第二章 彩葉と日和(2)
彩葉と日和が今日から共同生活を営むことになる部屋のリビングで、学園長秘書は隅に置かれているスーツケースを指差した。
「そのスーツケースは田辺さんのご家族が送ってくださった物よ。身の回りの品なんかが入ってるわ。田辺さんは明日から中等部に通うことになっているから、朝八時頃中等部の職員室に行って。――場所は本条さんがわかるわよね?」
「はい」
「それじゃあ、何か質問はある?」
彩葉と日和はそろって首を振った。
「何かあったら連絡して。できるだけ喧嘩せずに仲良くしてね」
学園長秘書が去ると、日和はずっと握ったままだった彩葉の手を離して、さっそくスーツケースを開け始めた。
「ここお風呂あるよね? あたし今からシャワー浴びる! 研究所に閉じ込められてた間、危険だからってお風呂入るどころかシャワーも浴びさせてもらえなくてさあ。信じられる? 濡らした布で体ふいてドライシャンプーするだけで我慢しろ、って言うんだよ? なんか体汚く思えて気持ち悪いし、あたし臭いんじゃないかってめっちゃ気になるし。もーほんと最悪」
その言葉に、彩葉はふと思いついた。
「もしかして、あんまり近づかないで、って言ったのは、自分のにおいを気にしてたから?」
「そうだよ。うっかり近づいて、『こいつ臭っ』って思われるの嫌じゃん。顔とか声に出されたらもっと嫌じゃん」
彩葉は拍子抜けした。苛立っていた自分が馬鹿みたいな気がする。
「何だ……。そうならそうって言ってよ」
日和がきょとんとした顔で振り向く。
「言わなかったっけ?」
「聞いてない。……わたしが傍に寄るのが嫌なのかと思ったでしょ」
「そんなこと思ってたの? あ、だから感じ悪かったんだ。何だー。先輩って性格悪いんだと思ってた」
「わたしもあんたのことそう思ってたよ」
「あはは、じゃあお互い様だ」
けらけらと笑いながら、日和はパジャマや下着、バスタオルを腕に抱える。
「シャンプーとかボディソープはお風呂場にある?」
「あるよ」
「クレンジングはないよね?」
「メイク落とし? それはないよ」
「じゃあ自分の持ってく。それじゃ、行ってくるね!」
日和がいそいそと風呂場に消えてから三十分ほど経った頃、ドタンガタンと騒がしい音が聞こえてきた。
「先輩、先輩、せんぱーい!」
リビングで祝福の訓練をしていた彩葉が何事かと立ち上がった時、洗面所に続くドアがガラッと開いた。全裸の日和が走り出てくる。
「ちょ、何か着なさいよ!」
「それよりこれ! 電気!」
背けていた顔を戻して見てみると、日和の全身からパチッパチッと小さく電気が放たれている。彩葉の心臓がどくんと大きく脈打った。
「先輩、これ消せる!?」
日和の声にはっと我に返った彩葉は、一度深呼吸すると、日和に歩み寄った。日和の肩に触れると、電気が瞬時に消える。日和がへなへなと座り込んだ。
「良かったあー。消えたー」
彩葉も、視界から電気が消えて安堵しながら、小言を言う。
「落ち着いたらさっさと服着てよね。あと、床ふいておいてよ。濡れてるじゃん」
「あーはいはい」
洗面所に戻ってからパジャマを着て出てきた日和が、床をふきながら不思議そうに言う。
「でも何で電気出たんだろ。怖い思いとかしてないのに」
「あんたお風呂場で歌ってたでしょ」
「え、何で知ってんの?」
「何でって……普通に聞こえてたし」
「マジで? あたし、そんなに大声で歌ってた?」
「歌ってたよ。――とにかく、それでテンション上げすぎて力があふれちゃったんじゃないのかな」
「嬉しくても力が出ちゃうもんなの?」
「みたいだよ。あんたの力は覚醒したばかりでまだ不安定だろうから、ちょっとはしゃいだだけであふれちゃったんでしょ」
「そっかあ。でもそのくらいで力出ちゃうってなると、かなり不便じゃない?」
「抑制装置着けてれば、少しはしゃぐくらいは大丈夫だと思うけど。さっきのはシャワーで外してたからだろうし」
「ああ、なるほど」
日和は右手を上げて、ごつい腕輪のように見える抑制装置をしげしげと見つめる。彩葉は壁の時計に目をやった。
「もうちょっとしたら出かけるから、準備しておいてね」
「どこ行くの?」
「わたし総合格闘部に入ってるから、その練習。あんたから離れるな、って言われてるから、一緒に来てもらう」
「先輩が部活してる間、あたしは何してればいいわけ?」
