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ヴァーチャル・アイドルとデートしてみた


 いつのまにか夜は明けて、朝になっていた。


――異世界。


 新たにぶっこまれた非現実に、頭が警鐘を鳴らす。


 俺の夢に現れた異世界。

 ラジオから流れる異世界の音。


 この世界は、異世界に侵食されているのか?

 それとも、すべてメロスがついている嘘なのか?


 どういうわけか、俺は後者の可能性を切り捨てた。

 メロスは、嘘をついてはいない気がする。

 確証はないが、俺は彼女を信じたかった。


 であれば、俺は異世界に対してなにか行動を起こしうるのだろうか?

 俺はメロスに、異世界について様々な質問をする。


 名はシュオール。


 観測している人間は、おそらく他にもいるだろうと、彼女は告げた。

 しかし、それがどこの誰であるかをメロスは知らない。

 むきになって探すつもりもない、と彼女は告げた。


 メロスのモチベーションは、あくまで香奈美の意志を継いで再びヴァーチャル・アイドルとしてやっていくこと。

 異世界に対して、刺して興味は無いのだと語った。

 しかし、だとしたら――。



「なんで、『メレオロジー境界線』には、異世界の音楽を使ったんだ?」



 萩沼にミュージックビデオの作成を依頼したように、虎落に作曲を依頼すればよかったのに。

 虎落は萩沼ほど呑気ではないから苦労はしただろうが、最終的には請け負ってくれたはずだ。


 メロスは言い淀んだ。


「それは……わかりません。そうするのがいいように思えたんです」


「どうして?」


「その理由は、わからないんです。メロスも、メロスのことが、きちんとわかってない部分があります」


 少し困ったように眉尻を下げて告げる。


 自分で自分のことがわからない……まるで人間みたいだと、俺は思う。


 もはや突きつけられた選択は、信じる信じないの話ではなかった。


 伸るか反るか……この不思議な少女を拒絶して再び死んだ目で就職活動を開始するか、どこまでもいけるところまでいくか。


 秤にかけてみれば、迷うことはなかった。


 平和な日常を愛おしく思うほど、今の俺は満たされてはいない。

 窓を開け放って、一緒に飛ぼうといってくれる人間がくるのを、待っていたのだ。



――マイフラテッロ、バ美肉しないか?



 あの日、俺に声をかけてくれた、宗哉のような馬鹿を。


 それに気づいた途端、なんとなく、情けなくて泣きそうになった。

 口を開けて待ってるだけの魚か俺は。

 本当にこの二年間、一切人間的な成長をしなかったんだな。


 しかし、異世界だ。

 異世界の音楽を、ヴァーチャル・アイドルが拡散する。

 それを、香奈美の心を持ったメロスと一緒に。


 馬鹿さ加減では二年前の比ではない。


「メロス、ひとつ教えてくれ」


「メロスに答えられることであれば」


「この先になにがあるのか、メロスは知らないんだよな」


「――はい」


 彼女は、はっきりとうなずいた。


「ただ、メロスが目指す未来は、ミミズクくんと一緒にヴァーチャル・アイドルとして輝くことだけです」


 アイドルはいつまでも、過去をふり返っていてはいけない。今目の前にいるファンと、自身のことを念頭に、未来を目指してひたすらに前進するものだ。


 そういう意味で、風音メロスの覚悟はすでに決まっていた。

『メレオロジー境界線』をあんな形で公開したのだ。覚悟がなければできなかっただろう。


 俺も腹を決めた。


 俺たちの活動で、たとえば世界が滅びるとか、向こうの世界がどうにかなるとか、二つの世界がくっつくとか、俺たちが異世界に転生しちまうとか、そういう可能性を検討したところで意味はない。


 メロスをアイドルとして輝かせられるか、輝かせられないか、それだけがすべてなのだ。


 であれば、足踏みをする必要はない。


 俺が異世界転生してしまったら、そのときはそのときだ。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 メロス第二章を再開するにあたって俺たちが真っ先にやったのは、各方面への連絡だった。


 まず、萩沼と虎落には、秘密にして置くわけにはいかないだろうと判断し、近いうちに会う約束を取りつける。

 とてもではないが、口頭で信じてもらえる話ではないからだ。

 メロスは「お二人の携帯電話もミミズクくんのみたいに乗っ取ってしまえば信じてもらえないでしょうか?」と提案したが、クラッキングは俺の身の回りのものだけにするように厳命した。

「この社会にはな、不正アクセス禁止法っていうものがあるんだ」

「今のメロスは法が適用される存在なのでしょうか?」

「そういう法哲学の問題は俺たちがしても意味ないから考えないようにしよう」

 ただでさえ現状は、努めて思考停止をしなければならない事象が多いのだ。

 どんなメールのやり取りが交わされたかは、基本的に俺とメロスのやり取りをなぞった。

 混乱を加速させること請け合いなので、異世界シュオールのことについても伏せておいた。追記したとしてもメロスの信憑性が薄れるだけだろう。


 次にやったのは、ファーストミニアルバムをリリースしてくれた音楽レーベル等々への担当者に向けた挨拶。こちらに関しては事務的な関係なので、信じてもらえなさそうな説明は端から抜いておくことにする。失踪していた声優である貴宮香奈美が戻り、協議の結果、活動を再開するという、当たり障りのない内容だ。

