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婚約破棄された悪役令嬢は元トップ営業でした 〜追放された辺境領地を営業スキルで繁栄!王太子、復縁を迫っても遅すぎます。優しい領主様と幸せになります〜

作者: 日置坂 唯奈
掲載日:2026/09/12

「……この数字、本気で提出してきたの?」


都内の高層ビル、その一室にある営業部フロア。

私の声が響いた瞬間、周囲の空気が数度下がったのがわかった。


目の前に立つ入社三か月の後輩は、ビクッと肩を跳ねさせて俯いている。


「先月の目標達成率が七十パーセント。今月の見込みは五十パーセント。それで、この改善案?」

「あ、あの……。クライアントの都合で、予算が削られてしまって……」

「クライアントの予算が削られたら、私たちの目標も自動的に下がるの? 違うわよね」


私は手元の資料をデスクに放り投げた。

バサッという無機質な音が、静まり返ったオフィスに響く。


「予算がないなら、予算を引き出す提案をするか、別のクライアントを開拓する。それが営業でしょう。言い訳を並べた報告書なんて、シュレッダーのゴミ以下の価値しかないわ」

「……申し訳、ありません」

「謝罪はいらないから、結果を出して。明日の朝までに、現実的で達成可能な再提案書を提出すること。以上よ」


逃げるように去っていく後輩の背中を冷たく見送る。

周囲の同僚たちは、腫れ物でも触るかのように私から目を逸らしていた。


私の名前は、如月玲奈きさらぎ・れいな

この業界最大手の商社で、三年連続トップの営業成績を誇っている。


社内での私の通り名は『氷の女』。

数字がすべて。結果がすべて。

プロセスや感情なんてものは、ビジネスにおいて何の役にも立たない。


部下のミスや甘えを一切許さず、冷徹に切り捨てる私のやり方は、当然ながら社内で激しく嫌われていた。

陰口を叩かれていることなんて、百も承知だ。


(孤立? それがどうしたっていうの)


仲良しごっこでお金が稼げるなら、誰も苦労はしない。

私は私の仕事をしているだけ。

圧倒的な結果で、すべての雑音をねじ伏せる。それだけだ。


けれど――。


「……っ」


不意に、強烈なめまいが私を襲った。

デスクの端を掴んで、必死に倒れるのを堪える。


こめかみをガンガンと叩くような頭痛。

胃の奥からこみ上げてくる吐き気。


最近、まともに眠れていなかった。

大型案件のコンペが重なり、一日の睡眠時間は平均して二、三時間。

食事もゼリー飲料や栄養ドリンクで流し込むだけの日々が続いていた。


(まずいな……。少し、無理をしすぎたかもしれない)


定時をとうに過ぎ、深夜に差し掛かる頃。

私は残りの仕事を無理やり終わらせると、重い体を引きずってタクシーに乗り込んだ。


自宅のマンションに着いた時には、もう立っているのもやっとの状態だった。


鍵を開け、真っ暗な部屋に入る。

スーツを脱ぐ気力も、メイクを落とす気力もない。


這うようにしてベッドにたどり着き、そのまま倒れ込んだ。


(明日は、朝七時からミーティングが……)


それが、如月玲奈としての最後の記憶だった。



「エレオノーラ! 貴様のような性悪女との婚約は、今この時をもって破棄させてもらう!」


鼓膜を突くような鋭い声で、私は意識を引き戻された。


(……え?)


目を開けると、そこは会社のオフィスでも、自宅の薄暗い寝室でもなかった。


見上げるほど高い天井には、眩いばかりに輝く巨大なシャンデリア。

足元には、ふかふかとした真紅の絨毯が敷き詰められている。

周囲には、煌びやかなドレスや豪奢なスーツに身を包んだ大勢の男女が、扇子やグラスを手にこちらを取り囲んでいた。


そして、私の目の前には、金髪に碧眼という、まるで絵本から抜け出してきたような王子の姿があった。


彼の腕の中には、ピンク色のふわふわとした髪をした小柄な少女が、怯えたような顔でしがみついている。


「る、るーどゔぃひ……?」


口から出たのは、私の声ではなかった。

鈴を転がすような、しかし今は酷く掠れた、か細い声。


その瞬間、私の頭の中に、激しい頭痛とともに『別の誰か』の記憶が濁流のように流れ込んできた。


エレオノーラ・ヴァン・クライス。

この国――ルミナス王国の筆頭公爵家の長女であり、目の前に立つ第一王太子ルードヴィヒの婚約者。


そして、彼が抱き寄せているのは、平民上がりの男爵令嬢、リリア。


(……待って。この設定、どこかで……)


フル回転する思考が、一つの記憶を引っ張り出した。

学生時代、同期から無理やり貸されて読んだ、大人気のファンタジーWeb小説。

その中に登場する悪役令嬢の名前が、まさに「エレオノーラ」だったはずだ。


誇り高く、傲慢で、主人公であるリリアを徹底的にいじめ抜く、典型的な悪役令嬢。

そして、王立学園の卒業パーティーという大舞台で、王太子から婚約破棄を言い渡される。


(つまり、私は過労死して、この悪役令嬢に転生したってこと?)


現実離れした状況に、一瞬だけ呼吸が浅くなる。

しかし、長年の営業生活で培われた「どんなトラブルにも動じない鋼のメンタル」が、即座に私を冷静にさせた。


パニックになっても状況は好転しない。

まずは現状を分析し、最適な行動を選択する。それが鉄則だ。


「エレオノーラ! 黙っていないで何か言ったらどうだ!」


ルードヴィヒが、私を鋭く睨みつけながら声を荒らげた。


「お前がこれまでリリアにしてきた数々の嫌がらせ、すべて調査済みだ! 階段から突き落とそうとしたり、教科書を切り裂いたり……公爵令嬢として、いや、人として恥ずかしくないのか!」


周囲の貴族たちから、ヒソヒソと嘲笑うような声が漏れ聞こえてくる。


「やはり、噂は本当だったのね……」

「あのように美しい顔をして、心は悪魔のようだわ」

「これでクライス公爵家も終わりだな」


針のむしろとはこのことだ。

本来のエレオノーラであれば、ここで泣き叫んで無実を訴えるか、逆上してリリアに掴みかかる場面だろう。


しかし、私の頭の中は信じられないほどクリアだった。


(なるほど。完全な『吊るし上げ』の場ね)


営業の現場でも、たまにあることだ。

クライアントの役員が勢揃いした場で、一方的にクレームを突きつけられ、担当者を血祭りにあげるような最悪の会議。


こういう時、感情的になって反論するのは三流のやることだ。

相手はすでに「私を断罪する」という結論ありきで動いている。

こちらが何を言っても「言い訳」としか受け取られず、火に油を注ぐだけ。


証拠?

そんなものは、彼らが都合よく捏造しているに決まっている。

そもそも、この公開処刑の目的は、王太子が「真実の愛」を貫くための正当な理由作りなのだから。


私は静かに息を吸い込み、背筋をピンと伸ばした。

公爵令嬢としての完璧な姿勢を保ちながら、冷徹な目でルードヴィヒを見据える。


「……殿下のお言葉、確かに承りました」


私のあまりにも落ち着いた声に、ルードヴィヒは一瞬、拍子抜けしたように目を瞬かせた。


「な、なんだ? 言い訳もしないつもりか?」

「言い訳など無用にございます。殿下がそこまで調査され、すでに結論を出しておられるのであれば、私が何を申し上げようと覆ることはないでしょう」


事実確認をするコストすら無駄だ。

こんな、感情だけで動くようなヒステリックな顧客(王太子)に、これ以上のリソースを割く意味はない。


「よって、婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」


私が深々と、そして流麗なカーテシー(淑女の礼)をして見せると、会場は水を打ったように静まり返った。


泣きわめくと思っていた悪役令嬢が、あまりにもあっさりと、しかも堂々と身を引いたのだ。

予想外の展開に、ルードヴィヒも、腕の中のリリアも、周囲の貴族たちも、呆然として私を見つめている。


「……っ、ふん! 自分の罪を認めるということだな。ならば沙汰を言い渡す!」


なんとか威厳を取り繕おうと、ルードヴィヒが声を張り上げた。


「エレオノーラ・ヴァン・クライス! 貴様から公爵令嬢の身分を剥奪し、辺境の地、ノイマン領への追放を命ずる! そして、あの貧乏で野蛮なノイマン男爵のもとへ嫁ぐのだ!」


ノイマン領。

王都から馬車で一ヶ月もかかる、万年雪に閉ざされた極寒の辺境。

そこの領主は、社交界にも一切顔を出さない、無骨で恐ろしい男だという噂だった。


周囲の貴族たちから、同情と、そして明らかな嘲りの視線が向けられる。

華やかな王都の薔薇が、泥にまみれて凍え死ぬのを想像しているのだろう。


しかし、私の心の中に湧き上がったのは、絶望ではなく、かすかな安堵だった。


(追放? 辺境への嫁入り?)


上等じゃないか。

王都のドロドロとした派閥争いや、この頭の悪い王太子の機嫌取りから解放されるのだ。

それに、前世であれだけ働き詰めで過労死したのだから、辺境で誰にも干渉されずに生きる「左遷」は、むしろご褒美にすら思える。


「……寛大なるご処置、心より感謝申し上げます」


私はもう一度、完璧な礼をした。


「それでは、私はこれにて失礼いたします。殿下とリリア様が、今後とも末永くお幸せであることを、心よりお祈り申し上げますわ」


顔を上げ、最後に極上の、しかし微塵も感情の籠もっていない「営業スマイル」を向ける。

それは、二度と取引することのない悪質クレーマーに向ける、決別の笑顔だった。


「な……っ」


言葉を失うルードヴィヒたちを背に、私は迷うことなく踵を返した。


人垣が、まるでモーゼの十戒のように自然と割れていく。

私は胸を張り、カツ、カツとヒールの音を響かせながら、堂々とした足取りでパーティー会場を後にした。


これから向かうのは、未知の辺境領地。

貧乏で、野蛮な男が待っているという極寒の地。


(どんな場所だろうと、関係ないわ)


トップ営業ウーマンとして、数々の修羅場をくぐり抜けてきた私だ。

辺境の貧乏領主の一人や二人、手のひらで転がして、快適なスローライフ環境を整えてみせる。


私の新しい人生の、リスタートの瞬間だった。


馬車に揺られること、約一ヶ月。

窓の外の景色は、華やかな王都の街並みから、豊かな緑広がる平原へ、そしていつしか、見渡す限りの銀世界へと変わっていた。


「……寒い」


思わず口から漏れた言葉は、白い息となって馬車の中に消えていく。


王都から持参した分厚い毛皮のコートに身を包んでいても、隙間から入り込む冷気が容赦なく体温を奪っていく。

ここはルミナス王国最北端、ノイマン領。

一年の半分が雪に覆われるという、文字通りの極寒の辺境である。


(まさか、本当に一ヶ月もかかるとはね)


前世の記憶があるとはいえ、私の体は箱入り娘の公爵令嬢そのものだ。

舗装されていない悪路を延々と進む旅は、過酷の一言に尽きた。

途中、何度か心折れそうになったが、「これを乗り越えればスローライフが待っている」という一念だけで耐え抜いた。


「お嬢様、もうすぐノイマン男爵邸に到着いたします」


御者の声に、私は姿勢を正した。


窓の霜を手袋で拭い、外を覗き込む。

雪の平原の向こうに、石造りの館が見えてきた。


公爵家の広大な屋敷や、王宮の絢爛豪華な城を見慣れたエレオノーラの記憶からすれば、それは「館」というより「少し大きめの砦」といった風情だ。

装飾らしきものは一切なく、ただ風雪に耐えるためだけに作られたような、無骨で実用的な建物だった。


(まあ、左遷先としては妥当なところね)


