第二章 彩葉と日和(1)
「こちらが田辺日和さんのいる部屋です」
天恵学園付属研究所の研究員が足を止めて、頑丈そうな扉を指し示す。
彩葉の前を歩いていた学園長秘書が振り返った。先日彩葉が学園長室を訪った際に室内にいた女性だ。
「本条さん、心の準備はいい?」
彩葉はぎゅっと一度両手を握りしめてから、うなずいた。
「はい」
「あの、本条くんだっけ、部屋に入ったらすぐ君の力を広げて田辺くんの祝福を無効化してくれないかな。田辺くんは感情の起伏が激しい子みたいで、すぐに力があふれ出してしまうんだよ。無防備に近づいて怪我したくないので、念のため頼みたいんだが、どうかな」
研究員の男性に尋ねられて、彩葉はうなずいた。
「わかりました」
「助かるよ。――じゃあ、ドアを開けますね」
研究員が扉の横にあるキーパッドで暗証番号を入力すると、ガチャリと錠が開く音がした。その音に、彩葉の鼓動が速くなる。
研究員と学園長秘書について部屋の中に入る。一歩ごとに心拍数が上がっていって、胸が苦しい。それを忘れようと、力を広げる方に意識を集中する。
部屋は寮の部屋と同じワンルーム程度の広さだったので、部屋中に力を広げるのに大した労力はいらなかった。
小さく息を吐いて、部屋の隅に敷かれている布団に視線を向ける。その上には彩葉と同年代の少女が座っている。
胸の辺りまである彼女の髪が金に染められているのを見て、彩葉は反射的に顔をしかめた。
金髪に染めている人が、彩葉は苦手なのだ。ただでさえ電気使いの能力者ということで強い苦手意識があるのに、この外見では、自分で選べるなら絶対に関わりたくない相手だ。
そんな人に二十四時間張りついていなければならないこれからの日々を思って、彩葉は昨日から何十度目かのため息をつきたくなった。
「――が本条彩葉さん。今日からあなたについてくれる無効化の能力者よ」
学園長秘書の声が自分の名前を言うのが聞こえて、彩葉は慌てて表情を引きしめた。
いくら関わりたくない相手でも、それを表情に出すのは失礼だろう。別に相手に非があるわけではないのだから。
彩葉に視線を向けた金髪の少女が口を開く。
「やっと来たー! 遅いよ!」
耳に飛び込んできた言葉に、彩葉はぽかんとした。まさか開口一番文句を言われるとは、予想もしていなかったのだ。
(は? 何この子?)
反射的に睨みつけてしまうが、少女――田辺日和は気にした風もなく愚痴り続ける。
「あたしもう一週間くらいこの部屋に閉じ込められてるんだよ。スマホもないしテレビもないし、暇で暇でしょうがなくて頭おかしくなりそうだったんだからね。もっと早く来てよー」
「はあ? 何でわたしが文句言われなくちゃなんないわけ?」
彩葉は思わず言い返していた。相当我慢してここにいる彩葉としては、来ただけで感謝されてもいいのではないか、という気持ちなのだ。それをこんな風に言われては、喧嘩腰にもなろうというものだ。
「ていうか、あんた中三なんでしょ? わたしは高一なんだけど」
日和がきょとんとする。
「それが何?」
「あんた年下なんだから、敬語使いなさいよ、って言ってるの」
「えー、やだ。あたしそーゆー、たかが数年早く生まれたぐらいで偉そうにされるの、嫌いなんだよね」
なぜか胸を張ってそう言う日和に、彩葉は更に機嫌を下降させた。
「敬語も使えないなんて、あんたそんなんじゃ社会に出てやってけないよ」
「あたしたちまだ学生じゃん。社会に出るのなんて何年も先の話でしょ。敬語押しつけてくるのもだけど、言うことが一々おばさんくさいよ?」
「おばさん!? それ言うなら、あんたはガキくさいじゃない!」
日和がむっとした顔になる。
「ガキじゃないし! あんたってめっちゃ失礼!」
「失礼とかあんただけには言われたくないんだけど!」
ヒートアップする応酬を見かねたのか、学園長秘書が間に入ってきた。
「二人とも落ち着いて。――本条さん、年上なんだって意識があるなら、後輩に対して寛容な気持ちで接してあげて。――田辺さん、本条さんは色々我慢してあなたの傍についてくれるのよ。もうちょっと敬意を払っても罰は当たらないと思うわ」
日和がむうっと唇を尖らせた。数秒黙り込んでから、はあ、と息を吐き出す。
「わかった。じゃあ、先輩とは呼ぶから、それでいいでしょ。えっと……本条先輩? これからよろしく」
日和にタメ口をきかれることにまだ納得の行かない彩葉は、むすっと口を引き結んで日和を見返したが、学園長秘書にたしなめるように「本条さん」と呼ばれたので、しぶしぶ返事をした。
「よろしく……田辺」
呼び捨てにしたことで、また日和に「偉そう」と責められるかと、彩葉は内心身構えていたのだが、日和は特段気にした様子を見せなかった。
他人に対する自分の態度だけでなく自分に対する他人の態度に関しても、礼儀を気にしない性格なのかもしれない。公平と言えば言える。
「あー、それじゃあ検査に行きたいんだけど、いいかな」
研究員が口を挟んで、日和がうっと怯んだ。
