第110話 ローズマダー宰相/訪問編
土曜の午後から日曜にかけて、王立魔道学院は休みになる。父ゼニスは休みにならないようだが、兄姉は昼頃に帰って来るはずだ。日曜はまた全員でリビングに集まってのんびり過ごすことだろう。
穏やかな朝食の席、ゼニスが口を開いた。
「今日の午後、グラナート・ローズマダー卿がこの屋敷に来る」
「お爺様が?」
ネイビーが首を傾げた。グラナート・ローズマダーは王宮の宰相で、兄姉の亡き母ガーネットの父親だ。兄姉にとっては祖父に当たる。
「やっと休みが取れたからシアンとブルーに会いたいそうだ」
シアンはブルーと顔を見合わせる。シアンとブルーはゼニスの後妻であるセレストの子で、ローズマダー卿とは血の繋がりはない。父方の祖父母であるナイル・サルビアとヴェニー・サルビアはたびたび顔を見に来るが、ローズマダー卿が会いたいと望んでいることはシアンもブルーも知らなかった。
「アマラントを連れて来るかもしれない」と、ゼニス。「シアンの婚約者候補としてな」
その名はミントとエスメラルダと話しているときに聞いた。ガーネットの従弟に当たるヴォルガン・ローズマダーの三番目の子どもだ。ローズマダー卿にとっては甥の娘に当たり、兄姉にとってははとこに当たる。ミントとエスメラルダも、シアンの婚姻相手として最適ではないかと話していた。
「もちろん、シアンが気乗りしないなら話は受けないがな」
「お会いできるのは嬉しいです。楽しみにしています」
賢者は王宮の宰相のような地位の高い者にも何度も会っているが、彼らはとても博識で、賢者にとっても面白い話をしてくれた。そう考えると、シアンはやはり楽しみだった。
「それにしても」ネイビーが言う。「お爺様のほうから来るなんて、ほんとに久々だわ。いつぶりかしら」
「少なくとも」と、アズール。「シアンが産まれてからはこちらには一度も来ていないね」
「……僕のせいでしょうか……」
肩を落とすシアンに、まさか、とゼニスが明るく言う。
「ローズマダー卿はずっと会いたがっていたが、とにかく休みがなかったんだ」
「こちらからお会いしに伺ったことはあるのよ」セレストが微笑む。「小さい頃に一度、お会いしているわ」
「うーん……どうやら覚えていないようです」
シアンの記憶を探っても、ローズマダー卿にはひとつも心当たりがない。おそらく、物心のつく前だったのだろう。シアンのことだから、まともに顔を見ることができなかったため覚えていないという可能性もあるのだが。それでも、会ったという事実を忘れることはないだろう。シアンは本当に覚えていないのだ。
「昼過ぎに来ることになっている。仕事と学校が終わり次第、出迎えよう」
五人がそれぞれ頷くと、ゼニスは満足そうに微笑む。
(ガーネット母様のお父上ということは、ゼニス父様にとっては舅じゃが、まったく気負っておる様子はないのう)
『ガーネット母様のお父様が義理の息子にきつく当たるという想像もできませんし、きっと優しいお方なんですよ』
『どんな人なんだろう?』
(楽しみじゃな)
賢者は多くの人に出会い、多くの経験をして来た。良い出会いもあったが、そうでない出会いのほうが多かった。ゼニスとセレストが歓迎するのなら、きっと良い出会いとなるだろう。シアンはそう確信している。
* * *
「今日はローズマダーがサルビア邸に行くらしいな」
授業の合間の中休み、クロムが思い立ったように言った。シアンが頷くと、クロムは小さく笑う。
「シアンとブルーに会えると喜んでいたのを母上が羨ましがっていたよ」
「そうですか……。ローズマダー卿はどんなお方ですか?」
「厳格な人間だ。仕事人間とでも言うべきか……。自身にも周囲にも厳しいローズマダーがあれほど気を抜いているのは初めて見たな」
「それは……仕事には支障は出ないのですか?」
「気を抜いていても仕事を完璧にこなすくらいには有能な人間だ」
「それは素晴らしいです」
シアンにとって、自分に会うことで仕事に支障を来すことは望ましくない。自分に会いに来る喜びで気が抜けて仕事に影響するのであれば、会いに来ないでほしいとすら思うかもしれない。王宮の仕事はそれだけ重要であることをシアンは知っている。
「母上が叔母様からの手紙に同封されているシアンとブルーの写真をよく見せているよ」
「そんなに気に掛けていただいているとは知らなかったです」
「ローズマダーはお前の兄姉の祖父だ。お前とブルーも孫のようなものだろ」
ローズマダーはシアンと血の繋がりがない。そんな人が本当にシアンを受け入れているか、シアンはそれが気掛かりだった。だが、クロムの様子を見るに、それは杞憂で終わりそうだった。
「博識だから、面白い話をしてくれるんじゃないか。賢者殿と比べてどうかはわからないが」
「それは楽しみです。いろんな話を聞いてみたいですね」
「俺にもいろいろと話してくれる。きっと月曜には母上に自慢するだろうな。いまだに俺が毎日、会っていることを羨んでいるよ」
「光栄です。呼んでくださればいつでも伺いますよ」
「それを聞いたら喜ぶだろうな」
