第三章 初めての夜
「うーん、確かにちょっと……微妙かも」
学食のテーブルで、目の前に置いた無料定食のトレイを見ながら、日和が言った。
今晩の無料定食のメニューは、麦飯、鯖のみぞれ煮、わかめときゅうりの酢の物、林檎二切れ。
彩葉と日和は総合格闘部の練習が終わった後夕食を取りに学食に来たのだが、日和は好奇心旺盛なのか、噂の無料定食がどんな物か試してみたい、と言って無料定食を頼んだのだ。
「特にご飯がなあ。なんか虫が入ってるみたいに見えて、食欲がなえる。変なにおいもするし」日和はご飯茶碗を持ち上げてにおいを嗅ぎながら、箸で麦飯をつついている。「これ本当に虫とかごみじゃないよね?」
「ただの麦飯でしょ。白ご飯とは味とか食感とか違うけど、とろろとか生卵とかかけるとおいしいよ」
「普通に食べると?」
「食べ慣れてないと、あんまりおいしくないかも」
「やっぱりそっかあ」
日和はおそるおそるという様子で、麦飯を少量口に放り込んだ。
「うん……なんかこう、まずいっていうか、口に合わない」
「最初はそんなもんだよ」
麦飯の味をごまかすためか、日和は鯖のみぞれ煮を大きめに取り分けて口に入れる。
「こっちは薄味だなあ。確かに味気ないかも」
次は酢の物と麦飯の組み合わせを試してから、日和は恨めしげに大して減っていない麦飯を見つめた。
「やっぱり麦飯っておいしくない……。でもおかずと林檎だけだと、後でおなか空きそうだしなあ」
豚キムチ丼をおいしく食べていた彩葉は、箸を止めた。
「残すなんてだめだよ。もったいない。自分で無料定食にするって決めたんだから、自分の決断の責任を取ってちゃんと食べなさいよ」
「……先輩ってさあ、おばさんくさいっていうか、ママみたいだよね。ちょっとパパみたいでもあるかな」
「また喧嘩売ってるわけ?」
日和がきょとんと瞬く。
「あたし、先輩に喧嘩売ったことなんかないでしょ」
「え?」
彩葉はまじまじと日和を見つめた。
(あの物言いで喧嘩売ってるつもりないの?)
なかなか驚きの事実である。
「あんたさ、もうちょっと自分の言葉がどういう風に聞こえるか考えながら喋った方がいいよ。喧嘩売る気なくてあの物言いは、やばい。将来絶対困ったことになるから」
思わず説教口調になってしまう。
「先輩ってほんと親みたいなこと言うなあ。それって先輩のお……何でもない」
日和が慌てたように口を閉じて、手を振る。
(今の多分、「先輩の親」って言おうとして、武道館に行く途中にした話思い出してやめたんだよね。わたしの言ったこと、ちゃんと憶えてるんだ)
人の言ったことを聞き流さないで記憶に留めておく、というのは人づきあいにおける最低限の礼儀だと思うのだが、できない人も割といるので、少し日和への好感度が上がった彩葉だった。
ご褒美がわりに教えてやる。
「そんなに麦飯が嫌なら、白ご飯だけ買えるよ。でも、麦飯も残さずに食べるんだよ」
「えっ、そうなの? じゃあ麦飯はジュースで流し込んで、白いご飯食べよ!」
日和は一転して嬉しそうな顔になり、麦飯をかき込み始めた。
そういう経緯で麦飯を茶碗一杯、白飯を少なめだが茶碗一杯食べた日和は、食事を終えると、苦しげに腹をなでた。
「おなかがはちきれそう……」
「そりゃそうでしょうね。ほら、だらだらしてないで行くよ。食べ終わったのに居座ってたら、他の人に迷惑でしょ。混んでるんだから」
「先輩ってほんと口うるさいなあ」
愚痴る日和を彩葉がせっつきながら家に戻る。それから、風呂を溜めている間、同居する上での決まりを話しあう。
「あんたにもわたしにも、自分の部屋ってのはないよ。ここ、部屋が和室と洋室の二つしかないんだけど、寝る時は一緒に、って言われてるから」
「何で?」
「あんたが寝てる間に力を暴走させたら困るから。万一の時にはわたしがすぐ無効化できるように、ってこと。なので、寝るのは和室ね」
「え、洋室もあるんでしょ? あたし家ではずっとベッドなんだけど」
「洋室で寝る場合は、ダブルベッドしかないんだって。わたし、他人とダブルベッドで寝るの嫌だから、和室に布団を用意してもらった」
「ええー……まあ、あたしもよく知らない人とダブルベッドは嫌かな。布団がどうしても嫌ってわけじゃないし、いいか」
