第21話 I got a fever!
『この役立たず!』
『お前が私たちの幸福を壊したんだ』
『お前のせいで……』
『疫病神! 近付かないで!』
『お前のせいであの子は死んだんだ』
『お前なんか産まなければよかった』
『早くどこかへ行って!』
『二度と私の視界に入らないで』
『お前なんかいなければ……』
耳を塞いでも不躾に鼓膜を突き刺す不協和音が、崇高な残響としてぐわんぐわんと反響している。
嗚呼、吐いてしまいそうだ。胃の底がむかむかと疼いている。
なぜ逃げ出さないのだろう。なぜこの足は動かないのだろう。
ここに居たくないのに。早くここから逃れたいのに。
「こっちだよ」
そ、っと手を引かれた。優しく温かい手が、強引に体の向きを変えさせる。
「そっちに居ちゃダメ。こっち来て。一緒に」
心を軽くしてくれる声について行くと、仄かな光が見えて来た。導かれるように、誘われるように。あの光を心から待ち望んでいたと思わせる喧騒が、混濁した意識を浚うように溶かしていった。
* * *
重い瞼をなんとか持ち上げると、シアンの視界に飛び込んで来たのはマゼンタの心配そうな顔と穏やかなバード老医師のしわくちゃな顔だった。
「シアン様! お加減いかがですか?」
泣きそうなマゼンタに問いかけられて、シアンは自分の体が熱いことを自覚する。ひたいには濡れたタオルが置かれていた。
(うむ……知恵熱、じゃな……)
この世界で目を覚ましたあの日から、シアンはよく働きよく学び、そして賢者のことで頭を悩ませていた。その反動がこの小さな体に現れたようだ。とは言え、発熱を感じるのと少し体が怠いだけで、他には特に問題はないように思う。
「ここのところ忙しくしておりましたし、お疲れだったのでしょう」
バード老医師が優しく微笑み、シアンの胸元をぽんぽんと叩く。
「今日は一日、安静にしているとよろしいでしょう。ゆっくり寝ていれば、明日の朝には熱が下がるはずですよ」
「はい……ありがとうございます」
満足げに頷いて、よっこいしょ、とバード老医師は重い腰を持ち上げる。サッとマゼンタが杖を差し出した。
「何か異変があればまたお呼びなさい」
「はい。ありがとうございます」
のんびりと部屋を出て行くバード老医師をマゼンタが見送っているあいだ、ウィローがのそのそと椅子を使ってベッドに上がって来る。すんすんと鼻を寄せるウィローも、どこか心配しているように見えた。寄り添うようにシアンのそばで丸くなる。魔獣でも人間の病を察知することができるのか、とシアンはそんなことを考えていた。
「シアン様、食欲はおありですか?」
「うーん……あんまり」
「起き上がれますか? お水を飲みましょう。それか、レモネードのご用意もありますよ」
「水がいいな」
「はい」
シアンが起き上がろうとすると、ウィローの足に掛け布団が引っかかった。やれやれ、といった様子でウィローは反対側に移動する。人間にとって邪魔な位置にいてもどかない猫を見てきた賢者にとっては、その賢さは賞賛に値するとすら思った。
マゼンタの手を借りてコップ一杯の水を飲み下し、またベッドに横になる。マゼンタがひたいに濡らしたタオルを置くと、ひんやりとして気持ち良かった。
「ずっとは居られないかもしれませんが、なるべくおそばにいます。何かあったらすぐ呼んでください」
「うん、ありがとう」
マゼンタが掛け布団を直し、ゆっくりと目を閉じると、シアンはうとうとする隙もなくあっという間に眠りに落ちていた。
* * *
暗い森を走っていた。背後から何重にも聞こえる足音のような重圧に耐えきれず、ただ、ひたすら、とにかく、自分にとっての前へ向かって足を動かした。
お下げが肩でぽんぽんと跳ねるのが邪魔で、眼鏡は何度も直しているのに下がって来るのが邪魔だ。
『この役立たず!』
『あんたのせいで台無しだ』
『自分ひとりだけ逃げるのか?』
『卑怯者!』
木の根に足を取られ、頭から突っ込むように転んだ。手にしていた木の杖が地面に落ち、からんころんと軽い音を立てた。
咄嗟に耳を塞ぐ。それもきっと、意味はない。
『恩を仇で返すつもりか?』
『わざわざ面倒を見てやってたってのに』
