第18話 ブルーの庭園
何かが顔のそばでもぞもぞと動く感覚でシアンは目を覚ました。開いた視界いっぱいにもふもふとした緑がかった毛が広がっている。ウィローと名付けたグリーンウォンバットだ。シアンの目覚めに気付いて、ウィローはシアンの顔に鼻先を寄せる。
「おはよう、ウィロー」
犬のように顔中を舐められるようなことがなくてよかった、と思いつつベッドに体を起こす。ウィローは甘えるようにシアンに擦り寄った。
(うーむ、実にかわゆいのう……。魔獣に懐かれるとは思っておらんかったが、得した気分じゃ)
思う存分にウィローを撫でているうちに、マゼンタがシアンの寝室に来る。シアンがウィローの毛並みに夢中になっていたことに気付くと、マゼンタはくすりと笑った。
「ウィローは毛抜けが少なくてよかったですね」
「そうだね。猫だったらもう毛だらけだ」
ウィローは寝る前に毛並みを整えてやったが、毛はあまり抜けなかった。毛抜けが少ないのは、室内飼いの動物としては良いことだ。掃除の手間を増やさずに済むという利点がある。その点でウィローは優秀な個体と言ってもいいかもしれない。
マゼンタの手を借りて身支度を整えると、シアンはウィローを連れて廊下から中庭に出る。テラスのそば、日当たりの良い位置を手で示した。
「ウィロー、ここに来て」
シアンの言葉をしっかり理解して、ウィローは指定の位置に移動する。シアンはマゼンタに手渡されたプレートを受け取り、ウィローの前に置いた。ウィロー専用の餌を入れる食器だ。
「ウィロー、僕が来るまでここにいてね」
すでに食事に夢中で聞いているかわからないが、シアンはウィローの頭を撫でて廊下に戻る。シアンがダイニングで食事を終えるまで中庭で待っていてくれるといいのだが。
シアンがダイニングに入るのが最後から二番目だったため、母と四人の視線が一気に集まって少々気恥ずかしい。最後に入って来たのは父ゼニスだった。シアンとゼニスが席に着くと、淀みなく朝食が始まった。
「ウィローは行儀が良いみたいだな」ゼニスが言う。「中庭でおとなしくしていたよ」
「そうですね」シアンは頷いた。「もともと人に飼われていたというようなこともあるのでしょうか」
「その可能性もゼロではないな。魔獣を捨てるには冒険者の迷宮は都合が良いからな」
魔獣をペットとして飼育するのはどの世界でもよくあることだが、危険性の少ない初級迷宮となれば簡単に捨てることができる。ウィローが人間の言葉を理解しているところは、もともと人に飼われていたと思わせるには充分だ。
「シアンはそんな無責任な人間になるんじゃないぞ」
「はい、もちろんです」
捨てられたのだとすれば何かしらの欠点があるのだろうが、ウィローの可愛さはそれすら帳消しにするのではないかと賢者は思っている。付き合いが長くなるに連れてそれが目立って来ることもあるかもしれないが、それも愛嬌のうちだろう。
* * *
相変わらずのパワフルハグのあと、仕事に向かうゼニスを見送ると、シアンとブルー、スマルトは中庭に出た。今日の午前はいつもとは違う変則的授業だ。
中庭にシアンが出るともちろんウィローが寄って来る。ウィローはシアン以外の六人ともすぐに馴染んで、ブルーが毛並みを堪能しても嫌がるようなことはない。使用人たちも特に怖がっていないようだ。
「いや〜ん! なになにぃ〜!?」
大袈裟に驚く声とともに、今日の講師のカージナルが駆け寄って来る。その視線はウィローに注がれていた。
「グリーンウォンバットちゃんじゃないの〜! と〜ってもキューティクルだわ〜!」
(とってもきゅーてぃくる……)
カージナルはうっとりしつつも、慎重にウィローに近付いた。ウィローは興味深そうにカージナルを見遣り、逃げるようなことはない。警戒や怯えがないことを認めると、カージナルは優しくウィローの頭を撫でた。
「とっても滑らかねぇ〜。永久に撫でていられるわぁ〜。どうしたの、この子?」
「冒険者の迷宮で懐かれたので連れ帰ったんです」
「魔獣に懐かれるなんて、さすがシアンちゃんね。と言っても、この子はもともと人懐っこいみたい。たぶんペット用でしょうね」
(やはり捨て子ということじゃな……。可哀想に)
ウィローの表情はいまは読み取ることはできないが、心境は落ち着いているように感じられる。これだけの人間に囲まれても怯えないということは、もともと人間の輪の中で生きていたということだ。人間が自分に何をしたのか知っているのだとすれば、シアンは一生をかけて可愛がってやろうと思った。
