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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夕暮れに待ちぼうけ

作者: 樫井

放課後、部活を途中で抜け出した。

向かった先は百メートル程離れた場所にある同じ学園の高等部。

うちは中高一貫教育のそれなりに規律に厳しい私立校だ。

一貫校とは言えトラブル回避の為中等部の生徒が高等部の敷地内に入るには届け出がいる。

もちろん正式な手順を踏んでいない俺は裏門から人目を盗んでこっそりと敷地に入り込んだ。

高等部に忍び込まないといけない理由は、卒業して今は高等部に通う部活の先輩にメールで呼び出されたから。

呼び出しの用件である借り物のCDを持って裏門の方から入り込み、指定された場所へと向かう。

思ったよりも校舎裏にいる生徒が多く、先輩と無事会うまではかなりハラハラした。

なんとか合流出来た時にそのことを愚痴ってみたが、悪い悪いと笑いながらの一言。

もしバレたらこっちが大変なんだと少し不満に思いながらも、卒業後も何かとお世話になっている先輩なので、仕方無く今度ファミレスをおごってもらう約束で許すことにした。

なぜCDが急に必要になったのかと言うと、先輩が幼馴染みに貸す約束をすっかり忘れていて、今日遂に切れられたそうだ。

先輩の幼馴染み。

会ったことは無いけど何度か話題に出てきたことがある。

先輩が言うには眉目秀麗、頭脳明晰、唯一難のある性格をその見た目で誤摩化している変な奴、らしい。

一度見てみたいな、とそんなことを思いながら高等部の部室棟裏をこそこそと移動する。

裏門を目前にした時、半ば安心していた俺は最後に立ちはだかった関門にさっと顔を青くした。

丁度門があるその周辺。

校舎へと続く花壇を中心に、数人の高校生と一人の教師が作業をしていた。

多分、緑化委員か清掃委員。

全員ジャージを着て草取りやゴミ拾いをしている。

教師は中年の男性で、見るからに厳しそうな顔つきだ。

というか、現に隅でサボっている生徒に怒声を飛ばしている。

ヤバイ、マジでヤバい。

慌ててすぐそこにある古そうなプレハブ倉庫の陰に隠れる。

ほんの少しだけ顔を覗かせそちらを窺いながら、他の場所から回って、と安全な脱出ルートを考える。

しかし色々考えようにも高等部の校内のことはさっぱりだ。

門以外の場所から出ようと思っても、ぐるりと敷地を取り囲む塀がある。

乗り越えられそうな場所を見つけたとしても、きっとよじ登っている間に誰かに見つかってしまう。

というか、この感じだと乗り越えられそうなポイントを探す前に誰かに目撃されてしまうだろう。

今の自分の服装は中等部の校章の入ったTシャツにとても目立つ鮮やかな指定の赤ジャージだ。

今まで見つからなかったのが奇跡な程目立つこの格好では、一目で中等部の生徒だとバレてしまう。

せめて部活のジャージを着てくればよかったと後悔しながら同時にこんなところへ呼び出した先輩のことを恨む。

先輩が敷地の外で待ち合わせてくれればよかったんだ……!