 また、こうした社会人とのやり取りは、俺はすべて宗哉に任せていたので、メール一本を書くのにも苦労した。


「やっぱり、ミミズクくんにサラリーマンは無理そうですね」


 メロスはメールを添削しながら、画面の中で肩をすくめていた。


【歌ってみた】動画の著作権まわりとかも、宗哉に全部任せっきりだったからな……今後は俺が勉強していかなければならないことだろう……。


 ヴァーチャル・アイドルの活動は著作権との戦いだ。

 つい先日もセカンドプリズムに所属するヴァーチャル・アイドルたちのゲームの配信の動画が軒並み削除されるなんて騒動があったばかりだが、雑談系動画で使うカットにだって、気を配らなければならない。画像検索で適当にググったものを引っ張ってきたら確実に死ねる。なにがいいたいかというと、いらすとやは神。


「著作権まわりのことでしたら、メロスがやりましょうか? この身体になってからですが勉強は済ませましたし、許可のメールもすぐに送れます」


「いや、そういうのはタレントにやらせることじゃないだろ。裏方はこっちに任せてくれ」


「そういってもらえるのはとても嬉しいんですが……今のメロスに身体的な制約はありません。事務的なメールの文面を作成する程度でしたら、歌の収録をしながらでも可能です」


「すごいマルチタスクだな……けど、うーん……」


「アイドルの活動に枠なんてありません。我々のような個人勢のヴァーチャル・アイドルはフレキシブルに適材適所でいくべきです」


 メロスの淡々とした口調は、一歩も譲らないという鉄の意志を感じさせた。

 香奈美であったころから、彼女のこの口ぶりは交渉において有利に働く。


 投稿期間があかないための穴埋めのカラオケ動画でさえ、香奈美は納得いくまで何度も収録をくり返して持病の発作で倒れる、ということが何度もあった。

 そんなとき、俺も宗哉も虎落も総出でとめるのだが、香奈美が折れることは滅多にない。


「それほどメロスの負担にならないっていうんなら、任せてもいいけど……じゃあ、俺はどうすればいいんだ?」


「これまで通りオリジナル曲の作詞や放送台本、動画の企画立案。それとなによりも重要なのが――」

「重要なのが?」



「メロスのケアです」



 俺はまばたきをひとつはさんで、首を傾げた。


「そりゃまぁ、いわれるまでもないけど」


 アイドルのケア……マネージャーならば当然やるべき仕事の範疇だ。

 マネージャーなのか? という気もするが。


「けど、今のメロスのケアって、なにをすればいいんだ?」


 二年前も俺は、メロスチャンネルのメンバーの中では最も近い距離で香奈美の撮影や収録のサポートをしていた。

 彼女に気があったから進んでやったというのは間違いないが、俺が時差ボケ病だった母の面倒を一時期見た経験を買われてのことでもある。


 重度の時差ボケ病であった香奈美は、三~四十分に一回は俺たちがいる時間とのずれに耐え切れず眠りについてしまう。

 俺はだいたいそのタイミングを把握して、彼女が安全な場所で眠れるように常に気を配っていた。


「――そう、ですね」


 画面の中の少女は、腕を組んでうなる。


「メロスの今いる場所は、画面の上ではミミズクくんにわかりやすいようにこんな背景がありますが、実際はもっと幾何学的でうら寂しい場所です」


 昨日買ってきてデスクトップパソコンに外付けした4TBのSSDを見る。

 俺は、彼女がそこにいると認識していた。

 いや、ここにあるのは彼女のコアな一部分だけで、その大半はインターネット上にあるらしいが……。


「ミミズクくんのわかりやすく伝えると真っ暗な闇の中にいて、携帯電話で連絡するとミミズクくんの声が聞こえて、望遠鏡を覗きこむとミミズクくんの顔が見られる、という状態です」


 想像してみる。

 見ることと聞くことはできるが、あいだには決して埋めることのできない隔絶された闇がある。


 メロスは、ひとりきりだ。



「だから、無視はしないでください。寂しくて、死んでしまいます」



 相変わらず抑揚のない声は、しかし切実に響く。

 今さらながら俺は、メロスの普段の声に感情の起伏を見出せない意味を理解した。

 これは、香奈美の声をサンプリングしてつくりだした機械音声なのだ。

 この声は、言語伝達のための手段でしかない。


『メレオロジー境界線』の歌は自然な香奈美の声に聞こえたが、それは収録するにあたって調整しているということだろうか?


 メロスの孤独は、俺が想像するにはあまりある。


 だからこそ、俺は力強くうなずく以外の方法はなかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 風音メロスのデザインをしてくれた葉賀奈々子先生へのメールを最後に、各方面への連絡は終わった。


 ちょうど昼飯時になったので、俺は外に食べにいくことにした。


 携帯電話をポケットに突っこむと、そのタイミングでいきなり震えた。

 誰かからの電話かと思って出てみると、画面にぴょこんとメロスが映る。


「電話じゃないのか?」


「メロスからの着信です」


「普通にしゃべればいいじゃないか」


「ミミズクくん、お昼を食べるついでに、ネックストラップをかいましょう。それと、ワイヤレスのイヤホンマイクも」


 脈絡のわからない提案に、俺はその理由を問う。


「ネックストラップで、携帯電話を首からぶら下げてくれたら、ミミズクくんと同じ景色が、メロスにも見られます。イヤホンマイクがあれば、人目をはばからずにミミズクくんとお話しすることができます。これで、プチデートが可能になります」


