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邂逅

作者: 玄野志向

 七月七日、七夕。この季節になると、ここ佐柄総合病院の院内には、あちこちに作り物の笹が取り付けられる。

 色とりどりの短冊がそこから提げられ、老若男女様々な入院患者が天の川に願いを託す……僕はそれを見るともなく見ながら、廊下をすり抜けて階段を上っていく。

 4階建ての病院を最上階まで上り、屋上の扉を開ける。夏とはいえまだ夜は涼しい、湿った風が白衣を揺らした。

 ポケットに隠していた煙草を取り出し、火を付ける。肺の中に煙が充満し、少しの目眩と満足感が体を巡った。


「ふぅ……」


 煙を吐き出し、空を見上げる。ここ佐柄市では、午後十時を過ぎると辺りは真っ暗になる。それ故に、夜は星がよく見える。僕の頭上には、天の川が輝いていた。

 七夕――この季節になると、いつも思い出す。もう十年以上前だろうか。僕がまだ研修医だった頃、丁度今のような時間の屋上、天の川の下である老人と話したのだ。





 十六年前――――。

 僕は、研修医として患者の世話や手術の助手、書類整理などの小間使いなど……看護士でもできるような簡単な仕事ばかりさせられていた。

 それは当然の事だ。だが、何のために死ぬ気で勉強して医大を出たのかと、馬鹿馬鹿しく感じることもあった。


 そんなある日の事。午後十時頃に、ナースコールで個室の405室に呼び出された。その病室の患者は、吉原憲一(よしわらけんいち)。80代で、骨粗鬆症による足の骨折から寝たきりになってしまった男性だった。

 さらに心臓にも持病を抱えていたため、もしもの事があっては大事だと、僕はすぐに階段を駆け上がり彼の部屋に急行した。

 しかし扉を開けてみれば、そこには至って冷静な、目じりの皺の濃い白髪頭の老人がベッドに座っていた。

 悪戯か――こういう事はよくある。だが一応聞かなくてはならない決まりだ。


「何かありましたか?」

「車椅子を持ってきてくれないか?」


 車椅子? 散歩でもしたいのか? 冗談じゃない、看護士にやらせてくれ。そもそも今は消灯時間過ぎてるじゃないか。


「吉原さん、もう消灯時間過ぎてますよ」

「院内に七夕の笹があっただろう? 短冊、書いたのに掛け忘れたんだ。今日中に掛けないと意味がないからな」


 そんな馬鹿馬鹿しいこと……と、突っぱねるのは簡単なんだが。この老人が上に何か言ったら、結局被害を被るのは僕だ。心の中で溜め息を吐き、表面上笑みを浮かべる。


「じゃ、しょうがないですね。少し待っててください」


 踵を返して病室を出る。今度は実際に溜め息を吐きながら、エレベーターに乗って1Fのボタンを押して閉める。エレベーターには手すり、それに扉の向かいに鏡がある。

 ボタンは「8F」まで付いているが、実際に反応するのは4Fボタンまで。一時期、7Fのボタンを押すと何かのきっかけで存在しない七階に上がってしまい帰ってこれなくなる、という都市伝説が流れたこともあったが……結局、一ヶ月足らずで廃れていったな。

