5:華麗なる朝食
「今日は遅くなるから、ご飯は一人で食べなさいね」
汐里が目覚めてすぐに母から言われる言葉は、いつも同じだ。
(それって、『今日は』じゃなくって、『今日も』じゃん)
馬っ鹿みたい。
毎朝、ほとんど会話も交わさないまま二人共家を出て、母は深夜に帰ってくるのが当たり前という生活。ゆっくり母娘で話す時間がつくれるはずもない。母はきっと一人で家庭を支えるのに必死なのだろう。汐里のことになどかまっていられないのだ。
でも、その日汐里は自分から母親に声をかけた。
「ねえ。今日が何の日か忘れたの?」
毎年のように母に尋ねてみることだ。どうしても、淡い期待を捨てきれないから。
覚えている、と言えとはいわない。忘れたの? と問いかけた時に、思い出してくれればそれでいい。一度でいいから、何の日だったかを目の前で思い出して欲しかった。
「ゴミ日でしょう。言われなくとも、もう出したわよ。じゃあね」
汐里の答えに即答し、母は振り返ることなく玄関の扉を閉め、慌しく出かけていった。
残された汐里は、落胆からその場に立ち尽くした。
「やっぱり覚えてるわけない、か……」
その日は汐里の十六歳の誕生日だった。汐里は心ついてから一度も、母に誕生日を祝ってもらった覚えがない。
もう期待しないでおこうと思うのに、もしかしたら今年は思い出してくれるかもしれないと、期待してしまう自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。どうせ、あの人は覚えてないのに。
そうだ、リカといっしょに今日はうんと遊ぼう。
母に、祝ってもらわなくても、別に気にすることはないはず──。
* * *
「シオリちゃん。朝よ~」
優しく起こされて目を開けると、見たことのない木製の天井が広がっていた。汐里はとっさに自分の寝ている場所が分からずに、寝ぼけまなこでつぶやいた。
「……どこ、ここ」
「カイルの小屋よ。よく眠れた?」
寝台で横になったままの汐里を覗き込み、バーバラがにっこりと微笑んだ。
「大丈夫? うなされていたわよ。慣れない寝床で怖い夢でも見ちゃったかしら」
優しく労わりのこもったバーバラの声は耳に心地よく、汐里はむっくりと体を起こした。
まだ、頭がぼんやりする。
カイルの小屋?
それは、どこのことだっただろう。早く支度して学校へ行かないと行けないのに。
「カイルがね、心配してるわよ。ライジンの森で、無理させちゃったみたいだからって」
カイルって誰だっけ。
ああ、眼鏡で背が高くて、頭が白くてもやしっぽい人だ。
顔は良いのに、怒った顔か無表情ばかり思い浮かぶ。そういえば、昨日は結局、彼の笑った表情など見ていない。
そして、この美人さんはバーバラさん、だ。
「腕も足も傷だらけだったものね。シオリちゃん」
「うん」
怪我といっても膝を派手に擦りむいたくらいで、あとは草木で切った細かな傷ばかりだったが、カイルはせめて上着を貸してやればよかったとしきりに謝っていた。
徐々に頭の中がはっきりしてきた。
ここはまだ、いわゆる異世界だ。
寝て目が覚めたら元通りの世界に戻っていて、カイルやバーバラに出会ったこの世界は現実逃避の『夢』だった、と。きっとそうなるのだろうと思っていた。
でも、違った。
夢じゃなかったということに、少なからず安心した自分に驚いた。夢でない証拠に、擦りむいた膝にはまだ痛みがある。
「膝は派手に擦りむいちゃったから、確かに痛いけど。でも、気にするほど大した怪我でもないのに」
「シオリちゃんは女の子だもの。大きな怪我させたら大変だと思っているのよ。さ、朝ごはんができてるわよ。早く着替えて」
歌うように軽やかにバーバラに朝食に誘われて、汐里は笑顔で頷いた。