倉庫の壁に隠れながら髪をぐしゃぐしゃと掻き回して悩んでいる時だった。


「あ、中学生」


突然掛けられた声に心臓が飛び出すかと思った。

冷や汗をかきながら固まってしまっている首をギギギと動かす。

振り返るとすぐ後ろにはこの暑いのにネクタイにベストまで制服をきっちりと着込んだ高等部の生徒が立っていた。

じっと見てくる彼は自分より少し身長が高いが体は華奢で体重は軽そうだ。

綺麗な顔立ちの、涼し気な瞳でじっと見つめてくる。

まずいと思いながらも一応立ち上がって向き合ってみた。


「え、えっと」

「あ、キミ知ってる。陸上部の片桐怜って人でしょ?」


相手は生徒だし、見逃してもらえないかと思い声を発するがそれは目の前の相手に遮られる。

しかもなぜか見ず知らずの高等部生に自分の名前を言い当てられ驚きにビクッと肩を跳ねさせてしまった。


「え、そうです……けど、なんで?」

「幼馴染みが陸上部で、大会とかよく見に行ってたから」

「あ、そうなんスか」


しかしそれでもよく覚えているな、と思い若干の居心地の悪さを感じながら頷く。

そんなこちらの様子にはおかまい無しで、彼はこの状況で更に俺の話題を続けた。


「確か短距離、100と200に出てるよね」

「はい、そっス」

「足速いよね」

「いえそんな、どもっス」

「フォームも綺麗だなって思ってた」

「え、マジっスか。あ、ありがとうご」

「で、なんで中等部の生徒がここにいるの? 手続きした?」

「あ、いえ……それは……その……」


なぜか自分を褒め出した相手に段々悪くない気分になり始めた時、突然話が戻されてしどろもどろになる。

取り敢えず誤摩化しの笑いを浮かべた俺に、彼は短い溜息を吐いておもむろにポケットから何かを取り出した。

さっと腕に通された腕章。

その濃紺にはっきりと書かれた『執行部』の文字に思わず口元が引き攣る。


「僕、一応役員やってるんだよね。二年書記の織笠千歳……って中等部の子に言っても意味無いか」


あまり変わらない表情で淡々と言われ、肩を落として覚悟を決めた。

近付いてくる彼の足音に混ざって、倉庫の死角側からも段々と大きくなる複数の声が聞こえる。

恐らく、門の所で作業をしている委員会だ。

彼が、織笠さんが声のする方を見た。

挟み撃ちにあってしまった。

これはもう絶体絶命だな、そう思った瞬間。


「えっ、わぁっ」


突然目の前まで近付いた織笠さんに突き飛ばされた。

受け身を取ることも出来ず尻餅をついたのは倉庫の中だ。

不幸中の幸いか、ちょうど乱雑に積まれた古いマットの上に倒れ込んだのでダメージは最小限で済んだ。

もわっと舞い上がった埃に目を細めながら顔を上げるとピシャン、と扉が閉まり、容赦なく俺を突き飛ばした織笠さんも中に入って来る。

そして事態が飲み込めないうちに手を掴んで強引に立たされ、ボコボコに歪んでいる空のロッカーに押し込まれた。


「ちょ、ちょっと」

「しぃー」


すぐ目の前には織笠さんの端正な顔。

キィと閉められた狭いロッカーの中、なぜか男二人で向かい合っているこの状況。

隙間から射し込む光が彼の唇に落ちる。

話し掛けようとするとその形の良い唇の上に人指し指を立てて止められてしまう。

暫くするとガラッと勢いよく扉が開く音がした。


「あるかー?」

「ちょっと待って下さいよ。つーかこれ倉庫一回掃除した方がいいですって」


少し遠くから聞こえる教師らしき声と、ロッカーの外、すぐ近くの声。

黙って隙間から外を窺う織笠さんを見て、彼らから匿ってくれたんだと気付いた。

……暑い。

現状を認識し、とりあえず教師に見つかる事態は避けられたようだと安心した途端、思い出した様にそう感じた。

背中を汗が伝い流れていくのが分かる。

目の前にいる織笠さんは、俺よりずっと着込んでいるのに涼しそうに見えた。

その瞳がすっとこちらを向き至近距離で目と目が合った。

肩口に顔を近付けられ、なぜか鼓動が速くなる。


「部活してきたの?」


こそこそと潜められた声が耳元に響く。

かかる吐息がくすぐったい。


「はい。っていうかまだ途中で……」

「汗臭い」


くすっと楽し気な声。

あ、笑った。

そう思っても、生憎薄暗いロッカーと近過ぎる距離のせいで表情がよく見えない。

なんとなく、惜しいなと思いながらこの状況を思い出す。


「あの、」

「静かに。見つかるよ、本田先生厳しい人だから……」


見つかったら絶対に見逃してもらえない。

言外にそう伝えられ、また絶対に見つかるなと言った無責任な先輩の顔が浮かぶ。

無茶言わないでくださいよ……。

心の中で先輩に文句を言う。


「って、ちょっと……!」

「ん?」


突然体の前面にぐっと体重が掛かり、咄嗟に狭い箱の壁に手を付き体を支える。

すぐ耳元からは織笠さんのとぼけた声。

そして物音を立ててしまったことに焦る。

ロッカーの隙間から覗くと、委員会の生徒は本人も器具を動かしていたらしく気付いていないようだった。

ほっとすると同時に眉間に皺を寄せる。


「何してるんですか。見つかったら俺……っ」

「んー? 大丈夫、こんな体勢で見つかったら僕も結構ヤバいから」


平気な声で答えられ反論しようとした時、太腿に這う感触に織笠さんの言葉の意味を理解した。

ジャージの上からするりと腿を撫でられ、更に腹にも逆の手が添えられる。


「ちょちょちょっ」

「太腿かたいね。腹筋も……」

「そりゃ一応トレーニングしてるし……っじゃなくて!」

「静かにしないと見つかるってば」


何で俺は狭いロッカーに隠れて二つも年上の同性にセクハラまがいのことをされているんだ。

さっきから落ち着かない動悸の原因が自分でもいまいち分からない。

見つかるかもしれない緊張感からか、それとも。

……もう一つの心当たりは出来れば考えたくない。

一つ確信したのは目の前のやけに綺麗な顔をした高校生が変人だということだけだった。



────



高い湿度と気温。

生温い風が頬を撫でる。


「でも結局見つからなかったんだろ?」


ベッドに凭れた先輩がソーダ味のアイスを齧りながら言った。

先輩とは家も近く、一緒に部活をしていた頃から今も変わらずこうしてよく一緒に遊ぶ仲だ。