馬車が館の前にゆっくりと停車する。

私は小さく深呼吸をして、営業スマイルのスイッチを入れた。


これから対面するのは、私の新たな『取引先』にして『共同経営者』となる夫、ノイマン男爵だ。

噂によれば、身の丈は二メートルを超え、熊を素手で倒し、血の滴る生肉を喰らう野蛮な男だという。


(どんなヒグマが出てこようと、怯んじゃダメ。主導権を握るのよ)


ガチャリ、と馬車の扉が開かれた。

冷たい風が吹き込んでくる。


「長旅、ご苦労様でした。足元が滑るので、お気をつけて」


差し出されたのは、分厚い革手袋に包まれた、大きな手だった。

そして、その手の上には、ヒグマではなく――一人の青年が立っていた。


「……え?」


思わず声が漏れそうになるのを、必死で飲み込む。


目の前に立つ男性は、確かに長身で体格は良かったが、二メートルなんてことはない。

髪は雪のように真っ白で、瞳は深い森のようなモスグリーン。

顔立ちは彫りが深く整っているが、王太子ルードヴィヒのようなキラキラとした美男子というわけではない。

むしろ、厳しい自然環境で鍛え上げられた、実直で誠実そうな青年だった。


「初めまして、エレオノーラ様。私がこの領を預かっております、アレクシス・ノイマンです」


彼は少し緊張した面持ちで、しかし真っ直ぐに私の目を見て名乗った。


(熊じゃない……だと……?)


噂というものが、いかに当てにならないかを知る。

私は咄嗟に差し出された彼の手を取り、馬車から降りた。


「お初にお目にかかります。エレオノーラ・ヴァン・クライス……いえ、今はただのエレオノーラです。本日はお迎えいただき、ありがとうございます」


完璧なカーテシーと、洗練された微笑み。

営業時代に培った、相手に好印象を与えるための第一形態だ。


アレクシスは、私の挨拶に少しだけ目を丸くした。


「……あの、噂では、公爵令嬢様はとても気位が高く、わがままな方だと聞いていたのですが……」

「あら、どんな噂が流れているのか存じませんが、私はこの領で静かに暮らしたいと願っているだけの、しがない女ですわ」

「そう、ですか。それは……良かったです」


彼はホッとしたように、小さく息を吐いた。

その表情には、裏表のない安堵が浮かんでいる。


(……この人、本当に貴族なの?)


王都の貴族たちは、常に腹に一物抱え、言葉の裏の裏を探り合うのが常だった。

しかし、目の前のアレクシスからは、そういったドロドロとした駆け引きの匂いが一切しない。

ただ純粋に、私の到着を歓迎してくれているように見えた。


「さあ、外は冷えます。中へどうぞ。温かい食事を用意させていますから」


彼に案内されて館の中へ入る。

内装も外観と同じく質素だったが、床はピカピカに磨き上げられ、暖炉には赤々と火が燃えていた。

豪華な調度品はないが、隅々まで手入れが行き届いているのがわかる。


通された食堂には、数人の使用人たちが待っていた。

彼らもまた、華美な制服ではなく、実用的な動きやすい服を着ている。


「奥様、ようこそおいでくださいました!」

「長旅でお疲れでしょう。すぐに温かいスープをお持ちしますね」


使用人たちの声には、怯えや警戒の色はない。

むしろ、新しい家族を迎えるような、素朴な温かさに満ちていた。


(……なんだか、調子が狂うわね)


もっと険悪な空気を予想していたのだ。

「悪逆非道な公爵令嬢が流されてきた」と、冷ややかな視線を向けられる覚悟をしていた。


席に着くと、湯気を立てるスープと、焼きたての黒パン、それに少しの干し肉が運ばれてきた。

王都のフルコースと比べれば、信じられないほど質素な食事だ。

しかし、部屋に漂う香ばしい匂いに、私のお腹が小さく、しかし自己主張強めに鳴った。


「……っ」


顔がカーッと熱くなる。

完璧な営業ウーマンとしてのポーカーフェイスが、見事に崩れ去った瞬間だった。


アレクシスは一瞬驚いたような顔をした後、クスリと笑った。


「長旅でお腹が空くのは当然です。さあ、冷めないうちにどうぞ。うちの料理長のスープは、体が芯から温まりますよ」


彼の気遣いに満ちた言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。


「……それでは、お言葉に甘えて」


スプーンを手に取り、スープを一口口に運ぶ。

ゴロゴロと入った根菜の甘みと、干し肉から出た旨味が、冷え切った体にじんわりと染み渡っていく。


(……美味しい)


それは、前世で徹夜明けに飲んだ高級な栄養ドリンクよりも、ずっとずっと体に優しい味がした。


「いかがですか? お口に合えば良いのですが……」


心配そうに覗き込んでくるアレクシスに、私は思わず、営業スマイルではない、自然な笑みをこぼしていた。


「ええ、とても美味しいです。体が生き返るようですわ」

「それは良かった!」


彼はパッと表情を輝かせ、自分の食事に手を伸ばした。


食事の間、アレクシスは領地のことをぽつぽつと話してくれた。

雪深く農業には向かないこと。

領民たちは貧しいが、皆働き者で助け合って生きていること。

そして、彼自身も領主として、彼らの生活を少しでも良くしたいと願っていること。


彼の言葉からは、領地と領民に対する深い愛情と、真面目すぎるほどの責任感が伝わってきた。


(……なるほど。完全な『善人』ね)


利益や効率よりも、情や誠意を重んじるタイプ。

前世の私なら、「甘すぎる」と一刀両断にしていたかもしれない。

しかし、今の私にとっては、これほど扱いやすく、そして信頼できる相手はいない。


食事が終わり、私は用意された自室へと案内された。

ベッドと小さな机、ワードローブがあるだけの簡素な部屋だが、シーツは糊が効いて清潔で、窓辺には小さな雪ウサギの木彫りが飾られていた。


「今日はゆっくり休んでください。これからのことは、また明日、ゆっくり話し合いましょう」


アレクシスはそう言って、ドアを閉めた。


一人になった部屋で、私はベッドに深く腰掛けた。

フゥ、と長い息を吐き出す。


(とりあえず、最悪の事態は免れたわね)


命を狙われる心配も、虐げられる心配もなさそうだ。

むしろ、アレクシスの誠実な人柄と、領民たちの温かさは、前世で孤独に戦い続けてきた私の心に、奇妙な安堵感を与えていた。


「……でも、油断は禁物よ」


私は両手でパチンと頬を叩き、気合を入れ直す。


ここは貧しい辺境だ。

今は良くても、このままでは冬を越すのも厳しいかもしれない。

それに、私には「悪役令嬢」としてのレッテルが貼られている。いつ王都から理不尽な横槍が入るかわからない。


(快適なスローライフを送るためには、安定した基盤が必要不可欠。つまり、この領地を豊かにして、私自身の居場所を確保しなければならない)


頭の中で、営業マンとしての思考回路がフル回転し始める。

まずは、この領地の現状分析からだ。

資産、負債、特産品の有無、流通ルート……調べるべきことは山ほどある。


「見てなさい。三年連続トップ営業のスキル、この異世界でフル活用してやるんだから」


窓の外では、静かに雪が降り積もっている。

冷たい風の音を聞きながらも、私の胸の奥には、新たなプロジェクトに向かう時の高揚感と、ほんの少しの温かさが灯っていた。


それは、氷のように冷たかった私の心が、ほんの少しだけ溶け始めた瞬間だったのかもしれない。


ノイマン領での最初の朝は、小鳥のさえずりではなく、屋根からドサリと落ちる雪の重たい音で幕を開けた。


目覚まし時計のけたたましい電子音も、深夜まで鳴り止まないスマートフォンの通知もない朝。

前世を含めても、これほど深く、泥のように眠ったのはいつ以来だろうか。


「……よく寝たわ」


ひんやりとした空気が心地よい。

私はベッドから起き上がると、手早く身支度を整えた。

王都から持参したドレスはすべてクローゼットの奥に封印し、一番動きやすいシンプルなウールのワンピースを選ぶ。


今日から早速、領地再生プロジェクトのキックオフだ。

スローライフを満喫するためには、まずこの領地の経営状態を黒字化させ、強固な基盤を築く必要がある。


食堂へ向かうと、すでにアレクシスが書類仕事の束と格闘していた。


「おはようございます、アレクシス様」

「あ、おはようございます、エレオノーラ様。昨夜はよく眠れましたか?」


私の姿を認めたアレクシスは、ホッとしたような、それでいて少し眩しいものを見るような目を向けた。


「ええ、とても。それよりもアレクシス様、本日はお願いがあります。私に領地を案内していただけませんか? これからの生活基盤となる場所を、自分の目で確かめておきたくて」

「領地の視察ですか? もちろん構いませんが……外はひどく冷え込みますし、大したものは何もありませんよ」


申し訳なさそうに眉を下げる彼に、私はふふっと微笑んだ。

何もないかどうかは、プロの営業が見れば一目でわかる。


朝食を済ませた私たちは、厚手の外套を羽織り、領主の館を出た。


ノイマン領の中心地は、こぢんまりとした集落だった。

石と木で造られた家々が身を寄せ合うように建ち並び、その間を縫うように細い道が続いている。


「領主様! おはようございます!」

「おや、そちらの美しいお方は、もしや新しい奥様で?」


道を歩いていると、すれ違う領民たちが次々とアレクシスに声をかけてくる。

誰もが貧しい身なりをしているが、その表情は明るく、何より領主であるアレクシスへの親愛の情に満ちていた。


「おはよう。紹介するよ、王都から来てくださったエレオノーラ様だ」


アレクシスが照れくさそうに紹介すると、領民たちは少し緊張した面持ちで、しかし温かい笑顔で私に頭を下げた。


「王都の公爵令嬢様と聞いて、どんな恐ろしい方が来るかとヒヤヒヤしておりましたが……こんなに綺麗で優しそうなお嬢様で安心いたしました」

「こんな何もない雪国ですが、どうかゆっくりしていってくだされ」


(……悪役令嬢に対する反応じゃないわね)


普通、左遷されてきた悪名高い貴族など、警戒して遠巻きにするものだ。

しかし彼らの目には、猜疑心よりも歓迎の光が宿っていた。

アレクシスが普段からどれほど領民に慕われ、良い関係を築いているかの証拠だろう。


「ありがとうございます。不慣れなことも多いですが、よろしくお願いいたしますね」


私が愛想よく、しかし飾らない言葉で返すと、領民たちはパッと顔を輝かせた。

前世では「氷の女」と呼ばれた私だが、顧客との信頼関係構築(ラポール形成)の重要性は痛いほど理解している。

この領地の人々は、私の大切なパートナーなのだ。


集落をぐるりと回り、最後に案内されたのは、領主の館の裏手にある大きな石造りの倉庫だった。


「ここが、我が領の特産品を保管している倉庫です。……といっても、本当に大したものはないのですが」


アレクシスが重い扉を開けると、中には麻袋や木箱が所狭しと積まれていた。


「これは……?」


私が一つの木箱を覗き込むと、そこには淡い青色をした、ガラス玉のような美しい石が詰まっていた。

石からは、ふわりと温かい空気が漂ってくる。


「それは『陽だまり石』です。ノイマン領の鉱山でしか採れない石でして、微弱ですが熱を発するんです。領民たちはこれを布に包んで懐に入れ、寒さを凌いでいます」


(カイロ代わりの魔法石……!?)