シンプルなシャツとズボンをバーバラに借りて着替えた汐里は、足取りも軽くキッチンに入った。辺りにはふわりといい香りが漂い、お腹を刺激された。急に空腹感を覚えて、汐里は興味津々で木製のテーブルの上を覗き込んだ。湯気が昇るポタージュスープとロールパン、レタスのような葉っぱのサラダが並んでいる。
スプーンとフォークを手慣れた様子で用意していたカイルは、汐里とバーバラの姿を見とめて顔を上げた。
「ああ、おはよう」
「……おはよ。すごくいい匂い。カイルが作ったの?」
「バーバラは作れないからな」
それは真実らしく、バーバラは汐里の後ろで笑顔が凍りついていた。何も言い返せないところを見ると、本人にも自覚症状があるらしい。
「ほら、でもさ、バーバラさんだって何度もやれば、そのうちできるかもしれないじゃん」
なんとかフォローしようとしてみたが、カイルは首を横に振ってきっぱり断言した。
「いいや、絶対に無理だ」
なにもそこまで力強く言わなくてもいいと思うのに、さらにカイルは続けた。
「今後一切、こいつに包丁は持たせるべきじゃない。小屋の中でもキッチンが一番酷い荒らされようだった。全て片付けるのに、どれ程の時間がかかったか」
散々な言われようにバーバラはしょげ返ったが、汐里にはもうフォローの言葉が見つからなかった。昨日の惨状と、彼女お手製スープの味を考えると、何も言えなくなってしまう。
「カイルが帰ってくるまでに、おいしいお料理をつくっておいてあげようかなあ~って思ったのよ。私なりに頑張ったのにぃ」
バーバラが頑張った結果、昨日の台所の様子は変わり果てた姿の野菜の残骸や割れた陶器の欠片やその他もろもろが散乱し、足を踏み入れられない場所になっていた。そして、料理はというと今朝のカイルのスープと比較するのは失礼に思えるほど酷かったのを見たし、食べたのだ。
一体何を入れたのだと叫びたくなるような緑色、泥臭さと青臭さがこれでもかとブレンドされたスープは、口にしたとたんに盛大に呻くしかないシロモノだった。
(バーバラには悪いが)生ごみを食べたかのような強烈な不快感は耐えがたく、これからおいしそうなスープを食べようというときには絶対思い出したくない味と臭いだった。
「さ、食べよっ。スープ冷めちゃうし」
汐里は昨日のスープの記憶を振り払おうとして軽く頭を振ると、素早く席についた。早く、おいしいスープを食べて記憶を塗り替えたいというのが本音である。
「そうだな」
カイルとバーバラも賛成し、三人は朝食の席についた。
口にしたスープもパンもサラダも期待を裏切らない素晴らしい味だった。
ポタージュスープは絶妙な塩気と文句のつけようのない滑らかさで、いくらでもおかわりできそうだし、パンは噛むうちにほのかな甘みが口に広がり、サラダのドレッシングは酸味が効いていて細かく刻まれたハーブの風味が染み出して深みを出していた。サラダのレタスのような葉はシャキシャキと新鮮で、とにかく夢中になって汐里はそれらを平らげた。
「おいし~っ!」
ほっぺたが落ちそうなおいしさに、汐里は満面の笑みを浮かべた。
キッチンが悲惨な状態だったので、昨日は干し肉や保存の効く固いパンと、ピクルス…まあ、いわゆる保存食…ばかりだったのである。
「人に作ってもらうご飯っていいよね。しかも、こんなおいしいし! カイルのお嫁さんになる人は幸せだね」
ただのよくある褒め言葉のつもりで、汐里は口にしたが、微笑ましそうに見ていたカイルとバーバラ二人の動きが急に固くなった。なぜか気まずい空気が流れる。
「なに? なんかあたし、悪いこと……言っちゃった?」
KY発言だったかと、汐里が恐る恐る二人を交互に見渡すと、カイルとバーバラは何か目配せし合ってから首を横に振った。自嘲気味な苦笑が二人の口元に浮かんだ。
「あ、ううん。そんなことないわ、ごめんなさい」