「さあ? あんたも一緒に練習する?」
「えー、やだ。痛そうだし、つまんなそうだし」
「じゃあ、武道館の隅で適当に暇つぶしてなよ」
「そう言われても、スマホもMP3プレーヤーもないんだよ? 力が覚醒した時にバッグに入れてたせいで、壊れちゃってさあ。家に電話した時、新しいの買って、ってママに言ったけど、また壊れるかもしれないから、ってしばらくお預けにされちゃったし。酷いでしょー」
「スマホとかが壊れるくらいで済んで幸運でしょ」
人を死なせなくて済んだんだから、と彩葉は心の中で付け加えた。胸が締めつけられるように苦しくなる。
「それだけじゃないよ。壊れる時に火が出たみたいでバッグがちょっと燃えちゃって、手で叩いて消したら火傷したんだから」
「そうなんだ……」
上の空で答えた彩葉に、日和がむっとしたような声を上げる。
「そこは『火傷したの? 大丈夫?』って訊くとこじゃない?」
「……火傷したの? 大丈夫?」
機械的に繰り返すと、日和はぷんとそっぽを向いた。
「先輩ってやっぱり感じ悪い!」
彩葉は、ふう、と一つ息を吐いた。ぶるぶるっと頭を振って記憶を封じ込める。
(今のは確かにわたしが悪かったよね)
そう反省して、なるべく優しい声で日和に話しかける。
「ごめん。ちょっと別のこと考えてた。それで、火傷したとこはもう大丈夫なの?」
日和はむすっと唇を尖らせていたが、無視はしなかった。
「この学園の保健室の先生が来て治してくれたから、平気」
「安富先生が? 電気の球に包まれてたのに治癒してもらえたの?」
安富の治癒能力は、対象に触れなければ発動しないはずなのだが。
「一回電気の球が消えた時に、まず怪我を治そう、ってことになって、先生が来てくれたの。治癒能力ってすごいよね。すうって痛みが消えて、怪我も元からなかったみたいに消えちゃって」
「そうなんだ」
日和がちょっと首を傾げる。
「先輩は治癒能力で治してもらったことないの?」
「わたしの祝福は無効化でしょ。他の人の祝福は効かないの」
「ああ、そっか。それってなんか損した気分にならない?」
「そんな風に思ったことはないかな。怪我が治るのに時間がかかって面倒、って思うことはあるけど、それが普通なんだし」
「まあ、そうだよね。治癒能力で治してもらえるのが特別なことなんだもんね」
「ていうか、お喋りしてたらそろそろ出る時間なんだけど、もう出られる?」
「ちょっと待って。ドライヤーしてくる!」
日和がばたばたと外出準備を整えて、部屋を出る。
総合格闘部の練習が行われる第二武道館までは距離があるので、学園内を周回しているバスに乗ることにする。乗車賃は無料だ。
学園は広く、生徒が放課後遊びに行ったり教師が宿舎に帰るのにもバスがないと不便なのである。
ただ、無料のバスがあるのだから門限は守れて当然、ということで、門限を破った生徒には厳しい罰が与えられる。
宿舎前にあるバス停に着くと、タイミング良くバスが来た。バスの座席に座ったところで、日和が彩葉の顔をのぞき込んできた。
「ね、暇つぶしの方法考えたんだけどさ、先輩スマホ持ってるでしょ? それ貸してよ」
「ええ……やだよ。あんたがうっかり力出したら壊されちゃうかもしれないし」
「抑制装置着けてたら、ちょっとはしゃぐくらいは大丈夫なんでしょ。いいじゃん。貸してよ貸してってばー」
ぐいぐい腕を引っ張ってくる日和を、彩葉は邪険に振り払った。
「い、や。壊されて買い直したら、貯金が減っちゃう」
「え、先輩スマホ代自分で払うの? 親に出してもらえないの?」
「……家族と離れて暮らしてるから、生活費をまとめて銀行口座に入金してもらって、自分でやりくりすることになってるの。新しいスマホ買ったらその分生活費に使える分が減るってわけ」
「へえー。でも生活費って何に使うの? 家賃?」
「寮は無料だよ。学費とかこのバスの料金と同じ。生活費は、主に食費と、あとは細々した日用品を買うのに使うかな」
「学食には無料の定食もあるんでしょ?」
「よく知ってるね」
「研究所に閉じ込められてた間の暇つぶしに、学園生活がどんな感じか色々聞いたんだ」
「じゃあ、無料の定食は評判良くない、ってのも聞かなかった?」
学園は人里離れた場所にあるため、周囲にはほぼ何もない。それに加えて、能力者を嫌うあまり危害を加えようとする者たちから生徒を護るため、学園の敷地は高い塀で囲まれており、生徒が学園から出るには学園長の許可がいる。