エアコンの故障している部屋で頼りの扇風機は少し先輩側に偏り過ぎな気がする。


「見つかりませんでしたけどぉ……」


しゃり、と同じ味のアイスを大きく齧りながら先輩を睨む。

小さな液晶テレビには昨夜の録画のサッカーの試合が流れている。

俺、これ結果知ってるんだけどな。

そう思いながら足下に開いたまま置かれている陸上雑誌を手繰り寄せた。


「で、その執行部役員って?」

「あー、なんか変な人でした。なぜか俺のこと知ってて」

「ふーん? ……なぁもしかしてさ、そいつ……あーっ!」


少し考える素振りをしてから口を開いた直後、先輩はテレビの中で味方側のゴールに押し込まれたボールに叫び声を上げる。

話の続きの方が気になった俺はつい、結局後半で取り返してちゃんと勝つから大丈夫ですよ、と言おうとして寸前でやめた。

昨夜用事があった先輩はこの試合結果も見ずに楽しみにしていたらしいし、この間の恨みもあるけど俺もそこまで鬼じゃない。


「しっかし相手の11番速えーなー」


少し前のめりになった先輩が感心した様に言う。

それには同意。

俺も昨日そう思った。


「それで先輩、執行部の人がなんですか?」

「ん? ああ、そうそうもしかしてさ、」


やっと戻った話題が、今度はバタンという大きな音で再び遮られた。

弄んでいたアイスの棒を取り落とした先輩が俺の後ろ、ドアの方を向いてから溜息を吐く。

その仕草に首を傾げながら振り返り、思わず俺も銜えていたアイスの棒を落としてしまった。


「その役員って……そいつじゃね?」


そこに腕を組んで仁王立ちしていたのは、間違いなくあの日会った織笠とか言う高校生だった。



────



「織笠さんが先輩の幼馴染みだったんですね」


近所のファミレスで向かいに座った織笠さんに言う。

にこやかに切り出したつもりの言葉は、しかし興味無さ気な一瞥で片付けられた。

隣に座っている先輩に助けを求めたいが、先輩はさっきから会話を俺達に任せて携帯の画面に夢中だ。


戻ること数十分前。

部屋に乗り込んできた織笠さんはなぜか酷く怒っていた。


「今何時だと思ってんの?」


そして俺のことなど目に入ってもいない様子で真っ直ぐ先輩に詰め寄りそう一言。

聞けば織笠さんは今日先輩と買い物に行く約束をしていて、約束の時間を過ぎても先輩が待ち合わせに来ないので乗り込んできたらしい。

この間のCDといい、先輩は織笠さんとの約束を忘れ過ぎじゃないだろうか。

一悶着の後、結局その穴埋めの為にとなぜか俺も巻き込まれ三人でファミレスに来た。

この間のことでついでに俺もおごってもらえることになったから良いか、と思ったがまさかこんなに気まずくなるとは思わなかった。

高等部で会った時と印象の違う織笠さんを盗み見ながら溜息を吐く。

前も愛想は無かったし終始マイペースだったが、こんなに冷たくされることはなかった。

おまけに服装もイメージと違う。

学校ではクソ暑い中制服をきっちり着込んでいたのに今はTシャツにジーンズ、そしてゴツゴツした重そうなシルバーのアクセサリー。

しかもそのTシャツは目に痛いピンク色で、ジーンズの前面にはこれでもかという程のダメージ。

お手本の様に着こなしていた制服とのギャップがすさまじい。

似合うことは似合うんだけど何だかな……と思っていると、俺の視線に気付いたのか目を細めてからそっぽを向かれた。

心当たりの無いまま冷たくされてちょっと落ち込んでしまいそうだ。

おごりだからと即決で頼んだステーキが段々重くなってくる。

頼みの綱である先輩を見ると、丁度パタンと携帯を閉じたところだった。


「ワリ、ちょっと十分くらい外すわ」

「えぇ!?」


ほっとしたのも束の間、突然そんなことを言い出した先輩に思わず縋る様な声が出てしまった。


「今すぐそこに他校の友達来ててさ、ちょっと顔だけ出して来る」


顔の前で手を立てながら笑った先輩は既に椅子から立ち上がっている。

ふと向かいを見ると織笠さんは相変わらず不機嫌そうに頬杖をついて窓の外を見ていた。


「じゃあ行ってくるなー」


止める暇もなくさっさと店を出て行ってしまった先輩の後ろ姿を呆然と見送る。

途端に気まずさを増した空間にカラン、と氷の溶ける音が響いた。


「仲いいの?」

「え?」


さっさと消えてしまった先輩に、仕方無く座り直してグラスを手に取ると織笠さんが口を開いた。


「あいつと、仲いいの?」

「ああ、はい一応……俺の学年部員少ないし、家近所だし、先輩が中等部の時とか多分部内では一番仲良かった、かな?」

「ふーん」


俺の返答を聞き、織笠さんはまた面白く無さそうな顔で目を伏せた。


「あのー、」

「なに?」

「何か怒ってます?」


思わず口に出してからしまったと思った。

しかし俺の言葉に一瞬動きを止めた織笠さんは、驚いた様に目を見開いて顔を上げた。


「あ、ゴメン」

「へ?」


そして突然の謝罪に今度はこちらが間抜けな顔をする番だった。


「それ、あれだから。八つ当たり?」

「え、それは……」

「キミに怒ってるワケじゃないし、気にしなくていいよ」

「そ……っすか」


堂々と八つ当たり宣言をされて微妙な気分になる。

もちろん怒りの原因は先輩だろう。

最近先輩と関わると碌なこと無いな。

そう思いながらふと織笠さんの視線の先を辿る。

二階の店舗の窓から見下ろすそこには、横断歩道を渡って行く先輩の姿があった。

再び視線を織笠さんに戻す。

その不貞腐れた様な横顔に、俺は瞬間ピンときた。

織笠さんは先輩が好きなんだ。

突飛でおよそ一般的ではないその予想は、なぜかしっくりと俺の胸に納まった。



────



俺の意思に反して、それ以来先輩と織笠さんと三人で過ごす機会が増えてしまった。

どうやら先輩は面識の出来た俺と織笠さんを混ぜても大丈夫なものだと認識したらしい。

知ってしまった織笠さんの気持ち(なぜか俺にはその予想が当たっているという根拠のない自信があった)に少しの罪悪感を持つ俺の心情は複雑だった。

きっと織笠さんは先輩と二人で居たい筈なのに。

しかし最初のファミレス以来、彼が俺にああいう態度を取ることは無くなって、それが救いだったと同時に、八つ当たりは本当だったのかとクールな彼の意外にも子供っぽい一面を知った気がした。