『本当に邪魔者だ』
『弱いくせに調子に乗るから』
『お前がいなければすべて上手くいくのに』
『本当に、お前はどうしようもない愚か者だ』
嫌、聞きたくない。もう何も言わないで。お願い。
首を振っても鳴り止まぬサイレンが、祝杯を上げるように響き渡っている。頭が割れそうだ。
頬を伝った雫が、ふと、胸元で弾けた。途端、何かが服の下で光り輝いている。持ち上げてみると、雫型の小さな青い宝石のペンダントだった。
握り締めるだけで、全身が包まれるように暖かくなる。動けなくなった体でうずくまり、ただ、涙が枯れ尽くすように泣き続けた。
* * *
ふと目を覚ますと、目の前を覆い尽くす緑色の毛玉の向こうにアズールがいるのが見えた。
「ん。目が覚めたか」
アズールが優しく微笑んでウィローを移動させる。マゼンタにどかされたのに、またシアンの枕元に来ていたようだ。
「気分はどうだ?」
「はい……大丈夫です」
ぼんやりと頷くシアンの頬を撫で、アズールは安心させるようにシアンの胸元をぽんぽんと叩いた。
「ここ最近、よく頑張っていたから疲れが溜まっていたんだな。気付けなくてごめんよ」
「いえ……。他のみんなはどうされてますか?」
「ネイビーはしばらく騒いでいたよ。心配しすぎて、インクの瓶を書類の上で倒しそうになっていた」
ネイビーらしいと小さく笑うと、いつも通りな様子に安堵感が胸中に広がった。体調を崩しても誰もそばにいてくれなかった日を思い返すと、この幸福感に涙が出そうになる。
「スマルトもいつも通りに過ごしているけど、もしかしたら一番に心配しているかもしれないね。ブルーもずっとそわそわしているよ」
「そうですか……。僕も明日には元気になって、ちゃんと仕事をします」
「そんなことを考える必要はない。体が資本だよ」
アズールはひたいのタオルを手に取り、チェストに置かれたボウルで濡らし、またシアンのひたいに乗せた。
「今日は何も考えずにのんびり寝るといい」
優しく胸元を叩くアズールの温かい手に誘われるように、目を閉じると意識はまた眠りの世界に落ちていった。
* * *
ひたすらに暗い道を走っていた。カツカツと鳴るヒールは騒がしく、いくらたくし上げてもスカートは足に絡みつく。なんとも邪魔くさいものだ。
石畳に足を取られてつまづいた瞬間、背後の道がどんどんと闇に消えて行く。上がる息を整える間もなく、また暗闇に駆け出した。
『いつまで逃げるつもりなの?』
『どれだけ泥を塗れば気が済むんだ』
『ひとりじゃ何もできないくせに』
『あんたみたいな子どもがいるなんて恥ずかしいわ』
『あんたがどこで生きていけるって言うの?』
ついに足元が崩れ、体が闇の中へ放り出される。寸でのところで伸ばした手が、なんとか石畳を掴んだ。崩壊は止まってくれないらしい。この腕が力を失うまで、もう時間はないだろう。
『出て来ないで』
『近寄らないで!』
『あんたと一緒にいると恥をかくの』
『こっち見ないで!』
不意に何かに手を引っ張られた。とても温かい手だ。物凄い力で道に引き上げられ、ようやく呼吸を整えることができた。顔を上げると、人の形をした影が優しく微笑んでいる。
まるでエスコートするように手を引き、影は消えていく。押し出されるように溢れた涙が、無駄に綺麗なリボンに染みを作った。
* * *
次にシアンの目を覚ましたのは、ウィローのいびきの音だった。またシアンの枕元にいて、看病に飽きたのか熟睡している。
「起きたか」
スマルトがウィローを足元にどかせた。シアンの様子を見ながら本を読んでいたようだ。
時計を見ると、午後一時半。昼食の時間はとうに過ぎているが、お腹はまったく空いていない。
「気分はどうだ」
「はい……大丈夫です」
ひたいのタオルを手に取ったスマルトの表情はいつもと変わらないが、シアンを案じているのはよくわかった。
「お前は昔から無理をするな。自分が無理をしている自覚がないのが厄介だ」
「すみません……。体調管理も仕事のうち……ですよね」
「難しい言葉を知っているな」
スマルトがシアンのひたいにタオルを戻す。ひんやりとした感触が心地良かった。