「洋室に洋服箪笥が二つあって、手前にわたしの服が入ってるから、あんたは奥の空いてる方ね。机も二つあるから、奥の方使って。あんたの教科書とか置いてあるから。他には……起床時間か。わたし、朝はいつも六時に起きてランニングしてるから、あんたも六時起床ね」
「ええ? 早すぎるでしょ! 無理無理そんな時間に起きれなーいー。っていうか、あたしもランニングしろってこと? やだあー」
「別にランニングにつきあえとは言ってないでしょ。明日からはランニングをジムでするから、あんたはジムの休憩スペースのソファーで二度寝してればいいよ」
「ええー、お布団で寝たいよー」
「ジムで寝るのが嫌なら、ヨガとかやってみれば? ヨガは祝福の訓練に通じるものがあるからって、ヨガのクラス朝と夕方と毎日あったはずだし」
「ヨガかあ。美肌になるっていうし、ちょっと興味はあるけど、運動は運動でしょ? 朝からやりたくなーい」
「じゃあマッサージチェアでリラックスでもしてれば?」
「何それ、おばあちゃんじゃあるまいし」
真顔で拒否した日和は、だだをこねるように首を振った。
「ジム行くの反対。早起きはんたーい」
「わがまま言わないでよ」
「この場合、わがまま言ってるのは先輩の方じゃない? 先輩があたしの都合無視して、早起きして自分につきあえ、って無理言ってるんじゃん」
その言葉に彩葉はむっとしたが、日和の言い分が正しいことは認めざるを得なかった。ジムに行きたいのは彩葉の都合で、日和にはそれにつきあう義務はないのだ。
けれど、これからは二十四時間日和に張りついていなければならない以上、放課後は祝福の訓練で時間がつぶれるだろう。総合格闘部の練習に顔を出すのは難しくなるはずなので、体力を落とさないためにも、朝のランニングは続けたい。
「……わかった。ジムにいる間は、わたしのスマホ貸してあげる。それならどう?」
しぶしぶ交換条件を出すと、日和はぱっと顔を輝かせた。
「それならいいよ!」
「でも壊さないように気をつけてよ。感情をなるべくコントロールして、平静を保ってよね。あと祝福の制御も早くできるようになって」
「わかってるわかってる。がんばるからー」
念押しを日和に軽く流されて、彩葉はため息をついた。
(早まったかなあ。でもスマホを壊されるリスク取ってでも、運動は続けたいし、しょうがないか)
機嫌の良くなった日和は、掃除やごみ出しに関する彩葉の提案に、「うんうん、それでいいよー」とあっさり了承した。
話が早くていいとは思いながらも、今でこれだけ浮かれているのでは、実際にスマホを手にしたら一気にテンションを上げて力を放出してしまいそうだ、と心配になる。
(スマホ渡す直前に、改めて釘刺しておかないとね)
そう頭の中のメモ帳に書き留めてから、彩葉は気持ちを切り替えて風呂に入ることにした。
体と髪を洗い、薄緑のお湯に肩まで浸かって、深く息を吸い込む。ジャスミンの香りを中心に何種類もの花の香りが鼻腔を満たして、花束に包まれているかのようだ。
「ああー……気持ちいいー」
我ながら満足しきっていると思う声が出た。彩葉は入浴剤を入れた風呂にゆっくり浸かるのが好きなのだ。
寮には、大浴場やシャワーブースに加えて、一人用バスタブが設置された小部屋もいくつかある。競争率が高いためそうしょっちゅう使えるわけではないが、順番が回ってきた時には、入浴剤を入れて一人風呂の醍醐味を満喫している。
のびのびと手足を伸ばせる大風呂も悪くはないが、一人風呂は集めている入浴剤のどれを使おうか選ぶ楽しみも味わえて、やはり格別だ。
日和との同居で嬉しいことの一つは、毎日入浴剤入りの風呂に浸かれることだ。しかも寮の風呂と違って時間を気にしなくていいので、気が済むまで入っていられる。そのために、日和には今後も風呂を先に使うよう言っておいた。
長風呂にちょうどいい熱すぎない温度のお湯に浸かっていい香りに包まれていると、体も心もほぐれていく。何も考えずにぼーっとしていると、満ち足りた気持ちになる。こうやって一日の疲れやストレスを解消するのだ。
お湯がすっかり冷めてしまうまで風呂を堪能した彩葉は、まだぼうっとした心地のまま風呂から出た。髪を乾かし、風呂を洗い、リビングでストレッチをし終わると、頭もすっきりしている。
