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甘やかに、響く

作者: 新道 梨果子

 これは、恋でしょうか?

 恋がどんなものかよく知らない私では、そうだ、と確信することができません。


 けれど、私は彼の一挙手一投足に心を奪われています。

 その、細い髪を掻きあげる仕草も、瞳の動きも、爪の形さえも。

 彼の何もかもが私に信号を送っているかのように。


 だから恋なのかとも考えます。恋以外になにがあるのかとも思います。

 でも私には確信が持てません。

 この想いをなんと呼んでいいのか、わからないのです。


          ◇


 電車の音が聞こえてきます。今日も定刻通りです。

 通勤ラッシュよりも少し早いこの時間だと空席が多いので、高校への通学にはいつもこの電車を使います。


 少しだけ人よりペースの遅い私は、人ごみを上手く通ることができないので、満員電車が苦手なのです。

 人が乗ったり降りたりするのを落ち着くまで待っていて、乗り遅れたこともありました。その逆で、乗り過ごしたこともあります。

 人を押し退けて乗ったり、ましてや大声を出して降ろしてもらうなんて、考えられません。

 ……あまり言うと情けなくなるので、この辺で止めておきます。


 とにかく。

 というわけで、私はこの電車に乗るようになりました。


 少し早起きしなければならないけれど、これはこれで悪くありません。

 落ち着いてボックス席の端に座り、窓の外に目を向ければ、海が見えるのです。

 海岸伝いに走るこの路線はポイントまでくれば海を眺めることができるので、同じ高校へ違う路線で通う友だちに、羨ましがられたことがあります。

 でも満員電車で通っていたころは、窓の外を見る余裕なんてありませんでした。

 だから、悪くありません。

 夏になればきらめくさざ波が、冬になれば大きな島の向こうから昇る朝日を見ることができます。海の間にポツリポツリと浮かぶ島々も、いろいろな形をしていて面白いと思うのです。


 アナウンスが聞こえてきます。電車がホームに滑り込んできます。

 ベンチに座っていた人たちが次々と立ち始め、矢印で示された場所に並びます。

 いつもいつも、顔ぶれは一緒です。もう大方、覚えてしまいました。

 けれど言葉を交わすことはありません。

 私たちは皆、そこに存在しているだけです。


 ドアが開きます。皆ゆっくりと乗り込み、席に座ります。それぞれ、だいたい座る場所は決まっています。

 それは暗黙の了解です。近すぎず、離れすぎず、まばらに座ります。


 私もいつもの席に着きます。しばらくすると、発車のベルが鳴りました。


『ドアが閉まります』


 無機質な女の人の声がして、空気の抜けるような音とともにドアが閉まります。


 あと十分ほど、待てばいいだけです。


          ◇


 次の駅を知らせる放送が聞こえます。

 次第に電車も速度を落とします。降りる準備をする人は、いません。本を読んでいる人はそのまま本に目を落とし、景色を眺める人はそのまま外に視線を向けています。

 海はまだ、見えません。

 次の駅を過ぎてから、それからです。

 電車が止まり、ドアが開く音がしました。私は窓の外に向けていた視線を、こっそりとドアのほうに向けます。


 入ってきます。

 彼です。


 月曜から金曜まで、必ずこの時間の、この車両に乗り込んできます。いつもこのボックス席の、私の斜め前に座るのです。そこが彼の指定席。

 いつのころから彼を見つめるようになったのか、憶えてはいません。

 ただいつのまにか、この電車の中で、彼だけが特別だったのです。


 その浅黒い肌も、細い髪も、着古したスーツも、身体の割に細い指先も、すべてが私にとって特別でした。

 私にだけ特別に映るのかもしれません。特に目立ったところのある人ではありません。

 けれどなぜだか彼の動きに心を奪われるのです。

 そして私は気付かれぬようにと注意しながら、視界に彼を入れてしまうのです。


          ◇


 今日も彼は眠そうな目をして乗り込んできました。

 そして、いつもの席に腰を落とします。

 電車はそのタイミングを計ったかのように動き出します。いつも同じタイミングです。

 私にはそれが嬉しい。いつもと変わらず、彼はそこにいます。


 深く深く、席に腰掛ける彼。眠そうな目で車窓の外を眺めています。

 私も同じように、外に目を向けました。


 海が、輝いています。

 波が、さざめいています。

 そう。彼が乗り込んでくる駅を過ぎたらすぐ。そこが海の見えるポイントです。

 いつも、この時間、この瞬間、私は彼との時間を共有できるのです。

 幸せです。

 ほのぼのとした想いが、胸に宿ります。


 これは、恋でしょうか?

