第十一章 彩葉の悪夢
「えっ、先輩?」
唐突に走り去ってしまった彩葉を、日和はぽかんと見送った。彩葉の後を追った方がいいのだろうか。だが、訓練はどうすれば良いのだろう。
迷っていると、若宮に声をかけられた。
「田辺さん」
「若宮先生、彩葉先輩がいきなり戻っていっちゃったんだけど、どうしたんだろう。追いかけた方がいいかな?」
「いえ……」
若宮は一瞬目を伏せたが、すぐに視線を上げて微笑んだ。
「本条さんには、一人になる時間が必要なんだと思うわ。そっとしておいてあげましょう。今日は本条さん抜きでの訓練になるけれど、大丈夫よね?」
「あたしは大丈夫だけど……」
若宮はうなずいて、背後の女性を手で示した。
「それじゃあ、紹介するわ。こちらは本条海雪さん。あなたに力の制御方法を教えてくださる先生よ」
日和は瞬いた。
「本条?」
彩葉の消えた方を見ていた海雪という女性が、日和に視線を移して口を開く。
「本条彩葉は、わたしの妹だよ」
「えっ!?」
日和はまじまじと海雪を見つめた。確かに、目元や鼻の形など、彩葉と似通った面差しをしている。
だが、随分と顔色が悪く細い声をしていて、全体的に陰のある雰囲気で、そこはあまり似ていないように思われた。
「えっと、彩葉先輩のお姉さんってことは、電気使いの……?」
海雪の表情がわずかに変わって、驚きのような色を映す。返事をしない――あるいは、できないでいる――海雪のかわりに若宮が答えた。
「そうよ。あなたと同じ電気使いだから、力の制御を教えるのに適任だろう、ということになって、お呼びしたの」
「そう、なんだ……」
「海雪さん、こちらは田辺日和さんよ」
「よろしく、田辺さん」
「よろしく」
「それじゃあ、訓練室に行きましょうか」
若宮に促されるまま歩き出しながら、日和は一度振り返った。
海雪が両親を死なせてしまった彩葉の姉だというなら、彩葉の行動も理解できる。彩葉は知らなかったのだ、姉が学園に来るということを。そして、姉と再会して動揺し、逃げ出してしまった。
(先輩、大丈夫かな……)
*****
彩葉はひたすらに走っていた。廊下を走ってはいけない、という規則を気にしている心の余裕はない。
訓練棟からここまでバスに乗らず走ってきたので、息が切れている。いや、息が荒いのはそのためだけではない。胸の中で様々な感情がぐるぐると渦巻いて、うまく呼吸ができないせいもある。
目的地にたどり着くと、ノックもせずにドアを開け放つ。
部屋の主は重厚な机の向こうに座っていて、ずかずかと入室した彩葉に、上げた視線を向けた。その顔には驚きの色はない。その様子が、彩葉の来訪を予期していたと示しているようで、彩葉の胸で怒りが燃え上がった。
「どういうことですか!」
彩葉は、バン、と両手を机に叩きつけて、机越しに学園長を睨みつけた。だが、学園長は平然と見返してくる。
「どういうこと、とは何がだね?」
「姉のことです! どうして姉が学園にいるんですか!」
「君のお姉さんには、田辺くんに力の制御を教えてもらうことにしたのだよ。新しい教師が来るという話は聞いていただろう?」
「それが姉だとは聞いていません! どうして……どうして姉なんですか!」
「君のお姉さんは、国内の電気使いで最も力の制御に優れているのだよ。田辺くんの教師としてこれ以上の人材はいないと判断した」
「なら……どうして、せめて事前に姉が来ることを教えてくれなかったんですか……!」
学園長はじっと彩葉を見つめた。
「教えていたら、君はどうしていたんだね?」
「それは……」
「お姉さんに会わずに逃げていたのではないかね? 今も逃げてきたのだろう?」
彩葉はかっとなった。
「逃げて何が悪いんですか!」
「逃げていては、与えられた任務をきちんとこなすことができないだろう」
「それは……」
確かに、将来のためにトラウマを克服しなければ、とは思っていた。そのために努力してきた。
だが、姉と顔を合わせたり話したりするのは、また別の話だ。