「悪いな、俺今度のお前等の大会行けないわ」


放課後、部活を終わらせた帰り道の途中で偶然会った先輩と一緒に歩いていると、そんなことを言われた。


「別に構わないっすけど、なんかあるんですか?」


卒業後も中等部の練習にこまめに顔を出し、大会には欠かさず来てくれていた先輩にしては珍しいことだった。

尋ねると先輩は横目に俺を見てニヤリと笑った。


「お前には申し訳ないんだけどさ〜、彼女出来ちまってな。丁度大会の日が誕生日だからさすがに、な」


思わず足が止まる。

恐らくショックを受けた顔をしていた俺を見て、先輩は勘違いをした様だった。


「いやぁ普通だよ普通! 大丈夫だってお前もその気になればすぐ出来るさ!」


ばしっと背中を叩かれてその勢いで再び歩き出す。


「おいおい、何そんなビックリしてんだよ?」

「いや、それ先輩の勘違いじゃなくて本当に彼女ですか?」

「……失礼な後輩だなお前も」


先輩には冗談の様に聞こえたらしいが、俺としては結構真剣な言葉だった。

だって、それじゃあ織笠さんが失恋してしまう。


「マジに決まってんだろ。俺こう見えてモテっから」


それは、ちょっと知ってます……。

ふざけた口調の先輩に心の中だけでそう返す。

俺が知ってるのは一人だけど。


「マジだから、モテるのも彼女出来たのも! あ、今度紹介する?」

「あー、いや、大丈夫です」

「つれねーなー。男の嫉妬は見苦しいぞ」


笑顔の先輩は、少し浮かれているみたいだった。

なんで俺が切なくなってるんだろう。

いつの間にか織笠さんに感情移入していたんだろうか。

肩に回された先輩の腕の重みが心にまでのしかかる。



────



中等部は期末テスト一週間前の準備期間に入った。

タイミング良く訪れたテスト期間のお陰であれから先輩とも織笠さんとも会っていない。

高等部の正門の前を早足で通り過ぎる。

一人で勝手に気まずさを感じて、気を遣ってるつもりになったりとか。

俺、何やってるんだか。

俺の立場って一体何なんだろう。



サァァと静かな音と共にいきなり雨が降り出した。

慌てて後少し、家までの道を走る。

なんとかあまり濡れずに辿り着いた玄関の前で細かい雨粒を払いながら鞄を漁り、そしてポケットを探る。

持っている筈の物が見つからない。

その体勢で数秒固まり、そして記憶を辿る。


「マジか……」


思わず一人呟きながら、庇の下を通って庭へ回る。

リビングの窓から覗くとレースのカーテンの隙間、テーブルの上に今正に必要な物、家の鍵が鎮座していた。

今日は父親の帰りが遅く、母と姉は気楽に温泉旅行へと出掛けて行った。

つまり父が帰って来るまで俺は家に入れない。

よりによって苦手な英語の前日にこれは。

窓に貼り付いたまま深く溜息を吐く。

未練がましくガラス一枚隔てた向こうの鍵を見つめるがもちろん何が起こるわけもなく、再度重い溜息を吐いてから玄関に戻った。

学校に戻るか、それとも図書館の方が近いからそこで勉強をするか。

しかしどちらにしろ父が帰宅するのは夜11時以降。

学校も図書館もそんなに遅くまで開いていない。

しかも家に入れないから傘も無いままだ。

頭を抱えていると家の小さな門扉の前で見慣れた人が足を止めた。


「どうしたの?」


目が合った織笠さんはグレーの傘を差したままゆっくりと小首を傾げた。



なんとなくバツが悪い気持ちになりながらも、久しぶりに会った織笠さんに事情を説明すると、呆れた様な顔をされた。

しかし自分でもよりによってこんな日にという気持ちだったので半笑いで返す。


「しかも明日英語なんですよね……俺苦手で……」


はは、と乾いた声を出すと織笠さんは僅かに首を傾げてからぱっと視線を俺に戻した。


「そっか、中等部は今テストだっけ」

「はい……というわけなんで、俺そろそろ図書館行きますね」


頭の後ろを掻きながら頷き、とりあえず立ち話はこの辺りで切り上げようと門を挟んだ織笠さんにそう切り出す。


「まぁ、じゃあうち来なよ」

「へ?」


しかし、俺の言葉を綺麗に無視して織笠さんはそんなことを言った。

意外な言葉に思わず動きが止まる。

そんな俺を気にする事無く、織笠さんは方向を告げる様に道の向こうを傘の柄を持つ手で差してからさっさと歩き出してしまった。


「え、ちょっ」


慌ててその背中を追いかける。

追い付いた俺を見て織笠さんはぴくりと形の良い眉を動かした。


「傘は?」

「あ、持ってないです」


二度目の呆れ顔。

鞄を雨避けに掲げながら隣に並んだ俺に溜息を吐いてから、織笠さんは肩に掛けていた自分の鞄を反対側に持ち変える。


「えっ、いや、そんな」


自分の頭上にかかった濃いグレーの傘に慌てる。

細かい雨だし、夏なんだからこのくらい平気だ。

しかし傘を出ようとして離れれば離れた分だけ織笠さんが距離を詰めて来るので、何メートルも歩かないうちに観念することにした。


「なんか、ほんとすいません……」

「別にいいよ、」


その後に何かまだ続きがありそうな、そんな言い方だったのにいくら待ってみても彼は口を開かない。

そっと横顔を盗み見ると、織笠さんはもういつも通りの涼しい顔でただ前を見ていた。



────



織笠さんの家は、同じ町内の先輩の家のすぐ裏にあった。

幼馴染みの先輩の家が近所なんだからそりゃ織笠さんの家だって近所に決まってるよな。

そんなことを考えながら家に上がらせてもらう。

真っ直ぐ通された織笠さんの部屋は、想像と違って普通に高校生男子の部屋だった。

ベッドの布団は朝起き出したままらしく半分ずり落ちているし、床に落ちているジャージを下敷きに積み上げられた雑誌やCDは危ういバランスを保っている。

謎の安心感を覚えながら一人頷いていると、織笠さんは無造作に脱ぎ捨てられていた靴下を拾い上げながら俺を振り返った。


「適当に座って。ちょっと散らかってるけど別に片付けなくていいよね」

「はい、そんなのは全然!」


相変わらず織笠さんペースな宣言にむしろ落ち着く、と思いながらテーブルの前に座り込み、そして気付いた。


「あれ、これって先輩の部屋と同じテーブル?」


見慣れたガラス台のデザインにそう口に出すと、部屋から出ようとしていた織笠さんが振り返った。


「ああ、うん」


それだけ、頷くだけで織笠さんはどこか決まり悪そうにさっと顔を逸らして出て行ってしまった。