「検査って……やっぱり注射するの?」
(そういえば、注射を怖がって一旦落ち着いた力をまた暴走させた、ってあったっけ)
彩葉は、学園長に渡されたファイルの内容を思い出していた。
日和は、街中でしつこくナンパしてきた男に手をつかまれて、「離してよ!」と叫ぶと同時に体を包む電気の球を発生させる、という形で祝福を覚醒させたのだという。
電気の球はナンパ男が逃げても消えず、日和のパニックに呼応してかむしろ威力や大きさを増していくばかりだったので、警察の特務部隊に所属する無効化の能力者が呼ばれて日和の能力を無効化し、この研究所まで護送してきた。
だが無効化の能力者が日和から手を離すと、また電気の球が発生してしまった。
日和の祝福の特性を調べるために、今度は自然に消えるのを待とう、ということになり、研究員たちが観察していたが、日和が眠っている間も電気の球は消えず、結局三日半かかった。
ようやく電気の球が消えた後、日和に特殊能力抑制装置を着けさせ、検査のため採血しようとしたら、注射が苦手らしい日和がまたも電気の球を発生させてしまった。それで、日和の力が抑制装置では抑えきれない強さだと判明した。
ちなみにこの時、研究員二人が電気の球と接触して軽い火傷を負ったそうだ。
日和はまたしても経過観察の対象となり、その時点で、今後のことを考えて彩葉にお守りをさせることが決定されたらしい。
彩葉が学園長に呼び出されて任務に就くよう命じられた後、日和の電気の球が消えるまで一日ほど空いて、今彩葉と日和がこうして引き合わされた、というわけだ。
「採血は必要なんだ。我慢してくれ」
「やだー、注射したくないー……って、あれ?」
日和がふと何かに気づいたように声を上げた。
「怖い、やだ、って思ってるのに、今度は電気が出ない。……そういえばさっきも、ムカついたのに全然電気出なかった! あたし、力を制御できるようになってる?」
「ああ、いや、それは本条くんが君の祝福を無効化してくれているんだ」
「えっ、そうなの?」
日和が目をみはって彩葉を見る。
「先輩も結構苛ついてたっぽいのに、その間も力使い続けてたってこと? それってむずくない? すごい!」
日和の瞳には素直な感嘆の色があって、彩葉は意表を突かれた。
「別に、それほどでもないけど……。わたしは八年くらい祝福の訓練をしているし」
ちょっと照れくさくなって謙遜しながら、日和を見る目が少し変わったのを自覚する。
(そんなに悪い子じゃない……のかも?)
突然自分が能力者だとわかって、知らない場所に連れてこられて、知らない人たちに囲まれて、あれやこれや調べられることへの戸惑いや不安は、彩葉にも憶えがある。
日和の場合は何日も閉じ込められていたのだから、余計にストレスを感じていただろう。彩葉が反感を覚える振る舞いをしてしまったのも、仕方がないのかもしれない。
(まあ、元々の性格もそれなりにありそうだけど)
年上でも敬語を使おうとしないところなどは、別に今に始まったことではなく前からそうなのだろうし。
「でも本条くんも力を放出し続けるのは疲れるし、持たないだろう。検査の間は田辺くんの手を握っててもらっていいかな」
無効化の祝福は遠距離でも影響を及ぼせるが、集中力を必要とするので、長い間使うのは確かに無理だ。触れて無効化するのは、意識しなくてもできるので、そちらの方がずっと楽である。
「本条先輩と手つなげばいいんだよね?」
立ち上がって歩み寄ってきた日和が手を差し出してくる。日和は、156センチの彩葉よりいくらか背が高い。もう少し背を伸ばしたかったが成長がほぼ止まってしまった彩葉には少しうらやましい。
彩葉は力の放出をやめ、日和の手を握った。きちんと手入れしてあるのだろう、すべすべした肌で手触りがいい。見れば爪も整えられて、オレンジのマニキュアが塗られている。
(お姉ちゃんの手みたい……)
そう思ってから、ふと彩葉は気づいた。この部屋に入った時には、電気使いの能力者と会うことにあれほど緊張していたのに、日和が口を開いてからこの瞬間までは、日和が電気使いの祝福を持っていることをすっかり忘れていた。
(わたしとは合わない子だと思うけど、それも悪いことばかりじゃないのかな)
「あ、でもあんまり近づかないでね」
日和は言いながら、彩葉から距離を取るように一歩下がった。その言動に、かちんと来る。
(やっぱりこの子失礼!)
彩葉のことを嫌っているにしても、それを隠そうとするくらいの気づかいはできないのだろうか。
「必要以上に近づいたりしないから、安心して。わたしだってあんたに引っつきたくて引っついてるんじゃないし」
冷たく言うと、日和の方もむっとした顔になった。
「その言い方感じ悪ーい」
「それはお互い様でしょ」
自分が先に喧嘩を売るような真似をしたくせに、とムカムカした気持ちを抱えながら、彩葉は日和の検査につきあった。
一時間くらいかけて検査を終えると、学園長秘書の運転する車で学園に戻り、教職員宿舎へ行った。