それは、今の彩葉にはできない。これから先できるようになるのかもわからない。姉と話す自分を想像するだけで、昔の記憶がよみがえって怖くなる。
彩葉は自分の体に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
「……それならわたし、日和のお守り任務を降ります」
自分を護るために逃げることは、悪いことではない。逃げてはだめだ、と心を削り続けて壊れてしまうくらいなら、逃げた方がいい。それは、彩葉が心理療法士に教わったことの一つだ。
学園長は動揺した様子もなく、静かに問いかけてきた。
「田辺くんに君のお姉さんと同じ、殺すつもりなどなかったのに人を死なせてしまった、という思いをさせたいのかね?」
彩葉はぐっと怯んだ。日和の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「そんな……そんな言い方、卑怯です」
「だろうね。だが、どんな卑怯な手を使ってでも、私は君に田辺くんに付き添う任務を続けてもらわねばならないのだよ」
彩葉は奥歯を噛みしめて学園長を睨んだ。学園長は泰然とその視線を受け止める。
しばらく沈黙が流れ、そして折れたのは彩葉の方だった。
「……わかりました。日和のお守りは続けます」
日和にまで自分のせいで傷ついてほしくない。好きで、大切で、護りたい人なのだ。
「だけどわたし、姉とは会いません。姉と日和の訓練にも同席しません。それは絶対にお断りです。たとえ命令されても従えません」
命令に従わないことに罰を与えるというなら与えてみろ、という気持ちで、顎を上げて学園長を見下ろす。
学園長は少し考えてからうなずいた。
「いいだろう。当面はそれで良しとしよう」
当面ではなくずっとです、と言い返したかったが、これ以上学園長と話すのも嫌だったので、彩葉は無言で踵を返した。
校舎を出て歩く。バスに乗る気にはなれなかったので、三十分ほど歩いて訓練棟に戻った。出入り口からそこそこ距離があり、校舎の角に近く必要があればすぐに身を隠せる場所を選んで、壁にもたれかかる。
十一月の風は冷たく、外に長居したい季節ではない。それでも、彩葉は訓練棟の中に入るつもりはなかった。姉と鉢合わせるリスクはできる限り減らさなければならない。
待ち時間を祝福の訓練に使おうと、彩葉は寒さを無視して目を閉じ、瞑想を始めた。
だがちっとも集中できない。寒さのせいではない。先程八年ぶりに見た姉の顔が、脳裏に焼きついて離れないのだ。
八年前最後に会った時の顔と、先程の顔。両親が死んだ時の顔。もっと小さい頃に見た顔。怒った顔。笑う顔。すねる顔。泣く顔。得意そうな顔。しょんぼりした顔。甘える顔。甘やかしてくれる時の顔。
様々な姉の顔が次から次へと浮かんでくる。頭の中が埋めつくされて、あふれ出してしまう。
彩葉は閉じた瞼の上を両拳で押さえ、歯を食いしばった。
――泣きたくない。泣いてはいけない。泣くことなんて許されない。
そう自分に言い聞かせて、目の奥の熱さを必死で追い払う。
しばらくの間そうしていると、涙の波はゆっくりと引いていった。
両手を下ろし、息を吸って、吐く。泣いたわけでもないのに、ひどく疲れていた。壁に背をつけたままずり下がるようにして座り込む。地面につけた尻が冷たくなっていくが、その感覚はどこか遠く、立ち上がろうとは思わなかった。
もう一度祝福の訓練を試みる気力もわかず、ただぼんやりと目の前の風景を眺める。すでに日は落ちており、街灯が道をぽつぽつと照らしている。
彩葉から少し離れた所にも街灯があり、その光が彩葉の体を半分ほど照らし出している。道を歩いていく人が時折、彩葉の方に怪訝そうな視線を向けてくる。みっともない姿をしているだろうと思うが、どうでも良かった。
訓練棟の出入り口からがやがやと大勢の声が聞こえてきて、彩葉はそちらに視線を向けた。何人もの生徒が次々に校舎から出てくる。訓練が終わる時刻になったのだろう。