「無理をするのは頂けないが、だからと言って責める理由はない。お前がそれだけ頑張っているということだ」
認められたくても認められなかったあの日の誰かが泣いている。胸の奥の冷たいものが溶かされるようだった。
「僕は、お役に立てているでしょうか……」
「充分すぎるくらいだ。少しくらい休んだって文句を言う者はいない。何も気にせずよく休め」
「はい……」
あの日、涙は枯れ果てたと思っていた。もう流しても意味はなかった。水分が勿体無い。そんな想いも、もう手放していいようだ。
* * *
暗い檻の中に閉じ込められていた。足には枷がかけられて、簡単に抜け出すことは許されていないようだ。
柵に手を触れると、凍てつくような冷たさだった。何秒も触っていられない。
『きみが何を言っているのかよくわからないよ』
『なんでそんなことを言うの?』
『頭がおかしいんじゃないかな』
『きみが何を考えているかよくわからないな』
『なんでこんなに話が通じないの?』
影のオーケストラが周りでけたたましく演奏している。鼓膜が破れてしまいそうだと手で覆っても、音は徐々に詰め寄ってきた。頭がおかしくなってしまいそうだ。
『言うことを聞け』
『口答えするな!』
『黙ってなさい』
『うるさい!』
『静かにしてなさい』
指揮棒に合わせて演奏が止まった。顔を上げると、芝居がかった素振りで歩み寄ってきた指揮者が、指揮棒を差し出す。それはまばたきと同時に、花束へと変貌を遂げた。
手に触れた花束は、冷え切った体を急速に温める。指揮者は微笑んで消えていく。溢れる涙はそのままに、子どものように声を上げて泣いた。すべてを吐き出すように。あの日の自分を慰めるように。
* * *
甘い香りが鼻腔をくすぐる。目を開くと、刺繍をするネイビーが見えた。ウィローは足元で眠ったままのようだ。
「あら、起きたわね」
ネイビーは優しく微笑み、シアンに起き上がるように促した。水分も取らずに寝ていたため、喉がからからだ。
「気分はどう?」
「はい……大丈夫です」
シアンがゆっくりと水を飲んでいるあいだ、ネイビーはシアンの頭や頬を優しく撫でる。その手はとても温かかった。
「ブルーがお見舞いしたいって騒いでたわ。あの子は賑やかすぎるから、今日は会えないわね」
「そうですか……」
グラス一杯の水を飲み下すと、ようやく喉が潤った気がした。またベッドに横になるシアンのひたいに、ネイビーが冷やしたタオルを乗せる。
「何か良い香りがします」
「カモミールのアロマを焚いているの。シアンはずっと頑張っているし、たまにはのんびりお休みしないとね」
優しく甘い香りが、心を穏やかにしてくれるような気がする。ウィローも熟睡しているところを見ると、この香りでリラックスしているようだ。
「そういえば、カージナルが心配していたわ。いつも通り賑やかだったから静かにしてって言ったんだけど、あの人は静かにできないみたいね」
「ふふ……カージナルさんらしいですね。父様と母様はどうなさっていますか?」
「父様は、仕事を休んでシアンのそばにいる! って駄々を捏ねていたけど、オペラモーヴ卿が引きずって行ったわ。母様は執務室にいるけど、手が空いたときに覗きに来ているわよ」
「そうですか……」
自分が体調を崩していても、家族がいつも通りに過ごしていると安心する。父はいつも通りでない過ごし方をしようとしたようだが、補佐であるカージナルの父は冷静なようだ。
「熱もだいぶ引いてきたみたいね。明日までのんびり寝ていれば、きっと朝には元気いっぱいよ」
「はい。今日はよく休むことにします」
「ええ。おやすみ、シアン。良い夢を」
* * *
ようやく目を通し終えた書類を乱雑に机に置き、ゼニス・サルビアは重い溜め息を落とした。時刻は午後十七時。早く屋敷に帰りたいものだ。
「なあ、オクサイド。どう思う?」
ソファで書類整理をする補佐に話しかける。オクサイド・オペラモーヴ卿は、眼鏡の奥で細い目をさらに細めた。
「この製品、経費をもっと削れるはずだ。材料費か輸送費を抑えれば、人件費を削らずに――」
「そっちじゃない。シアンのことだ。カージナルから聞いているだろう」
