推しへ、なんで庇ったんですか
「絆奈ちゃん、どうしたの? 何かあった?」
心配そうに駆け寄る推しに、私は涙を拭ってなんでもないですと答えるが、それは逆効果だった。彼は私の手を取り、困ったような表情を向ける。
「なんでもないようには見えないよ」
私は馬鹿だ。ただでさえお人好し要素を持つ推しがこんな状態の友人を前になんでもないなんて通じるわけがない。
「いや、目にゴミが入っただけで……」
絆ちゃんの件もあり、推しに合わせる顔がない。だから顔を逸らして目を合わせないようにし、苦しい言い訳をする。
しかし、推しはそんな私の頬に触れて逸らした顔を正面へと戻す。目を逸らすことも許さないのか、推しとの顔の距離が近くて思わず息が止まった。
「言いづらいことなら無理強いはしないよ。でも、僕に出来ることはないかな? 少しでも気を紛らわせることが出来るなら力になりたい」
なんてお人好しなんだろう。私は推しの娘を見殺しにしたような存在なのに。
「大丈夫、です。大丈夫なので、お気遣いありがとうございます……」
推しの手から離れて距離を取る。失礼しますと告げて走って帰ろうとしたのに、推しは納得してくれないのか離れようとする私の手をまた掴んだ。
「……僕が頼りないなら、せめてそう言ってほしい」
今日に限って諦めが悪い。そろそろ折れてもいいだろうに。頼りないなんて思っていない。ただ、今は推しとは顔を合わせたくないだけ。
「頼りないなんてないです。……ただ、親しい子ともう会えなくなっただけなので。だから、寧山さんが気にかけることじゃないんです」
「気にかかるよ。だって僕は……」
友人だから、とでも言うつもりだろうか。でも、今はこの人から離れたかった。その言葉を遮ろうと、私は口を開く。
「すみません、寧山さん。私、一人になりたいんです……」
掴まれた手を放してもらう。二度もその手を離れたのだ。さすがにもう掴んでこないだろう。そう思い、推しに背を向けてそのまま帰ろうとしたときだった。
「!」
振り返った途端、目の前には見覚えのある女性の姿があって思わず心臓が止まるかと思った。一体いつからそこにいたのか。
その人はぶつぶつ呟きながら俯いていた顔をゆっくり上げた。
黒髪のショートヘアに憎しみや恨みのこもった瞳が私に向けられる。
「天、月さん……」
「ムカつく……ムカつく、ムカつくムカつくムカつく」
小さな声だったものは少しずつボリュームを上げて、その言葉を私にぶつけていく。
久しく見た彼女はなんだか異常とも言えるような、所謂危ない人であった。
警鐘が鳴り響く。この状況はまずい。危ない。また、勘違いされてしまう。
恨みつらみを並べるように、私に向けての負の言葉は次第に強くなりながら、彼女は手持ちの鞄からタオルで包んだ何かを取り出した。
「気色悪い、汚らわしい、その手で触んなよ……」
タオルを剥がし始めると、姿を現したのは台所でよく見る刃物……包丁だった。
「!」
「ずっと考えたわ。寧山さんの幸せ……その答えはやっぱり、あんたが不要だってこと。……死ねよ」
胸がざわつく。これはかなり危ない状態だ。このままでは推しが巻き込まれてしまう。
「寧山さんっ、安全な場所に行って警察を呼んでください!」
せめて推しに刃を向けられないように天月さんを引きつけつつ、彼女から距離を取らねば。
しかし、私が推しに声をかけたことさえも天月さんの怒りに油を注ぐことになる。
「寧山さんに……気安く話しかけんなクソアマがああぁぁっ!!」
「っ!」
包丁の柄を両手でしっかり握った天月さんが私に向かって襲いかかる。脅しでもなく本気で私に殺意を向ける彼女の気迫に背筋がゾクッと震えた。
逃げなければ。本気で逃げないと。でも、後ろには推しがいる。後ろを走れば彼が危ない。
ならば私は危険だろうと一か八かではあるが、天月さんの横をすり抜けて逃げるしかない。
「絆奈ちゃんっ!!」
彼女に向かって走り出そうとした矢先、三度手を掴まれた。
今までとは違い、咄嗟のことで反応が出来ないほど強く握られた手は後ろへと引っ張られ、前に進もうとしていた足は縺れて、バランスを崩した私は尻もちをついてしまう。