特にやらなければならないことはないので、クーラーの効いているリビングで祝福の訓練をする。
しばらく訓練をすると、お気に入りの刑事ドラマが始まる時間になったのでテレビをつける。居室にテレビがあるのも、この同居生活の嬉しい点だ。
寮の談話室にもテレビはあったが、チャンネル争奪戦が激しいので、彩葉はいつもスマホでテレビ番組を見ていた。なので、大画面で見られるのは新鮮で楽しい。
ドラマが始まって少しすると、日和がやってきた。
「何見てるの? あ、これ面白いよね! あたしも毎週見てる。先週の分は見逃しちゃったけどさあ」
日和はすとんと、ソファーに座っている彩葉の隣に腰を下ろした。
「荷物の片づけ終わったの?」
「大体終わったー。……あれ、何だろ、このにおい」
ふんふん、と鼻を鳴らした日和が、彩葉の方に体を傾けた。
「先輩のにおいだ。お花のにおい。何かつけてる?」
「ああ、入浴剤のにおいでしょ」
「へー、そうなんだ。いいにおーい」
日和が更に顔を近づけてきて、その鼻が彩葉の髪に触れそうになる。彩葉の胸がドキッと鳴った。咄嗟に日和の顔を手で押しやる。
「ち、近い! ていうか人のことふんふん嗅がないでよ。失礼でしょ」
「えー、別に良くない? 臭いって言ってるわけじゃないんだから」
言いながらも、日和は体を引いて適切な距離に戻った。
日和の視線がテレビ画面に向いているのを確認してから、彩葉はそっと自分の体のにおいを嗅いだ。
風呂に入ってからいくらか経っているので、いくら涼しい部屋にいたといっても、汗くさくなっていないか心配だったのだ。少なくとも自分でわかる分には、入浴剤の残り香しか嗅ぎ取れなくて、ほっとする。
ドラマを見終えた後瞑想をして、寝る準備にかかる。
「田辺、あんたももう寝なさいよ」
「えー、まだ十時前じゃん」
「明日は六時起きだって言ったでしょ。寝とかないと授業中つらいよ。転入初日から居眠りとか、ありえないし」
「しょーがないなあ。ま、起きててもやることないしね。明日のスマホのために寝るかー」
和室に布団を敷くと、日和は自分の布団の上でごろごろと転がった。
「なんか修学旅行みたいで、ちょっとわくわくしない?」
「さあ? わたし修学旅行行ったことないから」
「えっ、そうなの? 何で?」
「わたし、小二の時からこの学園にいるから。この学園には修学旅行ってないんだよ」
「えええっ、何それ! 楽しみな学校行事の一番なのに!? ここの生徒ってめちゃめちゃ損してるよー」
「まあ仕方ないよ。能力者が大勢で行動するって、色んな意味で危険だし」
「でも、それじゃあたし高校の修学旅行行けないってことじゃん。中学より遠くに行けるからすっごい楽しみだったのにいー」
「それは残念だね。でもしょうがないから諦めて寝なさい。電気消すよ」
暗くなった部屋で布団に横たわって目を閉じた彩葉に、日和が話しかけてくる。
「ねえねえ、せっかくだからなんかお喋りする? 修学旅行だと、消灯の後もしばらくお喋りするんだよ。先輩に修学旅行の気分味わわせてあげるよ」
「必要ない。うるさくしないでさっさと寝て」
「先輩ってつまんないー」
「つまんなくて結構」
そっけなく言い返すと、日和は「ちぇーっ」とまだ不満そうにしていたが、おとなしく口を閉じた。
だがクーラーの風の音にまぎれて、息づかいや布ずれの音が聞こえてくる。そう離れていない、手を伸ばせば簡単に届く場所に他人の気配がある。
(こんな風に寝るのって久しぶり……八年ぶりだ)
初等部の寮は四人部屋だったが、二段ベッド二つをそれぞれあてがわれていたので、ルームメイトと隣に並んで寝たりはしなかった。
寮監に隠れて、仲の良い友達と一つのベッドに一緒に寝たりしていた子も時々いたが、彩葉にはその経験はない。
両親の実家を訪ねた時や旅行に行った時に、両親と姉と四人で布団を並べて寝た、懐かしい記憶がよみがえってくる。つきんと胸が痛むけれど、同時に温かいもので心が満たされる。
何だか落ち着かなくて、でもどこか心地いいような、不思議な気分を感じながら、とろとろと眠りの海に沈んでいく。
(田辺と一緒に寝るのも、意外と悪くない……かも……)
それが、完全に眠りに落ちる前に彩葉の頭をかすめた最後の思考だった。