シアンの伯母に当たるシャルトルーズ王妃とも何度も会っている。そのたびに成長を喜ぶのだ。とは言え、そんなに高い頻度で会っているわけではない。きっと時間ができればまた誘いが来ることだろう。
* * *
シアンが帰宅してリビングに行くと、ブルーはすでに支度を終えているようだった。セレストも社交界のときのようなドレスを身に着けている。
「シアンは制服のままで構わないわ」セレストが言う。「制服姿を見たいそうよ」
「わかりました。ローズマダー卿はこの屋敷に来ることを王妃殿下に自慢されていたそうですよ」
「あら。きっと姉様は羨ましがったことでしょうね。次はいつ会えるかと手紙によく書かれているわ」
サルビア家と王家が懇意の仲だということは知れ渡っているが、シャルトルーズは王妃という立場があるため、親戚付き合いのような関係値ではいられない。クロムも王立魔道学院に通っていなければ、こんなに頻繁に会うことはなかっただろう。
そうしているうちに、父と兄姉も仕事から帰って来る。ジェードの姿もあった。ネイビーの婿として挨拶をするのだろう。ゼニスは普段、土曜日でも夕方まで仕事をしているが、ローズマダー卿の訪問にゼニスが出迎えないわけにはいかない。きっと仕事はきっちり終えて来たことだろう。
「もうすぐ到着するはずだ」
ゼニスがそう言うと、シアンにはブルーが緊張していることに気付いた。それは母も同じことだったようで、ブルーの肩に優しく触れる。
「そんなに緊張する必要はないわ」
「だって、宰相って偉い人でしょ? きっと厳しい人だわ」
「そんなことはないわ」と、ネイビー。「ナイルお爺様ほどではないけど、案外、柔和な人よ」
父方の祖父母は、父が祖母似であることがよくわかるほど、祖父は柔和で陽気な人だ。ブルーは辺境伯である祖父母と宰相であるローズマダー卿の立場の違いをよく理解している。そのため緊張してしまうのだろう。対して、シアンはあまり緊張していなかった。王妃に自慢するほどの人が、自分たちに厳しく接することはないと確信しているためだ。きっと賢者の勘は当たっていることだろう。
「ご到着なさいました」
アガットが呼びに来たので、七人はエントランスへと向かう。侍女に上着を預けるローズマダー卿は、確かに厳格さが顔付きによく表れている。しかし、浮かべる笑みは柔らかいものだ。
「久しぶりだな。みな、息災か」
「はい。よくお越しくださいました」
ゼニスと握手を交わしたローズマダー卿に、セレストが恭しく辞儀をする。
「お久しぶりですわ。ようこそお越しくださいました」
「ああ。お前たちも元気か」
アズールたちがそれぞれ頷くと、ローズマダー卿は満足そうに微笑む。それから、シアンとブルーの前で腰を屈めた。
「随分と大きくなったようだ。シアン、王立魔道学院での活躍はよく聞いている」
「ありがとうございます」
「ふむ……ガーネットと同じ瞳だ」
つくづくとシアンの瞳を覗き込むローズマダー卿に、シアンは微笑んで応える。ローズマダー卿は次に、ブルーの肩に優しく手を置いた。
「ネイビーに似ているな。きっとお転婆なお嬢さんだろう」
「否定はしないわ」
肩をすくめるネイビーにも、ブルーは緊張した面持ちで、いつものように「どういう意味よ」と反発する様子はなかった。ローズマダー卿はそれを咎めるようなことはなく、次にジェードに視線を向ける。
「ジェード、ネイビーをよく支えてくれているようだな」
「ありがとうございます。未熟者ではありますが」
「お前たちがどれほど事業に貢献できるか、期待しているよ」
兄姉とジェードが揃って頷くと、小さく笑ったブルーがシアンの耳元に口を寄せる。
「ジェードったら、緊張してるわ」
「そうだね。ネイビー姉様のお爺様だからね」
ひと通り挨拶を終えると、ローズマダー卿は自分の背後に視線を向けた。落ち着いた赤色のドレスを纏った少女が丁寧に辞儀をする。
「アマラントだ」と、ローズマダー卿。「私の甥の娘だよ」
「お初にお目にかかります。アマラントですわ」
シアンと同年代に見える少女は、すでに淑女のような穏やかな微笑みを浮かべていた。学生であるシアンや、その必要のないブルーと違い、すでに社交界に出ているのだろう。ウェーブのかかった金髪に映える瞳は黒に近い濃さの赤色だった。
「以前からシアンとブルーに会いたがっていたから連れて来た」
「お会いできて嬉しいですわ」
その微笑みは淑やかだが、ふたりに会えたことを心から喜んでいることがシアンにはよくわかる。アマラントはシアンたちのはとこに当たる。シアンとブルーの話もよく聞いているだろう。
「リビングにどうぞ」ゼニスが言う。「昼食を用意しています。どうぞ心安く過ごしてください」
「ああ、ありがとう。せっかくの休暇だ。のんびりさせてもらうよ」
ローズマダー卿は厳格さを感じさせる顔付きをしているが、その微笑みはとても穏やかだ。
ダイニングに向かいながら、ブルーがシアンに耳打ちした」
「ナイルお爺様とは対照的に落ち着いた人ね」
「そうだね。いろんなお話を聞けるといいね」
「ええ」
ナイルもよくいろいろな話をしてくれるが、立場が違うと見ているものも変わってくる。どんな話が聞けるか、シアンは心から楽しみにしていた。




