第118話 ブラウン・フレイの自決
冒険者ギルドで待ち合わせているはずの人物が来ないことで、グレイは痺れを切らせていた。町の外れにある一軒の家に辿り着くと、どんどん、と乱暴にドアをノックする。家主はきっとまだ寝ている。溜め息を落としつつ、グレイは合鍵でドアを開けた。目的の人物の姿は、やはりベッドの中にあった。
「起きろ、ブラウン! いつまで寝てる気だ!」
乱暴に体を揺さぶると、唸り声が返って来る。相変わらず寝覚めが悪い。グレイが無理やり肩を引いて体を起こさせるので、ブラウン・フレイは不満げな表情になった。
「眠いんだけど」
「今日は依頼を受けてるんだぞ」
「急ぎの依頼じゃないじゃないか……」
「それはそうだが、もう十四時だ! 夜型生活も大概にしろ!」
ブラウンはぼんやりした表情であくびをする。机の上には紙が散乱している。また夜通し論文を書いていたのだろう。
「それくらい好きにさせてよ」
「好きにさせていたら丸一日、起きて来ないだろ。いいからさっさと支度しろ」
「はいはい……」
ウィーンヴァル大魔法学院の研究室を出て冒険者ギルドに登録し、依頼を受けて暮らすようになってから、ブラウンの生活はどんどん自堕落になっていった。研究室にいた頃より自由な研究ができるようになり、さらに没頭するようになったのだ。グレイにそれを咎めるつもりはないが、研究では生活ができない。グレイは、ブラウンには生活力が必要だと思っていた。グレイだけでも依頼を受けるのは可能だが、その金で養われることをブラウンはよしとしない。であれば、とグレイは何度も言っている。それでも、ブラウン・フレイの研究心は留まるところを知らなかった。
依頼の受付をするのも、達成報告をするのも、報酬の受け取りをするのもグレイの役目だ。ブラウンがそれを担うと、不当な扱いを受けることがあるかもしれない。ウィーンヴァル校の頃にグレイが目にしたブラウンへの仕打ちがそう思わせた。
眠気眼であっても、ブラウンはきっちり依頼をこなす。ブラウンの能力は、グレイが思っていたよりはるかに高かった。
「ねえ、グレイ」
顔馴染みになった受付職員の女性が声を潜めるので、グレイは嫌な予感がしつつ頷く。
「グレイは優秀な冒険者なのに、どうしてあんな人と組んでるの?」
その指先は、離れたところで待機しているブラウンを差していた。グレイとブラウンは冒険者ギルドにおいてそれなりの評価を受けているが、ブラウンはなぜか、どこの冒険者ギルドに滞在しても同じような評価をされている。
「優秀なのはあっちのほうだ。依頼をこなしているのはほとんどあいつだよ」
「ふうん……。でも、なんだか嫌な感じがするわ。他に組む人を探したほうがいいんじゃないの?」
「大きなお世話だ。自分が誰とつるむかは自分で決めるものだろ」
「まあ、そうだけど……」
どこへ行っても、ブラウンは悪い評価を集めた。ブラウンに達成報告をさせれば印象が変わるのかもしれないと考えたこともあったが、ウィーンヴァル校で講師に目の前で論文を破り捨てられたことがグレイの頭の中に残り続けている。同じことが起きる可能性があると考えると、ブラウンは離れた場所に待機させておくことが正解のように感じられた。
そうしていると、シグルズ教授の言葉を思い出す。
『フレイくんの魂は、呪いを溜め込みすぎた』
それがなんなのか、どう解けばいいのか、グレイはいまだにわからない。ブラウン自身が気付いているのか、それすら確かめる勇気はなかった。
* * *
『愛してるわ、――』
優しい声に目を開く。体を起こしてみると、青い花畑が風に揺れていた。
『愛してるわ、――。あなたが何者でも、何者でなくても』
すぐ間近で聞こえるような声は美しい。だが、なぜか嫌悪感があった。
そう思った瞬間、煌めいていた青い花畑が毒に冒されたように朽ち始めた。花々は枯れ、息苦しい空気が辺りを支配する。
『許さない』
美しかった声が恨めしく、耳障りな不協和音に変化した。
『あなたは愛に触れることなく、死ぬまで苦しんで生きるのよ』
まるで呪いのように、その声は耳の奥で重く響く。
『いいえ、死んで逃げるなんて許さない。あなたの魂は終生、私のもの。ずっと一緒にいましょ?』
* * *
汗が垂れる感覚で目を覚ます。止まっていた呼吸をようやく取り戻したように肺が苦しい。重い体を起き上がらせると、窓の外は夜明けの光景だった。
(なんだ、いまの夢……)
まるで檻の中に閉じ込められるような感覚だった。何か、嫌な予感がする。
(今日は早めにブラウンを起こしに行くか)
自然とそう思っていた。夢とブラウンが関連しているのか、そんなことが確定したはずではないのに。
* * *
朝食を手早く済ませると、冒険者ギルドに行く用意をしてブラウンの家に向かった。おそらく、まだ寝ていることだろう。こんなに早く起こされることで不平不満を漏らすに違いない。それでも、グレイは気が逸っていた。
家のドアを乱暴にノックすると、やはり返事はない。合鍵でドアを開け、ブラウンがいつも寝ているベッドに歩み寄る。しかし、そこにブラウンの姿はなかった。
(こんな早くに調査に出たのか……?)