私は驚愕した。

前世の記憶と、この世界の知識が頭の中で結びつく。

王都の貴族たちは、冬の寒さを凌ぐために莫大な魔石を消費して暖炉を焚き続けている。もしこの石を『手軽に持ち運べる防寒具』として売り出せば、爆発的な需要が見込めるはずだ。


「それから、こちらは『雪解け草』です」


アレクシスが次に開けた麻袋には、銀色の産毛に覆われた乾燥葉が詰まっていた。


「厳しい雪の下でしか育たない薬草で、煎じて飲むと傷の治りが早くなり、体の芯から温まります。我が領の主な収入源ですね」


(ちょっと待って。雪解け草って、確か原作小説の終盤で、聖騎士団が血眼になって探していた幻の特効薬の材料じゃなかった!?)


私は震える手で薬草を手に取った。

間違いない。これほどのポテンシャルを秘めた商材が、こんな薄暗い倉庫に無造作に積まれているなんて。


「アレクシス様。この素晴らしい品々、一体どのようにして販売しているのですか?」


私の声が、無意識のうちに一段低くなった。

プロの営業としての血が、ドクドクと騒ぎ始めている。


「え? あ、はい。月に一度、王都からやって来る行商人にまとめて買い取ってもらっています」

「……ちなみにおいくらで?」

「陽だまり石は一箱で銀貨三枚、雪解け草は一袋で銀貨五枚といったところでしょうか」


「はあっ!?」


思わず、素っ頓狂な声が出た。

アレクシスがビクッと肩を跳ねさせる。


「銀貨三枚!? 王都の粗悪な魔石ですら、一つで金貨一枚は下らないのよ!? この雪解け草に至っては、命を救う特効薬の素材よ! それを、一袋で銀貨五枚!?」


信じられない。

絶望的なまでの価格設定のバグ。

完全に足元を見られている。その行商人、ノイマン領の無知につけ込んで、とんでもない暴利を貪っているに違いない。


「あ、あの、エレオノーラ様……? どうかされましたか?」


鬼の形相になっているであろう私を見て、アレクシスがオロオロと後ずさる。


「……アレクシス様。あなた、その行商人と交渉をしたことは?」

「こ、交渉、ですか? いえ、相場がわかりませんし、彼らも遠路はるばる買い付けに来てくれているので、提示された金額でそのまま……」


「……お人好しにも程があるわ!!!!」


倉庫の中に、私の怒号が響き渡った。


素晴らしい品質のプロダクトがあるのに、マーケティング能力が皆無。

ブランディングの概念もなく、販路も悪徳商人への依存率一〇〇パーセント。

典型的な「技術は一流、営業は三流」で倒産する中小企業のパターンそのものではないか!


「エレオノーラ様、す、少し落ち着いて……」

「落ち着いてなどいられません! こんな買い叩き、私が許しません!」


私は陽だまり石と雪解け草を両手に握りしめ、アレクシスにズイッと詰め寄った。


「その行商人が次に来るのはいつですか?」

「えっと、明後日には到着するはずですが……」

「上等です」


私はニッコリと、前世でコンペの競合を潰す時によく浮かべていた「氷の営業スマイル」を全開にした。


「アレクシス様。この領地の財政、そして特産品の販売ルート改革……すべて私に一任していただけませんか?」

「え? あ、はい。それは構いませんが……」

「ありがとうございます。ふふふ、久しぶりに腕が鳴るわね」


愛する(予定の)スローライフと、人の良い夫、そしてこの温かい領民たちを守るため。

王都から来た悪徳商人に、トップ営業の恐ろしさを骨の髄まで叩き込んでやる。


薄暗い倉庫の中で、ノイマン領の歴史が大きく変わろうとする音が、確かに聞こえた気がした。


二日後。

約束の昼下がり、ノイマン領の領主の館に、一台の立派な馬車が到着した。


「やあやあ、ノイマン男爵様! 今月も遠路はるばる、買い付けに参りましたぞ!」


応接室に現れたのは、でっぷりと太った中年の商人、ガルツだった。

上等な絹の服に身を包み、指にはギラギラとした宝石の指輪。

一見して羽振りが良さそうだが、その目は獲物を値踏みするような下卑た光を放っている。


「いつもご足労いただき、感謝します、ガルツ殿」


アレクシスが人の良さそうな笑みを浮かべて応じると、ガルツはわざとらしく仰々しい溜息をついた。


「いやはや、この雪道は本当に骨が折れます。他の商人なら、こんな辺境までわざわざ足を運びませんぞ。これも男爵様との長年のよしみ。私なりの奉仕の精神というやつですな、ガッハッハ!」


恩着せがましいその言葉に、アレクシスの背後に控えていた領主補佐の老人たちが、申し訳なさそうに頭を下げる。

彼らは完全に、この商人に「買ってもらっている」と思い込まされているのだ。


(……典型的な、情報格差を利用した悪徳マウントね)


私は応接室の隅で、静かに冷たいお茶を啜りながら観察していた。


今日の私は、王都から着てきた中で最も上質で、かつ威圧感のある濃紺のドレスを身に纏っている。

髪は隙なく結い上げ、背筋をピンと伸ばし、表情は完全に『氷の営業ウーマン』のそれだ。


「さて男爵様。今月も例の石と草、いつもの値段で引き取らせていただきますかな。陽だまり石が一箱銀貨三枚、雪解け草が一袋銀貨五枚。……いやあ、最近は王都でも不景気でしてな、本当はもっと買い叩きたいところですが、特別据え置きということで」


ガルツが懐から契約書を取り出し、テーブルにバンッと置く。

アレクシスがペンを取ろうとした、その瞬間――。


「お待ちください」


凛とした、しかし絶対零度の冷たさを孕んだ声で、私は二人の会話に割って入った。

カツン、とヒールの音を響かせてテーブルに歩み寄る。


「な、なんだね、あんたは?」


ガルツが訝しげに目を細めた。

王都の貴族の顔など知らない一介の行商人にとって、私は見慣れない闖入者でしかない。


「申し遅れました。私、ノイマン男爵の妻となりました、エレオノーラと申します。以後、この領地の財政および取引関係は、すべて私が一任されておりますわ」

「……妻? 男爵様が結婚したなど、聞いておりませんぞ! それに、女の出る幕ではない!」


ガルツが不快げに鼻を鳴らすが、私は全く動じない。

むしろ、口角を少しだけ上げて、極上の営業スマイルを向ける。


「ご挨拶もそこそこに恐縮ですが、ガルツ殿。その契約書にはサインいたしかねます」

「……なんだと?」

「今月より、当領の特産品の卸売価格を改定させていただきます。陽だまり石は一箱につき金貨二枚。雪解け草は一袋につき金貨三枚ですわ」


その瞬間、ガルツの顔が信じられないものを見るように引き攣った。

アレクシスや後ろの老人たちも、「何を言っているんだ」と顔面蒼白になっている。


「き、金貨だと!? 馬鹿なことを言うな! これまでの何十倍もの値段ではないか! そんなふざけた値段で買うわけがなかろう!」

「おや。ふざけているのはどちらでしょうか?」


私は手元のバインダー(前世の記憶を頼りに急遽作らせたもの)を開き、ピシャリと言い放った。


「王都における陽だまり石――いえ、『携帯用魔法温石』の末端価格は、一つにつき金貨一枚。雪解け草に至っては、聖騎士団への特効薬の素材として、一袋金貨五枚で取引されています」


「なっ……!?」


「輸送費や保管料、あなたの取り分を差し引いても、卸売価格として金貨二枚と三枚は、極めて妥当。むしろ、あなたに十分な利益が残る『適正価格フェアプライス』ですわ」


ガルツの顔から、みるみる血の気が引いていく。

辺境の無知な領主だと思って騙していたのに、いきなり王都の最新の相場と、自分の莫大な中抜き(マージン)を正確に指摘されたのだ。


「……っ、ふ、ふざけるな! 王都の相場がどうであろうと、ここから運ぶのは私だ! 私が買わなければ、お前たちはこの冬を越す資金すら手に入らないんだぞ! 他の商人が来るはずもないこの雪国でな!」


ガルツは立ち上がり、顔を真っ赤にしてテーブルを叩いた。


「この契約が白紙になれば、領民どもは飢え死にだ! さあ、さっさといつもの値段でサインを……」


「どうぞ?」


私は、彼の手元にあった契約書をすっと取り上げると、目の前でビリビリと破り捨てた。


「な、なにを……!」

「買い取っていただけないなら、結構です。お引き取りください」

「ほ、本気で言っているのか!? 後悔しても遅いぞ!」

「後悔するのはあなたの方ですわよ、ガルツ殿」


私は破り捨てた紙片を雪のようにハラハラと落としながら、冷たい瞳で彼を見下ろした。


「あなたはご存知ないようですが。私の旧姓は『ヴァン・クライス』。王都の筆頭公爵家ですわ」

「……く、くらいす公爵家、だと……?」


「私が実家の伝手を使い、王都の大手商会――例えば、ルミナス商会やバルト商会に直接書簡を送れば、どうなるかしら? 『ノイマン領には、未開拓の超優良商材が眠っている』と」


ガルツの額から、滝のような冷や汗が流れ落ちた。

大手の商会がこの旨味を知れば、雪道をものともせず、大規模な輸送隊を組んで押し寄せてくるだろう。

そうなれば、ガルツのような小規模な行商人の立ち入る隙など、完全に消滅する。


「おわかりですか? 私たちは、あなたに売っていただかなくても困らない。でも、あなたは私たちから『独占販売権』を失えば、莫大な利益を逃すことになる」


これこそが、圧倒的な「強者の交渉」だ。

相手の弱点を正確に突き、逃げ道を塞ぎ、こちらが提示した条件を「選ばざるを得ない」状況に追い込む。

前世で数々の競合他社を叩き潰してきた、私の最も得意とする戦術である。


「さあ、決断していただきましょうか。適正価格で今後も末永く取引を続けるか、それとも、二度とこの領地の土を踏まないか。タイムリミットは十秒です」


「じゅう、きゅう、はち……」


カウントダウンを始める私に、ガルツはガタガタと震えながら、ついに膝から崩れ落ちた。


「わ、わかった……! 買う、その値段で買う! だから、大手商会を呼ぶのだけは勘弁してくれ……!」


「……交渉成立ディール、ですね」


私はふわりと、今度こそ本物の笑みを浮かべた。

すぐさま、事前に用意しておいた『新しい契約書』をテーブルに滑り出させる。

そこには、こちらに圧倒的有利な条件が、細かく、しかし法的に完璧な形で記載されていた。


ガルツは震える手でサインをし、そそくさと金貨の詰まった袋を置いて逃げるように帰っていった。


応接室には、嵐が去ったような静寂が訪れた。

テーブルの上には、これまで数年間かかっても得られなかったであろう、大量の輝く金貨の山。


「……えっと」


唖然として言葉を失っているアレクシスと老人たちを振り返り、私は少しだけ首を傾げた。


「やりすぎましたか?」


私の問いに、アレクシスはハッと我に返ったように瞬きをした。

そして、恐る恐る金貨の山に触れ、次に私をまじまじと見つめる。


「エレオノーラ様……あなたは、一体……」

「ただの、夫の仕事を手伝う妻ですわ」


私がそう言ってウインクをして見せると、アレクシスの緑色の瞳が、感嘆と、そして明らかな熱を帯びて揺らいだ。


「……すごい。本当に、すごい方だ」

「ふふ、これくらい朝飯前です。でも、これはまだ第一歩。これからは、特産品のブランディングを強化して、王都の貴族たちを直接ターゲットにした通信販売ルートを開拓しますよ」