「単に昼飯を食いに行くだけのつもりだったんだけど……」


「それでも、そんななにげないひとときも一緒に過ごしたいという、いじらしい気持ちを理解できませんか?」


 んー……まぁ、いじらしいし、かわいいとは思うけど。


「だったら、新しい端末も買うから、俺の携帯電話からそっちに移動しませんかね?」


「バッテリの持ちがよくなるだけで、ミミズクくんの性癖やら誰と通話したかなどの記録がまる見えなのは変わらないですよ?」


「いや、だから、見ないという選択肢を……つか、そもそも俺がなにで抜いてるとか知ったら、百年の恋も冷めない?」


「貴宮香奈美にとっては、百年どころの話ではありませんから」


 また重い返しを。


「あ、今メロスのことを重い女と思いましたね? 顔を見ればわかりますよ」


「勘弁してくれ。心を読まれるのが一番辛い」


「交友関係の狭さ的に浮気の心配はしてませんから」


「それはそれで大きなお世話な」


 マンションを出るところですれ違った人が、こっちを見ていた。


 メロスはおそらくなんといっても俺の携帯電話の中に入りこんでくるだろうし、これは本気でイヤホンマイクは買ったほうがいいかもしれない。


「わかった……昼飯のついでに必要な物資を揃えにいこう」


 八月六日。世間的には広島原爆の日。

 今日も昨日と同じく青空に、夏の立体的な雲が流れている。


 熱さは昨日以上で、一分も外に出ただけで額や背中から汗が噴きだす。

 アスファルトの上で陽炎が踊っていた。

 もしかしたら、今このときはやはり夢か幻なのではないかという感慨は拭えない。


 それくらいに現実離れしていて、俺も常識的な判断をできていない気がする。


 しかし、夢は覚めることなく、夏の日射しは容赦なく俺の首筋を焼いた。


「帽子、かぶってくればよかったな……」


「ミミズクくん、よく帽子をいろんな場所に忘れてましたよね」


 そう、だから買うだけ買っても、かぶる習慣がつかないのだ。


 学校のプール帰りであろう、日焼けした小学生の三人組がプールバッグを得物にちゃんばらしながら駆けていく。


「ガキは元気だな……」


「プール、いいですね。ミミズクくん、一緒にいきませんか?」

「その状態のおまえと一緒にいても楽しませてやれる自信が微塵もない」

「一緒というだけで、意外と楽しめると思うんです。一人で波のプールでたゆたうミミズクくんを眺めてられれば、わりと満足しそうです」


 いや、俺が戸惑うわ。

 確実にまわりから白い目で見られるだろ……。


「あとその携帯、防水じゃなかった気がする」

「やっぱり機種変しましょう。カメラの性能が上がれば、よりミミズクくんをくっきりはっきりと見られるわけですし」

「そんなにじゃぶじゃぶ無駄づかいできねぇよ」

「無駄づかいじゃありません。メロス・チャンネルの必要経費です」


 メロス・チャンネルの経費を俺と一緒に過ごすために使うのはまずいだろう。

 スパチャなどを通してファンがよせてくれる好意を裏切る行為になりかねない。


 俺自身、アイドルがプライベートで誰かと付き合ったり結婚したりすることについて悪い印象を持ってはいないが、推しがそうなったら寂しい気持ちになるのは理解できる。失恋は「いい」「悪い」ではない。極めて主観的に「悲しいこと」だ。


 ヴァーチャル・アイドルはその辺りの部分、線引きをしやすいのは利点だろう。美少女アバターの中の人がたとえ「おじさん」であろうと関係なく、応援しているのは画面に映っているタレント、という人は一定数いる。


 まぁ、だからといってガワが一緒なら仲はどうでもいいっていうのとはまったくちがう。

 アバターが同じまま中の人が変わったらそれはだいたいの場合別人に変わったと受け入れられるし、運営チームの炎上によってファンが離れていって再起不能になったケースも珍しくない。とはいえ……。


「メロスの場合、そこらへんはどうなるんだろうな」


 メロスの話を鵜呑みにするならば、彼女は自我を得た情報生命体。

 中の人などいない、全き語の正しい意味でヴァーチャル・アイドル。

 以前彼女もいっていた、ピュア・ヴァーチャル・アイドルである。


 こんな話を信じるピュアな視聴者がいないのは確実だが、俺はひとまずピュアに信じることに決めたのだ。風音メロスを運営するスタッフとして節度ある付き合いをしていくべきだろう。

 しかし、この場合の節度ってなんだろう? 

 おさわり厳禁もなにも、おさわりしようがないしな。


「なにを悩んでいるんですか?」


 メロスは携帯電話の液晶画面から、俺を見つめる。


「アイドルとスタッフの節度ある付き合い方について」


 二年前、俺が香奈美に好意を抱いて接したのは、アイドルは風音メロスであり、香奈美自身はその運営メンバーの一員に過ぎないから、という免罪符があった。でなければ、ヘタレな俺は香奈美の世話を虎落あたりに頼んで任せていた気がする。


 本気でアイドルを目指す女の子に恋をしてしまったとして、彼女のためを思うならば、リアルにアプローチできる男などいるはずがない。

 “リアルに”というのがミソである。


「そんなことですか。あいかわらず他人との距離の詰め方が下手な人ですね」


「でなきゃ、宗哉みたいな男につけこまれてヴァーチャル・アイドルの放送台本なんて書くことはなかったよ」


「ひねくれすぎですよ。難しく考えなくたって、今の風音メロスのプライベートが漏洩するなんてあり得ません。メロスに好きといわれて戸惑う気持ちはわかりますが、他人の目を気にすることは一切ないんです」