のろのろと立ち上がって、その中に日和の姿を探す。姉が一緒だった場合に備えて、すぐに壁を曲がって隠れられるよう、強張った体を動かして準備をする。
生徒の集団がバス停に移動して、訓練棟の出入り口にほとんど人がいなくなった頃、日和が出てきた。彼女が一人であることを確認してから、声をかける。
「日和」
「先輩!」
日和が駆け寄ってくる。
「先輩、大丈夫? ……ていうか、まさかずっとここにいたの?」日和は彩葉の頬をぺたりと触った。「わ、すっかり冷えちゃってるじゃん。風邪引くよー」
日和のぬくもりに、ほっとする。頬からじわりと温かさが全身に広がっていく気がする。
「あんたの手、あったかいね」
「そりゃ、ずっと屋内にいたんだもん」
彩葉は頬に当てられた日和の手に自分の手を重ねた。
「ちょっとだけこうしてていい?」
日和は思いやりのこもった眼差しで「うん」とうなずくと、もう片方の手も彩葉の頬に当て、彩葉の顔を両手で包むようにした。
「こうしたらもっとあったかいでしょ」
「そうだね……」
日和はそれきり何も言わず、ただ彩葉に体温を分けてくれている。日和の優しさが心地良くて、彩葉は目を閉じてそれを享受した。
*****
「お姉ひゃんおひょいね。へっかくお父はんはやくはえってひたのひね」
彩葉は少し大きめに切り取ったハンバーグを口につめ込みながら言った。母親が軽く彩葉を睨む。
「こら、食べ物が口に入ってる時に喋ったらだめでしょ」
「はあい」
彩葉は素直に返事をすると、口を閉じた。
もぐもぐとハンバーグを咀嚼しながら、隣に視線をやる。姉の席であるそこには料理の皿が並べられているが、椅子には誰も座っていない。
一年くらい前に昇進というものをして仕事が忙しくなったとかで夕飯時に家にいることが少なくなった父親が、今日は珍しく早く帰宅し、家族四人そろって夕食を食べられる貴重な機会だったのに、それがかなわなかったのが、彩葉は残念だった。
「海雪からはまだ何も連絡はないのか?」
ビールを飲んでいる父親が母親に尋ねる。母親はスマホを確認してから首を振った。
「何も。もう一度かけてみるわ」
母親はしばらくスマホを耳に当てていたが、やがてため息と共にテーブルに置いた。
「だめ。相変わらず留守電になる」
「まったく、あいつは……」
父親もため息を吐き出す。それを見ながら彩葉は小さな顔をわずかに曇らせた。
(またけんかになるのかな。やだなあ……)
姉は高校に入ってから変わってしまった。笑顔が激減して、両親とよく喧嘩をするようになり、彩葉のことも鬱陶しがるようになった。
受験というのが終わったらたくさん遊んでくれると約束したのに、全然遊んでくれないものだから、彩葉は裏切られたように感じていた。遊んでほしいとだだをこね、「お姉ちゃんのうそつき」となじったら、怒鳴られて、泣いてしまったことも何度かある。
それでも姉に構ってほしい気持ちはなくならない。むしろ満たされない欲求はどんどん大きくなっていって、今も早く帰ってきてほしくて仕様がない。今日こそは遊んでくれるかもしれない、前のように笑ってくれるかもしれない、という期待がいつものように胸を占めている。
彩葉がご飯に箸を伸ばしたところで、玄関のドアが開閉する音がした。続いてリビングダイニングのドアが開く。そこから入ってきた人物を見て、彩葉はぽかんと口を開けた。
姉なのは間違いない。間違いないと思うのだが、今朝まで黒かった髪が明るい金髪になっていて、まるで別人のように見える。
「何だその髪は!」
父親が唖然と声を上げる。海雪は鬱陶しそうに目を細めて父親を見やると、肩より少し長い髪を後ろに払った。
「見てわかんない? 染めたの」
「染めたって、あなた、何で……」
母親がうろたえた声を出す。
「そうしたかったから。他に理由ある?」
海雪は変わらずそっけない。父親が食卓から立ち上がった。
「そんな髪にするなんて許さんぞ。一時的なものだと思って門限破りも反抗的な態度も大目に見てきたが、限度ってものがある。娘が不良になるのを見過ごすことなんてできるか。今すぐ染め直しなさい」