そして推しは私の前に立ち、ドスッと鈍い音が私の目の前から聞こえてきた。
「え……」
戸惑いと恐怖で震える声は天月さんの口から漏れた。しばらくしてカランと彼女の手から包丁の離れる音がしたけど、その刃先は赤く色づいているのが見えてしまう。
推しの背中しか見えない私は何が起こったのか理解出来なかった。いや、理解したくなかった。
「いや……嘘よ……いやああぁぁぁぁっ!!」
気が動転した天月さんが現実を受け入れられないままその場から逃げ出した。その瞬間、推しは膝をつき、腹部を押さえて蹲った。
「ね、寧山さんっ!? な、んで……何してるんですか!?」
「あ、はは……本当は格好良く刃物を叩き落とすつもりだったんだけど……反応が鈍くて駄目だった、なぁ……」
「待って、待ってください……救急車を……!」
なんてことなの。なんてことをしてしまったのか! 一番避けたかった展開なのに、どうしてこうなってしまったの!?
震える手でスマホを取り出し、救急車を呼ぼうとするも、声が震えて混乱して冷静になれなかった。
それでも必死に状況と場所を説明して、救急車が到着するまで自分に出来ることはないかひたすら考える。
既に地面の上に倒れた状態で、腹部を押さえる推しの手は血に染まりつつあった。無駄な血を流させないためにも私も推しの手の上からグッと力を入れて止血をしようとする。
しかし、力を入れた際に推しの苦しそうな声を聞いて、すぐに押さえる力を止めてしまう。でも、躊躇なんてしていられない。止血しなければ。
もう一度、推しの手の上に手を乗せて圧迫止血する方法を取る。
「くっ、う……!」
呻く声にまた決心が揺れてしまいそうだ。耳を塞ぎたくなる中、圧迫する手は止めてはいけない。
だから、心の中で必死に謝罪をした。ごめんなさい、すみません、何度も繰り返す。
本当は口にしたいけど言葉に出す余裕はなくて、推しの身を案じながら必死に止血を続けた。
五分経ったのだろうか、それとも三十分経ったのだろうか。時間の感覚がわからないまま、遠くの方から救急車のサイレンの音が聞こえて来た。
あのあとのことはよく覚えていない。救急車に推しが運ばれて、これ以上は私の入る余地はなく、病院に着くとすぐに手術室へと運ばれた。
仰々しい手術室の扉の前に立って、推しの無事を祈ることしか出来なくなり、不安が広がる。
ふと、自身の手のひらに目を向けた。多量ではないとはいえ、推しの血が付着していた記憶があったから。
しかし、いつ落としたのか覚えてなくて、私自身も自分では気づかないまま未だに混乱をしている。
手術はどのくらいかかるかわからない。その間に警察から事情聴取を受けるのだけど、気が動転して話が纏まらず、少しだけ時間をもらうことになった。
ただ、以前に白樺から受け取った天月さんの本名と住所を警察に伝え、彼女については警察に任せる。
手術はまだかかりそうで頑張って冷静でいようとするも、息が詰まりそうだった。
看護師さんの勧めもあり、一度外の空気を吸いに出て行くことにするも、焦燥感は拭えない。
一先ず、時間を見ようとスマホを取り出したけど、そういえばすぐに手術室に向かうからと言われ、電源を切っていたことを思い出す。
電源を入れて改めて時間を確認するけど、思っていたよりも時間は経っていない。やっぱり自分の中での時間の感覚が鈍っているのだろう。
すると電源を入れたばかりのスマホに着信が入って思わず肩が跳ねた。
「……水泥くん」
相手は水泥くんだった。時間から察するに夜公演が終わったくらいだろうか。
その電話を出ると、推しのことを話してしまいそうになる。いつか知る話とはいえ、天ステ公演中なのに水泥くんのメンタルに関わることを話すのはさすがに躊躇われる。
でも、人のことを考えられる余裕が私にはない。絆ちゃんのことから推しが襲われるまで立て続けに起こっていて、もうこっちは耐えられなかった。
吐き出したくて、どうしたらいいかわからなくて、助けて欲しくて、無意識に通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