 そんなことをいっている側から、すれ違うサラリーマンが携帯電話に話しかける俺を不審げに見ていた。


「ちょっとは気にしたほうがいいと思うけどな、他人の目」


「ですから、イヤホンマイクとネックストラップを。そして防水機能のある新端末を買えば、一緒にお風呂にだって入れます」

「いや、それは一緒に入るとはいわないだろう」


 八王子駅の構内を通り過ぎて、俺は北口のくまざわ書店の隣にある『田園』という純喫茶に入った。

 薄暗い雰囲気の店内は、いささかボロい印象も受けるが、そこが逆に落ちつく。

 客数もさほど多くはないので、ひとりでアイディアを膨らませたいときなんかは、よく使う店だった。


 店内は冷房が効いていて、すぐに汗が引いていった。

 俺はハヤシライスとアイスコーヒーを注文して、再び携帯電話の画面に映るメロスとにらめっこする。


「ここ、前にもきたことありますね。たしか、三回目のメロス会議のときに」

「ああ、そういえば、ここだったな」


 三回目のメロス会議は俺と香奈美だけで行われた。

 風音メロスのキャラをどんな方向で固めていくか、放送台本を書くために俺は香奈美のパーソナリティーをもっと知りたいといって、その席を設けたのだ。

 ほとんど、彼女を誘う口実ほしさのインタビューであったことをここでこっそり白状しておく。


「貴宮香奈美はあのとき気づきました。この人、自分に気があるかも、って」


「今こうしていわれると、若かりし頃の過ちをほじくり返されている気分だ」


「ミミズクくんにとってはたったの二年前じゃないですか。なにが若かりし頃ですか。それに、隠すつもりがあったようにも見えませんでしたが」


 隠すつもりがなくても、高校生の女の子を口説くのに必死になってた自分を思い返してこみあげる羞恥心はいかんともしがたい。


 それはそれとして、香奈美が俺のことを意識しだしたのが二回目のメロス会議だったという、話を思い出す。


 意識しはじめたばかりの相手が、自分に惚れていると気づく。


 俺と香奈美は本当に些細なすれ違いや遠慮で、自分たちの気持ちを伝え合えなかったんだと改めて実感して、胸が痛んだ。


「あのときのミミズクくんの言葉、今でもおぼえています」


「なんていったっけ?」


「貴宮香奈美の言葉を書きたい――って。君がどんなリアクションをするのか、君がどんな言葉を紡ぐのか。学校の授業中や休み時間、放課後、食事の最中や家族と一緒にいるとき。夜寝付けない孤独なとき。目覚めて、学校にいかなきゃいけないとき。君が教えられる範囲で知りたい。俺の中に、君がほしい」


 淡々と、メロスは原稿を読みあげるようにいった。


 俺はお冷やとして出されたレモン水を一口飲む。

 恥ずかしさで、顔が真っ赤になっているのがわかった。


「そ、そんな歯の浮くような台詞をいったんだっけ?」


「――とぼけてますよね? ミミズクくんは、おぼえているはずです」


 図星だった。

 耳の先が熱くなっている。

 こんな羞恥プレイは、なかなかない。


「ミミズクくんのそういう顔を見ていると、ゾクゾクします」


「全面的に敗北を認めますので、これ以上は勘弁してください」


 一目惚れしてしまった香奈美を相手に、即興で先のような台詞が出てくるほど俺は弁の立つ男ではない。彼女のパーソナリティーを知りたいばかりに準備して、あくまで風音メロスのためだからと予防線を張りつつ苦心を重ねた結果に生みだされたものだ。


「そうはいいますが、貴宮香奈美は嬉しかったんですよ。自分に残された時間が少ないのは知ってましたから。その時点ではともかく、実際に上がってきた放送台本を見て、ミミズクくんが本気で貴宮香奈美の言葉を書こうとしていることを知って、この人はわたしを残してくれるって、感動してました」


「……そんな頃から、ロングスリープに入ることをあいつは知ってたのか」


 どうして話してくれなかったんだと悩んでいたが、だんだんと、なぜ気づいてやれなかったんだという気持ちが強くなってくる。


「ああ、いいえ。時間がないと思っていたのは、基本的にDTS患者が外時間で短命であることが理由です。ロングスリープに入る可能性が高いことを知ったのは、二〇一八年の九月二十九日の検診です」


 二年前の九月下旬……ファーストミニアルバムの作業が一段落ついた頃だった。


「気づけなかったことを、悔やまないでください。貴宮香奈美は宣告されてからミミズクくんたちに会うまでに、体内時間で一週間ほどの猶予がありました。バレないように、心の整理をつけていたんです」


 なぜそうまで隠したかったのか。

 その質問は、もうしないでおく。

 香奈美はアイドルのまま眠りたかったのだと、メロスは語った。

 そして、そこから生まれたのが、目の前にいる風音メロスだと。


 ハヤシライスがやってきて、俺は食べはじめる。

 携帯電話の中のメロスは無表情のままだ。

 腹が減らない、身体を持たないというのは、どんな感覚なんだろう。


 口の中に広がる牛肉の旨味とほんのりと感じるトマトの酸味。

 カレーほど白飯に合うわけではないけれど、むしろのその独特な組み合わせがたまに無性に食いたくなる。


「それで、次の動画はどうする?」

 食欲を満たすことで気を取り直しながら、俺はメロスに話題をふった。


「すでに一本目のミュージックビデオを投下しちまったんだ。さっさと投下しないと、忘れられちまうぞ」


 二年前とは状況が違う。

 ヴァーチャル・アイドルの数は爆発的に増えて、ヴァーチャル・アイドルのプロデュースを専門とする企業が本格的に参入してきた。桃園エデンこと虎落桃華が所属しているセカンドプリズムは、潤沢な資本を背景にした宣伝効果で地上波にまでその頭角を現していっている。

 今からデビューするヴァーチャル・アイドルは、個人勢では埋もれるばかりで、とてもではないが成り上がれないのが現状だ。

 名前を広める手数が、企業勢に対して圧倒的に少ない。


 それでも二年前にスマッシュヒットを打ち立てられた風音メロスはまだ芽があるといえるだろう。

 一昨日の突然の新曲がいきなりツイッターのトレンドに載ったように、絶頂期に運営メンバーの死で活動を中止してしまった風音メロスは、ヴァーチャル・アイドル界にでかい楔を打ちこんでいる。