「別にお父さんの許可なんて求めてないし」
「海雪!」
父親の怒号に、彩葉はびくりと体を縮めた。自分に向けられたものではなくても、やはり怖い。
「あなた、落ち着いて」
立ち上がった母親が父親の腕に手を置き、海雪をなだめるように話しかけた。
「前にも言ったでしょう、海雪。人生は長いのよ。高校受験に失敗したからって、終わりじゃないの。まだ大学受験だってあるんだし――」
「うるさいっ!」海雪が大声を上げた。「お母さんにもお父さんにもわたしの気持ちなんかわかんないよ! ほっといて!」
二階へ続く階段に向かう海雪の腕を、歩み寄った父親がつかんだ。
「まだ話は終わってないぞ! 座りなさい!」
「わたしに構わないでってば! お父さんもお母さんも大っ嫌い! どっか行ってよ!」
海雪が一際大きな声で叫んだと同時に、その全身がまぶしく輝いて、光の線が何本も姉の体から飛び出した。そんな風に見えた。
その一つがぶつかってきて、彩葉は思わずぎゅっと目を閉じた。轟音が鳴り響いて頭がわんわんする。だが他には何も感じなかったので、おそるおそる目を開けた。
最初に目に入ったのは、立ちつくす母親と父親の姿だった。その体が、まるで糸を切られた操り人形のように、どうっと床に倒れる。
「え……? お、お母さん? お父さん? どうしたの? ねえ? ねえってば!」
海雪が戸惑ったように床に膝をついて、両親の体を揺さぶるが、二人はぴくりとも動かない。
何か途轍もなく恐ろしいことが起きているのを本能的に感じ取って、彩葉は震え出した。ただ、怖くて怖くて仕方がない。
視界の隅に、炎が壁を走り広がっていくのが映る。それが恐怖に拍車をかける。
見開いた目から、ぼろっと涙がこぼれる。一度泣き出すと止まらなくなって、大声を上げて泣きじゃくった。
自分の泣き声を聞いて母親と父親が起き上がって慰めに来てくれるのではないかと期待したが、一向にそれは起こらない。それが更に怖くて、悲しくて、涙がどんどんあふれてくる。
「彩葉!」
突然腕を引っ張られて、彩葉は閉じていた目を開けた。海雪が必死の形相でこちらを見ている。
「家が燃えてる! 逃げないと!」
彩葉は、ひぐひぐと喉を鳴らしながら、ただ海雪を見つめていた。海雪の言っていることがうまく頭に入ってこない。
海雪は焦れたように彩葉の体を抱き上げ、よろめきながら歩き出した。炎はすでに玄関にも広がっていて、二人の行く手をふさごうとする。
先程までは感じなかったが、家の中は真夏の真っ昼間より熱く、頭がのぼせてしまいそうだ。煙が喉を焼いて咳が出るし、目にしみて恐怖からではない涙がこぼれる。
炎の間を抜けた海雪が玄関のドアを開けて外に飛び出した時には、二人ともあちこちに火傷を負っていた。
家の敷地から道路に出て、海雪が力尽きたように崩れ落ちる。どしんと道路に尻餅をついた彩葉が顔を上げると、二階の窓から踊り狂う炎が見えた。
海雪の腕が彩葉を引き寄せる。縋るように、護るように、強く抱きしめてくる姉の顔を、彩葉は見上げた。
「ごめんね……ごめん……ごめんなさい……」
炎を内にいっぱい溜め込んだ器のようになった家を見ながら、海雪は何度も謝っている。その両目からはとめどなく涙がこぼれていた。
ふっと景色が揺らぎ、何もかもが消え、全く別の景色が現れる。
彩葉は車から降りたところだった。
目の前の建物を見上げる。それから後ろを振り返ると、先程車に乗って通り抜けた厳重そうな門がすでに閉まっているのが見えた。閉じ込められたように感じて、心細くなる。
家が燃えたあの夜からまだ数日しか経っていないので、彩葉の体にはあちこちに包帯が巻かれている。
病院で治療を受けた後、彩葉は色々な大人に話を聞かれ、よくわからない場所に連れていかれた。そこで会った男性は超能力者――男性本人は別の呼び方を使っていたが――で、彼によると何と彩葉も、そして海雪も超能力者なのだという。