 でも私は彼のことを何一つ知りません。

 どこに勤めているのか、とか。

 今、何歳なのか、とか。

 誕生日も、住所も、性格だって、知りません。

 名前すらも知らないのです。

 それでも、これは恋でしょうか?


          ◇


 また電車が止まります。

 彼はゆっくりと腰を上げました。

 私は視線がそちらに向いてしまわないよう、慌てて顔を俯かせました。

 その視界に彼の足元が入ります。ちょっと早足でドアに向かっています。


 その足が見えなくなると、私はおずおずと顔を上げ、彼の背中を見送りました。

 ドアを出た途端に、改札口へ向かう歩道橋を駆け上がる彼が、車窓越しに見えました。


 それから電車が再び動き出します。

 そしてまた学校まで、つまらない時間が過ぎていくのです。彼のいる電車といない電車では、全然違う気がします。

 その空気も、色も、車窓からの風景ですら、違うような気がします。

 私は窓の外に再び目を向けました。

 でもそこに海はありません。民家で隠れてしまっています。

 そして私はまた、ため息をついてしまうのです。


          ◇


 海に浮かぶ島々の一つに、伝説があります。

 伝説というよりも、昔話と言ったほうがいいのかもしれません。

 私はその話を学校の図書室にある本で知りました。その本には、この地域に伝わる話がたくさん載っていました。

 どれも楽しいものばかりでしたが、なぜだか一つの話に惹かれて仕方がなかったのです。

 それは、こんなお話でした。


          ◇


 その島にはとても親孝行な娘がいました。母親を早くに亡くし、父親と二人きりで小さな畑を耕して、慎ましく暮らしていました。

 少しおとなしく内向的な娘でしたが、穏やかに微笑むその様は、父親を安心させるに十分でした。そして娘も、そんな生活を幸せに思っていました。


 ある日のことです。

 その日は島の漁師たちが集まって、海辺で大漁を祝う祭りをしていました。近年稀に見る大漁だったため、皆飲めや歌えの大騒ぎでした。漁師でない島の者にも酒や獲れたての魚が振舞われ、誰もが浮かれていました。

 娘も海辺に向かいましたが、引っ込み思案の娘は、それを少し離れた所で眺めていたのです。でも娘にとっては皆の喜ぶ様子を見るのは、それだけで楽しく心踊るものでした。


 娘は、ふと視線を移しました。

 少し離れた高台に、質素ですが造りのいい輿があったのです。その輿の主は、その中からそっと祭りを見守っているようでした。


 誰だろう?


 娘は、そろそろと近づきました。

 輿などに乗っているということは、貴族の者なのでしょう。

 だから娘は近づきつつも、見つからないように木陰に隠れて、その輿を見つめていました。

 なぜだかわからないけれど、気になって仕方がなかったのです。

 輿に入った家紋から、その輿の主は島で一番の分限者ではないかと思われました。そういえばその息子が、都に出て学を修め、そして先日島に戻ってきたという話を聞いたことがあるような気がします。


 あの中にいるのは、噂の若者だろうか?

 娘は好奇心から、じっとその輿を見つめていました。


 そのときです。

 突風が起こり、輿の、御簾が……!


