1:目覚めれば深い森
汐里が目を覚ますと、辺りには見たことのない巨大な木々が生い茂る森が、どこまでも広がっていた。高く広く枝を伸ばした樹木達は日の光を遮り、僅かにガラスの破片のような細かな明かりを下に落とすだけだった。
ギャギャギャ、ギチギチギチという何か得体のしれない生き物の鳴き声も不気味に響いている。
そんな森の中、なぜか汐里は一人で無防備に仰向けの状態で横たわっていた。慌てて飛び起きると、汐里は痛む頭を押さえた。少し動けば響くような、今まで経験したことのない痛みだ。寺の鐘をゴンゴンと脳内で鳴らされているようにも思える。世界が揺れているように見えるものの、実際は汐里の頭があっちへふらふら、こっちへふらふらとまっすぐ定まらずに揺れているからだ。
「痛ったぁ~。なに? コレって二日酔い、なわけ?」
汐里は、まだはっきりしない頭で、昨夜の記憶を必死に思い起こそうとした。
確か、昨夜は友人のリカと一緒にカラオケへ行きバカ騒ぎをし、その後コンビニで飲み物を買って、近くの神社で酒を飲んで……。
「そう、そうだよ。多分、そのまんま寝ちゃったんだよ、あたし達。いや、リカは帰ったんだっけ? あれ……ってことは、ここ神社? ウっソでしょ!」
見渡す限りの暗い森。あの神社にはこんなに深い森ではなかったはずだ。せいぜい、ご神木とその周りの木とで「林」程度だった。それが、目を開けたらジャングルと言って差し支えないような場所にいる。
ここは神社ではない、のはまず間違いない。
なぜこんな場所にいるかは、二日酔いのためうまく頭が働かず、考えても分からない。
「とりあえず、どっかで誰か人を見つけて、なんか聞ぃてみればいっか」
汐里が、気だるく一歩を踏み出したその時。
ガサリ、と前方にあった緑の茂みが不気味に動いた。
その蔭から現れたのは、牛ほどの大きさもある巨大なカマキリと蟻の合体したようなグロテスクな化物だった。
マズイ、と汐里が思ったときには、すでにその生物と目が合ってしまった後だった。
(動かなくちゃ……)
逃げなくては、と思うのに、うまく足が動いてくれなかった。首筋を冷たい汗がつうっと滑り落ちた。緊張でカラカラに乾いた喉で、無意識にごくりと唾を飲んだ。
その生物の前足が一本動いたのを見て、汐里は竦みそうな足を必死に動かし、身を翻すと、脱兎のごとく駆け出した。
(なんなの、アレは──!)
足が速いことには唯一、自信がある汐里だったが、入り組んだ森の中を全力疾走するのは、骨が折れることだった。
しかも、二日酔いときている。痛む頭のことは無視することに決め、懸命に足を動かした。
(どうにかして逃げないと、喰われる!!)
生命の危険を感じたことなど、もちろん初めての経験だった。嫌な汗がまだ噴出していて、じっとりと気持ち悪い。
ひざ下まであるブーツタイプのサンダルだったので、脱げることはなかったが、靴底に溝がなく滑るので、何度も前につんのめって転びそうになった。
(なぜ、こんなときにこんな靴履いちゃったんだろう、あたし!)
足元は木の根が張り出す悪路が続き、下草や枝がむき出しの手足に鞭のようにしなって容赦なく当たった。今日ほど、自分のキャミソールにホットパンツという服装を呪ったことはない。痛みを感じたけれど、背後から草木をなぎ倒して迫ってくるカマキリ蟻が、ギチギチ不気味に鳴き声を響かせているので、足を止めることは出来ない。
すぐ間近にそれの気配を感じて、汐里は無我夢中で走り続けた。 やっと通れるような木の隙間を縫うように走り抜け、汐里はようやく少し開けた空間に出た。
「やった、森を抜けた!」
喜んだのも束の間だった。よく見れば、汐里が始めにいた場所に戻っただけだったのだ。その証拠に、汐里が枕代わりにしていた折りたたんだ黒のパーカが地面に置いてあった。それと、カマキリ蟻が通った後である木々がなぎ倒された無残な光景がまっすぐ一本の道になって残っていた。
「ウッソ……! じょーだんじゃない!」
すでに走り回って乱れた息を何とか整えて、嫌だけれど、わけも分からないまま死にたくはないので、もう一度走り出そうと汐里は前を見据えた。
(もう一回、今度は別の方角に出てみれば……森を出られるかも。明るいほうに走るとか?)
ほんの僅か逡巡している隙だった。
木がなぎ倒される嫌な音が響いて、カマキリ蟻がそこに到着した。
「…………!!」
声にならない悲鳴が出た。
(死ぬ──!)
汐里が死を意識したその時、急におい!と叫ぶ男の声が響いた。思わず、固く閉じていた目を開けると、逆光になった男のシルエットが映った。
「伏せろ!!」
汐里は、その声に命じられるまま、反射的に体をスライディングさせ、前へ勢いよく伏せた。空を切る小気味のいいビュンとい風切音、続けて鈍い音が汐里の頭上で響いた。
その直後、汐里の目の前に、カマキリ蟻の頭がボトリと落ちてきた。
「ふ、んぎゃっ~!!!!」
ほんの目と鼻の先に、ぬらりと緑色の体液を滴らせたその頭が「こんにちは」をしたものだから、汐里はすごい勢いで跳ね上がった。あと数センチ近かったら、グロテスクなそれが汐里の頬に触れていただろう。思わず涙目になるくらいには、本気で気持ち悪かった。夢に見そうだ。
「や、なんなのよ、コレっ」
カマキリ蟻の生首から距離を取って、汐里は首に対してわめいた。
「大丈夫か?」
顔をごしごし擦っていた汐里に、声の主の姿がようやくはっきりと見て取れた。手には剣を持ち、それを鞘に収めつつ、近寄ってきた。白いマントに青い軍服のような詰襟、白のブーツといういでたちの青年だった。
「ここに人が迷い込んだのは、分かっていたんだが、なかなか見つからなくてな」
「……迷い込んだ? あたしが?」
「そうだ」
落ち着いた低い声で話す彼は、ゲーム画面などの中でだけ見かける銀髪だった。知性的な涼やかな目元に銀縁の眼鏡、細身で長身。しらがともやしというイメージがぱっと頭に思い浮かんだ。
「しらが、もやし……」
思わず呟いた汐里に、青年は怪訝そうに汐里を見下ろした。
「何て言った?」
その声の温度が急激に下がった気がして、ここで放り出されてはたまらないと、汐里は慌てて「もやし」発言は引っ込めることにした。長剣を振るって巨大な虫を倒し、助けてくれたのだから、おそらく腕力はあるはずだ。いくら、彼が白くて背が高くて、ひ弱に見えたとしても。実は脱いだら筋肉ムキムキなのかもしれないし。
(ま、聞かれちゃってるかもしれないけど、「もやし」よりは「白髪」のほうが、失礼ではないカモ?)
どちらにしろ、失礼なことには変わりないのだが。
「ええと、白髪って」
白い目、というのはきっとこういう視線を言うのだろう。汐里は身に染みて実感した。
冷ややかに汐里を見ると、青年は呆れて言った。
「銀髪、と言ってくれないか。生まれつきこの色なのでね」
馬鹿にしたようにため息までつかれ、自分が失礼なことを言ったのが原因なのだが、汐里は少し腹が立った。
「俺は、カイル。この森の管理官をしている。ここは危ない、早く出るぞ」
そう言うと、カイルと名乗った青年は、すぐにくるりと踵を返すと歩き出した。