まばゆい光と鼓膜を破るような音を発した姉が超能力者だというのはまだ理解できるが、自分も超能力を持っているというのは全くピンと来ない。
それなのに、彩葉は超能力者のための学園に通わなければならない、と言われた。
そう告げたスーツ姿の男性にも、面会に来た祖父母にも、転校するなんて嫌だ、と訴えたのだが、誰も聞き入れてはくれなかった。
そして彩葉はこの学園に連れてこられたのだ。超能力者がたくさんいる場所なのだと思うと、好奇心と同時に恐怖も感じて、心臓がドキドキする。
彩葉をここまで連れてきた女性に手を引かれて、建物の中に入り、少し歩いて立派なドアの前に立つ。女性がドアをノックし、中から聞こえた声に従って入室する。
「彩葉!」
聞き慣れた声がして、駆け寄ってきた人物に抱きしめられた。懐かしいにおいとぬくもりを感じる。
「お姉ちゃん……?」
「うん、うん、そうだよ。会いたかった……。火傷痛む? 痛いよね。ごめんね……」
海雪が体を離して、彩葉の体を点検するように眺め、包帯を見て泣きそうに顔を歪める。
見慣れた顔を目にして、彩葉が最初に感じたのは安堵だった。だがそれは一転して燃えるような怒りに変わる。
彩葉はありったけの力をこめて、海雪を突き飛ばした。海雪がどすんと床に倒れて、呆然と見開いた目でこちらを見つめてくる。この数日でやせたように見えるその顔は、蒼白になっていた。
「彩葉……?」
一縷の希望に縋るかのように伸ばされた姉の手を、彩葉は思いきり払いのけた。
「お姉ちゃんなんかきらい!」
海雪の顔が更に色を失う。彩葉がはたいた手を、胸元で抱きしめる。
「ぜんぶお姉ちゃんのせいだよ! おうちがなくなっちゃったのも、てんこうしなきゃいけないのも、お母さんとお父さんがし、しんじゃったのも! お母さんにあいたい! お父さんにあいたいよ! お姉ちゃんなんかだいっきらい!」
体の中で渦巻いている感情を全てぶつけるように叫ぶと、彩葉はくるりと体を反転させて駆け出した。ドアを開けて部屋を飛び出し、建物を走り出て、行く当てもないままただ走る。
「あっ!」
足元を見ていなかったので、何かにつまずいて転んでしまった。全身を強かに地面にぶつけて、痛みに涙がにじむ。
「う……ふえ……うああああっ!」
彩葉は地面にうつ伏せたまま、両腕に顔をうずめて泣き出した。体も痛むが、それよりも遥かに心が痛くて痛くてたまらない。
追いかけてきて抱き起こしてくれる人はいない。頭をなでて涙をぬぐってくれる人はもういない。その認識が寄せては返す波のように繰り返し彩葉に襲いかかり、小さな胸を軋ませる。
海に漂う木の葉のように抗う術もなく波に翻弄されながら、彩葉はとめどなく涙をこぼした。
意識がすうっと浮上する。彩葉はぽっかりと目を開けた。視界には闇ばかりで、耳を澄ませば他人の寝息が聞こえる。
(夢……)
彩葉は胸を押さえた。夢の中で感じたあの頃の痛みと、成長したからこそ感じる別の痛みとが混ざりあって、胸が張り裂けそうに痛い。
彩葉は横向きになって胎児のように丸くなった。ただ呼吸をすることだけを意識する。息を吸って、吐いて、を繰り返してどれだけ経っただろうか。気がつけば、胸の疼痛はいくらか薄れていた。消えたわけではないが、鈍くなっている。
彩葉は重たく感じる体を起こした。もう一度寝るのは嫌だった。また昔の夢を見そうな気がする。
ぼんやりと暗闇を見つめながら、日和の寝息に耳を傾ける。今一人ではないことがありがたい。日和の意識がなくても、ただそこにいてくれるというだけでほっとできる。
彩葉は自分の中の力に意識を向け、力の球を生み出した。今の状態でも力をちゃんと使えることに安堵する。力の球を部屋いっぱいに広げて、維持することに集中する。そうしていれば、余計なことを考えずに済む気がする。
これ以上力の球を維持できない、という限界が来ると休憩を入れて、また力の球を生み出す。
それを、朝が来てスマホのアラームが鳴るまで続けていた。