今の、なんだろう。

その半開きのドアを暫く眺めた後、視線を部屋中に巡らし、なんとなく芽生えた既視感に一人で頷く。

織笠さんの部屋は、どこか先輩の部屋に似ていた。

丸っきり同じなのはテーブルだけだが、ベッドや机の配置や黒っぽい生地のカーテンも似ている。

どちらが先なのか実際の所は分からないけど、でもやっぱりこれも織笠さんが先輩のことを好きだからなんだろうか。

それに気付いた瞬間、さっきまでと一転してどこか落ち着かない気持ちになる。

先輩の部屋と同じ場所にある本棚を見ると、一番端に陸上の雑誌が数冊並んでいた。



────



「これ違う。熟語間違って覚えてるでしょ」

「え、マジっすか? うわー」


テスト範囲になっているテキストの問題を解き直していると、横から覗き込んだ織笠さんが書いたばかりの英文を指でなぞった。

部屋の時計は午後11時を回っている。

父に送ったメールにはついさっき、まだ帰れないと返信が来たところだった。

指摘された箇所を教科書で確認する俺を織笠さんは濡れ髪をタオルで雑に拭きながら見ている。

ちなみに俺も織笠さんの前にお湯を頂いたし、その前には夕飯まで御馳走になってしまった。


「へー、ホントに苦手なんだ……これ時制が違う、これはスペルミス」


織笠さんは手を伸ばして赤ペンを取り、勝手に俺の回答を訂正し始めた。

思った以上に出来が悪いが、英語が苦手な俺としてはそれよりも答えも見ずにスラスラと直していく織笠さんに感心してしまった。


「織笠さんって頭いいんですね」

「んー? うん」


み、微塵も否定しなかった……。

やっぱり学年でも上位争いとかそういうレベルの人種なんだろうか。

イメージぴったりだけど。

そんなことを考えていると全て直し終わった織笠さんがペンを置く。

ポタリと髪の毛から雫が落ちて赤インクがじわりと滲む。


「英語以外は出来るの?」

「いや、あと数学と理科も。まぁ数学はもう終わったんですけど……二重の意味で」

「……」

「溜息止めてください!」


訂正だけでなくポイントが簡単に纏められたテキストを返され、驚嘆しながら事実を話すと呆れた目を向けられた。

とりあえずここだけでも頭に叩き込もうとシャーペンを手に取る。


「……理科はいつなの?」


頬杖を突いてそんな俺を眺めていた織笠さんが呟く様に聞いてくる。


「明後日の最終日です」

「ふーん」


興味なさそうな返事に、ひとまず会話を切り上げて勉強を再開した。



────



時計の秒針とペンを走らせる音。

それから織笠さんが時折立てるページを捲る音だけが空間を支配する。

あの後もちょこちょこと様子を見ては教えてくれた織笠さんのお陰で勉強はかなり効率的に進んだ。

なんとか範囲を一通り終わらせて一息ついた時、ボフッと大きな音が響いた。

顔を上げると織笠さんがベッドに仰向けに倒れたままこちらを見ている。


「もう寝ようよ」

「あっ、すみません遅くまで……って二時!?」


時計を見上げて驚く。

こんなに長いこと集中していたなんて我ながら珍しい。

それから邪魔しないで付き合ってくれていた織笠さんに申し訳なさがこみ上げる。


「やっばい、ホント今日は……そろそろ帰ります!」


慌てて荷物を纏め始めると織笠さんは上半身を起こし、抱き締めた大きなクッションの上に顎を乗せた。


「帰るって……家入れんの?」

「あ、えっと……」


慌てて携帯を確認する。

いつの間に届いていたのかメールが一件。

差出人は父で、内容は。


「えーっと、『多分朝方には帰ります。ゴメンネ。』……って、え?」


期待を大きく裏切ったメールに間抜けな声が漏れる。

ちなみに父には鍵を忘れたことは伝えていない。

遅くなっているのもトラブルがあったかららしいし、変に心配をかけたくなかったから。

それでもここまで遅くなるなんて、予想していなかった事態に真顔で固まる。


「じゃー帰れないじゃん。泊まってけば?」


大きなあくびと共に織笠さんが言う。

申し訳ない、と思いながらも、今はそれに縋るしか無いようだ。


「はい……それじゃあ、すみませんけどいいですか?」

「ん」


織笠さんが小さく頷く。


「お世話になります……ってもうなってるけど」

「あ、でも……まいっか」


ベッドの上の織笠さんに一応ペコリとお辞儀をすると彼はまた頷いてから何かを言いかけてやめしまった。

その続きが気になり首を傾げるとベッドのマットをポンポンと叩きながら言う。


「客用布団親の寝室に置いてあるんだよね。だからベッドでいい?」


その言葉に俺は勢い良く頷いた。


「全然! ていうか布団とか無くていいです、織笠さんベッド使って下さい」


俺に寝床を譲ろうとしているのかと思いそう返すと、彼はきょとんと不思議そうな顔で首を傾げる。


「え、うん。もちろんベッド使うけど……?」


そして微妙な間が空く。

いまいち噛み合っていない気がする会話に俺も同じ様に首を傾げた。


「早く寝ようよ」


そして同じ表情のまま織笠さんが言う。


「はい。あ、出来たらクッションだけ貸してもらってもいいですか?」


床で寝るつもりで、この雰囲気からなんとなく控えめに聞くと織笠さんが立ち上がった。


「ああ、そういうこと。違うって、だからベッドで寝よって言ってんの」

「え、ちょっ、いやいやいや」


目の前まで来た織笠さんに腕を掴まれ、そのままベッドまで連行される。

思いの外強い力に驚いているうちにやや乱暴にベッドへ上がらされてしまった。

二人分の体重にぎしりとスプリングが軋む。

隣には既に織笠さんがいて逃げ道を塞がれた気分だ。


「あのー、さすがに一緒のベッドで男二人は……」

「そんなに嫌?」


上半身を起こしながら言うと、不満そうな表情を浮かべた織笠さんが見上げてくる。


「や、嫌って言うか、やっぱ狭いし……」

「明日テストなのに床で寝て体痛いとか最悪でしょ。一応セミダブルだよ? 僕寝相良いし」

「暑……くないですか?」

「エアコン入れとく?」

「……」


ピピッと織笠さんがリモコンを操作する。

口実が尽きた。

正直、男同士なんだしそんなに気にすることでもないとは思うし嫌なわけじゃない。

少しも嫌じゃないはずなのに。

頭で考えられる理由以外の何かが戸惑わせる。

それが何かよく分からない……と思う、多分。

諦めてぽすんと体を倒すと、織笠さんが一枚の薄いタオルケットを二人の体に掛けてくる。