そう考えてみたところで、そんなはずはない、と即座に否定する。あのブラウンが、こんな早い時間に起き出して調査に向かうはずがない。早朝に限定した調査対象があればその可能性もあるだろうが、ブラウンにそこまでの熱意があるとは思えない。
グレイはブラウンの魔力を探った。ブラウンは信じられないほど魔力値が高い。その痕跡を探るのは容易なことだった。
ブラウンの魔力の痕跡は森へ続いている。突然に熱意が湧いたことを願いつつ痕跡を追うと、低く卑しい笑い声が聞こえてきた。声のするほうを覗き込んだグレイは息を呑む。ブラウンが血を流して倒れていた。そのそばに、素行の悪さで冒険者ギルド内でも目立つ二人組の姿がある。ブラウンにその悪意が及んだのだ。
「ブラウン!」
グレイの声に気付いた二人組は振り向くが、ブラウンは意識がないのか反応しない。男たちは悪意の含まれた笑みでグレイを振り向く。
「おう、グレイ。お前、こんな貧弱なやつを組んでたのか?」
グレイとブラウンの実績は、ほとんどブラウンの能力によるものだ。だというのに、それがすべてグレイのものだと思われている。ブラウンの高い能力値を認めているのはグレイだけだった。
「お前みたいな優秀な冒険者がこんなやつと組んでるなんてもったいないじゃねえか」
「俺たちと組めよ。そうすりゃ、冒険者ギルドでも高ランクに上がれるぜ」
「待て、ブラウン!」
「あ?」
咄嗟に声を上げたグレイに、男たちは顔をしかめる。背後を振り向いた瞬間、男たちが苦悶の表情になり、その体が宙に浮いた。ゆらりと立ち上がったブラウンが、魔法で男たちを拘束したのだ。その表情は驚くほど冷たい。
ブラウンは自分に対する攻撃には頓着しない代わり、事グレイのこととなると冷徹さを発揮するのだ。
腕を掴んだグレイに一瞥をやると、ブラウンは手を下げる。それに合わせ、男たちの体は地面にたたきつけられた。
「優秀な冒険者になるには、能力値を最大まで引き出す必要がある」
冷たい声で言い、ブラウンは男たちのひたいに手を当てる。その瞬間、男たちが低い唸り声を上げて苦しみ始めた。ブラウンの魔法で、男たちの能力値が最大まで振り切った。ふたりの体はそれに耐えきれないのだ。
「残念だ」ブラウンは息をつく。「自分たちの能力値すら把握できていない者に弟子はやれないよ」
ブラウンは魔法を解き、男たちに背を向ける。そのあとに続くと、グレイは重い溜め息を落とした。
「やりすぎだ。あいつらの能力値が低いなんてわかりきってただろ」
「自分たちはわかっていないようだったからね」ブラウンはすっと目を細める。「本当の恐怖を知る者は驕ったりしない」
グレイはまた溜め息をつく。ブラウンは向上心のない者に厳しいところがあった。
「まあ、とにかく傷の手当てをしよう」
「もう治っているよ」
ブラウンのローブは血が染み込んでいるが、平然と歩いているところを見ると、確かに傷はすでに癒えているらしい。ブラウンの能力は、傷を負った瞬間に自分への回復魔法が発動するのだとか。
「すぐ治るからって簡単に傷を負われては困る。今回だって、初めから抵抗しておけばよかったんだ」
「面倒だったからね。まあ、きみが来なくても同じ結果になっていたよ」
その何も感じていないような表情に、グレイはまた溜め息を落とす。ブラウンはあまりに面倒臭がりだ。
肩に染み付いた血が、夜明け前に見た夢を思い出させる。
『あなたは愛に触れることなく、死ぬまで苦しんで生きるのよ』
『死んで逃げるなんて許さない』
あの夢の正体はわからない。だが、何かブラウンに関係しているような気がした。
* * *
依頼のない日は、ブラウンは一歩も外に出て来ない。食事すらまともに取らないようで、グレイは依頼のない日でもブラウンの家を訪れた。
「今度、この街で学会が開かれるらしいぞ。行ってみたらどうだ?」
「嫌だ」
振り向きもせずにブラウンが言うので、グレイは首を傾げる。
「なんで。研究は続けてるんだろ?」
「ウィーンヴァル校にいた頃、僕の論文はどこに届いてた?」