ひとしきりウィローを撫でて満足した様子のカージナルは、さあ、と気分を切り替えるように手を叩く。
「今日の特別授業を始めましょ」
カージナルがウィローに夢中になっているあいだに、アガットがいくつかの苗を運び入れていた。今日はブルーの庭園を作るのが授業だ。すでに庭師たちによって庭園の端に専用の花壇を作ってある。
「今回はアタシが花を選ばせてもらったわ。初心者のうちから難しい花を選んだらつまらなくなるもの」
ブルーはとても楽しみにしていたようで、カージナルが広げた五つの苗を興味深そうに覗き込む。その瞳はキラキラと輝いていた。
「サルビア家の象徴の青とベルディグリ家の象徴の緑を中心に選んだわ。気に入ってくれるといいんだけど」
「どれがなんの花?」
「ええ。まずはこの家の象徴の花である『サルビア』ね。それからヒヤシンス、セージ、チコリと、虫除けのためのミントね」
「どこにどれを植えるの?」
「それはブルーちゃんの自由よ。好きなように並べてちょうだい」
ブルーの表情がパッと明るくなる。毎日きちんと水やりをできるかというところは依然として不安のようだが、自分の花壇を持つということは嬉しいようだ。さっそく自分の花壇に苗を並べて配色を選び始めた。
「ミントを持って来たのはちょうどよかったわね。ウィローちゃんが食べちゃうのを防げるはずよ」
「花も食べてしまうんですね」
「グリーンウォンバットは草花が好きだから、なんでも食べちゃうわよ。中庭にひとりで放しておくのはお勧めしないわ」
「わかりました」
ウィローは興味を惹かれて苗に近付いたが、カージナルの言う通りミントの匂いに気付くとシアンの足元に戻って来た。シアンもミントの香りが苦手なため、ウィローが顔を歪めている気持ちはわかる。
「ミントとセージとチコリは薬に使うこともあるわ。レシピをあげるから覚えておくといいわよ」
「わかったわ」
ブルーは配置を決めることに夢中だが、適当に返事をしているわけではない。しっかりと内容を理解しているようだ。
「この庭園にある花やハーブも、どれも薬に使うこともあるし、お茶にすることもあるわ。簡単な製薬技術を身につけると、将来なにかに役立つかもしれないわ」
「僕にもできますか?」
「もちろん。簡単なものなら誰でも身につくわよ〜」
製薬はこれまでも携わったことがあり、賢者はそれが面白いと感じていた。今回もそれを学べるなら楽しみだ。
ブルーはしばらく、サルビアをどこに配置するかで悩んでいた。一番前にするか、真ん中にするか、と頭を捻る。こればかりはシアンが口を挟むわけにはいかない。ブルーが自分で決めなければ意味がないのだ。
ややあって、ブルーはサルビアを中心に配置することを決めた。他の物はサルビアを囲うように配置する。
「それじゃ、実際に植えてみましょ。やり方は簡単よ〜」
カージナルの手解きで苗を植えていくブルーの手際はとても良かった。苗を手に取った際にスカートに土がついたが、いまのブルーには気にならないらしい。花壇を作り終えたあとはいつも通りの授業が待っているが、着替えてしまえば済むことだ。
「できたー!」
カージナルの許可が下りると、ブルーは諸手を挙げて喜んだ。少々バランスの悪さは否めないが、初めての庭園にしては上々だろう。
「シアン、どう?」
誇らしげに言うブルーに、シアンは優しく微笑んだ。
「良い出来だと思うよ。頑張ったね」
「うん!」
ブルーの晴れやかな表情を見ると、カージナルは満足げに頷いた。それから、ひとつ手を叩く。
「毎日しっかり、自分で水やりをするのよ。定期的に様子を見に来るから、手抜きをしていたらすぐバレると思いなさ〜い?」
「はーい!」
「庭師の手は入らないから、この花壇が美しくなるかどうかはブルーちゃん次第よ。手入れの施されない花壇の花は枯れるばかり。放っておいても育つだなんてことはないからね」
「わかった! 庭師にも負けない花壇にしてみせるわ!」
「素晴らしい意気込みね。楽しみにしているわ」
(うむうむ、素晴らしい教育じゃ)
花の育成は一般的に貴族の令嬢にとって縁遠い趣味ではあるが、教育のひとつとしては有意義なことだろう。何かを育てることは良い経験となる。ブルー向きの教育だ。
「ブルーの庭園ができたのね」
穏やかに微笑みながらセレストが中庭に出て来る。先ほどのブルーの歓声を聞きつけて来たようだ。
「母様! 見て! あたしの花壇よ!」
「ええ、素敵ね。上手に植えられているわ。これから綺麗に育つのが楽しみだわ」