 先を考えてのことではなかったが、香奈美の失踪に関して発表しなかったのは正解だったと思う。


「それでしたら、また明日から【歌ってみた】動画をあげて、ツイッターを再開。じょじょに盛り上げつつ、一週間後の八月十四日に二年前は要望あれど行われなかったライブの生配信、というのはどうでしょうか?」


「待て待て。いきなり明日【歌ってみた】動画をって、簡単にいうな。スタジオの予約だってまだぞ」


「ミミズクくんは大事なことを忘れています。今のメロスにスタジオは必要ありません」


「――あ。いや、仮に収録が手軽に済むとしても、動画の作成は萩沼に依頼しなきゃいけないだろ」


 止め絵に字幕を流す程度の動画ならば俺でも突貫作業すればどうにかなるかもしれないが、あまりその手段はとりたくなかった。

 歌動画であっても、視聴者は動くヴァーチャル・アイドルを《リンクス》に見にきているんだから、できる限りヴァーチャル・アイドルは動かすべき、というのは宗哉が立てた方針である。

 おそらく、真理だったろう。絵が動かなければ、動画である優位性は薄れ、音楽配信サービスなんかとさして変わらなくなってしまう。

 ゆえにメロスの動画は、手前味噌で単純な動きの連続になったとしても、とにかく動画であることを堅持した。

 葉賀先生のモデルの完成度の高さにだいぶ助けられていると萩沼はよくいっていた。

 実際、どの角度からでも可愛く見える風音メロスのモデルは二年経ってもほとんど古びた印象を受けないくらいにはよくできている。


「簡単な動画作成なら、メロスにもできます。人間に例えるなら、部屋の模様替えをする程度のことです」


「マジかよ!? だったら、なんで『メレオロジー境界線』は萩沼に依頼したんだ?」


「学習用に動画の作成過程を一度見ておきたかったというのが理由になります」


「おまえ、萩沼のパソコンにも入ってたのか」


 俺はスプーンを口にくわえたまま、メロスを睨んだ。


「効率的な動画作成のためには、必要だったんです。メロスには人間と同じ器官はありませんから」


「しかしな……あいつはアマチュアとはいえ、勝手にノウハウを盗むのはダメだろう」


「いわれてみれば、そうですね。ヴァーチャルアイドルの動画は著作権との戦い。そういうモラルを欠いていると図らずも炎上させてしまいます」


 人のパソコンや携帯電話の中に入っておいて、モラルもなにもないと思うが、自我を得てしまった情報生命体には二の次、三の次の問題なのかもしれない。

 そこらへんは、サポートする俺が目を光らせる必要があるということだろう。


「まぁ、あいつも風音メロスの運営の一員だし、すでに社会人でこっちにかかりきりになるわけにはいかないから、ゆくゆくは技術を継承する必要があったわけだけど……音源の準備とかもだいじょうぶなのか?」


 あらゆる創作物に著作権があるように、【歌ってみた】動画のカラオケ音源にだって著作権はあるわけで、そこらへんも結構気を使う。

 二年前はボカロ曲以外は虎落が演奏して用意してくれた音源を使っていたが、すでにあいつも事務所に所属している身である。俺たちのために時間をつくることは難しいだろう。


「新たに作曲することは難しいですが、耳コピで音源の準備をすることは可能です」

「耳コピって……!?」

「いいたいことはわかりますが、メロスがゼロからDTMソフトに打ちこみをするので問題はないはずです」


 それならまぁ、ホワイトに近いグレーあたりで許容していいのだろうか。


「それらの準備も含めて、約一週間後の十四日にライブ配信ねぇ……大丈夫なのか?」


 一時間のライブ配信でも、MCをはさんで最低六曲ぐらいは欲しいところだ。

 虎落がいてくれたらそこらへんはなんの心配もしないのだが、今のメロス・チャンネルにいるのは俺とメロスだけである。


「ミミズクくんは再び大事なことを忘れています。メロス――いえ、貴宮香奈美もDTSさえなければモガちゃんに負けないくらいにピアノを弾けました」


「それは、知ってるけどさ」


 風音メロスの四番目のオリジナル曲――『夕暮れルグレ』。

 ピアノのイントロから入る、透明感のある失恋ソングだ。

 夕暮れの赤い空から夜へと変わる黄昏に、ひとりの少女は自身の恋を発見し、同時に失恋を悟ってしまう。

 アップテンポの曲調に歌詞を詰めこんで、長い夜を逃れ、夕暮れ時の赤を求める少女は疾走する。

 俺が香奈美をイメージして書いた曲の一つで、風音メロスの楽曲の中では一番人気だった。


 香奈美もやたらと気に入って、ピアノの弾き語りをやってみたいといいだしたのだ。


 弾き語りにむく曲ではないからと虎落が止めたにもかかわらず、香奈美は一発でやってのけた。「たくさん練習したからです」と香奈美は涼しげにいったが、その場にイタ全員が度肝を抜かれた。とくに虎落は顔を真っ赤にして、拳を震わせていたのをはっきりとおぼえている。


「……あのときは本当に、香奈美がDTSなのを神に呪いたくなったな」


「それは逆です。時差ボケ病だからこそイメージ練習の時間が確保できたんですから。ほとんどの収録で貴宮香奈美が一発目からかなりのパフォーマンスを披露できたのも、時差ボケ病のおかげです」


 そんな御託は、二年前にも聞いている。

 しかし、誰でもほんの一瞬のためにその何百倍もの時間を犠牲にできるわけではない。

 刃のひと振りが生死を分かつために生涯をかけてその一刀に命を託すような、サムライの生き様だ。


 今にしてみれば、そんな彼女の生き方がロングスリープという終焉を迎えるに至った原因ではないかと俺は考えてしまう。



「――歌うときに神に近づけるなら、それ以外の時間は屍でかまいません」



 メロスが、ぽつりと口にする。


「香奈美も昔、そんなこといってたな」


「メロスの言葉は、だいたいが貴宮香奈美の受け売りです」


 それは、彼女にとって辛いことなのだろうか?

