願いごとの悪魔
「どうしたんだい、爺さん」
アランドラへの街道を往く途中、リナは右足を引きずって杖で歩いている老人を見かけた。しかし一度前につんのめると、杖を持った右手で右足を抱え、左足だけで前に跳び跳ね始めた。相当に急いでいるらしい。
「ああ、急ぎの用事があってな」
「アランドラまでだったら連れてってもいいぜ」
リナは振り向いた老人の右脇に自分の肩を差し込む。
「お主もアランドラに行くのか?」
「ああ、こっちでいいんだな?」
老人はしばらく考えていたが、やがてリナを止めて言った。
「足掻いておったが、どのみちこの速度では間に合うまい。シュトラーゼ通りのロッシェル家の屋敷を知っておるか」
老人の頼みは、リナ一人でロッシェル家の屋敷まで行き、誰にも知られないように裏口の壁の角に3枚の羽根を刺してくるということだった。それからエムルレイの酒場で夜に待っていてくれれば礼をすると言う。リナはこの頼みを聞き、一人でアランドラへ向かった。
依頼を終えて酒場で待っていると老人がやってきた。すぐにマスターが2人を奥へと案内する。個室のテーブルには既にスープやサラダの用意ができていた。
「いや、助かった。改めて礼を言うぞ」
「いいけどさ、あれはいったい何だったんだ?」
「旧知の友に孫が生まれてな。贈り物のようなものだ」
合点が行かないリナに老人が言葉を継ぐ。
「わしは預言者をやっておる。じゃから、預言がわしの贈り物だ。奴の孫が生まれたところに行って、『天の三矢が地の際に集い、幸福の王子が生まれる』という預言が既に出ていることを告げるじゃろう。そうすると、使用人を使って『天の三矢』を探し始めるわけだ。羽が3本壁の端に刺さっていれば、そりゃもう大喜びよ」
「でもさ、もし女の子だったらどうするんだ? せっかく途中まで当たっても、この子は王子じゃないから……ってなるんじゃないか?」
運ばれてきたソーセージにフォークを刺しながらリナが訊く。ハーブやチーズが入った、初めて口にする味だった。
「あまり要らぬ心配だな。孫が生まれたとなれば、会うなり向こうからやれ男の子だの、髪は栗色だのと言ってくる。女の子と分かれば王女とでも言い換えればよいし、間違ったところで『男勝りな元気な娘になるじゃろう』とでも言っておけば収まるのよ」
「なーんだ、預言者って未来を当てるわけじゃないんだ」
「預言も使いようよ。無論本当に未来を予測することもあるぞ。さて、礼がしたいのだがな。何か望みはあるかね?」
リナは一瞬戸惑った。今振る舞われている料理は、自分が今まで一度として触れたことのない高級なものだ。これが礼なのだと思っていた。
「言ってみよ。できることなら――かつは、わしが許容できる範囲であらばだが――なんでもやってやろう」
「礼ねえ。望みって言っても、何を言えばいいのか」
「たいていの望みは叶うものと考えてもらっていい」
「じゃあさ、魔王を倒して」
老人は虚を突かれて動きを止めた。
「あ、無理だよね」
しばらく考え込んでから老人は続けた。
「いや……無理ではない。しかし、なぜだ? 魔王など倒したところで、お主の生活に大きな影響は出まい。もっと個人的な利益に関わるものでなくていいのか? 豊かな生活や絶世の美男よりも、それを望むかね?」
「んー……今とかけ離れた暮らしって、あんま想像つかないんだよね。欲しいのかどうかも。どうせ手に入れるなら自分で手に入れたいし。あたしが小さいころ見た人形劇でさ、魔神がいろんな人に願いを聞くんだけど、みんな願いは叶うのに不幸になっちゃうの。最後に小さな女の子が出てきて、『みんな幸せになりますように』って願うと、誰も不幸にできなくなって魔神は消えちゃうのさ。それ思い出したんでね」
じっと聞いていた老人は次第に体を小刻み揺らし、やがて大声で笑い始めた。
「なんだよ、笑うことないだろ」
「いや、すまぬ。古い知り合いを思い出してな。お主を笑ったのではないのだ――いいだろう、魔王を倒してみよう。世界の秘密を、垣間見ることのない暮らしを明かしてやろう。それを手にする術を見せてやろう。ただし、わしは預言者だ。一朝一夕にというわけには行かないぞ」
老人は壁にかかったタペストリーの地図を見ながら言った。
「明日セオロムへ向かうとしよう。そういえば恩人の名をまだ聞いていなかったな。わしはシオン=マグナスと言う」
「あたしはリナ・モーゼス」
「ふむ……リナ……職業は盗賊、年は19……サイズは82/56/86といったところか」
「な……いきなりセクハラかよ」
「はは、安心せい、小娘に興味はない。ほんの自己紹介だ。預言というのはな、つまるところ観察よ。このくらい一目で分からぬようでは預言者は務まらぬよ」