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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

戦争の終わり

掲載日:2026/02/05

 濃い。濃い。血の匂いが、鼻にしみついて、離れない。

 痛い。痛い。患者の腕が、救いを求めて万力のように手首を締め付けてくる腕が、離れない。

 煩い。煩い。鳴りやまない銃撃音と心をかき乱す叫び声が、雑音として、ノイズとして、耳から、離れない。

『助けて』

 今助けてやるから。だから、手を放してくれ。

『助けて』

 今助けてやるから。だから、泣かないでくれ。

『助けて』

 今助けてやるから。だから、叫ばないでくれ。

『嘘だ』

 嘘じゃない。お前は、助かる。

『嘘だ。嘘だ』

 嘘じゃ、ない。だから、頼むから、放してくれ。お願いだから。頼む。

『嘘だ。嘘だ。嘘だ。だってお前は見捨てた。見捨てた。見捨てた。内臓が無いから見捨てた。腕が無いから見捨てた。足が無いから見捨てた。血が無いから見捨てた。下半身が無いから見捨てた。上半身が無いから見捨てた。だから、ーー嘘つきはもう信じない』

 足が、冷たい暗闇に沈む。何かが、足元から這い上がってくる。

 それは、死体の山だった。死体の群れだった。

 頭のない死体が。腕のない死体が。足のない死体が。目のない死体が。血まみれの死体が。腹の中身が根こそぎ消えた死体が。死体が死体が死体が死体が死体が死体死体死体死体死体死体したいしたいしたい。

 それらが、まるで、自身を命綱か何かのようにしがみついてきて。

『嘘つき』

 たくさんの冷たい手が首に回され、そして、そのまま、そのままそのまま。


 精神の負荷が許容量を超える。

 脂汗が吹き出て、目が見開かれ、喉が裂けるほどの声にならない声が部屋に響く。

 絶叫する。発狂する。転げまわる。それでも、腕は離してくれない。数多の手はそのまま首をちぎらんばかりに力を加え続ける。

 叫び声は止まらない。息ができない。息が。死ぬ?死にたくない。いやたすけていやだいやだいやだ。

 叫び声に溺れて意識が恐怖で塗りつぶされる。死に押しつぶされる。ぐずぐずぐちゃぐちゃに、歪んでひしゃげてーー


「どうしたの、おとうさん?」

 声が、塗りつぶされかけた自我を明確にした。


「はぁっ、はぁ。はぁ。はぁ」

「おとうさん、大丈夫?苦しいの?また怖い夢?」

 真夜中。ベッドから転がり落ちた床の上で、大柄な男はひたすらに息を吐いて吸うの行動を繰り返す。

 眠り眼を擦る小さな少女は、その大きくも辛そうで頼りない背中を、小さな手で懸命にさする。

 背中が温かい。生きていることを伝える熱を持った、小さなその手のひらが、恐怖を和らげる。


「だいじょうぶ。だいじょうぶだよお父さん。ほら、すってー、はいてー」

「はぁ、ッはぁ、はぁ‥‥‥すまん、ありがとう、マリア」

「えへへ。だいじょうぶだよ、おとうさん!おとなだって、こわいゆめみるとこわいもんね」

 先ほどまで悪夢にうなされていた男が、無邪気なほほ笑みを向ける四歳ほどの愛娘の頭を、撫でる。

 男の名は、アラン・ラーソン。

 戦争帰りの衛生兵で、心的外傷後ストレス障害‥‥‥PTSDを発症した人間だ。


 □

「はぁ‥‥」

 クラっと来た頭を休めるためにベンチに座ったのだが、閉じた瞼の裏に浮かんだ光景は、昨夜の無様な失態。ため息がこぼれるのは、仕方ないことだった。

「おとうさん!こっちーこっちー!」

 呼ばれて目を向ければ、風船を握り、猫のカチューシャを付けた娘が、ソフトクリーム屋を指さして楽しそうに飛び跳ねている。

 アランは、娘を連れて遊園地に来ていた。

 娘が行きたいと言ったのもあるが、PTSDを直すために『平和』を感じるためだ。

「ん~!!おいしい!」

「ハハ。なら、よかった」

 娘が、目を輝かせながら、チョコ味のソフトクリームに舌鼓をうつ様子に、アランは満足していた。

 自分のバニラアイスをかじりながら、ふと、周りを見渡す。

 人ごみの中で、血にまみれた軍服の死体が、笑っていた。

「‥‥‥ぁ」

 幻覚だ。幻想だ。そうに違いないはずだ。あんなものが、現実にいるわけがない。そう、思うのに。

 その声は、耳に届く。

『見殺しにしたな?』

「違う。ちが、う」

 声を絞り出す。でも、その声はあまりにもか細い。

 だって、否定できないのだ。トリアージ。そんな医療用語に包めたとしても、アランが命に線を引き選別をしたのは、間違いない。

『償え。償え。なぁ、助けろよぉ』

 ぴちゃ、と、死体からあふれ出るどす黒い血が、歩む死体の足を濡らす。

 近づいてくる。べろりと剥がれた全身の皮を、引きずる亡者が。

 近づくたびに、それは人の形を失う。足が取れ、腕が取れ、皮が剥がれ、頭がちぎれ、人が人ではなくなっていく。

 助けられるわけがない肉塊はそれでも、血の跡を引きづりながら、近づいてくる。

 呼吸が止まる。目が乾く。足元がおぼつかない。


 どうしろというのだ。何を償えというのだ。どうすればよかったんだ!!

 全てを救えるわけがない。輸血も薬品も、何もかも足りない戦場でどうしろって言ううんだよ!!