 画面の中の無表情に対して、俺は尋ねることをためらった。

 そうしているうちにハヤシライスを食べ終わって、食後に運ばれてきたアイスコーヒーまで飲み干してしまう。


 ふと、気がついた。


「八月十四日は金曜日だ。ゴールデンタイムは金ローにかぶるぞ」


「今検索しました。トトロですね」



「「何度目だ、トトロ」」



 俺とメロスはピタリとハモる。


 いろいろと検討したところ、生配信はさらに一週間後の二十一日にすることにした。



「「コクリコ坂なら勝てる」」


 しかし、俺はあの映画、けっこう好きだったりする。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 それから俺たちは、メロスの望み通り北口のヨドバシでネックストラップとワイヤレスのイヤホンマイク、それから彼女のための新しい携帯端末を購入した。

 性能のいいカメラと防水機能、音質にも多少こだわってそれだけで一気に十万円が吹き飛んだ。


「さすがに、この出費はいたいな……」


 就職先も決まっていない学生の身分も考慮に入れると、痛いで済む話でもない気もするが。


「ご安心ください。これからはメロスがきちんとミミズクくんのことを養っていきますので」


「職業ヴァーチャル・アイドルの謎の情報生命体にいわれると、超心強いな」


「皮肉をいう暇があったら。バリバリ稼ぐ方法を考えてください、プロデューサー」


「プロデューサーといわれてもなぁ……」


 風音メロスの収益は、現状宗哉から引き継いで俺が管理している。活動中止を報告したときに月額四九〇円のメンバーシップの募集はとめたけど、おそらく再開はすぐにできるはずだ。

 ヴァーチャルアイドル業界は過渡期ゆえか、うち以外にも失踪&突然の復帰イベントがわりとあるから、ファンに耐性ができているのはありがたいかもしれない。


 ヨドバシから出て、帰宅しようとするとメロスがぽつりとこぼす。


「もう、帰りますか?」


「他に用事があったっけ?」


「いえ……もうちょっとだけ、ミミズクくんとプチデートをできればな、と思いまして」


 抑揚のない平坦な声でいわれると茶化されているのではないかと訝しんだが、どうやらちがうらしい。


「そういうときは画面の中で頬のひとつも染めてくれるとこっちもそちらの意図を読みやすいんだがな」


「メロスはいつも言葉通りのことしかいいませんよ。それに無表情を貫かなければ、キャラぶれになってしまいます」


「歌以外の雑談動画は五~六個くらいしか投稿してないのに、無表情を貫くのがメロスのキャラになっちまったからな……」


 初めて投稿した自己紹介の動画における風音メロスの冒頭の挨拶『やっほー。メロスは○○した』の『やっほー』の部分があまりにも棒読みだったために、そんなキャラが定着したのだ。

 

 歌うとき以外は心を持たない冷酷魔女

 やっほー(腹パン)

 やっほー(殺意の波動)

 絶対にドS

 蔑まれたい

 踏まれたい


 ……等々のコメントが今でもチャットのリプレイで確認できるし、メロスの「やっほー」部分を切り抜いただけの動画も上がっている。


 あまりキャラを作らないほうがいい、中の人間の地を出していく、といった方針のもと半ば確信犯的にやったことだったけど、あんなにはまるとは思っていなかった。


「今のメロスと昔のメロスは別人ですが、メロスの正体を明らかにできない以上は、努めて二年前と同じメロスを演じようと思っています」


「まぁ、それが無難だろうな……して、デートの続行とおっしゃいましたか?」


「おっしゃいましたね」


「ここが八王子であることを忘れてないか?」


 大学に入学すると同時に上京してきて、五年間年この街で暮らしてきた。

 初めて見たときは「こんな東京もあるのかw」と鼻で笑ったが、以外に馬鹿にできない。必要な物は大概なんでも駅前でそろうし、京王線を使えば新宿まで四十五分でいける都心へのアクセスのよさ、中央線で約十分のところに立川があるおかげでそこそこマニアックな映画もほとんど苦労せずに見られる恵まれた環境。


 二年目を迎える頃には、俺は八王子を見くびっていたことを認めた。駅周辺のちょっと怪しい夜の雰囲気を除けば、むしろ愛着を抱いているくらいだ。終の住処となってもたぶんそんなに不自由しないと思う。

 しかし、香奈美を本気で好きになってしまったあたりで、気づいた。


 八王子には、デートスポットに耐えうる場所が、ない。


 ミシュラン三つ星の後光が眩しい高尾山はまぁその魅力は理解できるんだが、人が多すぎるし、時差ボケ病の彼女を山に連れ出すなど論外だ。


 他にグーグル先生の教示するところによると、明らかに対象年齢が小学生のプラネタリウムとか、南大沢の陽気な街並みで買い物デートのプランがないでもない。


 いってみると小学生向けのプラネタリウムは存外馬鹿にはできないんだが、香奈美は上映時間中に寝てしまうことを考えるとやはり却下。

 南大沢の作り物めいた街並みは面白いんだけど、八王子の駅周辺に住んでると車でなきゃアクセスしづらい。加えて、買い物目当てなら八王子の駅周辺とそれほど品揃えは変わらない。