そう言われると、グレイには何も言えなくなる。ブラウン・フレイ博士の論文は、一度たりとも研究室長のもとに届くことはなかった。シグルズ教授が受け入れてくれたことが唯一の救いだろう。
言葉を失うグレイに、ブラウンは薄く微笑む。
「きみは僕の友人にしては珍しい性質だ」
「お節介焼きだと言いたいのか?」
「どうだろうね」
ブラウンはグレイを「友人」と言うが、心が開いているようにはグレイには感じられない。ブラウンが他人に気を許すことはない。そう思わせるには充分な表情だった。
* * *
『愛してるわ、――』
まただ、とグレイは心の中で呟く。風に揺れる青い花畑。美しい声が降り注ぐ。
『愛してるわ、――。あなたが何者でも、何者でなくても』
花は枯れる。まるでのさばる呪いのように。
『許さない』
それは、誰に向けた言葉なのか。
『あなたは愛に触れることなく、死ぬまで苦しんで生きるのよ』
何に対する怨嗟なのか。
『いいえ、死んで逃げるなんて許さない』
何を縛る呪いなのか。
『あなたの魂は終生、私のもの。ずっと一緒にいましょ?』
* * *
目を覚ますと、まだ月が高かった。だが、やはり嫌な予感に駆られたグレイはベッドを抜け出す。夢の呪いが誰に向けたものなのか、なんとなく心当たりがあった。
さっと装備を整え、グレイは家を出た。この夢がグレイに現れた日、必ずブラウンに何かが起こる。
ブラウンの家に向かっている最中、グレイは人の気配に足を止めた。咄嗟に木の陰に身を潜めると、粗暴な声が聞こえて来る。先日、ブラウンが打ちのめした悪漢たちだった。
「どこ行きやがった」
「この時間だ。遠くには行ってねえだろ」
「いけ好かねえ野郎だ」
男たちはぶつくさと文句を言いながら、ブラウンの家と反対側に歩いて行く。グレイには気付かなかったようだ。グレイは足音を潜め、ブラウンの家に向かった。
入り口のドアは破壊され、室内も激しく荒らされている。暴れるだけ暴れ、ブラウンが見つからなかったことで引き返して行ったようだ。
「ブラウン!」
「ここだよ」
穏やかな声が頭上から聞こえる。庭に出て空を見上げると、ブラウンは一番高い木の枝に腰掛けていた。身を隠すには典型的な方法だが、粗暴な男たちは見逃したらしい。ブラウンは気配を消していたのだろう。
ブラウンは躊躇いなく宙に身を投げる。グレイが駆け寄るのも間に合わずに着地したが、あの高さから降りたというのに、ブラウンは傷ひとつ負っていない。
「危ないだろ! さすがに!」
「大丈夫。僕は死なないんだよ」
「は……?」
戸惑うグレイに、ブラウンが手を差し出す。そっと触れた途端、グレイの頭の中に膨大な数値が浮かぶ。ブラウンの能力値だ。そのどれもが圧倒的な数値で、魔法もスキルも数えきれないほど備わっている。その中で、グレイはふたつのスキルに意識が向いた。
(無限再生……。……自決無効……)
グレイの顔色が変わっても、ブラウンはいつものように無感情な表情をしている。
「僕は何度も転生を繰り返している」
「転生……」
聞いたことはある。転生とは、魂の再構築。死んで肉体を脱した魂が再び別の体に宿ることで、能力値を格段に上げるらしい。ブラウンの能力値は、納得できるほど高い数値をたたき出していた。
「いままでの人生は、せいぜい二十年も生きれば良いほうだった。だから、こんなに長く生きたことがない」
グレイの脳裏に、あの夢が過った。
『あなたは愛に触れることなく、死ぬまで苦しんで生きるのよ』
呪いを振りまく枯れた花弁がどこに行き着くのか。
「僕は死ねないんだ」
「……確かに能力値は高いが、死ねないなんてことは……」
「世界王国から『賢者』の称号を賜った」
ブラウンの声が冷たく響く。本来なら、諸手を挙げて喜ぶべき事象だ。
「能力値が上がりすぎた。もう簡単に死ぬことはできない」
冒険者としての有能さより、ブラウンの絶望ははるかに深い。
(……自決……無効……)
『死んで逃げるなんて許さない』
いままで目に見えていたものは、ほんの欠片でしかなかった。
「お願いだ、グレイ」
これが、グレイ・フォッグズの見た――
「僕を殺してくれ」
ブラウン・フレイの、最初で最後の涙だった。