 ああ、それは何という神の悪戯だったのでしょうか。

 娘は、一瞬で輿の中にいた若者に心を奪われてしまったのです。

 輿が去ってしまったあとも、娘はその場から動くことができませんでした。


          ◇


 娘はそれから、亡霊のように島を彷徨い歩くようになってしまいました。

 ああ、偶然にでも。もう一度あの方に会えないものだろうか。一目だけでもいい。もう一度。


 娘は願いました。けれどもその願いが叶えられることはありません。貴族の子息など娘のような平民が、垣間見ることすら許されないのです。


 そんな娘を見て、父親は嘆き苦しみました。

 しがない農民の娘として産まれて来た娘が、若者のような貴族と結ばれるなど、夢にもないことなのです。父親はそんな娘を不憫に思わずにはいられませんでした。早く諦めて、そして以前のような働き者の娘に戻って欲しいと願うばかりでした。


 そんな父親の願いも虚しく。彼女は一目会いたいと、たったそれだけの願いを胸に、島中を彷徨うことを止めませんでした。

 島の者も皆、気の毒に、と思いつつも、そんな娘を止めることはできませんでした。


 ある日。娘は島の高台にある丘に登りました。

 そこからは若者の住む広大な屋敷を見下ろすことができるのです。彷徨っているうちに見つけた場所です。


 本当は、娘にだってわかっていました。

 自分が若者と結ばれることなど、ありえないことなのだと。自分のしていることは馬鹿げたことなのだと。

 あの若者は、娘の存在すら知らないでしょう。


 ああ、だから神様。

 娘は一心に願いました。

 せめて、あの方を一目、もう一度。


 でもどんなに願っても、その願いが叶えられることはありません。もうあれからどれくらいの時が経ってしまっていたでしょう。どんなに彷徨い歩いても、そんな偶然は決して訪れませんでした。


 娘はもう一度、あの日のことを胸に思い描いてみました。忘れられない、あの日の、あの姿。

 凛々しいあの方は、いったいどんな声で囁かれるのだろう。


 娘はふと、そう思いました。姿を見たことはあっても、声を聞いたことはありません。

 あの方は、どんな声をしていらっしゃるのだろう?

 娘の想いは膨らむばかりです。

 きっと、素敵な涼やかな声をしていらっしゃるのだろう。娘は、そう思いました。


 神よ……。

 娘は今一度、願いました。

 瞳を強く閉じ、両手を合わせます。


 神よ、姿を見ることが許されないのなら、せめて、あの方の声をお聞かせください。

 もし聞くことができたなら、私のすべてを奪ってしまっても構いません。

 どうか、私のこのただ一つの願いを聞き届けてください。


 今まで何をどんなに強く願っても、神は娘の願いを聞き届けてはくれませんでした。

 こんな祈りはきっと無意味なのだ、と娘がため息をついて閉じた瞳を開いた、そのとき。


 突然に強風が吹いたのです。娘は慌てたように辺りを見回しました。

 今……今、確かに。

 娘は確かに若者の声を聞いたのです!

 風に乗って、彼の声が娘の耳に届いたのです!

 聞き間違いなどではありません。初めて聞く声でしたが、若者のものだと信じられました。

 ああ、やはり、なんと素敵な響きを持つ声であることか。

 娘は歓喜しました。そして神に感謝しました。

 ああどうぞ、お約束通り、私のすべてを奪ってください。私は幸せです。


 喜びに打ち震える娘の身体は信じられないことに、足元から次第に、岩のように硬くなっていくのでした。

 けれど、その岩は美しい笑みを浮かべているようでした。


          ◇


 だから今でも島には、娘が祈るような形をした岩があり、そしてその周辺では若者の声のような音がするといいます。

 岩の形は偶然で、声のような音は谷間で風が反響する音だという人もいるようです。そのような状況を見て、あとからこの話が出来上がったのだと。


 そうでしょうか。

 娘は本当に存在していなかったのでしょうか。

 彼の声を聞きたいがあまりに、神にすべてを投げ出した娘はいなかったのでしょうか。


 そういえば。

 私はふと、思いました。

 私もあの人の声を聞いたことがない、と。


          ◇


 今日も電車は走り出します。

 いつもと変わらない顔ぶれ、いつもと変わらないアナウンス、いつもと変わらない風景。

 そしていつもと変わらない駅で、いつもと変わらない顔で、彼は乗り込んで来るのです。

 そして、私の斜め前の席に腰掛けます。

 私はほっと安心します。

 いつもと変わらないことが、私を和ませます。


 ふと外を眺めると、あの伝説の島が見えました。

 彼は知っているのでしょうか。あの島に伝わる伝説を。

 もし知っていたとしたら、彼はあの話をどう思っているのでしょうか。やっぱりただの作り話と思うのでしょうか。それとも、きっと本当にあったことなのだと思うのでしょうか。

