を下げて小さく頷く。
「失敗しないように、って考えるより、シアンちゃんを楽しませるように、って思うといいわよ〜」
ブルーがちらりと視線を向けるので、シアンは優しく微笑んで見せた。
「何より、ブルーちゃんが楽しむのが一番! ブルーちゃんが楽しければシアンちゃんもも〜っと楽しくなるわ!」
「……うん、わかった!」
「最高ッ! じゃあメトードローズいってみましょ!」
カージナルが別の教本を譜面台に広げる。子どもの手でも弾きやすい簡単な曲が入った、初級者向けのピアノ教本だ。ブルーも単音の曲ならすんなり弾けるようになっている。
合わせて歌うようカージナルのレッスンに、ブルーもすっかり緊張が解けて楽しそうな表情をしていた。カージナルのレッスンは、カージナルの飛び跳ねるような上機嫌に釣られて楽しくなっていくのだ。
「う〜ん、良い感じ〜! これなら、次のステップに進んでもいいかもしれないわ」
カージナルは、気取った手つきで新しい教本をブルーに見せる。それがシアンの使っている物と同じだと気付くと、ブルーの明るい青色の瞳がパッと輝いた。
「ブルーちゃんにソナチネはまだ早いかな〜と思ってたんだけど、ピアノはちょっと難しいくらいが楽しいのよ〜! どう? やってみる?」
「うん! やってみたい!」
「そうこなくっちゃ!」
レッスンは右手で主旋律をなぞるところから始まる。ブルーが慣れてくるとカージナルが伴奏や和音で合いの手を入れた。そうしていると、弾むような音でホールが満たされて、心踊る空間が演出される。シアンは楽しく演奏を聴きながら、ブルーの輝く横顔を眺めていた。
(若き才能とは素晴らしいのう……。じゃが……)
「いいわよ〜!」
「その調子!」
「う〜ん最高!」
「盛り上がっていきましょ〜!」
自分が演奏しているときはさほど気にならないが、こうしてそばで聴いていると目立つように思う。この合いの手がまた楽しさを演出しているとも言えるし、気分を乗せてくれるとも言えるが、演奏会にこの合いの手がなくなれば調子が落ちるのではないか、とそんな気がした。
レッスンは辞儀に始まり辞儀に終わる。
「今日も最高なハッピーレッスンだったわ〜! よく頑張って偉いわよ〜! また次回のレッスンを楽しみにしてるわ!」
見送りは不要よ〜、と踊るようにカージナルはピアノホールをあとにした。ちらりとブルーを見遣ると、まだ頬が紅潮していた。
「素晴らしかったよ、ブルー。よく頑張ったね」
ブルーは明るく笑う。こうしてレッスンを続けていくことで、徐々に自信が身についていくだろう。そうして素敵なピアニストが誕生すれば、それはきっと貴重な宝物になるはずだ。
* * *
シアンがレッスンを受けなかったことで、夕食までまだ時間が空いていた。スマルトは仕事に戻らなければならないため、シアンとブルーはマゼンタの付き添いで書籍室に行く。シアンは魔法学の本を読み漁ろうと思っており、ブルーは私室にいてもいいとシアンは言ったが、シアンと一緒ならいくらでも本が読めるとついて来た。一冊を読み切るのに一週間かかるブルーが半日で半分を読めるのだから、それはおそらく本当のことなのだろう。
シアンの目的は、魔法学を魔法に明るくない者にわかりやすく伝える方法を見出すことだ。まずは自分が基礎から頭に叩き込まなければ、順序立てて説明することはできない。
クロム王太子が求めているのは、魔法学の知識ではなく対魔法戦のときの対処法だ。クロムは魔法の力を持っていない。それでも魔法に対抗する方法を身につけなければならないのだ。
(すべての魔法戦をスキルのみで乗り切るには……じゃな……。スキルは魔法より劣ると言われて久しいが、そんなわけはあるまい。スキルのみで完全勝利を収めることができるはずじゃ)
魔法戦で使用される魔法は「マナ」「攻撃」「防御」の三種類。さらに「能力」に関する知識も必要になる。クロムが感知系のどのスキルを身につけているかにもよるが、各種魔法に対応する知識と術を頭に叩き込まなければならない。
(まずは、対魔法戦の基本からじゃな。魔法攻撃・防御耐性が欲しいのう……。対応するスキルは……)
自分の中の知識を照らし合わせつつ、魔法学に基づいて必要なスキルを挙げていく。その習得法も伝えるべきだろう。戦闘は知識なしではこなせない。だが、知識だけでは勝利できない。知識と技能、どちらも揃っていなければならない。
弟子の育成法を考えて頭を捻っていた日々が懐かしかった。
「シアン、ブルー」
呼びかける声に顔を上げると、スマルトが呆れた表情でシアンとブルーに歩み寄って来た。ふたりの周りには数冊の本が重なっている。いまのいままで、ずっと読書に夢中になっていたようだ。
「そろそろ夕食だ。その辺で切り上げろ」
そう言われて時計を見れば、十八時半をとうに過ぎている。そろそろ父も帰って来ている頃だ。