 山か、買い物デートか、やたらと多いラーメン屋の梯子でもするか……少なくとも俺のような初心者では、八王子の地の利で女の子を攻略できる気がしない。


 なんか、俺の不甲斐なさを土地のせいにしてるみたいで、むなしくなってきたな……。


「近くに、ちょっと本格的なチャペルがあるそうなんです。中には入れないんですが、外からだけでも見てみたくて、どうでしょう?」

「チャペルか……本格的って?」

「イギリスから移築してきたものようです。今は、ホテルに併設された結婚式場ですね」

「へぇ」


 八王子にきてから五年とはいったが、基本的には多摩の山奥にある大学と部屋との往復しかしてない俺は、さほど地理に詳しいわけでもない。

 メロスたっての希望ということであれば、ちょっと足を伸ばしてみようかと、いくことに決めた。


 しかし、冷房の効いた店を出て五分で、俺はその決断を後悔した。


「あっつ……!」


 もはや、悪意があるとしかいえないような陽気だ。

 再び全身から汗が噴きだして、陽光を反射するアスファルトから立ちのぼる熱気に、呼吸をするのも難しくなってくる。


「メロス……この暑さは、身体を悪くするぞ。どのくらいいけばいいんだ?」

「だいたい、徒歩で七~八分というところでしょうか?」

「けっこうあるな……」


 俺は、途中にあるコンビニで水と安い帽子を買う。

 帽子があるだけで、日射しは大分マシになった。


「携帯も熱くなってるけど、メロスは平気なのか?」

「ミミズクくんとコンタクトするために視覚と聴覚は確保しましたが、今のメロスに触覚はありません」

「情報生命体ってのがうらやましくなる暑さだけど、実際のところ、どうなんだ?」


 口にしてみて、自分でも暴投した自覚はあった。

 暑さのせいもあるが、暑さでちょっと感覚がずれていないと聞きづらい質問でもあると思う。


「実際のところどう、といわれると……どうなんでしょうね? 先ほど話したように、寂しさをおぼえるときはあります。貴宮香奈美の精神は『こうそく』で時間を駆けぬけて、異様な暗闇の中にたどり着いてしまった……そんな認識があります」


「『こうそく』って……光の速さって意味じゃないよな?」

「そこが気になるんですか? ちょっと貴宮香奈美の予測データを越える返答です」

「いや、悪い。変なこと聞いたな」

「いいえ。外界の絶対時間よりも速い時間があるということは、ちょっとしたタイムスリップともいえますから。加速性DTS患者の精神は光速よりも速いと宣うフィクションが数多あることは知っています。タキオンをゆんゆん発してるとか受信してるとか。まぁタキオンはともかく、重力波観測の研究が進めばなにかあるかもしれません」


 メロスは淡々と俺が考えていたことを見透かしてみせた。

 自分で振っておきながら、深刻な話題を益体もない考えに結びつけてしまった軽薄を、俺は再度謝罪する。


「メロスの感覚、想像して、なんとなくはわかるんだけどさ……でも、それは結局はうわっつらの部分だけで、きっと本質的なところは理解できてないのが、歯がゆいな」


「人間はそういう生き物だから、しょうがないと思います。自分自身の身に迫らなければ、他人の事情を共感することなんてできません。そして、メロスのこの気持ちを、ミミズクくんに知って欲しいとは思いません」


「それはそれで、悲しい話だな」


 俺は、好きな相手のことならどんなことでも知りたいと思う。もしかしたらこれは、俺の尻が青いがゆえの考えなのかもしれないが。


「貴宮香奈美は、傷のなめ合いはよくないと考えていました。自分の痛みも感情も、自分だけのものでいい、と……あ、そこを右です」


 案内どおりにいくと、左手に大きな学校があって、グラウンドでは野球部員が独特のかけ声をあげて練習している。

 街路樹が日陰になってくれて、多少暑さはましになった。


「……俺は、傷のなめ合いが悪いことだとは思わないけどなぁ。人間が自分の身に降りかからなきゃ共感できない生き物なら、同じ傷を持った者同士がいたわり合いながら生きていくのは、悪いことじゃないと思う」


 カキンと、金属バットが硬球を捉えた音が響いた。


 人間とか、生き物とか、なんか大風呂敷を広げた自説を展開してしまった。

 こんな俺だから、香奈美はなにもいわないでいってしまかったのかもしれない。


 なんとなく居心地の悪い沈黙を、メロスが破る。


「ミミズクくんは、もしもメロスに触れられるとしたら、うれしいですか?」


「そりゃ……うれしいとは思うよ」


 俺の肩で眠っていた香奈美の重みを今でも恋しく思っている。

 仮にメロスが香奈美の姿をしていなかったとしても、触れあえるということは、形があるということは大事なことだ。

 相手がどんな姿形であるかを認識することが、生き物の一番最初のコミュニケーションだと俺は考える。

 目の前に逆三角形な体型の巨漢が現れたらとっさに身がまえてしまうが、黄色い帽子をかぶりランドセルを背負った小学生に対して身の危険を感じることはない。


「メロスもミミズクくんともっと触れあえたらな、とは思っていますが、こればかりは難しそうです。この欲望は代わりに、クリエイティブな衝動に昇華しましょう……あ、ここを道なりに左です」


 メロスの案ないにしたがって、水分補給をしながら歩いていく。

 すでに十分以上歩いている気がする。

 もしかして俺も、時差ボケ病がはじまってしまっただろうか?