……だめだ、やっぱりだめだ。

脈拍が上がっていくのを感じた。

──俺、織笠さんを意識している。

よりによってこんなシチュエーションでそれに気付いてしまうなんて。

そろそろと体を横向ける。

織笠さんとは逆の方向へ。


「やっぱり嫌?」


その瞬間、後ろから少し困った様な声がかかった。

普段そんな言い方しないくせに、こんな時に限って。


「全然、嫌じゃ、ない、です」


ぎこちない喋り方になってしまったことをまずかったかと思った時、ごそ、という音と共にベッドが揺れた。


「わっ、ちょっ、ちょっ、何して……っ」


何を思ったか織笠さんが突然後ろから抱きついてきた。

首筋に顔を埋められパサリと髪がかかる。

そのままもぞもぞと動かれると毛先がちくちくしてくすぐったい。

さっきからドキドキと緊張で経験の乏しい青少年は困惑の極みだっていうのに人の気も知らないで。


「ん、石鹸の匂い……」


呟かれて初めて会った日のことを思い出した。


「お、織笠さんって、匂いフェチかなんかですか?」

「え? わかんない。初めて言われたけど、そうなの?」

「俺に聞かれても……っ」


織笠さんはただふざけて……るのかどうかはよく分からないが、ただの戯れのつもりだろう。

だけどこっちはじゃれる様に体に回される腕に暴れる心臓がバレない様死守するのに必死だ。


「わかんないけど、怜君の匂いは結構好き……」


思わず固まった。

もうどうにでもなれ。

そう思って硬くしていた体に力を込めた。


「ん……?」


ギシッとスプリングが派手に軋む。

形勢は逆転して今俺は仰向けになった織笠さんの顔の横に両手を付き上から見下ろしている体勢だ。

きょとんとした隙だらけの表情。

それを見て、俺の方は今どんな顔をしているのかと一気に不安になってきた。


「あのっ、織笠さん!」


一度ぎゅっと目を瞑り、それから勢い良く名前を呼んだ。

……のだが。


「えっ、えっとー、あー……」


それで、それから何を言えばいいのか分からん。

テンパった頭で勢いのまま動いてしまったが、ここからどうしたらいいのか、何も考えていなかった。

沸騰しかけていた脳が機能し始め、この状況を冷静に認識し出す。

無防備に寝そべる織笠さんをまるで押し倒している体勢の自分。

片膝は、自然な格好で開かれた織笠さんの両足の間、際どい位置に置かれている。

自分が意識し過ぎなだけだとは分かっているが、冷や汗が出てきそうだ。


「あ、あの……」


沈黙に耐えられず、何か言わなければという一心で口を開く。

そしてはっとした。

さっきまで呆然としていた織笠さんが、今はその眉を寄せ、唇をきゅっと引き結んで僅かに赤い顔で俺を睨んでいた。


「いや、えっと……痛っ!」


怒らせたとか、不快にさせたとか、嫌われたとか、初めて見る表情だ、とか。

そんなことを同時に考えながら焦ってつい顔を近付けてしまった次の瞬間、股間に強烈な痛みが走った。

思わず両手でそのデリケートな部分を押さえ倒れ込むと、そこを蹴り飛ばした張本人の織笠さんは既にするりと身を躱してしまっていた。

今まで織笠さんの頭が乗っていた枕にぼすんと沈む。

……いい匂いがする。

この激痛の中でも若干の余裕はあるようだと我ながら呆れた。


「大丈夫?」


暫く悶えていると、横から涼しい声がかかりぐるりと顔を向ける。

見ると隣には既にいつも通りの平然とした表情の織笠さんが、俯せで頬杖を付きながら俺を覗き込んでいた。


「大丈夫じゃ、ないっすよ……」


同じモノを持ち、同じ痛みを知っているはずなのになんで躊躇いも無くこんな残虐なことが出来るのか。

恨みと涙を浮かべた瞳でジロリと睨むと、彼は一度肩を竦めてからくるりと仰向けになった。


「ふざけてないでさっさと寝よ。寝不足だと頭働かないよ」

「そ、そんな……俺今それどころじゃな……」


そしてカチカチとリモコン操作で部屋の照明を落とす。

豆電球の頼りない明かりの中、俺は霧散した緊張感の代わりに痛みと戦いながら眠りに就くことになった。



────



テストが終わり、学校を出た。

織笠さんに見てもらった英語は、あくまでも自分比でだがかなりの出来だった。

満足感に軽い足取りで帰宅の道を歩く。

途中の自販機で頑張った自分にご褒美をと口実を付け、アイスクリームを買うことにした。

財布を取り出そうと鞄を漁り、ふわりと香った慣れない匂いに一瞬手が止まる。

結局通学時間になっても父は帰って来ず、今朝は織笠さんの家から登校した。

別に平気だと言ったのに、夏なのに衛生的でないと織笠さんはシャツを貸してくれた。

夏服は中高どちらも上は無地の半袖シャツだ。

身長が近い織笠さんのそれはサイズもデザインも普段着ている物と変わらなかったが、仄かに甘い匂いがした。

テスト中も、そのことを意識する度に昨夜のことを思い出して悶々としてしまった。

俺は今、織笠さんのことが気になっている。

友人とか先輩とか、それ以上の対象として。

そこまで考えて、はぁと肩で溜息を吐いてしまった。

だって織笠さんのことを好きになったところで、織笠さんは先輩のことが好きなんだ。

見込みが無いと分かりつつ惹かれてしまうなんて。

……織笠さんも、同じ報われない恋をしてるのに、世の中ってうまくいかないな。

チャリンと小銭を自販機に入れる。

パッと点灯したボタンを前に、バニラとチョコミントで迷った。

二つのボタンの間で指を往復させながら、迷った末にバニラと決める。

しかしボタンを押そうとした時、突然肩の後ろから伸びてきた手にチョコミントを押されてしまった。


「へっ?」

「この暑さマジで死ねるわー。アイスアイス」


固まった俺の横に立ち出てきたアイスを取り出したのは先輩。


「ちょっと何してくれてんですか!」

「だってこのクソ暑いのにバニラなんて甘ったるいの食ってらんねー」

「俺が食べるんだから関係ないでしょ! いいから早くお金入れてくださいよ! 俺のバニラ返して!」

「……」


なんでそこで嫌そうな顔をするんだ。



結局先輩に財布を出させて、無事買えたバニラのアイスを片手に二人並んで歩く。


「ところで先輩もう学校終わったんですか?」

「昨日からこっちもテスト期間」

「あ、そうなんすか」

「おー」


そういえば織笠さんも昨日昼頃に帰って来てたもんな、と今更なことを思う。