慌ただしく本を片付け始めるふたりに、スマルトはまた目を細めた。
「夢中になりすぎるなと母様が言っていただろ」
「すみません、つい……」
「あたしもシアンが集中してたから釣られて集中しちゃったわ」
賢者は過集中の性質だ。集中してしまえば誰にも止められない。はずだったのだが、スマルトはその過集中を切った。何か特殊能力があるのだろうか、と思わざるを得ない。いままで集中した賢者の意識を奪う者はいなかった。
(うーむ……耳が遠かっただけ、ということかのう……)
スマルトとマゼンタの手も借りて本を片付け、足早にダイニングに向かう。父はとうに帰宅していたようで、全員が揃ってテーブルに着いていた。
「いままでずっと本を読んでいたの?」
少し咎めるような色を湛えてセレストが言う。あはは、と誤魔化すように小さく笑うシアンに、セレストは呆れたように肩をすくめた。
「魔法学に興味を持ってくれたのは嬉しいけど、時計はしっかり確認なさい」
「はい、ごめんなさい……」
同じように怒られたことは何度もある。それも弟子に。じじいが寝食を削るな、と叱る弟子もいた。それは尤もだが、どうせ生い先は短いのだから好きなようにやらせてほしいと思っていた。本を読んだまま死ねるのならそれも本望だ、とすら思ったことがある。
「シアンは、将来は魔法学研究員になってもきっと有能なんだろうね」
アズールが朗らかに言う。なんとも気恥ずかしくてシアンがはにかんでいると、そうだな、とゼニスが明るく応えた。
「私の補佐と兼業しても見事に両立するのだろうな。将来が楽しみだ」
魔法学という分野はとても面白く興味深い。時間も忘れてしまうほどに。できればもっと早く出会いたかったと思うが、シアンの人生はまだまだ先が長い。いまから学んでも遅くはないはずだ。
「魔法学研究員になるには、何か試験などはあるのですか?」
「私の紹介でセルリアン魔法学研究所に入所することもできるわ」と、セレスト。「もしくは功績で認められることもあるわ」
母セレストは街のセルリアン魔法学研究所の所員として研究している。セレストの紹介が最も手っ取り早いが、独自の研究を認められることを目指すのも楽しそうだ。
セレストは誇らしげに続ける。
「サルビア家の魔法使いなら間違いなく入所できるでしょうね。きっとシアンなら失望されることもないわ」
またひとつ、将来の希望進路先が増えたようだ。セレストはサルビア家の事業に携わりつつ魔法学研究員としても活動している。シアンの能力から考えて、同じ進路を選ぶのも不可能ではないだろう。自分の探究心の赴くままに魔法学を極めてみたいとも思う。とても魅力的な進路だ。魔法学が成り立ってきた歴史についても学んでみたい。
「私の部屋にも、書籍室にも書斎にも参考書や資料が山ほどあるわ。読みたいときに好きなだけ読むといいわ。なんであっても勉強するのは大事なことよ」
「はい、ありがとうございます」
「ただし、熱中しすぎないこと」
「はい、気を付けます……」
この屋敷には本を置いてある部屋がたくさんある。シアンの一生をかけても読み終えるかわからないが、それはそれで楽しみだ。
「シアンはもちろん優秀な魔法使いになるだろうから」と、アズール。「王立魔道学院が講師に欲しがるなんてこともあるかもしれないね」
「どの道を選んでも大活躍しそうね」ネイビーが笑う。「もちろん、ぜんぶ選んだって誰も止めないわ」
父の補佐になるのはもちろんのこと、魔法学研究員も王立魔道学院の講師も魅力的な職業だ。就業に年齢制限がないのであれば、すぐにでも頭に知識を叩き込んで進路を選びたい気分だ。
「あたしもシアンと一緒に働きたい!」と、ブルー。「あたしもいっぱい勉強したら、シアンと働ける?」
「ええ、もちろん」セレストが微笑む。「ブルーだって優れた血筋なんだから、きっと有能な大人になるわ」
「ほんと? あたしも早く仕事したいわ!」
「もう少し勉強を頑張ったらね」
悪戯っぽく言うセレストに、ブルーは唇を尖らせた。その様子を眺めていたゼニスが愉快そうに笑う。
「やる気があるのはいいことだ。その調子なら、きっとシアンと肩を並べられるだろうな」
「シアン! あたしが追いつくまで待っててね!」
「うーん、それはどうかな」シアンは首を傾げる。「待てないかもしれないね」
「だったら死ぬ気で勉強するわ!」
「うん、一緒に頑張ろうね」
どうやらブルーのやる気をより引き出せたようだ、とシアンはほくそ笑む。他の五人もその思惑にはすでに気付いていることだろう。
学ぶことが多く残されていることは素晴らしい。止まらない探究心を発散させる時間はまだたっぷりある。熱中しすぎて母に叱られることが多々あるような気はするが、これからの人生がとても楽しみだ。少なくとも、シアンにとっても楽しい人生となる必要はあるのだが。ともに素晴らしい余生を過ごそうと交わした約束は、一生を懸けても守り抜く決意だ。