 そんなことを考え、ゆるめの坂道をのぼっていくと、白いタイル張りの橋にいきあたった。四車線もある大きな橋で、大和田橋というらしい。

 下は雑草の生い茂る河原があって、急に見晴らしがよくなり、心地よい風が頬をなでる。


「こんなところに川があったのか……」

「浅川ですね。多摩川の支流です」

「ああ、そっか。ここをくだってくと市役所か」

 頭の中に入ってる地図で、点と点が繋がった。


「ミミズクくん、前です」


 メロスの声で、俺は顔をあげた。

 大きな橋を渡った向こう岸に、大きなレンガ造りのチェペルがある。

 正面に大きな縦長の窓が二つあって、外側からはわからないが、おそらくステンドグラスだろう。

 長い階段には鮮やかな赤い絨毯が敷かれていて、色味的に思い印象を受ける建物に彩りを添えている。

 風見鶏が添えられた脇のドーム状のものは鐘塔だろうか? こういう建物には詳しくないので、外観からではわからない。


「なかなか、風情のある建物だな……あんなのがあるなんて、知らなかった」


 あそこで結婚式を挙げられるなら、さぞや記憶に残るものになるだろう。


 チャペルの横にどっしりと構えるベージュ色のホテルもチャペルの雰囲気によせてヨーロピアンな印象を受ける。


 さらにその左手に、川沿いに連なった白い建物も小気味いい。

 少し離れているから、あれはホテルとは別の建物なのだろうが。


「もう少し、近づいてみませんか?」


 メロスにせがまれて、俺は橋を渡る足を急がせた。


 残念ながら、チャペルの玄関に続く階段は施錠されていて、それ以上近づくことはできなかった。


「ホテルの人に頼んだら、中を見学させてくれたりしないかな?」

「いえ、そこまでしていただかずとも。正面から、写真を取っていただければ」

「こうか?」

「ちょっと下がりましょう。チャペル全体をフレームに収めて欲しいです」


 彼女にいわれるがまま、俺はメロスが入った携帯電話で何枚かチャペルの写真を取った。こんなことなら、買ったばかりの性能のいいカメラ機能がついた携帯を一度開けてからくればよかったと思うが、彼女はそんなことは気にならないらしく、写真を取る俺に細かい指示を出す。

 途中、川沿いをランニングをしているおじさんににっこにこの笑顔で挨拶をされた。式場の下見をしているところと勘違いしたのだろう。


「もう、こんなもんでいいか?」

「そうですね。少々お待ちください」

「へ?」


 携帯電話の画面が真っ暗になった。

 俺が面食らって待つこと、三十秒ほど。一枚の写真が画面に表示される。


 俺が今目の前に立つチャペルの、夜の姿だ。

 鮮やかにライトアップされ、内側から光を当てられた正面の縦長の窓はやはりステンドグラスだったようで、幾何学的な模様が浮かび上がっている。

 煌びやかな光景だが、正面に立つ少女の美しさもまた、それに引けを取らない。


 ウェディングドレスを着たメロスが、そこにいた。


 白いヴェールの向こうにひかえめな笑みを浮かべ、銀色の指輪が薬指に輝く左手をこちらに差しのべている。


「どういう趣向だ?」

「せめて、形だけでもと思いまして」


 写真がしゃべった。

 画像ファイルだと思ったが、メロスだけは3Dモデルだったようだ。

 画像の中のチャペルの階段を、ウェディングドレスのスカートの裾をつまんで一段ずつ降りてきて、こちらに寄ってくる。


「今取った写真をこんなに早くこの完成度で加工できるんなら、なんの心配もいらないな」

「そんなことの前に、もっというべきことがあると思いませんか?」

「口に出していったら、さらに気分が盛り上がって、俺のファーストキスを液晶の味にするつもりじゃございません?」


 ここ、人の往来けっこうあるよ?

 くる途中、そばに交番があるのも見えたから、不審者と思われたわりとすぐに詰みかねない。


「キスもしたことないんですか?」

「――悪かったな。香奈美と出会ったときから変わらず、ピュアなチェリーだよ」

「そうですか、てっきり――」

「てっきり?」

「――いえ、なんでもありません」


 メロスは指を鳴らした。

 ぼふんと、マンガ調の煙エフェクトが画面を包んで、メロスはいつもの和洋折衷な巫女服姿に戻った。背景もいつもの生活感のある部屋である。


「いいことを聞けたので、今日はこれぐらいにしておいてあげます」

「これぐらいって……結婚式以上のことってなかなかなくない?」


「そうですね。結婚は人生の墓場といいますし。ちなみにこの一帯って、大和田刑場という江戸時代の三大刑場に数えられる場所のひとつでして、多くの受刑者が処刑された場所といわれています」


「ひどい風評被害!」


「厳密にいうと、あっちの白い学生寮が建ち並ぶ場所らしいですが。学生寮ができる前は製紙工場があったんですが、事故が相次いで慰霊碑を建立するものの、結局工場は閉鎖になってしまったんですよね……」

「それって、わりと洒落にならない心霊スポットじゃないか?」

「ちなみに、建立された慰霊碑はいつのまにか撤去されて、今はどこにもないそうです」

「人間の向こう見ずなふるまいに心霊が起こって鬼太郎を呼ばなきゃいけないパターンじゃないか!」

「あ、ミミズクくん、うしろ――」

「やめて!」


 ただでさえ超常的なものに現実を侵食されつつあるのだ。

 ここにきてガチの心霊現象は、夜眠れなくなる可能性が高い。


「冗談ですよ。暑さで体調を崩す前に、うちに帰りましょう」

「おかげさまで、涼しくさせていただいたところだけどな……」

 顎を冷や汗を拭って、生温くなったペットボトルの水を飲んだ。


 すると、突然強い風が吹いて、買ったばかりの俺の帽子が空高く舞い上がる。


 帽子は空に吸い込まれるように、すぐに見えなくなってしまった。


「これは、大和田刑場の怨霊の仕業か?」

「単なる自然現象ですよ」

「おまえがいってくれると、説得力がすごいわ」


「それはもう、どういたしまして」

「感謝したんじゃないけどな」


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