あの時は鍵のことで、その後は勉強で、思い至る余裕が無かった。


「こっち明日で終わりなんすけど、最後に理科が残ってるんですよね……」

「あー、お前理数苦手だっけか」

「あと英語も」

「俺も似た様なもん。初日物理間に合わねー……」


半分も残っていないアイスを一口で更に半分まで減らしながら先輩がうなだれる。

その時強い風が吹いた。

涼しさとは無縁の熱風に近いそれに思わず目を瞑る。

それでもシャツの下の汗ばんだ肌を風が通り抜ける感覚は少し心地いいかもしれない。


「ん?」


一瞬で風が止んだ後、先輩が突然顔を肩の辺りに近付けてきた。


「なんすか?」


遠慮無くシャツに鼻をくっつけてくる先輩をそのままに聞いてみる。

すると先輩は顔を近付けたままで考える様に首を傾げている。


「なんかお前今日いい匂いすんな。なんだこれ、嗅いだことある匂い」


先輩の言葉になぜだか一瞬ドキッとした。

揺れる度にふわりと零れる芳香をまた意識する。


「あ、多分織笠さんです。このシャツ借りたんで」

「へ? なんで?」


織笠さんの名前におお、と頷きながら、その後に続いた内容に先輩は少し驚いた顔をした。

そこで昨日の経緯を話す。

鍵を忘れたり傘を忘れたりというくだりに笑いながら茶々を入れていた先輩は、しかし話し終わった時には珍しい物でも見た様な表情を浮かべていた。


「へーマジで? 珍しいこともあるもんだな」

「いや、でも昨日は俺がすげーアホだったんで……同情してくれたのか勉強まで見てくれて」

「いやいやマジで珍しいわそれ。あいつ基本的に困ってる他人とかスルーしてくタイプだもん」

「先輩、さすがにその評価酷……」

「マジだって! しかも泊めるとか考えられんわ。俺でさえ最後にあいつんち泊まったの中一とかだし」


ぴくり、と反応してゆっくりと隣を見る。

先輩は食べ終わったアイスの棒を、道端にあったクズ籠に放り投げているところだった。



────



帰宅するとクーラーでガンガンに冷やしたリビングで父が寝ていた。

恐らく、午前中に帰ってきたのだろう。

設定温度を上げて適当にバスタオルを掛けておいた。

それから自室へ上がろうとして足を止める。

借りたシャツ、洗濯した方がいいかな。

そう思って洗濯機のある風呂場の方へ行った。

シャツを脱ぐとまたあのふわりとした匂い。

襟足や、自分の体にもそれが移ってしまっている気がする。


「あ〜!」


じりじりとした気持ちがこみ上げて勢いよくしゃがみながら髪をわしゃわしゃと掻き混ぜる。

そのまま服を全て脱ぎ捨てて風呂場に飛び込み、シャワーを浴びることにした。



シャワーから上がってリビングへ行くと、父はいなくなっていた。

ちゃんと寝室で寝たか、と床に落ちたままのバスタオルを拾う。

ソファに座って涼んでいるとどこかで小さな振動音がした。

音の出所はスクールバッグ。

テーブルの向こうに置いたままだったそれを引き寄せて携帯を取り出す。

新着メールの差出人は、俺の頭を悩ませている張本人。


『理科教えてあげる。今から来なよ』


帰り道の先輩の言葉を思い出す。

高揚感と戸惑いが胸の左右から躍り出て高揚感が勝利。

ダダダと大きな足音を立てて自室へ上がると、急いで着替えをした。

必要な勉強道具だけ持って玄関へ行き、慌ててまた洗濯機の所へ戻るとまだ洗濯していなかったシャツを掴んで今度こそ家を出た。



────



「すみません、これ……あの、まだ洗濯してないんですけど」


玄関に迎え入れてくれた織笠さんに借りていたシャツを返す。

勢いで持ってきてしまったが、洗濯しないまま返すなんて非常識だったかと今更心配になった。

しかし織笠さんは特に気にした様子もなくそれを受け取ってくれて、ほっとしながら靴を脱ぐ。


「って、何してるんですか!?」

「んー、別に」


靴を揃えて立ち上がると、織笠さんはなぜか手に持ったシャツに鼻先を埋めている。

半日とは言え暑い中着たものだ、汗臭いはず。

恥ずかしくなって大声を出すと織笠さんはなんでもない顔をしてさっさと歩いて行ってしまう。

織笠さんって本当に匂いフェチとかそういう属性なんじゃないかな、と不覚にも早くなってしまった鼓動を鎮めながらその後ろ姿に付いて行った。



「これは……多分出ないよ。出たとしても今の怜君には解けないから覚えるだけ無駄」


テーブルの角を挟んで座った織笠さんにぴしゃりと厳しいことを言われて口を噤む。

確かにその通りではあるけど……と思いながら教科書に書き込みをしていく織笠さんを眺める。

サラサラと出題範囲の重要箇所にアンダーラインを引いていく指先は細くて、ペンの持ち方まで綺麗だった。

相変わらず私服は派手なTシャツで、今日は部屋着なのかジャージのハーフパンツを短く捲り上げて穿いている。

テーブルの下であぐらをかいていた足に、ちょん、と織笠さんの裸足のつま先が当たった。

そろそろと視線を下げる。

くるぶしの浮き出た足から徐々に上へ。

この季節なのに日焼けをしていない、白いふくらはぎ。

そして無防備にさらけ出された柔らかそうな太腿の……。

と、余計なことを考えてしまう頭を軽く振り、ぱっと顔を上げた。


「そっ、そういえば、織笠さんも自分の勉強あるんじゃ……」

「自分の?」


一人気まずくなって思いついたことを言ってみると織笠さんは教科書から目線だけ上げて俺を見た。

その仕草がほのかに色っぽく感じられて、もう自分は重症だと思った。


「あの、高等部もテスト期間だって……」


目が見られなくて思わず喉元の辺りに視線をずらす。

そこには男性らしい喉仏がしっかりとあって、だけどそんな部位でさえもなぜだか綺麗に、魅力的に思える。


「ああ。別に、テスト勉強なんていつもしてないから。しなくても余裕だし」

「……」


悶々と持て余していた気持ちが一気に霧散した。

目の前にはっきりと見える気がする。

これが分厚くて高くて超えられない、スペックの壁というやつだ……。



ヴーヴーと、静かな空間に携帯の着信音が響いた。

例題を解く手を止めてちらと見ると織笠さんが携帯を弄っている。

誰からだろう。

気になっても、俺にはそれを聞く理由がない。

自覚する前なら気軽に聞けたかも、なんて思いながら問題に戻ろうとした時、織笠さんがぽつりと小さな声で言った。


「あいつ彼女出来たって知ってた?」

「え?」


突然の台詞に首を傾げる。