 彼の人となりすら知らない私には、そんな予測すらつかないのです。


 小さくため息を漏らすと、ふと視界に、彼の動きが入りました。

 メールが入ったのか、彼は内ポケットから携帯電話を取り出し、しばらく画面を眺めてから指で操作し始めました。

 もしそれがメールではなく着信だったなら、彼の声が聞けたかもしれないのに。

 いえ電車の中だから、もし掛かってきたとしても電話には出ないのかもしれません。

 とにかく。

 残念ながら、私には彼の声を聞く機会はなさそうです。


          ◇


 土曜日。

 私は、いつもの電車に乗り込みます。

 でも土曜日は少し顔ぶれが違います。

 いつも乗り込んでくる人は極端に数が減り、代わりに知らない人がたくさん乗り込んでくるのです。

 家族連れも見かけます。カップルもいます。

 でもその人たちは、毎週土曜日に乗り込んでくる訳ではありません。次に見かけるときには、たぶん顔も覚えていないでしょう。仕事や学校が休みだから、朝早くから遊びに出掛けるのでしょう。


 私はいつもの席に向かいます。

 でも、そこにはすでに知らない誰かが座っていました。そう、土曜日だけは、そこは私の指定席ではなくなるのです。

 私はこっそりため息をついて、近くに空いていた席に腰掛けました。その席からも海は見えます。

 彼がいつも乗り込んでくる駅に到着しても、やはり彼は乗り込んで来ませんでした。

 彼の仕事は土曜日が休みなのでしょう。わかってはいたけれど、少しがっかりしてしまいます。

 海が見えてきました。でも、いつも見る海と違うような気がしました。


          ◇


 日曜日。

 私は特に用事がなかったので、家でのんびりと過ごすことにしました。

 テレビを見たり、気まぐれに母の家事を手伝ったり。

 でも、ふとした瞬間に彼のことを思い出したりもしました。

 明日になれば、きっと会える。

 そう思うと嬉しさでいっぱいになります。

 声は聞けないけれど、姿なら、毎日のように見ることができる。

 それが、伝説の娘と一番違うところです。

 なんとなく、私は自分自身と娘とを重ねるようになっています。

 時代も背景も何もかも違うけれど、彼の声を聞きたいという、その共通の想いが重なっているように思うのです。


          ◇


 月曜日。

 彼は電車に乗り込んできませんでした。


          ◇


 なぜでしょう。風邪でもひいたのでしょうか。今まで一度も、電車に乗り込んでこなかったことなんてなかったのに。

 どんどん嫌な想像が膨らんできます。

 もしかしたら、もう会えないのかもしれない。

 だって、仕事を辞めたとか、時間をずらすようになったとか、原因ならいくらでも考えられます。

 それとも、斜め前に座る私がちらちら見ているのに気が付いて、気味悪がって、実は違う車両にいるのかもしれない。

 考え出すときりがありません。

 これから私はどうするのでしょう? まさか伝説の娘のように、彼の姿を求めて彷徨い歩くようになるのでしょうか。

 そんなこと、できるわけがありません。

 ああ。

 私はどうして彼のことを何も知らないのでしょう。


          ◇


 次の日、彼はいつものように電車に乗り込んできました。

 私はほっとしました。何かはわからないけれど、昨日は特別な用事でもあったのでしょう。

 彼は私のそんな想いには一向に気付かない様子で、携帯電話を取り出し操作をし始めました。


 窓の外に目を向けると、あの島が見えました。

 今は、私は伝説の娘と違って、毎日のように彼に会える。

 でも。

 これからもずっと会えるとは限らない。


 私は昨日のことで、それを思い知りました。それは予想以上に哀しいことに思えました。

 彼がいつか、ふと乗り込んでこない日が来るのかもしれない。

 いえ、もし彼がずっとこの電車を利用するにせよ。

 私はいずれ高校を卒業して、電車通学はしないようになる。近場の大学に進むにしろ、もうこの電車は利用しないかもしれない。