なので、学園内でほとんどの用が済むよう、ファーストフード店からコンビニ、娯楽施設までそろっているのだ。
だがもちろん無料ではない。学園で育つ生徒が世間知らずにならないように、という意図もあって、きちんと金を払って買ったり利用したりするようになっている。
ただ、寮の家賃は先程彩葉が言ったように無料だし、食事も、生徒が飢えたりすることのないように配慮されている。
まだ金の使い方がうまくない小学生は、昼は給食があり、朝と夜は寮の食堂で食べるので、全て無料で健康的な食生活ができる。中学生になると、昼の給食は無料だが、朝と夜の食事は自分で都合をつけることになる。高校生になれば、一日三食自分で買う。
学園には、家が貧しかったり家族と疎遠だったりして金をほとんど持っていない生徒もいる。かれらには学園から毎月こづかいが支給されるが、しっかり計算してやりくりしなければ月末に困ることになる程度の金額らしい。
学園内でアルバイトもできるが、優先されるべきは学業や祝福の訓練だ。そちらに支障が出ていると学園に判断されれば、アルバイトは禁止される。
親から生活費を貰っていても、考えなしに使ってしまって金に困る生徒もいる。
そういう生徒のために、学食には無料の定食があるのだ。ただし、栄養には配慮されているものの必要最低限という感じで、メニューのバリエーションもあまりないので、一日三食無料定食の生活を続けているとうんざりするのだという。
「あー、聞いたかも。そんなにまずいの?」
「わたしは食べたことないけど、まずいっていうか、質素で味気ないんだってさ。ご飯が麦飯だから、それが苦手な人も結構いるっぽい。でも、大食いの人は、普通の食事を買った上で更に無料定食頼んでおなかを満たす、とかやってるらしいけど。あと、ダイエットしてる子が、お金も貯められて一石二鳥だから、って食べてたりすることもあるみたい。だけど、無料定食はなるべく避けたい、ってのが一般的。……あくまで噂だけど、無料定食をおいしくしちゃうと、みんな無料でおいしい物が食べられることに慣れちゃって社会に出た後困るから、わざと評判悪いような食事にしてるんだって」
「ふうん。おいしい話はそうそうない、ってことかー」言ってから、日和はにかりと笑った。「今のうまくなかった?」
「まあまあかな」
そう流した彩葉は、少し表情を引きしめた。
「あのさ、さっきの話……家族の話だけど、する時は気をつけた方がいいよ。能力者ってわかったことで家族に縁を切られた人とか、ちょいちょいいるから」
普通ではない、とされる存在を怖がったり嫌ったりする人間は一定数いる。能力者を忌み嫌う人も、自分の家族が能力者だということを受け入れられない人も、そう珍しいわけではないのだ。
逆に能力者を、それこそ神か何かに選ばれた存在や、何なら生き神として崇め奉る人もいるそうだが。
「そうなんだ。……もしかして先輩もそうだったりする?」
彩葉は、どう答えるか少し迷った。
「……縁を切られたわけじゃないけど、あまりうまく行ってはない、かな」
「そっか」
日和はそれ以上追求してこようとはしなかった。気をつかってくれているのか、単に興味がないだけなのかは、不明だ。
それからバスを下車するまで何となく沈黙が続く。バス停から少し歩いたところで、彩葉は道の先にある建物を指差した。
「あれが第二武道館だよ」
「へー。じゃあ、先輩、スマホ貸して」
手の平をこちらに向けて差し出した日和を、彩葉は半眼で見やった。
「貸さないって言ったでしょ」
日和がぺろりと舌を出す。
「ちぇー、流れで貸してくれるかと思ったのに、だめかあ」
「せこいことしてないで、おとなしく武道館の隅で瞑想でもしてなよ。そうすれば祝福の制御が上達するのも早くなるかもしれないし」
「瞑想かあー。研究所で一応やり方は習ったけど、いまいちピンと来ないんだよね」
「普通の学校では瞑想ってやらないんだっけ? ここでは毎日あるから、慣れときなさいよ」
「でも退屈だし、寝ちゃいそうになる」
「寝ても別にいいよ。うるさくして練習の邪魔されるよりはずっとましだし」
「先輩は良くてもあたしは良くなーい」
まだぶちぶちと不満を口にしている日和を尻目に、彩葉は武道館の扉を引き開けた。