「ただ、俺の嫁になりたいと思う人物は、国内にはいないと思ってな」
申し訳なさそうにしていた汐里に必死に否定する二人は、嘘をついてはいなさそうに見える。
「そうなの? あたしだったら、こんなお料理出してくれる旦那さんがいたら嬉しいと思うなー」
何気なく言ったが、バーバラががっしと汐里の手を取って首を横に振った。
「シオリちゃん。騙されちゃだめよ。この人、本当に仕事しか頭にない駄目な男よ?」
「え、あ、別に深い意味じゃなくって! その、ね」
汐里の母は何もしない人で、ご飯を作るのは汐里だった。
主に夕食は自分の分だけ作り、一人で食べる。だから、作ってもらった料理は心底から嬉しくて、おいしかった。三人でテーブルを囲み食べたから、余計においしく感じたのかもしれない。家族とテーブルを囲んで食べるという経験をしたことがなかった。父親の顔は、生まれてから一度も見たことがない。父親と母親、子供の三人の食卓はもしかしたらこんなふうに楽しいのかもしれない。
カイルは、まめなお父さん。バーバラはさしずめ、おおざっぱなお母さん。想像すると笑えてきて、汐里は吹き出した。
「なあに? 教えて~」
右隣に座るバーバラが、汐里の二の腕を掴んで揺さぶる。二人に出会ったばかりで、家庭の事情をさらけ出すのは憚られて、汐里は自分の感情だけを伝えることにした。
「こうやって、テーブルを皆でご飯を食べれるのっていいなーって思って、さ。なんか家族みたい」
「シオリちゃん!」
目を輝かせて感動しているバーバラに対し、カイルはじっと汐里を見つめてきた。
「な、なに?」
「……つまり、いつもお前は一人で食事を摂っているということか」
「まあ、そうだね」
そこをつっこんで聞かれるとは思わなかったので、汐里は目を丸くしつつも頷いた。カイルはふうんとつぶやくと、そのまま何か考えこんでしまった。
真剣な眼差しでカイルに見つめられて、正直、少しドキリとした。
あまり美形と認識していなかったが、目を伏せてうつむき加減に考えている様子を観察すれば、眼鏡の奥の睫毛は長くて影を落とす程だし、冷たそうに見せている切れ長で涼やかな目元も二重がクッキリしていて思いのほか彫りが深い。
よく見て初めて気がついたが、薄く張った氷のようなアイスブルーの瞳も綺麗だった。
(瞬きしたら、睫毛でバサバサって音がしそう)
腕を組んでいるその指先は長いが、手のひらは大きくて、男の人らしく感じた。それでも。
(助けてもらっておいて失礼だけど、男臭さがないというか……)
マントを脱いだ姿はそんなに華奢でもないのに、顔がどちらかといえば中性的だから、そう思えるのかもしれない。
「……どうした?」
その観察対象が急に顔を上げて尋ねたので、汐里は飛び上がりそうになった。ひゃ、とかふぇ、とかなんとも形容しがたい声がもれた。
「穴が開くほどに、カイルを見つめてたわよ」
「えっ……」
あまりに見すぎていたらしい。
汐里は指摘されて、赤くなって謝った。
「や、ごめん、つい……」
つい、珍しかったから見てしまったとは言えない。
身近な男子はこんな綺麗な肌でもなく、女子が羨むほど長い睫も持っていない。同じような理由で、バーバラもじっくり観察したいところである。
「……ぼんやりしてた」
「いや、別にいい。それより、シオリ。俺の屋敷に来ないか? 怪我が治るまでのしばらくの間、そちらのほうがいいと思うんだ。世話もしてやれると思うし」
「あたしは別にここでも構わないよ? 充分、お世話になってるし」
ご飯もおいしいし、現代の日本と比べればガスや水道が通っていなくて不便だが、そこまで不自由には思わなかった。
「食料もあちらの方が調達できるし、人もいるから食事も賑やかにできると思う。明日、移動しよう」