「つ、つうしんはんばい……?」


聞き慣れない言葉に目を丸くするアレクシスに、私は自信満々に頷いた。


「ええ。ノイマン領のポテンシャルはこんなものではありません。アレクシス様、私と一緒に、この領地を王国一豊かにしてみせましょう!」


こうして、私――如月玲奈改め、エレオノーラ・ヴァン・クライスの、辺境領地での痛快なビジネス・スローライフが、本格的に幕を開けたのだった。


悪徳行商人ガルツとの劇的な交渉から数日後。

ノイマン領の領主館では、ささやかながらもかつてない活気に満ちた夕食会が開かれていた。


「奥様! このお肉、本当に私たちが食べてもいいんですか!?」

「こんなに柔らかい白パン、生まれて初めて見ました……っ!」


食堂のテーブルには、近隣の大きな街から急遽買い付けた新鮮な肉や野菜、そしてふかふかの白パンが山のように積まれている。

使用人たちは目を輝かせ、信じられないといった様子でご馳走を見つめていた。


「ええ、もちろんよ。皆で遠慮なくいただきましょう」


私が微笑んで頷くと、食堂に歓声が上がった。


ガルツから得た莫大な利益(金貨の山)の使い道として、私がまず第一に提案したのは「領民たちの生活環境の改善」だった。

具体的には、栄養価の高い食料の確保と、隙間風を防ぐための建材、そして新しい防寒具の支給だ。


前世の営業時代、私は「利益は次のビジネスへの投資に回すか、株主に還元すべき」という考えに固執していた。

部下の福利厚生など二の次。数字を出さない人間は、良い環境を享受する資格などないと思っていた。


けれど、ここでは違う。

領地を支えているのは、間違いなくこの素朴で働き者な領民たちだ。

彼らが健康で、安心して暮らせる基盤があってこそ、領地の生産性は向上する。

これは決して単なる情けではなく、「最強の組織を作るための最適な先行投資」なのだと、自分に言い聞かせていた。


「エレオノーラ様。……本当に、何とお礼を言ったらいいか」


隣の席で、アレクシスが温かいスープを飲みながら、深く頭を下げた。


「領民たちにこれほど豊かな食事をさせてやれたのは、私が領主になってから初めてのことです。あの金貨があれば、この厳しい冬も全員が無事に越せる。……あなたは、ノイマン領の救世主だ」


その声は微かに震えており、深い感謝と敬意が込められていた。


「大げさですわ、アレクシス様。私はただ、あるべき適正な価値を、適正な価格で取引させただけ。この領地の特産品が素晴らしいからこそできたことです」


「それでも、です。私一人では、一生かかっても彼らをこんな風に笑顔にすることはできなかった」


アレクシスは、嬉しそうに食事を楽しむ使用人たちに目を細める。

その横顔は、王都の貴族たちが見せるような計算高い作り笑いとは無縁の、純粋な優しさに溢れていた。


(……不思議ね)


前世の私なら、彼のような「お人好し」は軽蔑の対象でしかなかったはずだ。

利益を度外視して他人のために頭を下げるなんて、ビジネスマンとして三流だと切り捨てていた。


しかし今、彼のその不器用で真っ直ぐな誠実さが、ひどく心地よく感じられる。


「エレオノーラ様? どうかしましたか?」


私がじっと見つめていることに気づいたのか、アレクシスが不思議そうに首を傾げた。


「……いえ。少し、考え事をしていました」


私は小さく息を吐き、自分のグラスに注がれた果実水を一口飲んだ。


「アレクシス様。私は、結果を出せない人間に価値はないと思って生きてきました」


ふと、自分の口からそんな言葉がこぼれ出た。

前世の記憶と、悪役令嬢としての記憶。

どちらにおいても、私は常に「完璧であること」「勝つこと」を求められ、他者を蹴落としてでもトップに立たなければ自分の居場所はないと思い込んでいた。


「弱さを見せれば付け込まれる。だから、誰にも頼らず、誰のことも信じず、一人で完璧な結果を出し続けるしかないと……そう、思っていました」


自分でも驚くほど、素直な言葉だった。

王都の公爵令嬢が口にするには、あまりにも泥臭く、人間くさい本音。


アレクシスは黙って私の言葉に耳を傾けている。


「でも、この領地に来て……アレクシス様や皆さんと過ごすうちに、少しだけわからなくなってきたんです。私が今まで必死に守り続けてきた『氷の鎧』は、本当に必要だったのかしらって」


言葉を切ると、食堂の暖炉でパチッ、と薪が爆ぜる音がした。


アレクシスは、私の目を真っ直ぐに見つめ返した。

森のように深い緑色の瞳には、同情でも哀れみでもない、静かな受容の光が宿っていた。


「エレオノーラ様が、これまで王都でどれほど厳しい戦いをされてきたのか、辺境育ちの私には想像もつきません。けれど……」


彼は少しだけ躊躇うように手を伸ばし、テーブルの上に置かれた私の手に、そっと自分の大きな手を重ねた。


「ここは、王都ではありません。誰もあなたを蹴落とそうとはしませんし、完璧でなくても、私たちはあなたを歓迎します」


その手は、剣ダコだらけで少しゴツゴツしていたけれど、驚くほど温かかった。


「あなたはもう、一人で戦わなくてもいいんです。私たちが……私が、共にいますから」


ドクン、と。

胸の奥で、今まで感じたことのないような大きな鼓動が鳴った。


誰かに「一緒にいる」と言われることが、これほどまでに安心感を与えてくれるものだったなんて。

長年、私の心を覆っていた分厚い氷が、ポロポロと音を立てて崩れ落ち、温かい水となって溶けていくのを感じた。


「……ずるいですね、アレクシス様は」


私は、滲みそうになる涙を誤魔化すように、ふわりと笑った。

それは、顧客を威圧するための「氷の営業スマイル」でも、貴族の令嬢としての「完璧な作り笑い」でもない。

如月玲奈として、そしてエレオノーラとして、生まれて初めて見せる、心からの自然な笑顔だった。


「え? 私が、ですか?」

「ええ。そんな風に言われたら、もう後戻りできないじゃないですか」


私は彼の手をそっと握り返す。


「覚悟してくださいね、アレクシス様。私は一度契約を結んだ相手には、とことんコミットするタイプなんです。このノイマン領を、王国で一番豊かで、一番幸せな領地にしてみせます。……私たちの、手で」


「はい……! 喜んで、あなたについて行きます」


アレクシスもまた、顔をほころばせて強く頷いた。


翌日から、私の生活は劇的に変化した。

これまで領主館の自室と応接室の往復ばかりだった私が、積極的に領地内を歩き回るようになったのだ。


「エレオノーラ様! 今日も冷えますから、この陽だまり石を持っていってくだされ!」

「ありがとう、トーマスお爺さん。でも、その石の加工について少し相談があるの。ちょっと見せてもらえる?」


「奥様、奥様! 一緒に雪かきしましょう!」

「ふふ、いいわよ。でも私、意外と力持ちなんだから負けないわよ?」


領民たちとの距離は、日を追うごとに縮まっていった。

最初こそ「公爵令嬢様」と恐れ多く接していた彼らも、私がドレスの裾をまくって一緒に作業をしたり、冗談を言って笑い合ったりするうちに、まるで新しい家族のように慕ってくれるようになった。


前世では、部下から「鬼神」「サイボーグ」と恐れられ、雑談一つしたことがなかった私が、今では雪だるま作りに本気でダメ出しをして子供たちに笑われている。


(悪くないわね、こういうのも)


冷たい雪の中で、私の心はこれまでにないほど温かな光で満たされていた。


しかし、ただスローライフを満喫して終わるつもりはない。

領民たちとの触れ合いの中で、私は次なるビジネスのヒントを次々と見つけ出していた。


陽だまり石は、ただ布に包むだけでなく、可愛らしいウサギやクマの形をした特製のぬいぐるみに入れれば、貴族の女性や子供向けの高級品として高く売れる。

雪解け草は、そのまま売るのではなく、飲みやすいお茶の葉とブレンドして「健康美容茶」としてパッケージングすれば、社交界で大流行するはずだ。


「アレクシス様。準備はいいですか?」


数日後、私は領主館の執務室で、新商品のサンプルと緻密な事業計画書を机に広げた。


「これからが本当の勝負です。私たちの特産品を、王都の貴族たちに直接売り込みます。ターゲットは、美と健康、そして『新しい流行』に飢えている高位貴族の夫人たち」


私の言葉に、アレクシスは少し緊張した面持ちで頷いた。


「しかし、どうやって王都の貴族たちにアプローチを? 私たちは辺境の弱小貴族。伝手など……」


「伝手ならありますわ」


私はニヤリと、前世のトップ営業時代を彷彿とさせる、自信に満ちた笑みを浮かべた。


「悪役令嬢として追放された私の『悪名』。これを逆手にとって、最高のプロモーション(炎上商法)を仕掛けてやりますわ!」


平和な辺境の地から、王都の経済を揺るがす壮大な反撃の狼煙が、今まさに上がろうとしていた。


王都の社交界は、いつだって退屈と新しい刺激に飢えている。


それを誰よりも熟知していたのは、他でもない「元」筆頭公爵令嬢である私だ。

毎日繰り返されるお茶会、代わり映えのないドレスの褒め合い、そして誰が誰と密会しているかという下世話なゴシップ。

そんな閉鎖的な空間において、最も価値があるのは「誰も知らない最新の流行」を一番に手に入れることだった。


「エレオノーラ様、本当にこれを王都の貴族たちに送るのですか……?」


領主館の執務室。

テーブルの上に山積みになった小包を前に、アレクシスが不安げな声を漏らした。


小包の中身は、私たちが総力を挙げて開発した新商品だ。

一つは、領民の女性たちに協力してもらって手作りした、愛らしいウサギやクマのぬいぐるみ。そのお腹の中には、じんわりと温かい『陽だまり石』が仕込まれている。

もう一つは、雪解け草をベースに、リラックス効果のあるハーブをブレンドした特製の『美容健康茶』である。


「ええ、送ります。それも、ただ無差別に送るわけではありませんわ」


私は手元のリストを指先でトントンと叩いた。


「王都にいる高位貴族の夫人や令嬢たちの中から、特に発言力があり、新しいもの好きで、かつ『冷え性』や『肌荒れ』に悩んでいそうな方々を三十人、厳選しましたの」


前世の営業用語で言えば、ターゲットの絞り込み(ターゲティング)とインフルエンサー・マーケティングだ。

ただ良いものを作っただけでは売れない。それを「誰に」「どうやって」認知させるかが勝負なのだ。


「でも、送り主があなたの名前だとわかれば、気味悪がって捨てられてしまうのでは……」

「ふふ、そこが狙い目ですわ、アレクシス様」


私は自信たっぷりに微笑み、同封する手紙の一枚を彼に見せた。

そこには、流麗な文字でこう記されている。


『――極寒の辺境に追放された私が、なぜ王都にいた頃よりも美しく、潤いのある肌を保てているのか。その秘密を、特別にあなただけに教えますわ。悪役令嬢の復讐? いいえ、これは私からのささやかなお裾分けです』