セレストが優しくブルーの頭を撫でる。明るく笑うブルーの表情は、達成感に満ち溢れていた。何かと飽き性の彼女でも、これなら水やりを続けられることだろう。
* * *
午前の残りの時間は通常の授業となる。シアンの勉強部屋に向かうと、ウィローもおとなしくついて来た。シアンの椅子のそばに座るウィローに、カージナルが恍惚の表情で頬に手を当てる。
「おとなしくできてお利口さんだわ〜。グリーンウォンバットの中でも特に穏やかな子みたいね」
「あれだけいろんな個体がいますが、やっぱり個体ごとに特徴があるんですよね」
「もっちろ〜ん。そこは人間と同じよ〜。そうだわ、ちょうどいいから今日は魔獣の授業にしましょ!」
思い立ったが吉日、とばかりにカージナルは空間魔法「アイテムボックス」で二冊の本を取り出す。いつなんの授業を求められても対応できるように多くの教本を用意しているようだ。
「この国に生息している魔獣は約三十種類。そのほとんどが迷宮内に生息しているわ。人里に下りて来て被害が出るようなことはあまりないわね」
王宮の騎士団は、街の近くに魔獣が出現した際、即時に出撃できるよう警戒網を張り巡らせている。街の自警団が対応することもあるが、上位の魔獣となると自警団では手に負えない場合もある。だが、侯爵領の自警団に手に負えない魔獣が人里近くに出現することはないだろう。
カージナルはシアンの前に教本を広げる。下位魔獣の絵が載ったページだ。
「ポケットラットやグリーンウォンバットなんかの下位魔獣は平原にも生息しているけど、人に襲いかかるような獰猛さはないわ。数が多くなると噛み付かれたりして危険だけどね」
「噛む力はどれくらいですか?」
「シアンちゃんの指だったら簡単に噛み千切れるわね!」
あまりににこやかに爽やかに微笑んでカージナルが言うので、シアンは思わず引いてしまった。何も考えていなかったが、冒険者の迷宮でもシアンが指を失う可能性はあったということだ。
「平原に生息する魔獣で最も危険なのがレッドバイソンね。獰猛で攻撃力も高く、好戦的よ。アズールとスマルトならふたりで倒せるけど、そうでなければ四、五人がかりになるわね」
レッドバイソンの獰猛さとアズールとスマルトの戦闘能力の比較する辺り、カージナルはシアンの基準をよくわかっているようだ。シアンにはよくわかる例えだった。
「ただ、角が優秀な素材なの。レッドバイソンの角を使って魔道具を作れば、より高い効果を望めるようになるわ。魔法が有効な魔獣だから、アズールとスマルトにシアンちゃんが加われば、きっと討伐はあっという間に終わるでしょうね」
「僕の使える魔法でも倒せるんですね」
「ええ。優れた貴族の家にはランクの高い魔獣の討伐依頼が来ることもあるから、魔獣のことを覚えておくといいわ」
「はい」
ウィローがあくびをする声が聞こえるので、ふふ、とカージナルは微笑んだ。人間の言葉を理解する能力があるようで、彼らの話を聞いているのが退屈だったと思わせるあくびだった。
「グリーンウォンバットは見ての通り、のんびり屋さんよ。騒ぐこともないから、ペット向きの魔獣ね」
一般家庭向きのペットではないが、変わったものを好む貴族が趣味の一環で飼育することはあり得るだろう。そうして飼いきれなかった身勝手な飼い主にウィローは捨てられたのだ。
「迷宮内にいた子はその限りではないけど、日光を好む子もいるわ。たまに日向ぼっこさせてあげるといいわよ」
先ほど中庭でシアンを待っていたとき、ウィローは日を浴びて気持ち良さそうにしていた。日光を好む個体のようだ。
「雑食だからなんでも喜んで食べるはずよ。戦闘能力はほとんどないから、無力だと思っておいても問題ないわ」
「それなら、屋敷の敷地内から出さないほうがよさそうですね」
「そうね。散歩も特に必要ないし、敷地内だったら放し飼いでいいはずよ〜」
「はい。カージナルさんは魔獣の飼い方にもお詳しいんですね」
「実際に飼った経験はないけどね〜。シアンちゃんが討伐依頼を受けることは滅多にないだろうけど、飼い方まではいかずとも、魔獣については領地経営にも必要な知識になるわ。どこに何が生息しているか把握しておけば、お父様の補佐になったときに役立つはずよ」
「はい」
迷宮は各地に存在している。領地経営にはその把握も必要になるだろう。将来的に父の補佐となるなら、この国に生息する約三十種類の魔獣も頭に入れなければならない。シアンにとって、ウィローがそばに来たことは、魔獣を知るための第一歩として僥倖だ。こうしてまた、父の役に立つための知識が増えていくのだろう。