『あ、もしもし。橋本さん? 今公演が終わったところで、佐々木さんと芥田くんは無事に帰れたかな?』
「み、どろくん……」
水泥くんの声が聞けて、張り詰めていた気持ちが楽になる。安心を覚えた私はボロボロと涙を零してしまった。
声に詰まる私にすぐに気づいてくれた水泥くんが心配そうな声で話しかける。
『橋本さん? 何かあったの……?』
「お、推しが……寧山さんが、刺されて……」
『えっ、寧山さんが!? 一体どういうことっ?』
「私のせいで、どうしよ……もし、死んだりしたら……っ」
自分で口にして心臓が鷲掴みにされる思いだった。もし、もし、推しが死んでしまったら、私はどうしたらいいのだろうか。私のせいで推しを殺めてしまったということになる。
『橋本さんっ、落ち着いて! 話はよく見えないけど、橋本さんは悪くないよ。今すぐそっちに行くから……病院だよね?』
「うん……」
『待ってて。すぐに向かうから。どこの病院?』
水泥くんが来てくれる。申し訳ないと思うと同時にとても嬉しくなった。心強くて、少しだけ締め付けられる胸がマシになる。気持ちも安定し始めてきた。
自分の今いる病院の場所を彼に伝えてから、そのまま真っ暗になった外で水泥くんを待つ。
しばらくしてから彼は言葉通りすぐに来てくれた。本当に急いで来たのだろう。汗を滲ませている。
しかし、病院に来たのは水泥くんだけじゃない。白樺も一緒だ。
「おい! 寧山さんが刺されたってどういうことだ!?」
「ちょっと、白樺さんっ! ごめん、橋本さん、話を聞かれてたみたいで……」
白樺が私に詰め寄り、事件の詳細を聞き出そうとする。ここが病院内じゃなくて良かった。もし院内だったら他の患者さんに迷惑がかかっていただろう。……病院の敷地内にいることには変わりないが。
でも、白樺の気が立つのもよくわかる。大事な人が事件に巻き込まれたのだから彼も気が気じゃないはず。
「……天月さんが、私を刺そうとしたら……寧山さんが庇って……」
「は……? あんたの代わりにあの人が刺されたってのかよ!? しかも、その天月って奴、前にあんたを道路に突き飛ばした奴だろーが! サツに突き出してねーのか!? 何やってんだお前はっ!」
「白樺さん、やめてください!!」
白樺が私の胸ぐらを掴んでくるが、すぐに水泥くんが間に入ってその手を無理やり解いた。
……白樺が怒るのも無理はない。元々、天月さんを突き出して警察に行けと言われていたのだから。それに関しては完全に私の落ち度である。
彼女にもう一度チャンスを与えたのは紛れもなく私自身。しっかり話をしたらわかってくれると僅かながらに信じていたから。
でもまさか、こんなことになるなんて思っていなかった。結局、天月さんには私の気持ちは伝わらなかったし、もっと大きな事件を起こす結果になってしまった。
「あんたが最初からちゃんとサツに投げてたらこんなことにはならなかっただろーが! なんで寧山さんが代わりに負傷することになってんだよ!」
「いい加減にしてください、白樺さん! 彼女も被害者なんですよ!?」
「黙れ、水泥! 俺はこいつに聞いてんだよ! 寧山さんにもしものことがあったらどうしてくれんだ!!」
気持ちのいいくらい白樺の真っ当な言葉は私の胸を強く突き刺す。それで彼の気がすむのなら構わない。私が責められるのも当然のこと。
だから、推しのことで今は泣いてはいけない。白樺の方が泣きたい気持ちなのかもしれないのに、私が泣いたって意味がない。
「怒りの矛先間違ってますよね!? 橋本さんにそう聞くのはおかしいでしょう!」
「水泥くん……白樺さんの態度は当然だよ」
「橋本さん!」
「寧山さんにもしものことがあったら私も同じよう、にっ」
突然、口が塞がれた。水泥くんが私の口に手を当てたから。真剣な目付きの彼を見ると、恐らく私の言葉を止めたいための行動なのだとすぐに理解する。
「……例え、自分のこととはいえ、僕にとっては大事な人なんだ。だから橋本さん自身を傷つける言葉は聞きたくないよ」
優しい水泥くんなりの止め方だ。……もちろん、水泥くんが望んでないことくらいはわかる。わかるけど……他にどうしろと言うの?