手紙を読んだアレクシスは、目を丸くして絶句した。


「人間の心理というものは面白いもので、『嫌いな人間の不幸』には蜜の味がしますが、『嫌いな人間が自分より良い思いをしている』ことには耐えられないのです。特に美を競い合う貴族の女性なら、なおさら」


「な、なるほど……?」


「最初は『あの悪役令嬢から不気味な贈り物が届いた』と噂にするでしょう。でも、そのうちの一人でも好奇心に負けてお茶を飲み、ぬいぐるみを抱きしめれば……必ず、その効果の虜になります。そして『実はこれ、すごく良いのよ』と誰かに自慢したくなる。それが社交界の連鎖バズを生むのです」


前世で培った、人間の心理を突くダイレクトメールの極意。

これを異世界の魔法素材と掛け合わせれば、失敗するはずがない。


「さあ、アレクシス様。郵便馬車の手配をお願いします。王都に特大の嵐を巻き起こしてやりましょう」



私の予想は、恐ろしいほど的中した。


手紙と試供品サンプルを送ってから三週間後。

ノイマン領の領主館に、見覚えのある紋章を掲げた一台の豪華な馬車が、雪煙を上げて猛スピードで駆け込んできたのだ。


「ル、ルミナス商会!? 王都で一番大きな商会が、なぜこんな辺境に……!」


窓の外を見た使用人たちがパニックに陥る中、私はゆっくりと紅茶のカップを置いた。

ルミナス商会といえば、王家御用達の超一流企業。前世で言えば、日本を代表するトップ総合商社のようなものだ。


「ようやく食いつきましたね。さあアレクシス様、私たちのビジネスパートナーをお迎えしましょう」


応接室に通されたのは、仕立ての良いスーツを着こなした、切れ者と一目でわかる初老の男性だった。

彼はハンカチで額の汗を拭いながら、私たちに向かって深く頭を下げた。


「突然の訪問、お許しください。私はルミナス商会の専務取締役、ウォルターと申します。本日は、エレオノーラ様……いえ、ノイマン男爵ご夫妻に、急ぎの商談がございまして参りました」


ウォルターの目は血走っており、疲労の色が濃い。

無理もない。通常なら一ヶ月かかる雪道を、馬を乗り継いで三週間で走破してきたのだから。


「商談、ですか? 王家御用達のルミナス商会様が、私たちのような辺境の貧乏領主になんの御用でしょう」


私はとぼけたふりをして、優雅に微笑んだ。


「ご冗談を。今、王都の社交界はご夫妻が作り出した『陽だまりのぬいぐるみ』と『雪解けの美容茶』の話題で持ちきりです! どこのお茶会に行ってもその話ばかり。品物を手に入れられなかった貴族たちが、連日のように我が商会に押しかけ、『いますぐノイマン領から取り寄せてこい』とヒステリーを起こしているのです!」


ウォルターは悲鳴のような声を上げた。


(計画通り……!)


心の中で小さくガッツポーズをする。

私が送った三十人のインフルエンサーたちは、見事に役割を果たしてくれたようだ。


「それは重畳。で、ルミナス商会様はいくらで買い取ってくださるおつもりですか?」

「は、はい! 陽だまりのぬいぐるみは一つ金貨三枚。美容茶は一箱金貨四枚で、今ある在庫をすべて買い取らせていただきたく存じます!」


以前の悪徳商人ガルツとは比べ物にならない、破格の提示額。

アレクシスが息を呑む音が聞こえた。これだけでも、ノイマン領が数十年遊んで暮らせるほどの額だ。


しかし。


「……お断りしますわ」


私は冷ややかな声で、ウォルターの提案を一刀両断した。


「な、なぜですか!? これ以上の相場は王都でも……!」

「ウォルター殿。あなたは一つ、大きな勘違いをされています」


私は立ち上がり、ウォルターを見下ろすように歩み寄った。

トップ営業として幾度となく経験してきた、主導権イニシアチブを完全に握るための交渉術。


「私たちは『在庫を処分したい』わけではありません。これらはすべて、ノイマン領の職人たちが一つ一つ手作りした、希少価値の高い芸術品です。大量生産などできませんし、安売りするつもりも毛頭ありませんわ」


「し、しかし、王都の貴族たちが今すぐ欲しいと……」


「それはそちらの都合でしょう?」


私の氷のような一瞥に、ウォルターはビクッと肩を震わせた。


「良いですか。商品は、手に入りにくいからこそ価値が上がるのです。これを『希少性の法則』と言います。誰でも買えるものになった瞬間、貴族たちは興味を失いますわ」


私はウォルターの目の前に、新しい契約書を突きつけた。


「ルミナス商会様には、当領の特産品の『独占販売権』を付与いたします。その代わり、ぬいぐるみは一つ金貨十枚、美容茶は一箱金貨十二枚。さらに、毎月の納品数は私たちが指定し、販売先も上位貴族のみに限定していただきます」


「き、金貨十枚!? それに、販売制限まで……っ、そんな条件、いくらなんでも強気すぎます!」

「そうですか。では、この話はなかったことに。バルト商会様なら、この価値を理解してくださるかもしれませんね」


私が契約書を引き下げようとした瞬間、ウォルターは血相を変えてテーブルに身を乗り出した。


「ま、待ってください! わ、わかりました! その条件で契約いたします! 他社に回されるくらいなら、利益が薄くとも我が商会の独占案件にしなければ、私の首が飛びます……!」


「……交渉成立ディール、ですね」


私は再び、極上の営業スマイルを浮かべた。


ウォルターが震える手で契約書にサインを終えると、応接室の空気は一気に弛緩した。

彼は大量の金貨が入ったトランクを置き、サンプルの品を大事そうに抱えて、嵐のように帰っていった。


「……終わりましたわ、アレクシス様」


彼を見送った後、私はソファに深く腰を沈めた。

緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。


「エレオノーラ様……あなたは、本当に魔法使いのようだ」


アレクシスが、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。

その手には、ウォルターが置いていった契約書の写しが握られている。


「これで、ノイマン領は王国で最も豊かな領地の一つになります。もう、誰も飢えることはありませんし、冬の寒さに凍えることもありません」


彼の声は震えていた。

辺境の貧乏領主として、領民を守るためにどれほどの苦労を重ねてきたのか。その重圧が、今ようやく報われたのだ。


「私一人では、決して成し得なかった。あなたが来てくれたから……あなたが、私と領民を救ってくれたんだ」


アレクシスはそう言うと、私の前に静かに跪き、私の手を取って額に押し当てた。

それは、臣下が主君に向けるような、あるいは、騎士が姫君に向けるような、最大級の敬意と親愛の証だった。


「アレクシス様、そんな……顔を上げてください」

「いいえ。私は今、心の底から感謝しているのです。あなたという素晴らしい女性が、私の妻になってくれた奇跡に」


顔を上げた彼の緑色の瞳には、もう隠しきれないほどの熱烈な愛情が宿っていた。

その真っ直ぐな視線に射抜かれ、私の心臓がドクンと大きく跳ねる。


前世では、誰かにこんな風に無条件に感謝され、求められたことなど一度もなかった。

常に数字で評価され、結果を出せなければ切り捨てられる世界で、私は自分自身をすり減らして生きてきた。


けれど今は違う。

彼のために、この領地のために働きたいと、心から思える自分がいる。


「……奇跡だなんて、大げさですわ」


私は恥ずかしさを誤魔化すように目を逸らしたが、アレクシスに握られた手は、決して離さなかった。


「私はただ、私の持てるスキルを最大限に活かしただけ。それに、まだ終わっていませんよ。領地が豊かになれば、今度は『妬み』という新しい敵が現れます。これからが本当の勝負ですわ」

「ええ。どんな敵が現れようと、あなたと一緒なら乗り越えられる気がします」


アレクシスは優しく微笑み、私の手をそっと引き寄せた。


冷たい雪に閉ざされた辺境の地で、私たちは確かな絆を深め合っていた。

ビジネスパートナーとして、そして、かけがえのない人生の伴侶として。


しかし、私が予言した通り、この大成功の噂はあっという間に王国中を駆け巡り――やがて、私の平穏なスローライフを脅かす『最悪の客』を呼び寄せることとなるのだった。


ノイマン領に、遅い春が訪れようとしていた。


分厚い雪に覆われていた大地から、少しずつ緑の芽が顔を出し始めている。

それはまるで、前世からずっと凍りついていた私の心が、ゆっくりと溶けていく様を象徴しているかのようだった。


ルミナス商会との独占契約から数ヶ月。

我が領地にもたらされた富は、辺境の風景を劇的に変えていた。


隙間風の吹いていた領民たちの家は、新しく丈夫な木材と石で補強され、各家庭には最新の魔石ストーブが完備された。

栄養満点の食事が毎日三食テーブルに並び、子供たちは真新しい服を着て雪解けの広場を走り回っている。


そして、特産品を加工するための新しい工房も建設され、領民たちには安定した高い賃金が支払われるようになった。

かつて「王国一の貧乏領地」と蔑まれたこの場所は、今や「王国で最も豊かで幸福な村」へと変貌を遂げていたのである。


「エレオノーラ様。今月の売上報告と、来月の生産計画書です」


執務室のデスクで書類に目を通していると、アレクシスが淹れたての紅茶と共に資料を運んできた。

私はペンを置き、ふわりと微笑む。


「ありがとう、アレクシス様。……うん、完璧ですね。生産ラインの効率化も進んで、利益率はさらに上がっていますわ」

「すべて、あなたの緻密な計画のおかげです。領民たちも、あなたを女神のように崇拝していますよ」

「女神だなんて、大げさです。私はただ、この領地のポテンシャルを引き出しただけですから」


謙遜する私に、アレクシスは優しく目を細めた。


「それだけではありません。あなたは……私自身のことも、救ってくれた」


彼は私の隣に立ち、私の肩をそっと抱き寄せた。

その温もりと、彼から漂う清潔な石鹸の香りに、私は自然と体の力を抜いて彼に身を預ける。


この数ヶ月、私たちは二人三脚で領地経営に奔走してきた。

時には意見をぶつけ合い、時には夜遅くまでランプの灯りの下で語り合った。

その過程で、私たちの間には「ビジネスパートナー」という枠を遥かに超えた、深く強い絆が育まれていた。


「エレオノーラ。……愛しています。私の生涯をかけて、あなたを幸せにすると誓います」


彼の口から紡がれる、真っ直ぐで嘘偽りのない言葉。

王都の貴族たちが使うような、甘ったるいだけの虚飾の愛の囁きではない。

行動と結果で示し続けてきた彼だからこそ、その言葉は私の胸の最も深い場所にすとんと落ちた。


「私も……愛していますわ、アレクシス。あなたとなら、どこまででも行ける気がするの」


私は彼を見上げ、そっと唇を重ねた。

契約から始まった私たちの関係は、心身共に結ばれ、本物の夫婦となったのだ。


順風満帆。

このまま幸せなスローライフが永遠に続く。

そう思っていた矢先だった。



一方その頃、王都の王宮では、第一王太子ルードヴィヒが頭を抱えていた。


「どういうことだ……! なぜ王室の金庫がこんなに底を突いている!?」


執務室に響き渡る怒声。

目の前に立つ財務大臣は、冷や汗を拭いながら重々しく口を開いた。


「ですから殿下……。リリア様が連日のようにお開きになるお茶会や、ドレス、宝石の購入費用が莫大すぎるのです。それに加え、殿下ご自身が推進された新規の公共事業も、見通しが甘くすべて赤字に終わっておりまして……」