オクサイドは呆れたような視線を向けるが、ゼニスの頭の中はシアンのことで占めている。それでも仕事をこなしているのだから、褒めてほしいくらいだ。
「大袈裟に言えば人が変わったようだ、とカージナルは言っていたな。だが、シアンはまだ子どもだ。まるで別人のように振る舞うことがあってもおかしくはないだろ」
そう話しながらも、オクサイドの手は書類の上を滑る。頭と口と手が別々の生き物なのだ。
「チリアン・オーキッドと他数名の件が尾を引いているのかもしれないな」
「オーキッド家はなんて?」
「事実確認中、だそうだ」
「そうか……」
シアンが二日間の眠りを経た月曜日の朝。いつも辛そうで苦しそうな様子で遠慮がちに微笑んでいたシアンが、まるで頭の中の霧が晴れたかのように笑っていた。どちらにしても可愛いことに変わりはないので特に異論はない。
「私たちに心配をかけさせまいと無理をしているのではないだろうか……」
「シアンの性格上、それもあり得るだろうな。現に熱を出している」
屋敷でしっかり寝ているだろうか、と思うと気が気でない。シアンのことだから無理して仕事をしようとするのではないだろうか。上の三人がそれを許すわけはないだろうが。
「カージナルが、時々別人のような魔力を感じると言っていた。だが、能力値測定では特に異変はなかったんだろう?」
「そうだな。魔法学校でまともに授業を受けられていなかったことは明確だ」
「だが……シアンは何かを隠している」
ゼニスは重々しく頷く。シアンはこれまで、隠しているというより黙っている、もしくは黙らされている、という印象だった。だが、いまは隠し事をしているのが明確だ。シアンが自分の思っていることを話さないのは、もはや「いつものこと」になりつつある。それでも話してほしいと思うのは変わりないが。
「それと同時に、何かを悩んでいる。目を覚ましたあの日からそうだ。父親として情けない限りだ」
「放っておくしかないんじゃないか? 気が済めば話すか忘れるかするだろう」
「そうだな……」
「子どもはいずれ、親の手を離れる。父親だからなんでも話してくれると思っているなら奢りだ」
「それはわかっている。嫌と言うほどな」
「わかったらこっちの書類を片付けてくれ」
抜け目ない補佐に苦笑する。この父親からあの息子が生まれたと思うと不思議でならないが、母親に似たということだろう。オペラモーヴ夫人には不本意かもしれないが。
今日はまだ起きているシアンに会っていない。朝は苦しそうに眠っていた。その苦しみから解放してやれるならどんなことでもするが、シアンはどうしてほしいかを言わない。シアンは賢すぎる。だからこそ黙ってしまうのだ。シアンの本当の気持ちをこの耳で聞ける日が来ることを願うばかりだ。
* * *
ふと目を覚ますと、鼻がむずむずした。体を起こすと、あの小汚い部屋の小さな埃っぽいベッドの上だった。
戻って来たのだと思うと同時に、どこか安堵している自分もいる。その感情も、すでに意味はないだろう。
「うーむ……随分と都合の良い夢を見ていたようじゃ」
それにしても、まだ生きているとは。このまま九十九のじじいになるのだろうか。それとも、妖と成り果てるのだろうか。
『夢じゃないよ』
鈴を転がるような声に顔を上げる。紅玉のような美しい瞳が、賢者の年老いた目を覗き込んだ。
シアン・サルビア――賢者の新しい人生だ。
『今日はいっぱい嫌な夢を見たけど、僕は夢じゃないよ』
シアンの小さな手が、しわくちゃな手に触れる。その手は温かかった。
『一緒に帰ろう。みんなが待ってるよ。ウィローを撫でてあげなくちゃ』
「うむ、うむ。そうじゃな」
頷いた瞬間、あの小汚い部屋が砂のように崩れて消える。また夢を見ていたようだ。
シアンが手を引く先に、仄かな光が見えてきた。
『行こ。おじいさんがいてくれたら、なんでもできるって気がするんだ』
「うむ、うむ。そうじゃな。ともに素晴らしい余生を過ごそう」
それはこの先、何十年と続く約束となるだろう。それはこれまでの人生より短く、だが眩く光り輝く時間となるはずだ。この小さな手に引かれていれば、きっと、素晴らしい人生となるだろう。それは、あの日の誰かの涙を拭うはずだ。