「白樺さん……橋本さんが今何を言おうとしていたかわかりますよね? ただでさえ彼女は自分を責めていて気持ちが不安定だっていうのに、さらに追い打ちをかけるつもりですか?」
「……」
白樺はさっきの勢いがまるで嘘のようにバツ悪そうに目を逸らした。
「橋本さん、今日はもう帰って休んだ方がいいよ。寧山さんのことが心配だとは思うけど、橋本さんだって精神的に参ってるんだから」
「……でも」
「寧山さんの手術が終わったらちゃんと連絡するから。ね?」
力なく頷くことしか出来なかった。これ以上、水泥くんに心配をかけさせてはいけない。
「白樺さん。そういうわけなので、彼女を送っていきます。もし、寧山さんの手術が終わったら連絡くださいよ」
「……」
怒りが微かに残る水泥くんはキツめの口調で白樺に話しかけるも、白樺は何も答えることなく手術室へと向かって行った。
「……やっぱり、嫌いだあの人」
ぼそりと呟く言葉は僅かに私の耳にも入った。忌々しいと言わんばかりの表情だったが、すぐに笑みを浮かべる表情へと変わり、それは私に向けられた。
「行こう、橋本さん」
「うん……」
手を差し出される。いつもなら躊躇ってしまうが今はその手に縋りたくて、彼に引かれるように手を繋いで帰る。
身体も気持ちもとても重い感じだった。一人だと動きたくもないくらい何かにのしかかられている感覚だ。
それでも水泥くんが手を引いてくれているし、ゆっくり歩幅も合わせてくれている。
明日も舞台のはずなのに。本当は早く帰りたいだろうに。それなのに送り届けようとしてくれる。
「……水泥くん、ごめんね。迷惑かけちゃって……」
「橋本さん。僕はこれっぽっちも迷惑だなんて思ってないよ。むしろ橋本さんが無事で安心してるくらいなんだから」
「でも、私のせいで推しは……」
「寧山さんは橋本さんを助けようとして動いたんだから橋本さんのせいじゃないよ。それに、白樺さんもそうだけど、最悪な想像をするのはやめた方がいいと思うな。寧山さんだってそのつもりはないだろうし」
「……うん」
水泥くんはずっと元気づけようとしてくれる。「白樺さんの言うことは気にしないでいいよ、子どもなんだからあの人は」とか「橋本さんも傷ついてる一人だから今は誰かに気遣うことを考えなくていいよ」とか。
家まで送ってくれた頃には夜も遅い時間だった。
「明日に備えてちゃんと寝てね。思い詰めたりもしないで」
「うん……ありがとう、水泥くん」
彼は私が扉を閉めるまで見守ってくれた。扉を閉める直前に「おやすみなさい」という優しい声も残して。
推しのことが気がかりで仕方ないけど、水泥くんの言う通りちゃんと寝なければ。明日にはちゃんと警察で話をして、推しの様子を聞いておかないと。
「……絆ちゃん」
パパとママをよろしくねって言われたばかりなのに。推しに大怪我を負わせてしまった私は絆ちゃんに顔向け出来なくて、申し訳なくて、シャワーを浴びるときにもう一度咽び泣いた。