 そんなことを思い出しながら、一階の看護室に着く。合計十台ある車椅子の、一番端にある10番を持っていこうとすると、後ろから先輩で看護士の加藤さんに声を掛けられた。


「なんでこんな時間に車椅子?」

「405号室の方がどうしてもって言うんで……すぐに返しますから」

「わかったー」


 再びエレベーターに乗って、無人の車椅子を押して病室に入ったとき、老人は薄く笑みを浮かべ僕を迎えた。

 車椅子を彼のベッドの傍らに置く。次に、彼の体を抱え込んで車椅子に座らせた。


「いや悪いね先生」

「いえ、いいんですよ」

「……先生は研修医かい?」

「はい」


 ここからなら、笹は四階のラウンジが一番近いはず。最短距離で向かうことにしよう。仕事は確実に、しかし労働は控えめに……だ。

 しばらく、整備不良からかキィキィと鳴る車椅子を押して廊下を進んでいると、吉原さんは再び話し掛けてきた。


「俺も昔、医者をやってたことがあるんだよ」

「そうなんですか?」

「ああ。研修医の時は、宿直やら急患やら、何だかんだ徹夜ばっかりなんだよな」

「はは、そうですね。結構慣れてきましたけど……」


 他愛もない会話を弾ませながら、僕たちは誰もいないガランとした四階の廊下を進んでいく。消灯後に出歩く人はあまりいない。お陰で何の音もしない。不気味な雰囲気だ。

 ラウンジに着く。窓からは、いくつかビルの明かりが見えるだけで、あとは星や月の光だけが窓から差し込んでくる。笹の葉には、既に幾つか短冊が提げられている。


「着きましたよ」

「ああ、すまんね」


 痩せて、手の甲の皮膚に血管が浮かび上がっている。老人特有の手の老化だ。吉原さんは赤い短冊を紐で結びつけた。


「なんて書いたんですか?」

「ん? ……『死んでももう生まれ変わりませんように』、だ」


 もう老い先短い老人だ。色々と考えるところもあるのだろう。しかし、僕はこんな事、一度だって考えたことはない。どうしてそういう考えに至ったのか、気になるな。


「何でそんなことを?」

「生物ってのは、生まれたその瞬間から死に向かって歩き出すようプログラムされてるんだ。んなもん、虚しいじゃないかよ」

「……そうですか? でも、たとえば鳥とか、魚とか、そういうことに気付いてない生物もいますよ?」

「俺はそいつらになった訳じゃないから解んねぇけど、あいつらに自我があるなら少なからず思考するはずだ。生まれてから死ぬまで考え続ければ、誰でも解ることだよ」


 そんなものか――。僕も、いずれそんな悲しい思考をしてしまうんだろうか。

 医者という命を預かる仕事をしていれば、誰しもがぶつかる難問だ。死んでいく事が確定している人間を、たった十年や二十年、寿命を伸ばしたって何になるんだ。

 そんな職業、虚しすぎやしないか――と。だがまぁ、研修医が考えるにしては、少し判断材料が足りないよな。


「なぁ、先生」

「はい」

「屋上に行かせてくれないか」


 …………。まったく、今度は何を言い出したんだ。さすがにこれは譲れない。消灯時間外での外出、さらに屋上だなんて。


「吉原さん、もう寝ましょう」

「いいじゃねえか、俺ももうどうせ老い先短いんだ。それにな先生、お前さん、病院が消灯した後の星空を見たことがあるかい?