 あの娘なら、この哀しい気持ちをわかってくれるでしょうか。


 いいえ。

 私は改めて、島のほうに目を向けました。

 違う。

 きっと、違う。


 私がそんなことを考えている間に、彼の降りる駅が近づいてきました。電車のスピードが落ちて、彼が立ち上がります。

 私はふと、彼が座っていた席に目を向けました。


 するとそこに携帯電話がありました。

 彼が座る前は、なかった。


 慌ててドアのほうを向くと、ちょうど電車が停まり、ドアが開いたところでした。

 彼は携帯電話を忘れたことには気付かない様子で、電車を降りていきます。

 私は一瞬だけ躊躇して、でも立ち上がって携帯電話を掴み、ドアに向かって駆け出しました。


 いつもの顔たちが、驚いたように私のほうへ向いたのが視界に入りました。

 でもそんなことは気にしていられません。発車のベルが鳴っているのです。

 私がホームに降りた瞬間、後ろでドアが閉まったのがわかりました。


 振り向くと、電車はゆっくりと走り出すところでした。窓の中から、何人かが私のほうを見ていました。

 心なしか、少し笑っているような気がしました。

 なんと思われているかわかるような気がしましたが、こうなってはどうしようもありません。それに、どう思われようが構いません。


 私は手の中の携帯電話を見つめました。

 私は、あの娘とは違う。

 私は現代に生きているんだから。


 私は彼が上っていった歩道橋の階段を駆け上がりました。彼が改札口を抜けてしまっては見失うことになるでしょう。

 大丈夫、私は次の電車でだって、十分に始業に間に合います。次の電車は多少混んでいるけれど、そんなことはどうでもいいこと。


 歩道橋の階段を上りきり、私は改札口のほうへ目を向けました。

 いました、彼です。まだ改札口の手前です。

 ICカードを取り出すためか、ポケットに手を入れています。私は焦って、また走り出しました。


 ふと、背後から何者かが走ってくる気配に気がついたのか、彼は振り向きました。

 私は彼に追いついて立ち止まり、荒れた息を整えてなにかしゃべろうとしたけれど、言葉が出てきませんでした。


 なんと言ったらいいでしょう? なにから説明したらいいでしょう?

 彼は訝しげに私を見つめています。

 頭が真っ白で、胸が一杯で。

 私は握った携帯電話を、彼に差し出すのが精一杯だったのです。


 彼は携帯電話をしばらく見つめて、それから慌てて胸ポケットや、内ポケットに手を入れ、携帯電話を捜していました。

 そしてあるはずの物がないと知ると、また改めて私の手の中にある携帯電話を見つめていました。


 黙ったままでは、変だと思われるかもしれない。

 これを忘れていましたよ、という一言がどうして言えないのでしょう。

 もう恥ずかしくて、明日からあの車輌に乗れない。

 さっきまでは平気だったのに、なぜ彼を目の前にするとこんなに緊張するんだろう。

 それは、これがやっぱり恋だから?

 私は、完全に頭の中がパニックになってしまいました。

 けれども彼は私とは対照的に、落ち着いた様子で私の手からそっと携帯電話を受け取り、そして柔らかな微笑みとともに言ったのです。


「ありがとう」


 初めて聞く彼の声は、想像するよりはるかに温かいものでした。


          了

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― 新着の感想 ―
[一言] 声優さんが当てた声を聴きたいって凄くわかります!私も自作品のキャラの見た目や声を妄想しまくりですよ。台詞を書きながら、このキャラはどんな声でどういう仕草をしながらこの言葉を囁くかなーとか。 …
[一言] 新作ありがとうございます。自分が書いたものにどんな声優さんが声をあてるのかを妄想するのは結構楽しいですよね。
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