意図を予測しようと頭を動かし始めて、しかしその表情を見てすぐに理解した。


「もしかして先輩のことですか?」

「うん」


目は、合わない。

なんで今この話題なんだろ。

そんな顔しないで欲しいな、悔しい、心臓痛い。


「あー……この間聞きました」

「そっか。僕は今日陸上部の女子に聞いた」


言葉を選ぼうとして、でも正解の解答が分からなかったから事実を答える。

でもその後の織笠さんの言葉でちょっと後悔した。

お世話にはなっているけど、先輩が恨めしい。

色んな意味で。


「そ、でしたか」

「うん」

「織笠さんは……」

「僕、足の速い人が好きなの」


一見、脈絡の無い発言だけど、俺にはなんとなく分かってしまった。

好きっていうのは、多分恋愛対象としてのそれの話だろうな。


「足速いのってかっこいいじゃん。女子よりも男子の方が速く走れるよね」


男が恋愛対象だと取れる発言。

でも、それを俺に伝えてどうしたいのだろうか。

ていうか、やっぱりダメージあるなー。

俺、織笠さんのこと好きだから。


「……何ていうか、小学生の女子みたいなこと言いますね」


俺の言葉に織笠さんは一瞬きょとんと隙だらけの表情を浮かべた。

その唇がゆっくりと弧を描き、そして心底おかしそうに声を出して笑った。

織笠さんが好きなのは足の速い人じゃなくて、先輩、なんじゃないの、なんて。

そんなことはさすがに言い出せず鮮やかで切ない笑い顔をぼんやりと見つめていた。


失恋が確定したのに、そんな顔見せられたら余計好きになるよ。



────



『あいつは……昔から人と仲良くなるのが得意で、いつもみんなの輪の中心にいた。幼なじみだったけどそんなとことか僕とは正反対でさ』


あの日、勉強を見てくれた後織笠さんはわざわざ俺を家まで送ってくれた。

近所だからすぐに着いてしまう距離を、ゆっくりと歩きながらそんな話をしていた。


『足が速くて女子にもモテて、なのに僕ともずっと仲良くしてくれて……そういうとこに、ずっと憧れてた。本当に、憧れ過ぎて部屋とか服とか色々真似してみたりもしたし。その辺は今考えると笑えるよね。馬鹿みたいだよ』


自嘲する織笠さんの言葉が、その声が、辛くて困った。

俺は、彼らしくない私服だとか部屋の家具の配置なんかを思い浮かべながら街灯の明かりを見ていた。


『好き、なんですね』



『うん……ずっと好きだったよ』



ここ何日も頭から離れない台詞が頭の中で繰り返される。

分かっていてもその口から聞きたくなかった。

真っ暗な部屋の中で、真夏だというのに掛け布団を頭まで被って耳を塞いだ。



────



夏休みに入って一週間。

あの日以来織笠さんとも、勿論先輩とも、何も関係は変わっていない。

多分俺と織笠さんがこっそりと切なさを隠しているだけだ。

それを紛らわす様に俺は部活に打ち込んだ。

たくさん全力で走って、疲れて、考える余裕を無くせばいいんだ。

思ったより単純に出来ていた俺は、そうすることで結構普通に過ごせてしまっている。



暑いグラウンドで、吐きそうになる程全力で午後の部活に励んだ。

この夏の大会次第では、三年の俺は部活引退。

エスカレーターで外部に受験もしないとは言え、一応進学の試験もある。

高校に進んでも、織笠さん達とは一年しか一緒に通えないんだな。

そう思うと、今の中等部や部活のことを通り越してそっちの方がなんだか悲しい。

片付けをして着替えると、帰る方向が同じ部活仲間に用事があると告げ、門の前で手を振って別れた。



向かったのは中等部と高等部の中間辺りにある、市営のグラウンドだった。

高等部の陸上部はよくここを使って練習をしている。

立ち寄ったのは本当になんとなく、思い付きでだった。

高等部の方が遅くまで練習していることが多いし、たまには先輩の部活してるとこを見て、もし時間と都合が合えば一緒に帰ろうかな、と。

ただ何も考えずに特に理由も無くそう思っていただけだった。




「あれ?」


グラウンド全体がよく見渡せる、土手みたいになっている辺り。

その、グラウンドに下りる階段のところ。

見慣れた背中がぽつんと座っていた。


「織笠さん」


近寄って行って声を掛けると、彼は静かに振り返った。

その隣に、少しだけスペースを空けて腰を下ろす。

織笠さんは夏休みなのに制服を着ていた。


「部活帰り?」

「はい。織笠さんは……制服?」

「生徒会の用事があって」


そう言って珍しくふわりと笑った。

織笠さんの後ろ、西の空が赤く染まっている。

心臓がきゅっと音を立てた。

鉄柱が長く影を落としたグラウンドに視線を向ける。

陸上部はまだ練習中で、でも顧問やコーチの姿は無い。

時間も遅いし自主練なのだろうか、男女混じった部員達には楽し気な雰囲気が漂っていた。

時折、部員達の笑い声や叫び声が、距離のあるここまで聞こえてくる。

その中には勿論先輩の姿もあって、でも彼は俺達には気付いていないようだった。

俺と織笠さんの居るこの階段と先輩達のグラウンドは、繋がっているのにまるで違う世界みたいに感じる。

暫く無言でそんな様子を眺めていると、男子部員数名が短距離の競争を始めた。

先輩も、スタートラインに着く。

ピッと笛が鳴り四人の男子部員が走り出した。

織笠さんはじっと先輩の姿を目で追っている。

先輩は後の三人を早い段階で抜き去り、そのままゴールラインへ。


「怜君とどっちが速いの?」


織笠さんがそんなことを聞いた。

他の部員にふざけて追いかけられながらベンチの所へ戻った先輩の元に、マネージャーらしき女子生徒が走り寄る。

あっ、と思った、それと同時にふわりと肩に重み。

織笠さんに寄り掛かられたんだと分かって一瞬息が止まった。


「そりゃ、先輩です……今は」

「今は、ね」

「……う」


先輩にタオルとドリンクを渡す女子生徒。

笑い合っている二人と、それを冷やかす陸上部員。

織笠さんに触れている右半身が熱い。


「早くあいつなんか追い越してよ」

「……100だけでもいいっすか? 俺持久力ないんで」

「なにそれ。弱気なんだか強気なんだか」

「じゃあ……もう少し、待っててくれるなら」

「……うん。待つから、早くしてね」


織笠さんの横顔が、鮮やかな夕焼け空の色に染まった。

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