 今日は七夕だ。天の川が綺麗だぜ? 折角だから見さしてくれよ」


 正直、こんな面倒は避けたいんだけどな……。この老人に付き合っているうちに急患でも担ぎ込まれたらどうするのか。

 だが――――はぁ、仕方がないか。きっとこの老人は引き下がることはないだろう。

 そもそも屋上は車椅子で行けるように設計されていない。車椅子で病院内を上下するにはエレベーターを使うしかない。しかし屋上にはエレベーターが設置されていないのだ。


「じゃ、吉原さん。ちょっと失礼します」

「おお」


 車椅子から吉原さんを持ち上げ、そのまま階段を上る。踊り場に一旦吉原さんを置くと階段を降りて車椅子を持ち、また階段を上った。

 本来は車椅子のまま階段を上り降りする機械があるのだが、それを取ってくるのも面倒だ。自分から言い出したのだからこの老人は文句は言わないだろう。

 もう一度それを繰り返し、ようやく吉原さんをまた車椅子に座らせた。屋上の扉を開くと、涼しい風と蒸し暑いような気温が吹き抜け体を包んだ。


 屋上では、白いシーツが大量に干してある姿が暗く揺れている。見上げると、黒い夜の空に、白い光の粒が散りばめられていた。天の川だ。

 綺麗だ――――。

 空を見上げながら、車椅子を押してしばらく歩いた。


「何で星は綺麗なんだろうな?」

「自分で光ってるからじゃないですか?」

「でも太陽ってのも恒星だが、綺麗ってのは何か違うよな」


 吉原さんは溜め息を吐いた。不快感からではない、もっと深い意味を込めた溜め息。


「旨いものや綺麗なものってのは生への執着を生んじまうんだよな」

「? いいじゃないですか。生きる意思がなくちゃ、長生きできませんよ」

「だよな。でも、こんな空を知らずに自殺するバカがいやがるんだ」


 吉原さんは目を閉じ、昔を思い出すように語った。


「昔、俺は教師をやってたことがあってな。俺が担任してるクラスの生徒が苛めで自殺したんだ」

「…………」

「馬鹿馬鹿しいよ。ガキが何悟った気になって自分の命の価値を測ってやがる?」

「吉原さんって……人生経験豊富なんですね」


 医者に教師をやって、その時にきっと色んな事を考え、色んな事を吸収したのだろう。だが吉原さんの回答は予想の外を行くものだった。


「いんや。多分今の俺より、先生の方が人生経験は豊富だ」

「え……?」


 それだけ様々な職に就いて、齢八十の老人が僕より人生経験が少ないなんてあり得ない。……それにしても、この人は一体……。


「吉原さんって、結局は何の職業に就いてたんですか?」

「小説家だ」

「小説……」

「小説はいいぞ。俺はその中で、名前も姿形も、声も、人生観すら変えて生きていられるんだ。まるで幾つもの人生を経験しているように感じられる」


 じゃあ、もしかして医者や教師っていうのは……吉原さんが過去に書いた小説の主人公の事を言ってるのか?


「俺は昔、それはそれは有名な直木賞作家だったんだ。幾つもの受賞作の中で、俺は幾つもの人生、幾つもの職に就いた。

 不思議なもんで、書いてる本人は本当にその世界に入ることができる。その世界の景色、音、匂いに至るまで全部経験できる」


 昔を思い出しながら楽しげに笑顔を浮かべて吉原さんは語っていた。しかし、突然その顔に影を落とす。


「……五十歳の頃だ。突然、なーんも書けなくなった。担当編集は、趣味でもやったり旅行でも行って気分転換しろって言うんだがよ……

 気付いたときには遅かった。俺は他人の人生に首を突っ込みすぎて、自分の人生には何もなかったんだ。旅行に行ったって何も感じないし、趣味なんて元から無い。

 俺の書く小説は、ゆりかごから墓場までってもんじゃない。人生の中のほんの一瞬を切り取って描写するだけだ。

 結局――――総合的には、俺の人生は一人分のそれにすら劣るほどスカスカなんだ」


 ……それだけの事を経験してか。もう生まれ変わりたくないなんて願ったのは。空っぽの人生……吉原さんは一体、どんな思いで今まで生きてきたのだろう。

 僕のこれまでの人生にも満たない空虚な人生。正直、若造が口出しできるような軽い問題じゃない……何も言わない方が、むしろ優しさだろう。

 ああ――星が綺麗だ。肌に触れる外気は相変わらず生暖かい。


「――そういえば、知ってましたか? 天の川って、七夕過ぎても見えるんですよ」

「へぇ。そいつは知らなかったな」

「だから……明日も来ましょうよ、ここに」

「そうだな……そうすりゃ、あと少しくらい生きる気力が湧くかもな」


 車椅子の片輪を固定して旋回し、元来た道を引き返していく。屋上の扉を閉め、院内に戻ると、暫くして肌に触れる生温さが消えていった。





 ……その翌日、吉原さんは容態が悪化し、呆気なく亡くなった。その時の、異常を知らせる心電図のアラームは今も耳に残っている。

 煙草を一本吸い終わると、携帯灰皿に吸い殻を入れる。風に靡くシーツを避けながら、屋上の扉を開ける。


 何故、いつもあの人を思い出すのか。その理由すらよく解らないまま、あの日酷い面倒を被った階段を、楽に一人で降りていった。

 ――――ああ、僕は――――。あの人と、もっと喋って、もっと教訓を得て……一緒に、天の川をもう一度見たかったのかな……。

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