「うるさい! 未来の王妃たるリリアが身を飾るのは当然だろう! それに公共事業は、民の支持を得るために必要な投資だ!」

「しかし、現実問題として資金がありません。これ以上は、国債を発行するか、税を上げるしか……」


「馬鹿なことを言うな!」


ルードヴィヒは机を激しく叩いた。

エレオノーラを婚約破棄し、真実の愛だと豪語してリリアを婚約者に迎えてから数ヶ月。

彼を待っていたのは、薔薇色の未来ではなく、転落の一途を辿る現実だった。


平民上がりのリリアは、王族としての教養や金銭感覚が決定的に欠如していた。

湯水のように金を使う彼女を、ルードヴィヒは「無邪気で可愛い」と甘やかしてきたが、そのツケが今、王室財政の破綻という形で回ってきているのだ。


さらに、公爵家という強大な後ろ盾を失ったことで、有力貴族たちはルードヴィヒから潮を引くように離れていった。


「くそっ……! あの性悪女さえいなくなれば、すべて上手くいくはずだったのに!」


八つ当たりのように悪態をついたルードヴィヒの耳に、最近、信じられない噂が届くようになっていた。


『追放されたエレオノーラ様が、辺境の特産品で莫大な富を築いているらしい』

『ルミナス商会と独占契約を結び、今やノイマン領は王都以上の景気だとか』


最初は何かの間違いだと笑い飛ばしていた。

あのプライドだけが高い我儘な公爵令嬢が、辺境の貧乏領地で商売などできるはずがないと。


しかし、王都の貴族女性たちがこぞって買い求めている「陽だまりのぬいぐるみ」や「美容茶」の出所がノイマン領であることは、疑いようのない事実だった。

それらの商品は、ルミナス商会を通じて飛ぶように売れ、莫大な金貨が辺境へと流れているという。


「……そうだ」


ルードヴィヒの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。


「エレオノーラの奴、僕の気を惹くために必死で商売を始めたに違いない。自分にはこれだけ価値があるのだと、僕にアピールしているんだ」


自己愛に満ちた、致命的なまでの勘違い。

彼は、エレオノーラが今でも自分を愛しており、辺境で泣きながら後悔していると信じ込んでいた。


「僕が直接赴いて、あの女を許してやろう。そうすれば、ノイマン領の利権も、ルミナス商会との繋がりも、すべて王家ぼくのものになる。あの貧乏男爵との婚姻など、王命でどうにでも無効にできるからな!」


名案だとばかりに立ち上がったルードヴィヒは、すぐさま豪奢な馬車を手配させた。

「真実の愛」とやらを説いていた女を放置し、かつて「性悪女」と罵り捨てた元婚約者の金の匂いに釣られて、辺境へと向かうために。



ノイマン領の雪が完全に溶け、色とりどりの花が咲き始めたある日の午後。


「エレオノーラ様! 大変です、王室の紋章を掲げた馬車が、館に向かってきています!」


工房の視察を終えて館に戻ろうとしていた私の元へ、見張りの者が血相を変えて駆け込んできた。

私はアレクシスと顔を見合わせ、小さくため息をつく。


(……ようやくお出ましね。遅いくらいだわ)


王室の財政難と、ルードヴィヒの迷走ぶりは、ルミナス商会のウォルター経由で私の耳にも入っていた。

私の成功を知れば、あのプライドが高く浅はかな元婚約者が、利権をむしり取りにやって来るのは火を見るより明らかだった。


館の前に出ると、辺境の素朴な風景には全く似合わない、金ピカで悪趣味な馬車が停まっていた。

扉が開き、そこから降りてきたのは、派手な衣装に身を包んだ第一王太子ルードヴィヒだ。


「エレオノーラ! 久しいな!」


彼は、まるで自分が救世主であるかのように、両手を広げて大仰に歩み寄ってきた。

その顔には「迎えに来てやったぞ、泣いて喜べ」とでも言いたげな、気味の悪い笑みが張り付いている。


周囲の領民たちは、突然の王族の訪問にざわめき、警戒心を露わにしていた。

アレクシスが私を庇うように一歩前に出る。


「ルードヴィヒ殿下。ノイマン領へようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか」


私が一切の感情を排した、完璧な淑女のカーテシーで迎えると、ルードヴィヒは不満げに眉をひそめた。


「なんだ、その冷たい態度は。強がらなくていい。辺境の貧しい生活に、さぞ苦労しただろう。だが安心しろ、お前の反省は十分伝わった」

「……反省、ですか?」

「ああ! 僕のために、この領地を必死に開拓し、富を築いてみせたのだろう? お前の健気な努力に免じて、過去の罪はすべて許してやる。さあ、王都へ帰ろう。僕の側室として迎えてやるぞ!」


ルードヴィヒは自信満々に言い放った。


「その代わり、この領地で生み出された商品の権利と利益は、すべて王家が管理する。この貧乏男爵との婚姻も無効にしてやるから、感謝することだな!」


……沈黙。

ノイマン領の空気に、シベリアの永久凍土のような冷気が走った。


領民たちはあまりの理不尽な言い草に怒りで顔を真っ赤にし、アレクシスは静かに、しかし明確な殺気を放って剣の柄に手をかけている。


一方の私はといえば。


(……はぁ。本当に、救いようのない馬鹿ね)


脳内で、呆れ果てた溜息をついていた。

前世の営業時代、数多くの「厄介なクレーマー」や「勘違いしたクライアント」を相手にしてきたが、ここまで自己中心的で論理が破綻している人間は珍しい。


彼は自分を「絶対的な優良顧客」だと思い込んでいるようだが、私から見れば、金払いも悪く、要求だけは一丁前で、関わるだけ時間の無駄な「最悪の不良債権」でしかない。


「どうした、エレオノーラ。あまりの喜びに声も出ないか?」


薄ら笑いを浮かべて手を伸ばしてくるルードヴィヒに対し、私は一歩下がり、その手を完全に躱した。


「殿下。一つ、訂正させていただいてもよろしいでしょうか」

「ん? なんだ?」

「私は『反省』などしておりませんし、殿下のためにこの領地を豊かにしたわけでもありません。私はただ、愛する夫であるアレクシス様と、この領地の人々のために働いているだけですわ」


氷点下の声で告げると、ルードヴィヒの顔から笑みが消えた。


「な……強がるなと言っているだろう! お前のようなプライドの高い女が、こんな辺境の薄汚い男爵を愛するはずがない!」

「いいえ、愛しておりますわ。殿下のような、表面しか見えず、責任感の欠片もない方とは比べ物にならないほど、深く、心から」


私はアレクシスの腕にそっと手を添え、真っ直ぐにルードヴィヒを見据えた。


「それから、商品の権利と利益を王家が管理するとのことですが……一体、何の法的な根拠があってそのようなことを仰るのでしょうか?」


「こ、根拠だと!? 僕が次期国王だからだ! 王国の土地と財産はすべて王家のものだろうが!」

「お言葉ですが、それは暴論というものです」


私はバインダーを開き(前世の癖で、常に重要な書類は持ち歩いている)、一枚の契約書を突きつけた。


「我がノイマン領の特産品は、すでにルミナス商会と独占販売契約を結んでおります。そして、その契約には『王家を含む第三者への権利譲渡を一切禁ずる』という特約事項が盛り込まれておりますのよ」

「なっ……!?」


「もし殿下が無理やり権利を奪おうとするなら、それはルミナス商会に対する明確な契約違反、および営業妨害となります。王家御用達の筆頭商会を敵に回して、現在の火の車である王室財政が持つとお思いですか?」


「ば、馬鹿な……っ!」


ルードヴィヒの顔が、怒りと焦りで真っ赤に染まる。


「ROI(投資利益率)も考えず、無計画な浪費を繰り返して財政を傾かせた上、今度は他人の成果を横取りしようとする。……殿下、経営者としては三流以下ですわね」

「き、きさまぁっ!!」


図星を突かれたルードヴィヒが、激昂して手を振り上げようとした瞬間。


「――私の妻に、気安く触れるな」


アレクシスが電光石火の速さで私の前に立ち塞がり、ルードヴィヒの腕をガシッと掴み上げた。

その目には、本物の熊をも怯ませるような、静かで圧倒的な圧が宿っていた。


「ひっ……!」


怯えたルードヴィヒが情けない声を上げる。


かつて私を断罪し、辺境へと追放した傲慢な王太子。

そのメッキが完全に剥がれ落ち、哀れな本性を晒した瞬間だった。

私からの、一切の容赦のない「完全論破」の幕が、今ここに切って落とされたのである。


「い、痛い! 離せ、辺境の野蛮人! 僕を誰だと思っている!」


アレクシスに腕を締め上げられ、ルードヴィヒは情けない悲鳴を上げた。

しかし、アレクシスは一切表情を変えず、さらに強い力でその腕を固定する。


「次期国王であろうと関係ありません。私の妻に危害を加える者は、このノイマン領においては明確な『敵』とみなします」


低く、地を這うようなアレクシスの声に、ルードヴィヒは恐怖で顔を青ざめさせた。

護衛として同行していた王都の騎士たちも、アレクシスの放つ圧倒的な覇気に呑まれ、誰一人として剣を抜くことができない。


「……アレクシス様、もう結構ですわ。不良債権のために、あなたの手を汚す必要はありません」


私が静かに声をかけると、アレクシスは冷たい目でルードヴィヒを一度睨みつけ、バッと手を離した。

無様に雪解けの泥の上に尻餅をつく元婚約者を見下ろし、私は深く、冷ややかな溜息をついた。


「殿下。あなたの経営的センスの無さは先ほど指摘した通りですが、どうやら『情報収集能力』にも致命的な欠陥があるようですね」

「な、なんだと……?」


泥だらけになった服を払うことも忘れ、ルードヴィヒが私を見上げる。


「殿下がここへ向かっているという情報は、ルミナス商会のネットワークを通じて、とっくに私の耳に入っておりました。そして、同時に王都の『最新の状況』も」


私はバインダーから、国王の印章が押された一枚の書状を取り出した。


「実は三日前、国王陛下より直々に親書が届いております。ルミナス商会からの報告を受けた陛下は、殿下の無軌道な浪費と、契約を無視した暴挙に激怒なさいました」

「ち、父上が……!?」

「ええ。この書状にはこう記されています。『愚息ルードヴィヒのノイマン領における一切の要求は、王家の総意にあらず。万が一、契約を脅かすような行為に出た場合、これを拘束し、王都へ強制送還せよ』と」


その言葉に、ルードヴィヒの護衛騎士たちがビクッと肩を震わせた。

彼らもまた、国王から密命を受けていたのだろう。

私が国王の書状を提示したことで、彼らの従うべき主君は、目の前の愚かな王太子から「国王陛下」へと切り替わったのだ。


「う、嘘だ……! 僕が次期国王だぞ! 父上が僕を見捨てるはずがない!」

「現実を見なさい、ルードヴィヒ殿下」


私の声は、もはや怒りすら含んでいない。

ただ純粋に、価値のない案件を打ち切るための、事務的な冷たさだけがあった。


「国庫を空にし、有力貴族の支持を失い、あまつさえ筆頭商会との契約までぶち壊そうとする次期国王など、国家にとって最大の『リスク』でしかありません。あなたはすでに、王室から損切り(カット)されたのです」