 そう、叫びたい。叫びたいのに、声は出ない。

 否定が恐ろしい。あぁすればこうすれば、そうすれば救えたという正解を叩きつけられるかもしれない予感が、本音を押し殺させる。

 そんなものを聞いてしまえば、自分が本当の人殺しになってしまうのだから。


 死体が、近づく。そして、そし

「おとうさん、次あれ乗りたい!!ユニコーンの!」

「ーーぁ。あぁ、そう、だな」

 瞬間、繋がれた子供体温の熱い娘の掌が、現実に連れ戻した。

 死体は目の前から跡形もなく消えており、あるのは当たり前の人ごみだけだった。

「クソ」

 治療には時間がかかる。そうは聞かされていたが、ここまでとは。

 バクバクとなり続ける心臓をなだめながら、娘に平静を装い続けるのはとても苦労した。

 □


 ある日、いつもの病室で、いつも自分を見てくれてる、かかりつけの精神科医と話す。

「あなたのPTSDの原因は、やはり、自責の念でしょうね」

「自責の念、ですか」

 精神科医は、丁寧に話す。

「あなたが、いつも話してくれる幻覚は常に、『死体』です。衛生兵として、戦場を走り回ってたぶん、やはり、救えなかったことにどうしようもない後悔がある、そんな風に思えます」

「そうですね、そんな気はしてます」


「精神的な問題なのでね。急には、踏み込めないものです。ゆっくり、辛いとは思いますが、それでもゆっくり確実に直していきましょう。お薬出しておきますね」

「いつも、ありがとうございます」

 言えなかった。


 明確な、忘れようと努力する『心当たり』があったことに。

 □

 薬をもらい、車で家に帰る途中、コンビニに寄った。

 娘が飲んでみたいソーダがあると駄々をこねてる、と妻からメールが来たのだ。

 メールには、不満気な顔でこっちを見てる娘の写真が添付されていた。

 そのソーダと、適当なお酒と、妻用にプリンをかごに入れる。

 支払いをすませ車に戻ると、なぜかロックを解除していないのに運転席のドアが開いていた。

「‥‥‥、ロックし忘れたか」

 精神的に疲れているのかも、と思いながらも、荷物を助手席に置いてエンジンキーを回して。


 後頭部からの強い衝撃で意識が吹き飛んだ。


 □

「いづ‥‥‥」

 痛い。頭の鈍い痛みが取れない。


 床は冷たかった。おそらく、コンクリートだ。

 そのまま、冷静に周りを見渡す。

 かすかな星明りと、雲に隠れたおぼろげな月明かりが天井の窓から指しているため、真っ暗ではない。

 その明かりをもとに、見渡して、ここが廃工場の様な何かだと気付いた。

 手足が縛られていないことを確認して、一枚の写真が落ちていることに気づいた。


 それは、心臓を鷲掴みにするような衝撃を与えるものだった。

 だって、それは。

「僕のお父さん。貴方からしたら敵だった人だよ」

 敵の軍服を着て、誇らしげに笑う男の顔の写真から、血の気が失せた顔を上げて。

 それは、雲を通した薄い月明かりの下に立っていた。

 背の低い、黒いフードを被った人間で、拳銃の銃口をこちらに向けた人間だった。


 無いはずの血煙の臭いが、鼻の中を通ったがした。それがきっかけだった。

 奥歯がガチガチと、鳴る。恐怖が心を蝕む。記憶の蓋が壊れ、その中に溜まっていた地獄絵図があふれ出てくる。

 血にまみれた地面に、腕や臓物がぐちゃぐちゃに散乱した塹壕。

 侵入してきた敵に発砲できなかったせいで、引き金を引くのをためらってしまったせいで、殺せなかった敵の持ち込んだ一つの爆弾のせいで、何日も戦争に耐えてきた仲間が一瞬にして、ぐちゃぐちゃの肉塊になる光景が。

 死んで濁った目が、見捨てることしかできなかった目が、お前のせいだというようにこちらを見続けてくる光景が。

 自分のせいで生まれてしまった地獄が、PTSDの原因が頭の中を滅茶苦茶に満たした。

「あ、あぁああ!!」

「お前のせいで、お前のせいで、お父さんは。お父さんは!!」

 狂気と灼熱の恨み、それらを持った両者が目線を交えた。

 どちらが早かったのかは、わからない。

 引き金を引く音と、錯乱したアランが黒フードに人間に飛び掛かる音が、刹那に暗闇に響いた。

 結果は、すぐだった。


「がッ!」

「ぁああああああ!!!」

 地面に何かが押し倒される音と、男の絶叫が部屋に響く。

 銃を持った黒フードの人間は、肩からドバドバ血を流すアランに押し倒されたのだ。


 囁き声だけが、頭を埋め尽くしていた。敵を殺せと、贖えと囁く声が。

 天井の窓から差していた月光が強くなる。フード下の顔が明らかになる。

 それは、少女だった。泣きそうな顔で、恐怖と憎悪に顔を歪める少女だった。

『殺せ殺せ殺せ殺せ贖え贖え贖え贖え』

「人殺し、人殺し人殺しぃいいい!!」

 頭が割れそうで、思考は止まって、それでも、動きだけは体に染みついていた。

 敵兵から武器を取り上げる。その細い腕を掴み銃を取り上げ、そのまま、敵兵に向かって引き金を。

『おとうさん、大丈夫?苦しいの?また怖い夢?』

 何が理由だったかはわからない。

 でも、掴んだ時の腕の熱さが、命の証が、理由だと、思った。

「ッ!!」

 アランは気力を振り絞って、武器を、銃を遠くへ放り投げた。


 戦争が終わる音がした。

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