「そん、ぎり……?」


「ビジネスにおける最大の過ちは、無能な経営者が自分の無能さに気づかないことです。あなたはリリア様という『負債』を抱え込み、自らの手で自分の価値を暴落させた。もはや、あなたに投資する人間は一人もいません」


完全に論破され、退路を断たれたルードヴィヒは、ガクガクと震え始めた。

プライドという名のメッキが剥がれ落ちた彼に残されたのは、惨めで浅ましい自己保身だけだ。


「え、エレオノーラ……! ま、待ってくれ! 僕が悪かった! あの時はどうかしていたんだ!」


ルードヴィヒは泥まみれのまま、這いつくばるようにして私の足元にすがりつこうとした。

しかし、それより早くアレクシスが一歩前に出て、彼を遮る。


「リリアとの婚約は破棄する! あんな金食い虫の平民、もうどうでもいい! お前を正妃にしてやるから……どうか、ノイマン領の富を王家に、いや、僕に分けてくれ! このままでは僕は廃嫡されてしまう!」


なりふり構わず叫ぶその姿に、私は憐れみすら感じなかった。

かつて、大勢の貴族の前で私を嘲笑い、ゴミのように捨てた男の末路がこれか。


「……お断りいたします」


私は、極寒の吹雪よりも冷たい声で言い放った。


「あなたに対する私の感情は、とうの昔に『サンクコスト(回収不能な費用)』として処理済みです。一度不渡りを出した相手と、二度取引するほど私は甘くありません」

「エレオノーラぁっ……!」

「騎士の皆様」


私が視線を向けると、数人の護衛騎士たちが弾かれたように前に出た。


「国王陛下の命に従い、この不審者を王都へお連れください。ノイマン領は、二度と彼の立ち入りを許可しません」

「ハッ! ……殿下、失礼いたします!」


騎士たちに両脇を抱えられ、ルードヴィヒは無様に引きずられていく。


「離せ! 僕は王太子だぞ! エレオノーラ! エレオノーラァァァッ!!」


みっともない絶叫が響き渡るが、やがて彼は馬車に押し込められ、王都へ向けて強制送還されていった。

後に残されたのは、馬車の轍と、静けさを取り戻した辺境の空気だけだった。



「……終わったな」


アレクシスが、小さく息を吐き出した。

周囲で見守っていた領民たちから、ワッと大きな歓声が上がる。


「奥様、万歳!」

「領主様、万歳! ノイマン領は無敵だ!」


喜びに沸く領民たちに向けて、私はいつものように柔らかい笑みを返した。

王家という最大の懸念事項すらも、合法かつ完璧に排除してみせた。

これで正真正銘、ノイマン領の安全と繁栄は約束されたのだ。


「エレオノーラ」


アレクシスが、私の手をそっと握った。


「怖くは、なかったのか? 相手は腐っても王族だった。もし一歩間違えれば、不敬罪で君が罰せられていたかもしれない」

「怖くなどありませんわ」


私は彼を見上げ、心からの笑みを浮かべる。


「だって、私には世界で一番頼りになるパートナーがついていますから。あなたが守ってくれるとわかっていたから、私は思い切り交渉に臨めたんです」

「……君には敵わないな」


アレクシスは照れたように笑い、私の額にそっとキスを落とした。

領民たちからヒューヒューと冷やかしの声が上がり、私は顔を真っ赤にして彼の胸に顔を埋めた。


(ああ……幸せだな)


前世の私は、トップ営業として常に孤独な戦いを強いられていた。

誰かを信じれば裏切られ、弱みを見せれば足元をすくわれる。

だから、誰も必要とせず、氷の鎧をまとって生きてきた。


けれど、この異世界で出会った彼と、この領地の人々は違った。

私の知識やスキルだけでなく、私という人間そのものを受け入れ、愛してくれた。


王都での面倒事もすべて片付き、領地の経営はルミナス商会との連携によって自動的に利益を生み出すフェーズに入った。

これからは、アレクシスと共に、この美しい辺境の地で穏やかなスローライフを送ることができる。


夜。

暖炉の火がパチパチと燃える寝室で、私たちは一つの毛布に包まりながら語り合った。


「来年は、領地に学校を建てようと思うんだ」

「素晴らしいアイディアですわ。子供たちに読み書きや計算を教えれば、将来は優秀な人材に育ちます。私自ら、経営学の基礎を教えてもよろしくてよ?」

「ははは、それは頼もしい。君の教え子なら、きっと王国一の商人になるだろうね」


アレクシスの力強い腕に抱かれながら、私は目を閉じた。

彼の心臓の音が、心地よいリズムを刻んでいる。


「エレオノーラ。君と出会えて、私の人生は変わった。これからの長い人生、君と共に白髪になるまで、ずっとそばにいてほしい」

「ええ、もちろん。永遠に、あなたと共に……」


愛の言葉を交わし、深い幸福感に包まれながら、私はゆっくりと眠りに落ちようとしていた。


――その時だった。


『……先輩……如月、先輩……っ』


(え?)


突然、頭の中にノイズのような声が響いた。


『お願い……目を覚まして……!』


世界が、ぐにゃりと歪んだ。

暖炉の火の温もりが、アレクシスの腕の感触が、急速に遠ざかっていく。


「アレクシス……?」


声を出そうとしたが、喉から音が出ない。

視界が激しく点滅し、まるでテレビの電源を切った時のように、目の前が真っ暗になった。


『バイタル低下! 先生、除細動器を!』


無機質な電子音。

薬品の匂い。

切羽詰まった誰かの叫び声。


(嘘、でしょ……?)


私の意識は、そこで完全に途切れた。


『ピッ……ピッ……ピッ……』


規則的で無機質な電子音が、遠くの方から聞こえてくる。


(……ここは?)


重い瞼をゆっくりと開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れない真っ白な天井だった。

鼻を突く消毒液の匂い。腕に繋がれた点滴の管。

そして、無機質な病室の光。


「……あ、れ」


ひどく喉が渇いていた。

声を出そうとしたが、掠れた音しか出ない。


「先輩……っ? 如月先輩!!」


不意に、横から弾かれたような声が上がった。

バタンと椅子が倒れる音がして、見慣れたスーツ姿の女性が私の顔を覗き込んでくる。

入社三ヶ月の後輩、高橋さんだった。彼女の目からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちている。


「先生! 先生、如月先輩が目を覚ましました!!」


バタバタと慌ただしい足音が響き、白衣を着た医師や看護師たちが病室に駆け込んでくる。

ペンライトで瞳孔を確認され、いくつか簡単な質問をされた後、医師はホッとしたように息を吐いた。


「意識が戻ってよかった。如月さん、あなたは重度の過労とストレスで倒れ、丸三日間も意識不明だったんですよ」


(……過労で、倒れた?)


医師の言葉が、すぐには頭に入ってこなかった。

私の最後の記憶は、深夜の自宅のベッドに倒れ込んだところまでだ。

いや、違う。


(アレクシスは? ノイマン領のみんなは!?)


私は弾かれたように身を起こそうとしたが、体に力が入らず、再びベッドに沈み込んだ。


「動いちゃダメです、先輩! まだ絶対安静なんですから!」


高橋さんが慌てて私を制止する。


「私……どれくらい、眠っていたの……?」

「三日です。先輩と連絡が取れなくて、心配してマンションに行ったら、倒れていて……本当に、本当に死んじゃうかと思って……っ」


彼女は私の手を両手で包み込み、声を上げて泣きじゃくった。


その温もりを感じた瞬間。

私の中で、すべてが『現実』へと引き戻された。


異世界での日々。

美しくも厳しい雪景色。温かい領民たちの笑顔。

そして、私を心から愛し、不器用ながらも真っ直ぐに寄り添ってくれた、銀髪の夫の温もり。


あれはすべて、過労で倒れた私の脳が見せた、都合のいい夢だったのだろうか。

現実逃避が生み出した、ただの幻?


「……嘘、でしょ」


ポロ、と。

目から熱いものがこぼれ落ちた。


一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。

胸の奥が、鋭い刃物でえぐられたように痛い。

アレクシスにもう会えない。あの温かい腕に抱かれることは、もう二度とないのだ。

その喪失感は、これまでの人生で味わったどんな挫折よりも、深く、重く私にのしかかった。


「せ、先輩……? 大丈夫ですか? どこか痛いですか?」


普段、絶対に涙を見せない「氷の女」である私が号泣しているのを見て、高橋さんがパニックになっている。


「……ごめん、なさい」

「えっ?」

「高橋さん。私……あなたに、ひどいことばかり言って。……心配かけて、本当に、ごめんなさい」


私が震える声でそう言うと、彼女は目を丸くして固まり、そしてさらに大きな声で泣き出した。


「うわああああん! 先輩が謝るなんて、やっぱりどこかおかしいですぅ! でも、生きててよかったですぅ……!」


彼女の泣き声を聞きながら、私は天井を見上げた。

夢だったとしても、あの世界で学んだ温かさと痛みは、確かに私の心の中に残っている。

私はもう、以前の「冷徹なマシーン」には戻れない。

いや、戻りたくないのだ。


それから一ヶ月後。

十分な休養を取り、医師からの許可を得た私は、久しぶりにオフィスの扉を開けた。


「おはようございます」


私がフロアに入った瞬間、オフィスの空気がピリッと張り詰めた。

まるで、嵐がやってきたかのように、同僚たちが息を潜めてこちらを伺っている。

『氷の女』の帰還。皆、私がまた以前のように冷酷に数字を追い求め、部下を切り捨てる日々が始まると覚悟しているのだろう。


しかし、私の心は驚くほど穏やかだった。


「如月さん、復帰おめでとう。体調はもう万全かい?」

「はい、部長。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」


私は深く頭を下げた後、自分のデスクに向かった。

そして、その日の午後。

復帰後初めての、チームミーティングが開かれた時のことだ。


「……以上が、来月の新規開拓プロモーションの企画案です」


発表を終えた若手の男性社員が、おずおずと私の方を見た。

かつての私なら、その企画の甘さを鼻で笑い、「こんなものに予算がつくと思っているの?」と一分で切り捨てていただろう。

実際、彼の企画は市場調査が甘く、ターゲットの絞り込みも不十分だった。


会議室に、重苦しい沈黙が降りる。

皆が「如月の公開処刑が始まる」と身構えていた。


「……そうね」


私はゆっくりと口を開き、そして、彼に向かってふわりと微笑んだ。


「目の付け所はすごく良いと思うわ。特に、この新しい顧客層にアプローチしようとする視点は、私にはなかった発想よ」

「え……っ?」


彼だけでなく、会議室にいた全員が目を丸くした。


「ただ、少しだけデータが不足しているわね。この企画を通すには、彼らが抱えている『本当の課題』をもう少し掘り下げる必要があるわ。……明日の午後、少し時間ある? 一緒にマーケティングデータを洗い直してみましょう」


「あ……はい! ありがとうございます!」


彼は驚きながらも、パッと顔を輝かせた。


会議が終わった後、フロアのあちこちからヒソヒソと囁き声が聞こえてきた。

『如月さん、どうしちゃったの?』『なんか、憑き物が落ちたみたいに丸くなってない?』


私はクスッと笑いながら、自分のパソコンに向かった。


私がノイマン領で学んだこと。

それは、ビジネスとは数字の羅列ではなく、「人と人との繋がり」でできているということだ。

相手の弱点を責め立てて屈服させるのではなく、寄り添い、共に課題を解決することで、初めて本当の信頼と大きな利益が生まれる。

アレクシスが私に無条件の信頼を寄せてくれたように、私も彼らを信じ、導くリーダーにならなければならない。


それからの私の働き方は、劇的に変わった。


部下がミスをした時は、頭ごなしに怒るのではなく「なぜそうなったのか」「どうすれば防げるのか」を共に考えた。

クライアントからの理不尽な要求に対しても、冷たく突っぱねるのではなく、相手の背景にある不安を汲み取り、双方が納得できる代替案を根気強く提示し続けた。


最初は戸惑っていた部下たちも、次第に私に心を開いてくれるようになった。


「如月先輩、ここの見積もりなんですが、少し相談に乗っていただけませんか?」

「ええ、もちろん。見せてみて」


気づけば、私のデスクの周りには常に人が集まり、以前のような孤立した空気は完全に消え去っていた。


驚くべきことに、私がチームの育成やサポートに時間を割くようになったにも関わらず、部署全体の営業成績は飛躍的に向上していった。

私が手掛けたクライアントとの関係も以前よりずっと強固になり、「如月さんが担当でよかった」と直接感謝の手紙をいただくことすら増えた。


「氷の女」は完全に溶け、「頼れる姐さん」として、社内でも一目置かれる存在へと変わっていったのだ。


「ふぅ……」


ある金曜日の夜。

残業を終え、すっかり人の少なくなったオフィスで、私は温かいコーヒーを一口飲んだ。


仕事は充実している。

部下にも恵まれ、人間関係のストレスもない。

病気で倒れる前とは比べ物にならないくらい、今の私は心身ともに健康で、満たされた生活を送っていた。


けれど。


(……会いたいな)


窓の外で降り始めた冬の冷たい雨を見つめていると、どうしても、あの雪景色と銀髪の青年を思い出してしまう。


私が変われたのは、彼がいたからだ。

彼が私を信じ、愛してくれたから、私は自分の心にある温かさを取り戻すことができた。

その感謝を、もう二度と本人に伝えることはできない。


それが、私の心に空いた、決して埋まることのないピースだった。


「……よし。帰ろう」


感傷を振り払うように立ち上がり、コートを羽織る。

来週は、以前からアプローチをかけていた、高い技術力を持つ地方の中小企業との新規商談が控えている。

社長が最近代替わりしたばかりで、経営方針に悩んでいるという話だ。


彼らの素晴らしい技術を、私がプロデュースして世に送り出す。

まるで、ノイマン領の特産品を王都に売り込んだ時のような、ワクワクする案件だった。


「待っていてね、新しいクライアントさん。私が必ず、あなたの会社を救ってみせるから」


私は静かに決意を込め、オフィスの電気を消した。

この時の私はまだ知らなかった。

この新規商談が、私の人生に二度目の、そして最大の『奇跡』をもたらすことになろうとは。


週明けの月曜日。私は新幹線とローカル線を乗り継ぎ、北陸の雪深い町へと足を運んでいた。


車窓から見える景色は、見渡す限りの銀世界。

どんよりとした鉛色の空から、しんしんと雪が降り積もっている。

暖房の効いた車内にいるというのに、その景色を見ているだけで、あの辺境の地のひんやりとした風を肌に感じるような気がした。


(……不思議ね。雪景色を見ても、もう寒々しいとは思わないなんて)


私が向かっているのは、駅からタクシーで二十分ほど山間に入った場所にある「ノイマンテック株式会社」という小さな町工場だ。

特殊な金属加工や、驚異的な保温性を持つ新素材の開発において、国内でもトップクラスの特許技術を持っている。


しかし、技術力は本物でありながら、彼らには致命的なまでに「営業力」と「マーケティング力」が欠けていた。

素晴らしい製品を作っても、下請けとして大企業に買い叩かれ、常にギリギリの経営状態が続いているという。

最近、先代の社長が急逝し、息子が後を継いだものの、販路拡大に行き詰まっている……というのが、事前に調査したデータだった。


(最高の特産品があるのに、売り方が絶望的に下手。……まるで、どこかの辺境領地みたいじゃない)


私は膝の上のバインダーを軽く撫で、小さく微笑んだ。

今日の提案書には、私の持てるすべての知識と経験が詰め込まれている。

この会社が持つ「本物の価値」を、適正な価格で、本当に必要としている市場へと届けるための完璧な戦略だ。


タクシーが停まり、古びた、しかし隅々まで清掃が行き届いた工場の前に降り立つ。

中からは、規則的な機械音と、作業着姿の社員たちが活気よく声を掛け合う音が聞こえてきた。


「いらっしゃいませ! 東京からお越しいただいた、如月様ですね?」


受付で声をかけると、人の良さそうな年配の女性が、温かいお茶を出して応接室へと案内してくれた。

壁には、彼らが開発した部品や、社員たちの集合写真が飾られている。

そのどれもが、自社の技術に対する誇りと、社員同士の温かい絆を感じさせるものだった。


(……いい会社ね。絶対に、私が救ってみせる)


私は出されたお茶を一口飲み、心を落ち着かせた。

そして、数分後。


「――お待たせして申し訳ありません」


ガチャリ、と応接室の扉が開いた。


「いえ、こちらこそ遠方までお邪魔いたしまし……」


立ち上がり、営業スマイルを浮かべて振り返った私の言葉は、そこでピタリと止まった。

手からすっぽ抜けたバインダーが、バサリと床に落ちる。


「あ、大丈夫ですか?」


床に散らばった資料を拾い集めようと、新社長が屈み込んだ。


頭の芯が、真っ白になった。

ドクン、ドクンと、心臓が痛いほどの音を立てて激しく打ち始めている。


目の前にいる男性。

長身で、少し肩幅が広く、作業着を羽織ったその体格。

若白髪なのか、それとも染めているのか、雪のように美しい銀色の髪。

そして、拾い上げた資料を私に差し出す、森のように深い緑色の瞳。


「初めまして。私が新しく代表に就任いたしました、野間亜歴のま・あれきと申します。本日は遠いところ、わざわざ足を運んでいただきありがとうございます」


野間、亜歴。

ノマ、アレキ……。

ノイマン、アレクシス。


彼は少し緊張した面持ちで、しかし真っ直ぐに私の目を見て名乗った。

その不器用で、裏表のない誠実な響き。

荒れているけれど、分厚くて温かそうな大きな手。


間違いない。

夢の中で、私を無条件に信じ、愛し、永遠を誓ってくれた……あの辺境の領主、アレクシス・ノイマンその人だった。


「……っ」


息が詰まり、視界が一瞬で滲んだ。

ポロポロと、大粒の涙が私の頬を伝い落ちる。

どうしても会いたかった。もう一度、その声を聞きたかった。

喪失感でぽっかりと空いていた胸の穴に、温かい光が濁流のように流れ込んでくる。


「えっ!? あ、あの、如月さん!? 私、何か失礼なことを……っ、どうして泣いて……!?」


突然号泣し始めた私を見て、亜歴さんは完全にパニックに陥り、オロオロとハンカチを探し始めた。

その姿すらも、私が知っている彼と全く同じで、私は泣きながら思わずクスッと吹き出してしまった。


「……いえ。申し訳ありません」


私は慌てて自分のハンカチで涙を拭い、深く息を吸い込んだ。


「少し、昔の知り合いに似ていたもので……驚いてしまって。失礼いたしました」

「昔の、知り合いですか?」

「ええ。不器用でお人好しで、でも……誰よりも誠実で、私を救ってくれた、大切な人です」


私が真っ直ぐに彼を見つめて言うと、亜歴さんは目を丸くし、そしてなぜか、少しだけ照れたように頬を掻いた。


「それは……光栄、と言っていいのでしょうか。如月さんのような素敵な方にそう言っていただけるなんて」


彼はふわりと、あの雪解けのような優しい笑みを浮かべた。


「実は、私も……如月さんとは初めてお会いした気がしないんです。扉を開けてあなたの顔を見た瞬間、なぜか、ずっと前から知っているような……帰ってきたような、不思議な安心感を覚えまして」


その言葉に、私の胸の奥がじんわりと熱くなる。

もしかしたら、彼も。

言葉にはできない、魂の記憶のようなものを感じ取ってくれているのかもしれない。


「……奇遇ですね。私も、同じことを思っていました」


私は床から拾い上げたバインダーをしっかりと抱え直し、背筋をピンと伸ばした。


もう、過去の夢にすがる必要はない。

現実の彼が、今、目の前にいるのだから。

私がすべきことは、かつてあの辺境の領地で彼と領民を救ったように、今度はこの現実世界で、彼の会社と社員たちを全力で守り抜くことだ。


「野間社長。本日は、御社の持つ素晴らしい技術を、世界へ羽ばたかせるためのご提案をお持ちしました」


私はバインダーを開き、彼に向けて最高の笑顔を向けた。

氷のように冷たい「営業スマイル」ではない。

心からの敬意と、情熱と、そしてほんの少しの愛を込めた、私本来の笑顔。


「御社の新素材の保温性は、間違いなく業界をひっくり返します。しかし、現在の下請け構造では、その価値は正当に評価されません。私が、御社の製品を独自のブランドとして立ち上げ、最適な市場へと直接売り込みます」

「独自の、ブランド……」

「はい。まずはターゲット層を絞り込み、彼らのニーズに直結するプロモーションを展開します。私にお任せいただければ、御社の利益率を半年で倍にしてみせますわ」


自信に満ちた私のプレゼンテーションに、亜歴さんは食い入るように資料を見つめ、やがて顔を上げた。

その緑色の瞳には、かつて私と一緒に領地改革に乗り出した時と同じ、強い希望の光が宿っていた。


「……すごい。本当に、すごい方だ」


彼は感嘆の息を漏らし、そして、あの時と同じように、私の手をそっと両手で包み込んだ。


「如月さん。あなたのような方に伴走していただければ、亡き父も、そして社員たちも、どんなに安心することか。どうか……私たちを、助けていただけませんか?」


その手の温もりは、夢の中で触れたものと全く同じだった。

私の心を満たし、溶かし、生きる活力を与えてくれる、唯一無二の温かさ。


「ええ、喜んで。……一度契約を結んだ相手には、とことんコミットするのが私のやり方ですから」


私は彼の手をしっかりと握り返した。


「覚悟してくださいね、野間社長。私は、パートナーには一切の妥協を許しませんから。これから、忙しくなりますよ」

「はい……! 喜んで、あなたについて行きます」


二人が力強く頷き合った瞬間、窓の外の分厚い雲の切れ間から、一筋の柔らかな冬の日差しが差し込んだ。

雪に覆われた世界が、キラキラと眩い光を放ち始めている。


過労で倒れ、異世界で「悪役令嬢」として過ごしたあの日々が、ただの夢だったのか、それとも本当にあった現実だったのか。

今の私には、もうどちらでもよかった。


大事なのは、そこで得た「人を信じる温かさ」が、私を変えてくれたということ。

そして、その温かさを持ったまま、また彼と巡り会えたということだ。


「如月さん。この後、もしお時間が許せば、工場を案内させていただけませんか? うちの社員たちも、あなたに会うのを楽しみにしているんです」

「ふふ、もちろんですわ。皆様に、最高の未来をお約束に行きましょう」


私の新しい提案と、そして、新しくも懐かしい恋が、今ここから再び始まろうとしている。


(ありがとう、ノイマン領の皆。ありがとう、私の愛した領主様)


心の中でそっと呟きながら、私は彼と共に、光の差す応接室の扉を開けた。

氷の女の物語は終わり、ここからは、温かな陽だまりのような、本物のスローライフ(共同経営)が幕を開けるのだ。

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